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金子兜太選海程秀句鑑賞 513号(2015年6月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2015/6/6 | |
素気ない賀状じゃないか老いたかやい
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石川義倫 静岡
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賀状というのは一般的には今ではそもそも素気ないものであるから、つまりこれは特別に親しい友人同士のことである。これだけ率直な言い方が出来る作者は老いていないと言えるだろう。 |
鑑賞日 2015/6/6 | |
大北風や全き八ケ岳の光るなり
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伊藤 巌 東京
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八ケ岳(やつ)とルビ 作者は登山をする人なのだろうか。私は登山というものに興味を持ったことがないのであるが、この句を読んで登山をする人の気持ちが少しながら解った気がした。それは「全き八ケ岳(やつ)」という言い方からであるかもしれない。親しみと尊敬の表れを感じた。その八ケ岳が大北風の中で光っているのである。 |
鑑賞日 2015/6/7 | |
鵜は今日も濁りをまとう春隣
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伊藤淳子 東京
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愁いとまではいかないが、何かしらその前段階にあるような微妙な人間の心理をこまやかに的確に表現しているような気がする。はっきりとしない「濁りをまとう」ような心理である。「春隣」にやってくる春愁の予感のような趣を感じてしまう。巧みな心理描写の句とみた。 |
鑑賞日 2015/6/7 | |
夭折は叶わぬ夢でありにけり
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糸山由紀子 長崎
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美しいうちに美しいまま死にたいという夢であろうか。老醜をさらしてまで生きたくないということであろうか。ある意味確かに若者は美しい。無垢であり純粋である可能性が高いからである。もちろん肉体的にも美しいだろう。私のことをいえば、私は別のことを考えている。老美ということである。老人が美しいとすれば、それは若者の美しさより数倍も美しい筈だ、という思いがある。経験を積んだ深い深淵のような美しさである筈だという思いがある。「老美とは叶わぬ夢でありにけり」というふうにならないように気をつけたいものではある。 |
鑑賞日 2015/6/8 | |
度忘れは可憐な解脱冬欅
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上田久雄 石川
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イエスは盲人を前にして言ったという、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と。そのように全てのことを肯定的に受けとることが出来るというのは素敵なことだと思う。その意味で「度忘れは可憐な解脱」であるというのは素敵だ。イエスの言葉の東洋的な言い方と言えるかもしれない。私もこの頃度忘れをよくする。認知症のはじまりではないかと心配したりもする。しかし認知症だって可憐な解脱かもしれないわけである。「冬欅」の冴えた知恵である。 |
鑑賞日 2015/6/8 | |
飼い猫のような返事の春炬燵
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宇田蓋男 宮崎
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この句はおそらく「春炬燵のような返事の飼い猫」といっても内容的には同じではないか。「飼い猫」ってどんな感じと聞かれれば、「春炬燵」のようなものと答えればいいし、「春炬燵」ってどんな感じと聞かれれば、「飼い猫」のようなものと答えればいい。つまりこの句は譬えの妙である。 |
鑑賞日 2015/6/9 | |
月冴えて雪隠まるでコックピット
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大西政司 愛媛
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コックピット(操縦席)のような雪隠とはどんな雪隠か。もちろん和式のしゃがむものではないだろう。いろいろな装置が施された最新式のトイレである気がする。都会のトイレであるだろう。そんなトイレの窓から冴えた月が見えたなら、それは飛行機の操縦室に居るような感覚になり得る。 |
鑑賞日 2015/6/9 | |
星の一つの大地に坐禅淑気かな
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川口裕敏 東京
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単に「地上」と言わないで「星の一つの大地」と丁寧に把握しているところが非凡である。物事を俯瞰する力と言葉の意味を分析する力かもしれない。 |
鑑賞日 2015/6/10 | |
春の土ついばむように母歩く
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川田由美子 東京
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春の嬉しさ、そして土とともにあることに対する感謝。そのようなものであろう。とにかく「ついばむように」が上手いのだ。 |
鑑賞日 2015/6/10 | |
雪に顔埋めれば父のデスマスク
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城至げんご 石川
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新雪に顔を埋めてみるということは誰でもやりたくなる。しかしその後で父のデスマスクを思ったというのがユニークである。父への思い、自分への思い、死への思いの様々な面が短い言葉の中に凝縮されている。 |
鑑賞日 2015/6/11 | |
ぼんやりとこわれる風雅浮き寝鳥
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京武久美 宮城
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TPPに象徴的に現れてくるような経済一辺倒の風潮が日本を支配してゆけば、風雅などという価値観は根こそぎ失われてしまうかもしれない。水面にゆらゆらと寝ている浮き寝鳥のように日本人はぼんやりしている場合ではないのかもしれない。 |
鑑賞日 2015/6/11 | |
漁舟美しく潤みて一月は
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久保智恵 兵庫
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漁舟(すなとりぶね)とルビ 漁舟というのは小さな漁船であろうか。「すなとりぶね」という言い方が素敵だ。いや、この句によってこの漁舟(すなとりぶね)が詩的で魅力的なものに見えてきたのかもしれない。 |
鑑賞日 2015/6/12 | |
芒野の先は原発白鳥来
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黒岡洋子 東京
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私などのように原発は人間にとっての絶対悪だと思っている人間はこの句を読んで、ああ芒野の風景が台無しだなあと思ったり、白鳥さんが可哀相と思ったりするかもしれない。原発は人間の智恵の産物の一つであると考える人間はこの句を読んで、科学と自然の調和であると受けとるかもしれない、まるで白鳥が原発を祝福しているようだ、と受けとるかもしれない。 |
鑑賞日 2015/6/12 | |
村捨てぬ人等咲かせる寒桜
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近藤好子 愛知
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あと三十年もしてこの句がどのように見えるかを考えている。あああの時代の人の最後の足掻きだったのだなあと見えるかもしれない。あるいはあの人等の力もあって日本の風景が守られたのだなあと思えるかもしれない。悲観的にものを見がちな私などは前者の可能性が高いと思う。 |
鑑賞日 2015/6/14 | |
理屈では消せぬ我が癖畑返す
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齋藤一湖 福井
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そう我々はほぼ理屈では生きていない。理屈はむしろ後からついてくる。昔の歌にあった「わかっちゃいるけど止められない」というわけである。肝心なのはおそらく現在を誠実に生きることである。目の前にあることを心を込めて丁寧にやることである。さあ畑が呼んでいる、心を込めて畑を返そう。 |
鑑賞日 2015/6/15 | |
凍った半月さみしい咳が出る
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笹岡素子 北海道
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「凍った半月」の象徴性は高い。何かが満ち足りない自分。何か、というより殆ど自分の半分が失われてしまったような心の状態。まるで今の自分は凍った半月のようだ、というのではないだろうか。 |
鑑賞日 2015/6/15 | |
寒雁やおとな未満の喉仏
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猿渡道子 群馬
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うーん、難しい。「寒雁」と「おとな未満の喉仏」の関係がなかなか掴めない。「おとな未満の喉仏」で声変りの最中の男の子の声を連想するが、寒雁の鳴く声がそのようだったというのであろうか。そもそも私は雁の声に親しんだことがないからぴんとこないのかもしれない。 |
鑑賞日 2015/6/16 | |
金縷梅にきっと雪くる縁かな
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篠田悦子 埼玉
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春になって金縷梅も咲き出したというのに、天気予報では雪がちらつくかもしれないなどという。実際空模様はそれらしき雰囲気もする。もしかしたら雪がくるかもしれない。いやきっとくるだろう。考えてみれば私があの人に出会ったのも妙なことである。偶然?いやいや縁があったのだ。奇縁とはいいたくない。むしろ縁(えにし)であると言いたい。 |
鑑賞日 2015/6/16 | |
涅槃図に絆されている女ども
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白井重之 富山
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以前短い期間であったが、金子先生のカルチャーに出席したことがある。参加している人は二十数名ほどいたと思うが、その殆どが女性であった。私には現在いろいろな場面で女性の方が元気がいいという印象があるがどうだろう。彼女らはあたかも孤独ということとは無縁のようによく喋り食いそして楽しむ。良いことだとは思うが、さて男はどうすればいいのか。 |
鑑賞日 2015/6/17 | |
チャルメラもあなたも遠い霜夜です
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鱸 久子 埼玉
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南こうせつの「神田川」の叙情を思いだした。私が南こうせつと同年代(団塊)だからそう思ったのかもしれない。もしかしたら作者もその年代かもしれないと思った。胸がきゅんとするような甘酸っぱい懐かしさである。 |
鑑賞日 2015/6/17 | |
汝が夢の春泥として吾ありぬ
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田中亜美 神奈川
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いじらしい。何もそんなふうに考えなくともいいのにと傍から見れば思う。こういうふうに考える人はおそらく誇り高くて感受性の高い人なのではないか。今、偶々スースロワ(ドストエフスキーの恋人だった人)の日記を読んでいるが、スースロワのドストエフスキーに対する気持ちに似てるかもしれないと思った。スースロワは誇りを持った知識人なので、これはドストエフスキーに対する対抗心の変形でもありうる。以下青字はスースロワの日記より。 「自分がけがらわしい泥沼のようなものにはまりこんでゆくのを感じる・・・私の勇気はどこへ行ってしまったのだ、二年前の自分を思いだすと、ドストエフスキーが憎くなる。私の内なる信念を殺した最初の男は彼だ。私はこの悲しみを振り払いたい」 しかし、何はともあれ、作者がこういう優れた句作品を作るということは、作者が既に彼とのことを肥やしにして成長したというのが事実であろう。 |
鑑賞日 2015/6/18 | |
扁平足のような面ざし水温む
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田中昌子 京都
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顔が扁平足のような面ざしの人がいる。「水温む」であるから、作者はこの人の雰囲気を好もしく思っているのかもしれない。例えばこの人がある議論の場などに入ってくると、その議論が先鋭化して激しくなるようなことがない、激していた議論も収まってくるというような雰囲気を持っている面ざしの人などを想像してしまう。 |
鑑賞日 2015/6/18 | |
恋猫に見惚れ老人であることよ
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谷 佳紀 神奈川
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老人には二種類あると聞いたことがある。恋する他者を見て、あんちくしょうめ恋などにうつつをぬかしおって、どうしようもない奴だ、という老人。恋する他者を見て、ああやっているな、良いことだ良いことだと言える老人。前者は自分自身が恋というものを経験してこなかったが故に恋の良さというものが理解できなく、恋はただ煩わしいものと見做してしまう老人。後者は恋というものを自分自身が十分に経験して、それは良いものだと見做すことができる老人である。 この句の作者を敢て分類すれば、後者ということになるだろうか。 |
鑑賞日 2015/6/19 | |
黄色くて小さいわたし雪がふる
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月野ぽぽな
アメリカ |
この世のマーヤー(幻影)の網に捉えられない為には二つの方法があるという。一つは網の目が破れてしまう程に自分を大きくすること。これは英雄の態度とも言われる。もう一つは網の目をすり抜けてしまう程に自分を小さいものとして保つことである。これらはおそらくラーマクリシュナかヴィヴェカーナンダの言葉であったような記憶がある。一見前者の態度の方が後者の態度よりも偉大なことのように見える嫌いがあるが、そうではない。実際、前者の態度を取ったラーマクリシュナは後者の態度を取ったヴィヴェカーナンダの師であったのであるから。つまり両方の態度は同じように価値があるということ、肝心なことはマーヤーの網の目に捉えられないということである。 雪の日を黄人われのほほえみぬ 『黄』 兜太はどうみても英雄の態度のように見えるし、そう考えると、作者は自分を小さいものと見做してマーヤーの網をすり抜けるタイプなのかもしれないと思ったわけである。とにかく両句ともとてもいい。 |
鑑賞日 2015/6/19 | |
春はあけぼのツートントーンとお腹の子
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寺野志津子 東京
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子を宿した女性の気持ちというのはこういうものなのかと思った。さまざまな生命がその息吹を吹き返してくる春。そのあけぼのの感じ。自分が自然に包まれるというよりはむしろ自分が自然を包み込んでいる感じなのかもしれない。句全体のリズムも自然を祝福している音楽だ。 |
鑑賞日 2015/6/20 | |
底冷えや身も蓋もなき我が孤独
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峠谷清広 東京
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深刻なことを言っているようであるが、この作者の句にはいつも滑稽の味がある。「身も蓋もなき我が孤独」と自分の孤独を笑い飛ばしているような感じである。違う言い方をすればこれは一種の悟りの言葉である。身も蓋もある孤独だとすれば、その孤独は腐る可能性がある。身も蓋もない孤独であればその孤独は風にさらされて無くなってしまうだろう。 |
鑑賞日 2015/6/20 | |
風呂吹や不意打ちくらいつつ人生
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中嶋まゆみ 埼玉
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石橋を叩いて渡る人、石橋を叩いて渡らない人、石橋を叩かないで渡る人、人生いろいろである。風呂吹をふうふう吹いて食べる人もいれば風呂吹をそのままがぶりとやってアッチッチとなる人もいるだろう。私もどちらかといえば、物事を丸のみにしてアッチッチと言いながら生きるタイプのおっちょこちょい人間であるが、もしかしたら作者もそういうタイプの人なのかもしれない。 |
鑑賞日 2015/6/21 | |
あえて言えば消滅の音だ吹雪
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中村加津彦 長野
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君が言えというならあえて言うが、この世は消滅する運命にあるということを私ははっきり自覚している。君も私もこの日常のごたごたも全てだ。例えばあの吹雪の音に君は消滅の音を聞き取らないだろうか。さて、「君」とは誰か、それは俳句かもしれない。俳句は俳句作家に本音を言え本音を言えと迫るものだからである。 |
鑑賞日 2015/6/22 | |
子守歌のように作りし卵酒
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中村真知子 三重
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愛しい人の為に母親のような気持ちで、あるいはずばり子の為に卵酒を作ったのかもしれない。それはまるで寝かしつける子守歌を歌うような気持ちで作った。この子の病気が早くよくなれ早くなおれそのために、ぐっすりぐっすり眠りなさい眠りなさい・・・ |
鑑賞日 2015/6/22 | |
呆けし人に確かな記憶冬の橋
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中村道子 静岡
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具体的にはどんなことか想像もつかないが、この人が渡って来た歴史の厳しさを暗示するような「冬の橋」である。戦後生れのわれわれはかなりゆるやかでハッピーな時代を過ごしてきたが、例えばこの人が戦前戦中を生き抜いてきた老人であったとしたら、時代の厳しさに於てこの「冬の橋」の暗示するものも少しは想像がつく気もする。 |
鑑賞日 2015/6/23 | |
恋せよ乙女遠くて近き冬北斗
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野崎憲子 香川
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そう、もしかしたら今は遥かなるものに恋をしない時代なのかもしれない。理想やロマンの失われた時代だと言えるのかもしれない。そう、まず「恋せよ乙女」と言うのが近道なのかもしれない。そうすればそれにつられて青年も「冬北斗」に向って歩もうというような意欲が湧いてくるかもしれない。恋をしなければ冬北斗はいつまでも遠いまま、恋をすれば冬北斗は実は身近にあったのだと気づく。 |
鑑賞日 2015/6/23 | |
初鳩の真っ白な糞仏に落つ
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マブソン青眼
長野 |
俳諧的、詩的、そして禅的である。仏様もきっとニンマリと笑っているに違いない。 |
鑑賞日 2015/6/24 | |
陽炎の小さな花屋はじめます
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三井絹枝 東京
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この作者は詩を生きている。しかもその詩が実際の詩の言葉となって現れてくる。そういう感じだ。 |
鑑賞日 2015/6/24 | |
野遊びや空からきっと見える二人
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宮崎斗士 東京
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いいなあ。祝福されている二人という感じだ。前の三井さんの句もこの宮崎さんの句も、何かかるーく書いている感じで、しかも実にいい。こういうのを‘軽み’というのかもしれない。 |
鑑賞日 2015/6/25 | |
マンホールの蓋撮るおばさん雲雀東風
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三好つや子 大阪
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天然自然の事象と人間の事象を並列させた風景。あるいは天然自然に支えられた人間の事象。マンホールの蓋撮るおばさん・・ええじゃないか。人間とは面白いものだ。それもこれもみんな天然自然に支えられた事象。 |
鑑賞日 2015/6/25 | |
降る雪や箪笥引くたび会える母
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武藤暁美 秋田
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草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」という句に感じるように「降る雪」には何か時間というものを現在から過去へ遡ってゆかせる力がある。またナルニア国物語でもそうだが「箪笥」にも異空間異時間に誘い込む力が潜んでいる気がする。おそらくこの箪笥には母親の遺した衣類などが入っているのかもしれない。その箪笥を引く時に作者は実際に母に会っているのかもしれない。即ち「会う」ということの本質は何かという秘密がこの句には隠されている気さえする。 |
鑑賞日 2015/6/26 | |
煮凝りをつついて津軽艶笑譚
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武藤鉦二 秋田
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与謝野晶子の「柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君」の俳諧版とでも言えるだろうか。「煮凝り」つまり何かの考えに固まった人。つまりそういう人をつついて艶話をしているというのである。単なる艶話ではなく「津軽艶笑譚」というのが土臭くていい。 |
鑑賞日 2015/6/26 | |
尽きぬ話暮れて二月の礼者かな
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山本キミ子 富山
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今では正月の年始周りをする習慣もあまりない気がするのであるが、しかも年始周りが出来なかったからと言って二月に挨拶に行くというのはその人と真に逢いたいと思っているからだろう。こういう親密な友を持つということは仕合わせなことだ。尽きぬ話で暮れるのも分る気がする。 |
鑑賞日 2015/6/28 | |
臘梅やシルク・ロードの荷をほどく
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若森京子 兵庫
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旅などから自分の慣れ親しんだ風土に戻ってくるとほっとするものがある。高揚感のある旅はいいものだが、そこにはいつも緊張が伴う。自分の荷物は大丈夫だろうか、誰かに盗まれはしないだろうか、何か失くしたものはないだろうか・・・。「荷をほどく」という言葉に帰宅してリラックスした気分が表現されている。そしてそこには慣れ親しんだ臘梅の花が咲いている。 |
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