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金子兜太選海程秀句鑑賞 515号(2015年8・9月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2015/8/5
赤ちゃんに五人の大人春惜しむ
浅生圭佑子 愛知

 文字通りこういう場面なのだろうが、私は要らぬことを考えてしまう。つまり少子化問題である。そう考えても「春惜しむ」がぴったり合う。もしかしたら作者もそういうことを考えていたかもしれない。


2

鑑賞日 2015/8/5
岳父この寝息の起伏開戦日
有村王志 大分

 おそらくこの岳父は戦争の体験者なのであろう。その生身で戦争を体験した人がだんだんと死んでしまう今、国を愛するだとか先祖を敬うだとかを美徳とするなら、彼らの体験を無にしないことが必要なのだろう。言葉の意味よりもっと深い彼らの息遣いを自分の息遣いとすることだろう。それこそが彼らと我々が繋がっていることの証しだからである。


3

鑑賞日 2015/8/7
八十の細胞起立せり緑夜
安藤和子 愛媛

 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教はすべてアブラハムの宗教と呼ばれている。それらはアブラハムという人物の子孫達の宗教だからである。ところでアブラハムの妻サラは九十で子を生んだそうである。この句を読んでいてそのことを思いだしたのである。それが事実であるか、あるいは単なる神話であるかどうかは分らない。とにかくこの句に感じたものは、神秘的あるいは神話的なエロティシズムのようなものなのである。


4

鑑賞日 2015/8/8
愛鳥日ばあ出すごとく鳥翔てり
市原光子 徳島

 翔(た)とルビ

 翔ぶ鳥は石のつぶてじゃ落せない
 ぐうはばあには勝てないもの
 鳥を落せるものは何
 それはちょき
 ちょきってなあに
 鉄砲・弓矢・・・?
 何か尖ったものかもしれないな
 おそらくそれは 
 尖った敵意


5

鑑賞日 2015/8/9
ひとり言溜まって春の河口かな
伊藤 歩 北海道

 俳句の効用の一つにひとり言を溜めないということがあるかもしれない。やはりひとり言は溜めない方がいいように思える。他人のひとり言のような話しをだらだらと聞かされるのはつらい。しかしそのひとり言が俳句作品として結晶し提示されれば、それは本人にとっても一つの解放であるし、読者にとっても自分自身の身に覚えがあるものとして共感の喜びがある。たとえばこの作品の場面などは私にもこんな経験があったという強い共感がある。


6

鑑賞日 2015/8/10
セシウムに花眼を凝らし花は葉に
宇川啓子 福島

 歴史のある時点までは人間は五感だけ(せいぜい付け加えても第六感くらい)で生きてこられた。ところがある時点からこの生身の感覚だけでは生きがたい時代になった。生身の感覚では捉えられない化学物質や核物質が世界に氾濫しはじめたからである。セシウムももちろんそういう物質の一つだ。この句は生身の感覚だけでは生きられない時代への一つの皮肉または抗議であるような感じが私はする。


7

鑑賞日 2015/8/11
蛍袋さうして誰もゐない部屋
梅川寧江 石川

 昔読んだ本で「誰もいない街」という題名の本があった。題名だけで怖いと思った。当然居るべきものがそこに居ないということが恐怖を呼ぶのかもしれない。しかし人間はだんだんとその状況に慣れてくる。怖さはやがて淋しさに変わりそしてその淋しさにも慣れてその状況をあたりまえのものとして受け入れて肯定できるようになる。なる筈だ。私はこの句を読んで、作者はこの「誰もゐない部屋」をだんだんと肯定的に受け入れている感じがするのだが、どうだろうか。


8

鑑賞日 2015/8/12
火消壺春のひとつの終り方
大沢輝一 石川

 「春」という言葉の象徴性を考える必要がある。例えば青春という春。例えば萌え出づる生命力の春。例えば恋の春。そういう春はいつかは終る。または自分で方をつけて終らせなければならないかもしれない。どういうふうにこの春を終らせたらいいか。火に水を注いでジュッと強引に消してしまうように終らせるか。それとも火消壺に燃えている炭をそっと入れておきゆっくりと消えるのを待つようにか。


9

鑑賞日 2015/8/13
青葉風散文的に家事をする
奥山和子 三重

 考えてみれば私達の日常は大方散文的だ。もし日常の大方が韻文的であったら、多くの人はそれに耐えられないだろう。精神が高揚して高揚して気が触れてしまうかもしれない。逆にもし生きてあるということが散文的な日常のみであったら、それも実に味気ない生であるということになる。だからおそらくそのバランスが大切なのかもしれない。散文的な家事の中に時に青葉風の韻律が響いてくるということ。


10

鑑賞日 2015/8/14
ふらここの手を離したのは私
河西志帆 長野

 かつて僕もふらここの手を離した。そうすれば自由になれると思ったからだ。そして一時的には僕は自由になったと思ったこともある。しかしやがてふらここの手を離しつづけることは不可能だと悟った。自由ということをもっと深い意味で悟ったと言えるのかもしれない。そして現在再びふらここの紐を掴んでいる気がする。世界と世界における自己と自由とは何かということを考えさせられる句である。


11

鑑賞日 2015/8/15
木の芽雨無心の刻がふるえるとき
京武久美 宮城

 自然は無心である。であるから無心にならなけけば自然の実相を見ることはできない。自然と一体になることは出来ない。無心になれた刻に自然とともにこの宇宙の神秘にうち震える。「木の芽雨」がちょうどいい。いい句だ。


12

鑑賞日 2015/8/16
暮れのこる水田飯こぼす齢なり
小池弘子 富山

 「暮れのこる水田」と「飯こぼす齢」が響き合う。


13

鑑賞日 2015/8/17
おぼえたての言葉のようにががんぼ来
こしのゆみこ 
東京

 ががんぼの飛び方や有り様をおぼえたての言葉のようだというのは言い当てている感じだ。貧弱な体と低い飛行能力は弱々しくたどたどしい。しかしががんぼが時たま部屋などにやって来るのに出会うと何か不思議なものに出会ったようにある種の新鮮な感じにおそわれる。


14

鑑賞日 2015/8/18
つぐみ帰る耳打ちのよう水湧いて
児玉悦子 神奈川

 つぐみをはじめ渡り鳥は帰る時期をどのように決めるのだろうか。カレンダーを持っているわけではない。そこには何か自然全体の意思のようなものが働くのかもしれない。周りの自然がきっと囁くのかもしれない。さあ帰りなさい、と。そう、例えば、耳打ちのように水が湧いて。


15

鑑賞日 2015/8/19
麦星よゆっくり拭う胸の谷
柴田和江 愛知

 これが男性の句であったら詰らないだろう。男性の句であったら「胸の谷」が心理的なものとしてだけのものになり弱いからである。女性の句であるから「胸の谷」が肉体的なものでありまた心理的なものであるという二重のイメージになるからである。「麦星」と「ゆっくり拭う胸の谷」がとてもよく響き合う。


16

鑑賞日 2015/8/20
殺意ともちがう窓いっぱいに夕焼
白石司子 愛媛

 自分にとって美しいと感ずるものを殺すことによってその美を永遠に自分の所有としたいという欲求があると聞く。三島の「金閣寺」は確かそういうテーマだったのではなかったか。この殺意はおそらく所有欲や嫉妬心等の変形したものだろう。ところで大自然における美は所有欲や嫉妬心の対象にはなりえない。つまりこの美に対して殺意を抱くことは有り得ないし殺意が有ってはならないし有っても成功しないだろう。窓いっぱいに広がる夕焼の曰く言い難い美を作者は「殺意ともちがう」という言葉で表現した。


17

鑑賞日 2015/8/21
太白を生む気圏なりの芽摘む
関田誓炎 埼玉

 (たら)・・鑑賞者註

 太白は金星であり宵の明星のこと。
 たらの芽を摘んだことのある人は憶えがあるだろうが、上の方に手を伸して摘むことが多い気がする。つまり空を背景として摘むことが多い。夕方に近い頃なのだろうか、この空にはやがて宵の明星が光るだろうなどと作者は想っている。そして「太白を生む気圏」という言葉が出てきた。何て素敵な世界に作者は住んでいることだろうと思った。


18

鑑賞日 2015/8/22
家事ときにひざまずく所作桜二分
芹沢愛子 東京

 謙虚さという言葉が先ず浮んだ。それから本来の日本人の宗教的態度はこういうものではないかという考えが浮んだ。翻って、現在世界に広がる原理主義や安倍政権が強引に進める戦争法案の愚かさというものも思った。彼らは中庸ということを知らないのだ。そう、この句は中庸の句だと言えるかもしれない。


19

鑑賞日 2015/8/23
コンクリートの街に陽炎神経病む
竹内羲聿 大阪

 コンクリートの街にはやはり住むべきではないのかもしれない。神経を病むからである。おそらく怖いのは神経を病むことそのものではなく、神経を病んでいることにさえ気が付かないことである。現代はそういう時代なのかもしれない。陽炎のような。


20

鑑賞日 2015/8/24
身のうちを白湯ゆくはやさ遠ざくら
津波古江津 
神奈川

 来し方の時の流れの早さへの感慨だろう。非常に懐かしむ想いが滲み涙を誘われる。


21

鑑賞日 2015/8/25
かたつむり人は老いるのが下手だな
峠谷清広 東京

 かたつむり答えて曰く「そうですねえ。何故下手なんでしょうかねえ。おそらく人は老いるのが怖いからですかねえ。何故老いるのが怖いんでしょうか。あれやこれやと考えすぎるんじゃないでしょうかねえ。わたしなどは何も考えません。いわば無為無想の悟りの境地にいるんですよ。」


22

鑑賞日 2015/8/26
雁皮紙やホットミルクの膜ねぶる
並木邑人 千葉

 雁皮紙(がんぴし)は、ジンチョウゲ科の植物である雁皮から作られる和紙である。雁皮の成育は遅く栽培が難しいため、雁皮紙には野生のものの樹皮が用いられる。古代では斐紙や肥紙と呼ばれ、その美しさと風格から紙の王と評される事もある。繊維は細く短いので緻密で緊密な紙となり、紙肌は滑らかで、赤クリームの自然色(鳥の子色)と独特の好ましい光沢を有している。丈夫で虫の害にも強いので、古来、貴重な文書や金札に用いられた。日本の羊皮紙と呼ばれることもある。
 以上Wikipediaより

 雁皮紙とホットミルクの膜の形状や色合いからの相互連想であるが、「ホットミルクの膜ねぶる」と落したところが俳句的で面白い。ちなみにこのバックは鳥の子色にしてみた。


23

鑑賞日 2015/8/27
誠実なあなたの吃音蝶が来る
夏谷胡桃 岩手

 そう、もしかしたらこの世で誠実であるということは、往々にしてつっかえつっかえ生きる破目になるかもしれないと思った。「あなた」においてはそれが吃音として現れたのかもしれない。しかし誠実であるという宝を守るためにはつっかえつっかえだっていいじゃないかと思う。解る者には彼の誠実さが解る。だから蝶もやって来るのだ。


24

鑑賞日 2015/8/28
文盲の祖母なり蛇と語るなり
西又利子 福井

 文字を書いたりあるいはパソコンやスマホを自由に扱ったりする能力と、動物達と自在に語り合う能力と、どちらが優れているだろうか。一概には言えない。しかし、現代という時代に於てどちらの能力がより求められているだろうかと言えば、後者だという気がする。何故なら現代ほど‘いのち’というものが軽視されている時代はないように思えるからである。動物達と語ることが出来るというのは‘いのち’への深い共感が無ければ出来ないからである。


25

鑑賞日 2015/8/29
初燕いくつ刹那を抱いて来し
丹生千賀 秋田

 おそらく動物には時間の観念がないだろう。時間の観念は思考の産物であり動物には思考という余分なものが無いからである。だから刹那という観念もないし永遠という観念もない。言い換えれば動物にとっては刹那がすなわち永遠である。一方人間は時間の観念を持つ。それ故様々な感情を持つ。怖れ、怒り、嫉妬、希望、絶望、喜び、悲しみ等々である。さてどっちがいいのだろうか。この句を眺めながらそんなことを考えた。


26

鑑賞日 2015/8/30
掌にたまる囀り貌洗ふ
野崎憲子 香川

 囀りの聞こえる山道などで山の滴りなどを掌に受けて顔を洗った、というような情景が見えてくる。「貌洗ふ」であるから単に顔を洗って物質的な汚れを落したという意味以上に顔付きとして現れる内面性そのものを洗ったという意味を込めたかったのではないか。自然に芯から触れるということには人間の魂を浄化する作用がある。肉体と精神(魂)の遭遇の句と言えるかもしれない。


27

鑑賞日 2015/8/31
骨の音とも違う空缶潰して春
野田信章 熊本

 面白い。空缶についてそんなことを考えているの、という意外性。そしてよく考えてみれば、これは文明に対する一つの問い掛けなのではないかとも思えてくる。例えば原始人が現代という時代にタイムスリップしてきたとして、夥しく氾濫する空缶に対してこんな科白を言うかもしれないと思った。「こいつらは何だろうか。何かの骨だろうか。いやどうも骨の音とは違うぞ。ええい潰しておけや。」
 ところで「春」であるが、次の句を何故か思った。

春の山 屍 ( かばね ) を埋めて空しかり    虚子


28

鑑賞日 2015/9/1
累卵のしづけさ初秋のフクシマ
疋田恵美子 宮崎

 累卵とは卵を積み重ねること。不安定で危険な状態のたとえ。累卵の危うき、などと使う。つまりこの句は「累卵」という言葉を上手く蘇らせた手柄でもあり、フクシマという状態を的確に表現した手柄でもある。卵というものはとても滋養があり旨いものであるが、原発の旨味はみな電力会社を中心とした原子力マフィア(小出裕章さんが使う原子力村の言い方)が吸い上げて、その経済的負担や危険はみなわれわれ庶民が負うことになる。しかし実際はその危険は原子力マフィアの面々もみな被ることになるということが彼らには解らない。何しろ彼らの眼は欲望のベールに覆われているからである。言ってみれば、彼らは卵を積み上げる遊びに夢中になっている。


29

鑑賞日 2015/9/2
春は遅々紙で切りたる傷のように
藤野 武 東京

 先ずはこの注意深い観察眼がなければ出来ないような譬えに感心する。紙で切ろうが刃物で切ろうが傷は傷としか見えない私などのように大雑把な人間にはこんな譬えは出てこない。紙で切った傷のようになかなかすっきりと春にならない、という意味だろうが、結局、人間にとってすっきりとした幸せなどというものは存在しないという事実が句の裏には有るような気がする。


30

鑑賞日 2015/9/3
墜ちゆく星被曝の牛に草青む
船越みよ 秋田

 終末期の穏やかな風景といった感じなのである。穏やかに草は青み、穏やかに牛は草を食む。もしかしたらこの風景の中に人間は登場しないのかもしれない。こんな穏やかな終末ならあってもいい。人間に対しては、ざまあみろと言いたい気分ではある。


31

鑑賞日 2015/9/4
白つばき自主避難という翳りかな
本田ひとみ 埼玉

 兜太選海程秀句には あの3.11を挟んでこの作家の次の二句がある。

 海程2011年6月号掲載
山あいに住み馴れ風呂吹きをふうふう   本田ひとみ 福島
 海程 2011年7月号掲載
人も馬も船も白梅も消えた        本田ひとみ 埼玉

 そして今日の句を読めば、この作家が自主避難をした方なのだということが解る。住み馴れた福島の地から埼玉県に避難した作者。その避難生活もはや四年以上になる。埼玉での生活も少しは慣れてきたかもしれない。あの時に消えてしまった白梅ではなく、今は白つばきを眺めている。しかしやはり自主避難を余儀なくされた心はどうしても純白というわけにはいかない。


32

鑑賞日 2015/9/5
人間は人間を産み花は葉に
マブソン青眼 
長野

 そのように生長してゆく。そのように時が経ってゆく。人間個人としてもそうだし、人類全体としてもそうだ。と、思いたい。生長してゆくと思いたい。どうも人間の仕業を見ていると生長しているのかどうか怪しくなるが、そう思いたいものはある。


33

鑑賞日 2015/9/6
青葉木菟母の匂いの樹を探す
武藤暁美 秋田

 何を探しているのかと問われれば、結局私たちは母の匂いの樹を探しているのかもしれない。あの懐かしい匂いの懐。何の不安も焦りもない境地。ほーほーほーほー、母の匂いの樹は何処だ。


34

鑑賞日 2015/9/7
子規に律松蔭に文破れ傘
森  鈴 埼玉

 私の知識不足によるのだろう。よく解らない。兄と妹という関係であるということだけは何とか解るが、おそらくそれだけでは「破れ傘」の意味は解らないのだろう。ちなみに文に関してはNHKの大河ドラマでの主人公であるらしいが、私はNHKの大河ドラマを見たことがないし、そもそも今はテレビが無い生活なのである。


35

鑑賞日 2015/9/8
母の日や戦中戦後耐え賜う
安井昌子 東京

 そう、分けの分らない権力者のゲームに付き合わされて、耐えるのはいつも庶民であり、弱者であり、女性や子どもであり、殊に母親であるに違いない。好戦的な国というのはいつも父性を崇めている国であるという話を聞いたことがある。考えてみればユダヤ教、イスラム教、キリスト教等の崇める対象は父性的な原理である。彼らは何時も戦っている感じがある。戦争をしていた時の日本も天皇という一つの父性的な原理を崇めていたではないか。どうだろう、これからはもっと母性的な原理を崇めることにしたらいいのではないか。


36

鑑賞日 2015/9/9
楽しくて今日もこの世の青き踏む
山田哲夫 愛知

 「何故生きるのか」あるいは「どのように生きるのか」という問いがあるが、より根本的な問いは「果たして自分は生きたいのか」という問いである。私が見出した答えは「自分は生きたい」というものである。この答えに至れば、この世の全てのことは祝福されている。


37

鑑賞日 2015/9/10
夏おちば激昂これを限りとしょ
柚木紀子 長野

 どうだろう、一般的に怒りというものは自分が正しく相手が間違っているという観念が引き起すのものではないだろうか。しかし怒りは相手を傷つけるよりむしろ自分が深く傷つくということにだんだん気づいてくる。経験を重ねるうちに、自分の正しさというものもそれ程絶対的なものではないと気づいてくる。自分というものの小ささというものを自覚するようになると怒りというものはだんだんと阿呆らしくなってくる。ただし怒りには二種類あるような気がする。相手が自分より弱い者である場合と相手が自分より強いものである場合である。相手が自分より弱い立場の者である場合には怒りは醜い。相手が自分より強い立場の者である場合には怒りはむしろ潔く美しい。権力者の横暴に対して怒るというのは、これは美しい行為である気がするのであるがどうだろうか。ただし、この場合でも激昂すると却って自分を傷つける破目になるのでむしろ静かな怒りを保っていた方がいいだろう。例えば安倍さんなどは実に弱い人間であるから彼自身に対して怒るのは阿呆らしいが、彼は権力者であるからその行為に対しては静かで知性的な怒りを保っていた方がいいのである。「アベ政治を許さない」ということである。


38

鑑賞日 2015/9/11
あとがきのよう白藤のまぶしくて
横地かをる 愛知

 考えさせられた。というのも私には「白藤のまぶしい」状態というのはどうしても後書ではなく物語そのものあるいは本編そのもののような気がするからである。


39

鑑賞日 2015/9/12
古詩おそろし茄子に水やる少年僧
横山 隆 長崎

 「古詩おそろし」と言えるような古詩は私にとって何だろうかと考えてみた。バガヴァッド・ギーターが思い浮んだ。インドの古詩である。ガンジーの座右の書であるともいわれるが、一面戦争称揚の書であるとも見ることができる書である。ところで原則的には私は九条を保持して非武装中立で行くべきだと思っているが、時々迷いが生じて宮台真司が言うように重武装中立にならざるを得ないのではないかと思うこともある。そんな迷いの中でこのギーターの「戦え」という言葉がある意味おそろしくなるのである。結局、現代においては非武装中立で行くのが最も将来性のある態度だと思い直すのであるが、やはりまだまだひっかかるものは無きにしもあらずなのではある。しかし、そんなことを思いながらも日常的には私はいわば茄子に水をやることぐらいしかやっていない。


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