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金子兜太選海程秀句鑑賞 514号(2015年7月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2015/7/7 | |
八月や絶対の距離兵の兄
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有村王志 大分
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作者は兄を戦争で亡くしたのだろうか。私の経験では測りようもないがそこには絶対の距離を感じるのかもしれない。戦後さまざまな人がさまざまな方法でこの絶対の距離を埋めようとして努力したに違いない。もう絶対に戦争は起こしてはならないという方向性を持った人みいるだろうし、もしかしたらまた戦争をやって今度こそ勝って死者の恨みを晴らしてやるぞなどと考える人もいるのかもしれない。私には後者はやはり愚かに見える。 |
鑑賞日 2015/7/7 | |
薄氷よ思いはいつもゆっくり単純
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伊藤淳子 東京
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薄氷(うすらい)とルビ オリンピックの為に建設中の新国立競技場の建設費は三千億を越えるだろうともいわれる(ちなみに北京オリンピックの整備費は五百億)。その構造が複雑で無理があるからだそうだ。そもそもあの奇怪な周囲の環境に溶け込まないデザインは何だろうか。もっと単純なものにすればいいものを。またリニア新幹線の無茶苦茶に環境を破壊する計画は何だろうか。あんなスピードはいらない。 |
鑑賞日 2015/7/9 | |
万歩計して君は陽炎の虜
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石川青狼 北海道
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「陽炎の虜」という言い方が美しいし、それに万歩計という現代的な機器を取りあわせたのが新鮮味である。想うにこの「君」は作者の奥さんではないか。とにかく女性である方が陽炎の虜という状況に相応しい気がするし、妖しさも加わってきて雰囲気が増す。 |
鑑賞日 2015/7/9 | |
鳥の恋は被曝検査の対象外
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宇川啓子 福島
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嫌な連想をした。鳥の恋が被曝検査の対象外なら、人間の恋はどうなのかということである。「黒い雨」という映画で原爆の被曝者ゆえに縁談が壊れてゆく娘の話があったが、そんなふうなことはフクシマのことでは起っていないだろうかという連想である。もしこの句の作者がそんなふうなことも含ませて書いたのだとすれば、人間心理の現実を抉った怖い句である。 |
鑑賞日 2015/7/10 | |
てふてふてふてふおほかた相聞歌
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梅川寧江 石川
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世界は恋で出来ている。恋とは何か。一つになりたいという欲求である。根源に戻りたいという欲求である。宇宙の初め、一が天と地に分れて以来、一が男と女に分れて以来、再び一に戻りたいという欲求でこの世は成り立っている。 |
鑑賞日 2015/7/10 | |
月日というはかない沼にリラの冷え
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大高洋子 東京
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こんな透明な薄いガラス細工のような乙女ごころが、こんながさがさした粗野でメカニカルで功利主義的な時代に存在し得るのだろうか。そういう意味で強烈で印象深い句である。 |
鑑賞日 2015/7/11 | |
花冷えや皿洗うよう顔洗う
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奥山和子 三重
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女性の場合は年齢に関わらず自分の容色は気になるのかもしれない。殊に顔などは丁寧に愛情を込めて手入れするのかもしれない。ある時、はっと気が付くこともあるのかもしれない。私は自分の顔をまるで皿を洗うように、単に習慣として、マンネリ化して、物を洗うように、洗っていることだわ。・・・別に誰が見てくれるわけでもなし・・・ |
鑑賞日 2015/7/11 | |
閑古鳥刺繍の胸の盛り上がる
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北上正枝 埼玉
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私の胸もけっこうきれいだわ。ほどよく盛り上がっているし形もそこそこだし、おまけに今日は刺繍のついたブラジャーもしているわ。ああ、でもでもこの胸を愛でてくれる人はいないのよねー。 |
鑑賞日 2015/7/12 | |
流離かなあとがきのよう梅咲いて
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児玉悦子 神奈川
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自然にはおそらく何の意味もない。言葉で説明できるような意味を越えた意義はあるかもしれない。人間は通常何か行動する時、そこに意味をつけたり、あるいは意味を探したりしながら行動するのではないか。しかし結局は無意味だったことを知ることになる。そしてその時自然を見渡せばそこにはただあとがきのように梅が咲いているのみである。梅が咲くことに意味はない。ただ咲いているのである。そこである種の流離感を人間は感じるかもしれないが、しかしそのことも含めて事の全体に実に大きな意義がある気がする。 |
鑑賞日 2015/7/13 | |
かがなべて落ち合う春の垂水かな
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五島高資 栃木
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垂水(たるみ)とルビ 古語のリズム感のよろしさ。そしておそらくそういうよろしさを培ってきた日本の風土のよろしさでもある。 |
鑑賞日 2015/7/13 | |
鳥帰るピアノのモノローグが錆びる
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笹岡素子 北海道
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「ピアノのモノローグが錆びる」という感覚表現の上手さ。その感覚を「鳥帰る」と連動させて膨らませた上手さ。 |
鑑賞日 2015/7/14 | |
老骨に鞭打ち骨折したそうな
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佐々木昇一 秋田
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まあ、阿呆だなあ、ということである。これだけユーモアを込めて書かれれば当人も、へっへっへと照れ笑いするしかないかもしれない。当人としては己はまだ若いと突っ張りたい気持ちがあったのだろう。「若さを取り戻す」と気負ったのかもしれない。老いた者は老いた者らしく老熟の世界を生きた方がいい。日本経済あるいは日本社会についてもそういうことが言えるかもしれない。日本は老熟したところの豊かさを追求しなければならないのに、「日本を取り戻す」とか言って突っ張るのは骨折する因だろう。 |
鑑賞日 2015/7/14 | |
陽炎の上にゆらめく被曝街
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清水茉紀 福島
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私にはこの「陽炎」は人間のある種の欲望の象徴のように見える。ゆらゆらとして掴み所が無く決して満たされることのないある種の欲望である。権力者たちのそれである。バベルの塔を作ろうと思った人達のそれである。 |
鑑賞日 2015/7/15 | |
旅人に蟹の釜茹で流刑の地
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末岡 睦 北海道
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この句の流刑の地とは何処だろうか。作者は北海道の人だから北海道にもあったのだろうか。作者が何処かの流刑の地に旅をした時のことであろう。とにかくその流刑の地では旅人に蟹の釜茹でをご馳走として出すというのである。蟹だから佐渡あたりなのかもしれない。山国住まいの私にしてみればいずれにしても豪勢な馳走だと思う。旅吟として印象的な句である。 |
鑑賞日 2015/7/15 | |
楽器らの地声晴れ晴れ雪嶺へ
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鈴木修一 秋田
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私には管楽器のように思える。例えばトランペットなどを含む楽器類を雪嶺に向って奏しているというような場面。その楽器たちの音が雪嶺に向って晴れ晴れとした感じで響いていくというのであろう。「楽器らの音晴れ晴れと雪嶺へ」ではなく「楽器らの地声」としたところに作者の意図があるだろう。雪嶺を前にして素になった感じ、飾らないでいられる感じとでも言おうか。 |
鑑賞日 2015/7/16 | |
芽木あかり起き伏し荒く響くかな
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十河宣洋 北海道
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自然随順という言葉があるが、私達はどう足掻いてみても自然の微妙な変化の豊かさや優しさや繊細さに及びもつかない。われわれの起き伏しは荒すぎるのである。この句では対比的に「芽木あかり」という一つの優しく豊かで繊細な自然感受が引き立つ。 |
鑑賞日 2015/7/16 | |
きららむし母に修羅の日ありまして
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竹田昭江 東京
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きららむし(雲母虫)とは紙魚のことである。・・十ミリくらいで、扁平で細長く、銀色のうろこに覆われる。暗いところにすみ、衣類・紙類を食害する。・・と歳時記にある。 |
鑑賞日 2015/7/17 | |
風土とは体をこすりあう蛙
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舘岡誠二 秋田
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健全な精神は健全な肉体に宿るといわれるが、健全な肉体は十分なスキンシップから生まれるのかもしれない。母親とのスキンシップ。同年代の子どもとのスキンシップ。風や水とのスキンシップ。その土地の風土とのスキンシップ等々である。 |
鑑賞日 2015/7/17 | |
花吹雪しばし吾が影存在す
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田浪富布 栃木
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われわれの生は花が咲いて散るまでのごく短い時間であるというのは何となく無常感のただようネガティブな印象のある言い方であるが、この句の場合はそれが明るくあっけらかんとした印象があるのは「花吹雪」の明るさの故であろうか。 |
鑑賞日 2015/7/20 | |
もぐらの巣掘りまくる犬早春なり
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谷口道子 京都
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この景色いいなあと思う。もぐらの巣があるような、家の周りにかなり広い農園や敷地があって、そこでは犬が放し飼いにされている。早春ともなれば犬は嬉しくてしょうがない。彼はもぐらの巣を掘りまくる。単に「掘る」ではなく「掘りまくる」が感じが出ている。 |
鑑賞日 2015/7/20 | |
男体山や病まず呆けず畦塗りす
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藤岡雅江 栃木
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男体山(なんたい)とルビ。 男体山がやはり上手い。男体山が見える田で畦塗りをする老人の姿が見えるし、またこの畦塗りをする翁自身のことを「男体山(なんたい)」と言っているようにも受け取れる。この地で農を営み続けてきた彼は既に男体山の精になっているのかもしれない。 |
鑑賞日 2015/7/21 | |
真菰枯る亡父は戦病死とう戦死
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中島まゆみ 埼玉
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亡父(ちち)とルビ。 厳粛な気持ちになる。こういう句に関してああだこうだと言いたくなく、ただ事実を受け止めたいが、「真菰枯る」に静かで重い思いが表現されているように感じる。 |
鑑賞日 2015/7/21 | |
前衛とふ始原の眼花ひらく
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野崎憲子 香川
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真の前衛とは始原の眼を持って事物に対してゆくことである。始原の眼を持たなければそれは単に表面的なモダニズムに陥ってしまう。句が言いたいことはつまり「不易流行」ということであるが、それをそれこそ前衛的に生々しく表現したと言える。 |
鑑賞日 2015/7/22 | |
陽炎と連れ立ち大きなひとりごと
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野原瑤子 神奈川
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先ず陽炎が立っているような景色の中を歩いている作者が見えてくる。作者は何か大きなひとりごとを言うような心の状態にある。そのうちこの陽炎は連れ合いのことかもしれないと思われてくる。実際連れ合いというのは陽炎のような存在であると経験者は誰でも思い当たるに違いない。確かなものとして連れ添ってみたが、時に陽炎のようにゆらゆらとして不確かな存在に見えてくることがある。 |
鑑賞日 2015/7/22 | |
川抱いて土手が曲がるよゆっくり春
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長谷川育子 新潟
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春の駘蕩感といったらいいだろうか。座五の間延びしたゆったり感が雰囲気を作っている。ゆっくりと春が行きゆっくりと川は行きゆっくりと作者は土手を歩む。「川抱いて土手が曲がるよ」も面白い。作者自身も何かゆったりした流れを身内に抱いているようだ。 |
鑑賞日 2015/7/23 | |
鰊群来旅芸人は躓いて
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長谷川順子 埼玉
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群来(くき)とルビ。 現代は異常気象や地球環境の人間にとって悪い方への変化で魚の習性にも変化が出ているようである。鰊などについてもそうなのではないか。鰊群来というのが春の季語となっているように以前はきちんとしたリズムで鰊は来ていたのだろうが、現在はそのリズムが狂い出したようなことも聞く。旅芸人というものは現在もいるのだろうか。一昔前はおそらく沢山いた。だから旅芸人が躓くという情景も日常的にあっただろう。鰊群来も旅芸人が躓くのも今は昔の懐かしい一つのエピソードと言えるのかもしれない。句はその時代を切り取った映像である。 |
鑑賞日 2015/7/23 | |
恋猫のように鳴いてる鴉かな
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平山圭子 岐阜
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感じたままをそのまま書いた即吟の句であろう。こういう句は読む方にもすっと入ってきて首肯ける。そういうことがあるなあと共感する。頭が簡単になる。 |
鑑賞日 2015/7/24 | |
燧石の火は生れて消ゆ上り鮎
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藤野 武 東京
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燧石(ひうちいし)、生(あ)とルビ。 生の刹那感そしてそれから導き出される虚無感のようなものと、いのちの連続性という生を肯定的にみる在り方の狭間にある知的人間だという感じがする。短くいえば、死と生を熟考せよと運命づけられた人間というものを感ずる。 |
鑑賞日 2015/7/24 | |
鶏に似て来しわが手昭和の日
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前田典子 三重
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譬えの的確さの句。わかるわかるという句である。 |
鑑賞日 2015/7/25 | |
ひとを待つひと世でありぬ柿若葉
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水野真由美 群馬
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私が好きで尊敬している女性にシモーヌヴェイユという人がいる。彼女の著作に「神を待ちのぞむ」という著作がある。「待つ」ということはおそらく人間の本質に近いものではなかろうか。もし人間が美しいものなら、それは「待つ」ということを知っている人間に違いない。「待つ」ことほど人間を美しく生き生きとさせるものはない。「柿若葉」のつやつやとした美しさがそんなことを物語っているような気がした。 |
鑑賞日 2015/7/25 | |
ゆめに梅その世を借りてあたたかし
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三井絹枝 東京
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「その世を借りて」という表現。とても上手い、というか、参った参ったと言いたいくらいの表現力である。ところでこんな素敵な‘その世’を描く作者の‘この世’はどんな風なのだろうかと興味がわく。 |
鑑賞日 2015/7/26 | |
含羞という物の芽の皺であり
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三好つや子 大阪
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面白い。あらためて含羞(はにかみ、はじらい)というものについて考えてみた。含羞のある人はある可愛らしさがある。つまり彼あるいは彼女はある繊細さがある。そしておそらく成長するということはその含羞の皺を伸して力強く展開してゆくことなのかもしれないと思った。そもそも含羞の無い人はお話にならない。彼らは感受性だとか人を思い遣る気持ちが無いのだ。いや何、含羞のない今の日本の政権の人々のことを思っている。 |
鑑賞日 2015/7/26 | |
梟と話す父あり追い越せぬ
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武藤鉦二 秋田
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父は偉大だと言っている。そして「追い越せぬ」というのがいい。何故ならそれは謙虚さの表明だからである。そして実は謙虚さこそが偉大である。梟と話せるかどうかというのはおそらく個性である。そして人間の個性が輝き出るのは謙虚になった時である。であるからこの父もおそらく謙虚であるに違いない。梟に対して謙虚でなければ梟と話せると思えない。ポイントは父から子へ親から子へこの謙虚さという質が伝わってゆくことなのではないか。 |
鑑賞日 2015/7/27 | |
高階に蜜蜂を飼う母は天体
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村上友子 東京
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「母は天体」が素敵だ。集合住宅のビルの屋上のような場所であろうか。そういう場所で家庭菜園を作ったり蜜蜂を飼うという話はよく聞くが、そういう話を聞くと人間の自然との交わりを求めるベクトルの大きさを感じる。この句を読んで、このベクトルの行き着く先は自分自身もこの宇宙での一つの天体なのだという認識なのかもしれないと思った。 |
鑑賞日 2015/7/27 | |
人体はみな岬かな鳥帰る
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守谷茂泰 東京
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静かな句だ。この作家の句は概ねとても静かだという印象がある。個であることを認識するが故の静かさであろう。しかし孤立でも孤独でもない気がする。「人体はみな岬かな」という認識には大きなものへの帰属感が底流にあるような気がする。孤島ではなく岬なのであるから。 |
鑑賞日 2015/7/28 | |
巣立鳥どれかがきっと青い鳥
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諸 寿子 東京
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不遇であるが健気に生きている少女(たとえばマッチ売りの少女のような)の呟きのようだ。作者がどれくらいの年齢の人なのかは知らないが、おそらくそれはどうでもいいのである。つまり人間はその心の中に何時も純な少年や少女が住んでいるということなのだ。 |
鑑賞日 2015/7/28 | |
髭あたることも惜命花過ぎて
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柳生正名 東京
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命を惜しみながら生きるということは命を愛おしむということ、すなわち一つ一つのことを丁寧にやってゆくということである、とこの句を見て思った。 |
鑑賞日 2015/7/29 | |
水引いて蛙の恋する田を作る
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山口 伸 愛知
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自然ととものある感覚。あるいは自分はこの生態系の一部なのだという感覚。こういう本来人間が持つべき感覚は農において得られ易いが、いかしそれは小農に限るだろう。大規模農業ではこういう会得は成されない。TPPなどが成立すれば小農は切り捨てられる公算が大きい。つまり人間はどんどん自然の感受性を失い化け物じみてくるかもしれない。TPPとはつまりそういうことだ。 |
鑑賞日 2015/7/29 | |
白内障かなしばらく暗い野の遊び
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若森京子 兵庫
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白内障(そこひ)とルビ 私も白内障であり、いつ手術をするか決めかねているような段階である。あらゆるものがぼやけて見えるし、陽の光などが眩しく、鬱陶しい。しかしどうだろう、見える景色が暗いという感じはない。だからこの句における「暗い」はむしろ心理的な暗さである気がする。状態の説明ではなく、それを心理描写に展開したのがこの句の手柄。 |
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