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金子兜太選海程秀句鑑賞 512号(2015年5月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2015/5/14
父の晩年盆地の遅き初日かな
伊藤 巌 東京

 例えば晩年になって俳句作りをはじめた。あるいは何かとの出逢いがあった。というようなことかも知れないと思った。「父の晩年」と「盆地の遅き初日」の関係である。


2

鑑賞日 2015/5/14
母を灯し夫を翳して寒北斗
稲田豊子 福井

 例えばこんな情景を思い浮かべた。夫は母の車椅子を押している。夜である。寒北斗の薄い光りが母の顔を照らしている。一方夫の顔は光りと反対側にあるので翳になっている。そんな情景である。情景というのが相応しいような一場面である。


3

鑑賞日 2015/5/16
冬の鳥投票してきてまた黙す
井上湖子 群馬

 四年前の大震災と原発事故を受けてその時はかなり民衆の声が上げられたが、その後萎んで来てしまった感がある。あの時はこれで日本も少しは変わるだろうと希望を持ったが、最近は逆にますます悪い方向に進んでいる感があり、政治や社会に対して何かものを言うのも馬鹿馬鹿しくなってくる。せめて選挙権は行使しようと投票所へ行くが、結局当選する見込みのない候補者に入れて帰ってくるということになる。まさに私などもこの句の「冬の鳥」状態なのかもしれない。


4

鑑賞日 2015/5/16
散華とや母が家に雪の降る
榎本祐子 兵庫

 美しく大きなイメージである。自然界のあらゆる現象は全ての死者そして全ての生者を供養しているのだという考え方に到る。雪が降るというのはまさにその散華の華であると見做すのは実に荘厳で感動的なイメージである。


5

鑑賞日 2015/5/18
冬の木の間に冬の木のぶらんこ
大高洋子 東京

 「冬の木のぶらんこ」というのはおそらく木に縄を掛けて作ったぶらんこであろう。今は誰も乗っていない。冬だから誰も乗っていないのか、あるいは乗る人はもういなくなってしまったのか。ある小説の一場面のようだ。乾いた叙情がある。


6

鑑賞日 2015/5/18
マスクとる虎のおしつこには注意
小川楓子 神奈川

 動物園での場面だろうか。馬のおしっこは見たことがあるが虎のおしっこは見たことが無い。単なる排尿かあるいはマーキングのような行為なのか。その臭いは強烈であったりするのか。あるいは吸い込むと何らかの幻覚作用を引き起すとか。とにかくマスクをとったら虎のおしっこには注意注意。愉快な句である。


7

鑑賞日 2015/5/19
妙案や百羽の鴨がぱっと翔つ
門屋和子 愛媛

 夢の中で電話のベルが鳴ったのと枕元の目覚まし時計が鳴ったのとどちらが先か。林檎が落ちたのが先かあるいは万有引力の法則が閃いたのが先か。百羽の鴨がぱっと翔び立ったのが先か、あるいは妙案が閃いたのが先か。


8

鑑賞日 2015/5/19
星流る前歯にいくらかのすき間
木下よう子 
神奈川

 「星流る」という事象と「前歯にいくらかのすき間」という事象は対置関係であると同時に斉一性でもあるだろう。星が流れるというのが天の事象の一つであるのに対して前歯にいくらかのすき間があるというのは地の事象の一つであるという対置関係。また、星が流れるという事象も前歯にいくらかのすき間があるという事象も大きな目で見れば宇宙の斉一性の一部であるということ。


9

鑑賞日 2015/5/22
軽口と時々咳鳥獣戯画
黒岡洋子 東京

 咳(しわぶき)とルビ
 鳥獣戯画の中の動物達が軽口と咳きをしているように見える、というのと、鳥獣戯画の展示室などでそれを見ている人が軽口や時々咳きをしている、という二つの可能性がある。だから句の面白さは見物をしている人達と絵の中の動物達が入り交じってしまったような雰囲気が醸し出されていることである。それは鳥獣戯画の本質にも通じることだろう。


10

鑑賞日 2015/5/22
新雪踏む私が二匹目の獣
河野志保 奈良

 田舎暮らしの私にとっては状況はよく分る。兎や小動物などの足跡が雪の上には必ずあるからである。要は「私が二匹目の獣」と自分が獣であると見做している見方である。自分を獣と同等に扱っている目線である。私達人間はつい自分は動物達よりも一段高い存在だと思いがちであるが、その態度は人間の高慢さに繋がりやがては自然破壊にも繋がるだろう。今の時代この句のようにすんなりと自分は獣だと言える態度こそが大事なことのように思える。作者の態度に学びたい。


11

鑑賞日 2015/5/24
まず富士に日のさす冬のちまたかな
五島高資 栃木

 先ず一瞬明るい。そしてだんだんと重くなる感じがした。この重くなる感じは「冬のちまた」という言葉の所為だろうか。日常の諸々の重さということかもしれない。


12

鑑賞日 2015/5/24
海底に届かぬ声か木枯か
白石司子 愛媛

 山口誓子の「海に出て木枯帰るところなし」という行き場の無さ感あるいは当ての外れた感の句とリンクしている気もする。自分は誰かに自分の声を届けようとしているが、相手はあたかも海底に存在しているようで私の声は届かない。私の声は木枯のようなものに過ぎないのか。「木枯の果はありけり海の音」(池西言水)とでもなれば声が届いた感じであるのだが。


13

鑑賞日 2015/5/25
肩に雪負う樅のごと励みおり
鈴木修一 秋田

 樅の木の枝ぶり、つまり枝先を下げるような枝ぶりは雪が積ると更にそれを下げるようにして耐えている。雪の重みさ逆らわない。逆らわない姿勢であるからこそあれだけ葉を繁らせているにも関わらず雪に潰されない。たぶん雪折ということも少ないだろう。これは寒くて雪の多い北国に住むものにとっては生きるために必然的な姿勢なのかもしれない。作者は北国の人。そのような姿勢で励んでいるのかもしれない。


14

鑑賞日 2015/5/25
よく肥えたドン・キホーテぞ冬の猫
須藤火珠男 栃木

 愛猫家の人の家の猫はよく肥える。美味しいものを沢山与えるからかもしれない。愛情に恵まれて美味しいものを沢山食べていればどうしても肥える。この猫は作者が飼っている猫だろうか。そうだとすれば、「ドン・キホーテ」とからかっているが作者はこの猫が可愛くてしかたがない。


15

鑑賞日 2015/5/26
少子高齢みずみずしさは芹なずな
瀬川泰之 長崎

 老齢のじじばばだけの世界はみずみずしさを失う。だろうか。いやいや、芹なずなすずなすずしろ・・・、みずみずしさは失われない。


16

鑑賞日 2015/5/26
水の動きは途方もなくて冬の風
高桑婦美子 千葉

 読者にかなり自由な映像を思い描かせる抽象性の高い句である。具象的な限定と抽象的な自由度のバランスを上手く付けることが句作りの一つのポイントであると思うが、殊に抽象度が増すと作品にはなりにくいが、この句はそれが上手くいっている。


17

鑑賞日 2015/5/28
漂鳥や現ごころのなずな粥
田口満代子 千葉

 現(うつつ)とルビ。

 自分を漂鳥であるとする見方。つまり自分を漂泊するものと捉えることがもしかしたらこの作者には似合っているのではないか。次のような句もある。

鯵刺やノートは切岸のにごり
旅泊また青田に雨と書き流し
旅の帆のよう折紙のよう春耕
米とぐも夢の中なり尉鶲
鶴わたる眠たさの我はうすずみ
鳥影のさみしさノートは麦の秋

 寄る辺無くこの世を旅する人間に与えられるものが神の啓示の言葉であるとするなら、コーランの詠唱などはまさにその感がある。この作者の次の句が忘れられない。

コーランの夜明け白ばら在りますがごとき


18

鑑賞日 2015/5/28
怒るって胸閉ざすこと花八手
武田昭江 東京

 怒るって胸閉ざすこと・・・と作者は感じた。それが真実かどうかはここでは問題ではない。そう作者が閃いたということである。花八手のぱっと開いたような感じと響きあう。


19

鑑賞日 2015/5/29
漁師吐く小言が家訓冬の男鹿
舘岡誠二 秋田

 どんな小言だろうか。「いいか海っちゅうもんはな甘く見ちゃなんねーぞ。甘く見て調子に乗ってると命を落すことになるぞ。海は俺達の全てだ。海はありがてえもんなんだぞ。海は全く神様だ。」と、まあ秋田弁ではないが考えてみた。いずれにしろ大地に根ざした生活者の言葉というものは味があるものだろう。それに引き換えアベちゃん達の軽いへらへらとした言葉よ。


20

鑑賞日 2015/5/29
赤蕪さげて嵯峨釈迦堂を抜けにけり
田中昌子 京都

 「蕪さげて」だと字数がぴったり合うが、やはり「赤蕪」がいい。いわば世俗の色香と非俗的な釈迦堂との対比の妙が出てくるからである。
 全体の口調から次の二句を連想した。

けしさげて喧嘩の中を通りけり     一茶
葱買て枯木の中を帰りけり       蕪村


21

鑑賞日 2015/5/30
フクシマの寒暮吾が子へシリウス指す
中村 晋 福島

 「吾が子へシリウス指す」というのはいつの時代の父と子の関係の中でもあることであるが、それがフクシマという歴史的な場面でなされたということで、この時代に生きた人間の証しの一つの態度の句として記憶に留めるべき句であろう。


22

鑑賞日 2015/5/30
村の葬寒九の雨を待たせおり
中村真知子 三重

 寒九・・・寒に入って九日目のこと。
 寒九の雨・・・寒九に降る雨。豊作の兆しとして喜ばれる。

 科学的に見ればそんなことは無いということになるが、神話的にはあるいは神事や仏事においてはあるいは詩の世界ではそういうことがあり得る。つまり、村の葬が寒九の雨を待たせるということが。カオス理論などを考えれば科学的にもあり得る可能性もある。


23

鑑賞日 2015/5/31
雪原の起伏は神の鞍だろう
西又利子 福井

 神の愛人達にとっては世の事象すべてが神を示唆するものとして映る。風の中の木々の葉擦れの音が愛しい神の囁き声に聞こえるというように。もしかしたら作者は神の愛人の資質を具えているのかもしれない。


24

鑑賞日 2015/5/31
地吹雪や輪郭という刺さるもの
丹生千賀 秋田

 輪郭、それはものとものとを分けるもの、あるいは領域と領域を分けるもの、あるいは自己と他者を分けるものである。宇宙が混沌でなくある程度秩序を保っているのはこの輪郭があるからである。その反面宇宙の中のあらゆる対立の因でもある。例えば尖閣の問題はこれは輪郭の問題であるとも言える。世界のあらゆる紛争の原因は輪郭の問題である。故に輪郭は痛いもの刺さるものであるというのは、その意味で分る。輪郭問題が発生する時、地吹雪のように紛争も起る。


25

鑑賞日 2015/6/1
予感とも岬に上る鷹柱
野原瑤子 神奈川

 様々な種類の占いが存在するのも、人間というものが本質的に不安な動物であるからかもしれない。不安というのは常に未来に対するものである。つまり人間には時間概念があるから不安がある。過去は知っている、現在も知っている、未来を知らない。知らないということに対する不安であるとも言える。予感という感覚が人間に存在するのはこの不安感覚の作用である可能性がある。不安という言葉を期待という言葉に置き換えても同じである。不安による予感が悪い予感であり、期待による予感が良い予感となる。
 岬に上る鷹柱を見て感じる予感はおそらく良い予感であろう。


26

鑑賞日 2015/6/1
手は常の白さ樹氷に昼の月
疋田恵美子 宮崎

 冴え冴えとした感覚の句である。冴え冴えとした白い色調の風景画と言ってもいいかもしれない。この絵が凡庸なものとならず個性的なものになっているのは「手は常の白さ」という言葉による。


27

鑑賞日 2015/6/2
初春や歩幅そのまま詩とする
廣島美惠子 兵庫

 詩(うた)とルビ

 「詩を生きる」(ギュヴィック自伝)という題名の本があったが、好きな言葉である。でも更に言えば殊更「詩を生きる」と意識するのではなく、生きていることがそのまま詩である方がいい。歩くことは一つの生きている証しである。今私は腰痛を患っていて思うように歩けないので、尚更ただ普通に歩けたことが貴重な詩であったのだと気づく。大きな歩幅、小さな歩幅、スキップするような歩幅、それぞれがそれぞれの詩を生きているのかもしれない。


28

鑑賞日 2015/6/2
吹雪の夫婦は馬の前脚後脚かな
北條貢二 北海道

 夫婦(われら)とルビ

 人間の集団というものは何か対外的な危機があると結束するように見える。それは国であっても夫婦であってもおそらくそうである。逆に対外的な危機が何も無いときにはその集団はバラバラになる可能性がある。そのため国の権力者はわざと在りもしない危機を煽って支持を得たりするようなことがある。夫婦がその関係を保つためにはその夫婦は何かのヴィジョンを共有する同志的な側面も持っている方がいいような気がするのはその為かもしれない。ヴィジョンを持てば必ずそれには障壁が存在してくるからである。その時にその夫婦は馬の前脚後脚の関係になるのかもしれない。


29

鑑賞日 2015/6/3
安心の出合い頭の嫁が君
堀之内長一 埼玉

 安心(あんじん)とルビ

 滑稽感のある句である。ソクラテスも奥さんだけには頭が上がらなかったなどという話も聞くが、悟りの境地にあると思い込んでいる人物でも、いや実際にそういう境地にある人物でも、奥さんには頭が上がらないというのは事実である気がする。安心(あんじん)とルビを振ったのは単なる安心ではなくて悟り然とした心持ちのことを言っている。安心(あんじん)の境地にあっても出合い頭に嫁が君に出合えば吃驚する。この落差が滑稽感を生じさせている。「嫁が君」を実際の鼠だと受け取ってもほぼ同じ解釈が成り立つ。「嫁が君」のダブルイメージの効果もある。非常に省略の効いた上手い句である。


30

鑑賞日 2015/6/3
麦の芽に雨粒イスラムの子等よ
本田ひとみ 埼玉

 イスラムの子等に対する限りない眼差しを感じる好句である。こういう句は母性的な女性でなければ作れないかもしれない。「麦の芽に雨粒」という優しさに満ちた丁寧な表現にその愛情を感じる。


31

鑑賞日 2015/6/3
初夢の母はわれより威勢よき
前田典子 三重

 おそらく実際の母はかなり弱っているのだろう。病床にいるのかもしれない。その母が初夢に出てきて自分より威勢がよかったというのである。願望の表現である。母への思い。


32

鑑賞日 2015/6/3
焚火囲みふっと青春わっと悔い
松本勇二 愛媛

 「ふっと」「わっと」上手いなあ。そして若いなあ。臨場感がとてもある。焚火の赤々と燃える火が見える。それを囲む友人達の顔が見える。


33

鑑賞日 2015/6/3
幼子の声と綿虫ぶつかるよ
三浦二三子 愛媛

 「風物詩」という言葉が思い浮かんだ。考えてみればわれわれは季節季節の風物詩の中に暮らしている。何ものにも換えがたい貴重な環境なのかもしれない。そして幼子。幼子の声と綿虫がぶつかったというのである。何だか涙が出そうにさえなる叙情である。


34

鑑賞日 2015/6/4
老醜や晴れ晴れ雪を抱きしめん
宮川としを 東京

 もうこうなったら誰に遠慮がいるもんか。他人に迷惑をかけるわけではなし、やりたいことを思う存分やろう。賛成。


35

鑑賞日 2015/6/4
父在れば真っ白うさぎ胸に灯す
森央みもざ 長野

 どうしてだろう。何か切なくなった。例えば金子みすずのことを思うと切なくなるように・・・


36

鑑賞日 2015/6/4
凍蝶がゐてすぐそばの遠い場所
柳生正名 東京

 こういう感じ解る。例えば妻が黙って何かをじっと考えていたりする。彼女はすぐ側にいるのだが、私とは全く別の遠い場所にいるような気がすることがしばしばある。


37

鑑賞日 2015/6/4
芹を嗅ぎここから流離歩かねば
矢野千代 兵庫

 野の草であり、また家における食物としての草である、芹。例えばこれから流離の旅にでる決意をして家を出た人が、家の思い出として最後に芹の匂いを嗅いだというような場面、そしてその芹の匂いはまた野に繋がるものである、というような場面が想像される。詩空間における一つの流離の旅への想いなのかもしれない。


38

鑑賞日 2015/6/4
雪降り積む日の目を見ない句の上に
山本キミ子 富山

 雪国では雪が降り積むことに対してある種の諦観がなければやってゆけない。大げさにいえば達観がなければやってゆけない。嫌になってしまうからである。「日の目を見ない句」というのは俳人にとって「日の目をみない私」ということと同義である場合が多い。それでもある意味達観して作句を続けるのが俳人というものだろう。


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