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金子兜太選海程秀句鑑賞 478号(2011年12月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2011/12/6
蛇の衣手にシロアリの駆除終わる
今福和子 鹿児島

 蛇の衣、シロアリ、そして人間。この世界、そしてそこにおける営みというものは面白いものだ。素材によるのだろうか、何とも言えないひょうひょうとした滑稽感が伝わってくる。


2

鑑賞日 2011/12/6
熱帯夜仮設隣家より木魚 
江井芳郎 福島

 「熱帯夜」「仮設隣家」「木魚」という素材の組み合わせによって、自然と自然の中に暮す人間の営みというものが感じられる。ことに「仮設隣家」という言葉に時事性の重みとリアリティーがある。そしてこの木魚の音に乗るように句全体に情が流れているのが感じられる。


3

鑑賞日 2011/12/7
萍を片寄せ流離はじまりぬ 
榎本祐子 兵庫

 繊細だなあと思う。いや、人間の精神というものはそもそも非常に微妙で繊細なものなのだ。それはどんな規律や規則でも律しきれない。水の流れのように、水に浮かぶ萍のように。


4

鑑賞日 2011/12/7
夢や海嘯の盗汗や眼前に青芒
大島昌継 福島

 あの津波の大災害の記憶がフラッシュバックしてくる心理状態がリアリティーをもって描かれている。「・・や・・や」という強調も、「海嘯」「盗汗」という言葉も、「眼前に青芒」という座五も、全てが一体となって迫力がある。


5

鑑賞日 2011/12/8
蓮開く完全無欠というかたち
加藤昭子 秋田

 蓮の花が開いた。美しい。美しいというだけでは足りない。清らかだ。崇高だ。高潔だ。うーん。もしかしたら、完全無欠とはこんなかたちではないだろうか。


6

鑑賞日 2011/12/8
みほとけに厨子のふしあな天の川
門脇章子 大阪

 このみほとけに親しみがわく。寺の権威の象徴になるような大層な仏像ではなく、われわれ庶民の隣人仏とでも言いたくなるようなそれである。逆に、実際われわれの隣人の中に、ほとけそのもののような人を見出すことも時たまある。また、われわれ人間は仏そのものだという識見もある。だから、このみほとけは人間のことだと受け取ることも可能である。ぼろ屋に住んでいる人間。そんなことを思いながら、一茶の次の句とこの句の関係を考えてみるのも面白い。

 うつくしや障子の穴の天の川


7

鑑賞日 2011/12/9
筆談は純なる音色青葡萄
狩野康子 宮城

 どうだろう、筆談で罵り合いや喧嘩ができるものだろうか。おそらくできないような気がする。逆にどうだろう、愛の言葉のやり取りはできるだろうか。おそらくできる。映画などでもそういうシーンを見たことがある。もしこのようなことが事実ならば、それはどうしてなのだろうか。・・・筆談は純なる音色青葡萄・・・だからなのである。


8

鑑賞日 2011/12/9
驟雨きて乳房あるかぎりゆれる
岸本マチ子 沖縄

 いいなあ。大地の匂いがする。大地のエロスがある。大地は健康である。


9

鑑賞日 2011/12/10
死にし人より死ぬ人大事夏落葉
北川邦陽 愛知

 今が大事。今という永遠なるこの瞬間が大事。今に於ける汝と我というこの時空が大事。ということだろう。そしてまた、われわれ生者もいずれ死ぬ人であるという含みもある気がする。「夏落葉]が微妙に絡む


10

鑑賞日 2011/12/10
山道の下りは苦手二人静
木村清子 埼玉

 「二人静」は花の名前であるが、この登山を同行した二人連れのことでもあり、もっと穿てばこの人生を同行した伴侶でもある。人生の晩年の夫婦のある時の姿とみれば、そこには何ともいえない可笑しさと哀愁の味がある。


11

鑑賞日 2011/12/11
野遊びのうしろの文芸そっけなし
京武久美 宮城

 この数ヶ月は海程の句を鑑賞する上で、その句の作者が被災した県の方かどうかというのを考慮する必要がある気がする。この句はそういうことを考慮しないでも受け取れるのではあるが、作者が宮城の人であるという具体性を入れて味わった方が濃い鑑賞になる気がする。
 春であれば、いわゆる俳人達は「野遊び」というような季語で句を作り合って楽しんだりするのであるが、被災者の身になってみれば、俳句という文芸はそれだけのそっけないものなのかという感じがするのは当然のことである。俳句というものはこれだけの災害とそれによって引き起こされた人間の内面のドラマを描けないのか。虚子は「戦争は俳句に何も影響を与えなかった」という意味の言葉を嘯いたという。これだけのことを言うにはそれだけの達観の覚悟というものが必要なのであるが、私は虚子自身にさえその達観の覚悟が全的にあったとは思えない。ましてや、虚子を生かじりしただけの季題趣味者達にはそんなものがあるはずもない。私にはこの句は、
蔓延するいわゆる季題趣味の俳句文芸に対する批判の句のように思えるのであるが。


12

鑑賞日 2011/12/11
飯は饐えるし鶏は朗らに逃げ出すし
小池弘子 富山

 〈鶏〉は[とり]とルビ

 困ったもんだ困ったもんだ、というニュアンスを含んでいるが、そういう困ったもんだというニュアンスも含めて、全ていいじゃないかという楽観的な肯定感がある。「朗らに逃げ出す」のがいいなあ。


13

鑑賞日 2011/12/12
髪洗う闇より生れる地震かな
五島高資 栃木

 地震というものは、大洋の底が乗っているプレートというものが大陸の下の方にだんだんとすべり込み、そのことによって溜まった地下の歪みが或る時解放され、地盤が揺れたことが原因で起る、というふうに説明されている。しかしこの説明で大元の原因が説明されているわけではない。そもそもプレートは何故移動しているのか? 地球のもっと深いところのマグマの動きによる、というような説明ができるかもしれない。でも、それではマグマは何故そのような動きをするのかという新たな疑問が起るだけである。そしてまた新たな回答とそれに対する新たな疑問の鼬ごっこが始まり、最後には地球の起源宇宙の起源というところまで行き着き、問題は科学の領域から哲学の領域に入っていく。
 詩人というものは全く違う発想をする。彼は言う、髪洗う闇より生れる地震かな、と。私はこの「髪洗う闇」に人間の心が宿す闇というようなことを感じるのであるが、それをもし〈原罪〉という言葉で置き換えてみれば、前述の科学や哲学の話と繋がってくるものがある。つまり旧約聖書の創世記的な世界観をそこに挟めば繋がってくるのである。


14

鑑賞日 2011/12/12
丘から海睨む破船や葉鶏頭 
小林まさる 群馬

 あの大津波により小高い丘に打ち上げられてしまった破船が海を睨んでいるというのである。大津波に対する怨みの感情もあるが、それを越えて海に対する望郷の念もあるだろう。あれがやって来たのは春三月。今はすでに夏から秋。そういう季節の移り変わりを示すものとして「葉鶏頭」があり、またこの破船にこの葉鶏頭が寄り添っている感じもある。


15

鑑賞日 2011/12/13
時に嘘時々めまい梅雨のバラ
近藤好子 愛知

 心理的なものも身体的なものも含めた自分の日常と自然との混然とした一体感が素晴らしい。


16

鑑賞日 2011/12/13
滝があるよと少女ふりむく行きなさい
斉木ギニ 千葉

 自由で半野生的な句の雰囲気がとても魅力だ。私の中にあるそういう要素がせつなく目覚めて「いい句だいい句だ」という。


17

鑑賞日 2011/12/14
ヒロシマ夏真水にしんと生きものたち
篠田悦子 埼玉

 私自身この空間にじっと身をいつまでも横たえていたい。深々として去りがたい空間。行きものとしての私はこの空間を逃げようがないのだ。かつて私の若い頃、夏に広島の街を訪れたことがある。そこで知り合った若者に誘われて夜の原爆ドームの中に侵入し、瓦礫の中に身を横たえていたことがある。その時に感じた深々とした静寂の感じの本質は、実はこの句から感じるものと共通のものだったのではないかと今思っている。あの時は夜の静寂であり、この句は真昼の静寂であるという違いはあるが。


18

鑑賞日 2011/12/14
知性とは曲がりやすくて雲の峰
下山田禮子 埼玉

 想像するに、この作者は普段物事を判断する時に知的なアプローチをする人なのではないか。そうでなければ「知性とは曲がりやすくて」というような言葉は出てこないだろう。物事に知的なアプローチをしない私が言うのも変だが、たまには推理推論などすべてほっぽり出して、野っぱらに仰向けに寝っころがって雲の峰でも眺めていたい、というようなことではないか。


19

鑑賞日 2011/12/15
樹の陰に座す青年に敗戦日
鈴木 誠 愛知

 作者の年齢が分からないので断言はできないが、作者はこの樹の陰に座っている青年に自分の過去の俤を投影しているのではないかと想像した。ああ自分もあのように敗戦を迎えたなあ。あるいは、敗戦を迎えた日、私もちょうどあのくらいの青年だったなあ。


20

鑑賞日 2011/12/15
きのこ雲は造語なりけり夾竹桃
竹田昭江 東京

 「きのこ雲は造語なり」と言われるとまさにきのこ雲というものは人造物なんだなあという認識が新たになる。原子爆弾というものの人造性。それと自然物としての夾竹桃の対比。


21

鑑賞日 2011/12/16
私淑とは流れに溶ける青葉騒 
武田美代 栃木

 見事な譬えであると言いたい。「流れ」も「青葉騒」も全く違う個性を持っているが、それがあたかも一つの事物であるように溶け合う。どちらが師でどちらが弟子であってもいいだろう。それぞれの個我というものが問題にならない地点で溶け合う。私淑ということの成功例であり、それが見事な譬えで表現されている。


22

鑑賞日 2011/12/16
紙鶴の紙の筋目や夏至の星 
田中亜美 神奈川

 紙鶴の紙の筋目を作者は眺めている。しかも「や」とまで言っている。「紙鶴の紙の筋目」と「夏至の星」の間に何らかの連想が働いたのだろうか。今のところ私にはそれが掴めない。


23

鑑賞日 2011/12/17
すいれん鉢に唐の女人のひらひらと 
田中昌子 京都

 「ひらひらと」だろう。唐の女人の精がまさにそこにひらひらと有るようだ。そしてまた自分がシルクロード交易のいにしえの昔にタイムスリップして唐の文化に浸っているような感覚になる。


24

鑑賞日 2011/12/17
人の上に原発つくる合歓の花
谷 佳紀 神奈川

 「人の上に原発つくる」はなるほどそうだと思える。ところでこの言葉と「合歓の花」の関係を考えている。私にはこの合歓の花が「人の上に原発なぞをつくりおって」というような台詞を言っているように感じるのであるが。


25

鑑賞日 2011/12/17
青柿のかくまで高き瓦礫かな 
津波古 江津 
神奈川

 青柿の生っている樹の傍に瓦礫が積み上がっている景色が見える。いわば若々しい生の象徴である青柿と死骸のように積み重なっている瓦礫の対比。「かくまで高き」に作者の驚きの念をストレートに感じる。


26

鑑賞日 2011/12/17
驟雨待つごとみどり児の眸を覗く
遠山郁好 東京

 とてもいい句だ。私が言葉で表現しえない何か女性だけが持ち得るような情感があるような気がする。もしかしたらそれは母性と言ったほうがいいのかもしれない。だから敢て表現すれば、私自身が見守られているような深い情感がある。


27

鑑賞日 2011/12/19
見納めと決めし開聞岳日雷 
長野祐子 東京

 開聞岳は薩摩富士とも呼ばれる鹿児島県にある山である。作者が東京の人であるから、もしかしたら作者の故郷はあの辺りだったのではないかと推測している。開聞岳との最期の分れ。日雷が胸に響いて切ない。


28

鑑賞日 2011/12/19
身辺に鈍器などなし夏の家 
中村裕子 秋田

 「鈍器」といえば凶器という連想が働く。「身辺に鈍器などなし夏の家」と敢て言うことによって、何か不穏な心理状態が表現されているように思うのである。


29

鑑賞日 2011/12/20
蠍座の尾が入りけり燧灘
野崎憲子 香川

 〈燧灘〉は[ひうちなだ]とルビ

 一つの神話的な光景、あるいはアニミズム的な宇宙の把握。Wikipediaに
 燧灘(ひうちなだ)は、瀬戸内海中央部、香川県の荘内半島と愛媛県高縄半島の間を占める海域で、四国側を指す[1]。北は備後灘に接する。東西約60 km、南北約40 kmの海域で、一帯はタイ、サワラなどの好漁場として知られる。沿岸地域から火打石が産出したことからこの名がついた。
とある。


30

鑑賞日 2011/12/20
大根蒔く尺貫法で畝立てて
長谷川育子 新潟

 大根を蒔いているのは作者自身だろうか。いずれにしても、この大根を蒔いている人の生活の在り方そのものが見えてくる。土に根ざした生といおうか、人間本来の落ち着いた在り方のようなもの。ちなみに大根の畝といえば、一尺八寸から二尺くらいになるのだろうか。


31

鑑賞日 2011/12/21
雲の峰赤松の気をいただきぬ 
疋田恵美子 宮崎

 雲の峰及び赤松の気をいただきぬ、というニュアンスで受けとった。日常生活から離れて自然の中に行った時受けた感じ、あるいは日常生活の中でも一時、自然との対話が起った時の感じ。時に自然はスカッとしたものを与えてくれる。


32

鑑賞日 2011/12/21
夜振火よほんとうに皆いなくなる 
藤野 武 東京

 生の営みということを喚起する「夜振火」という語と、死の観念である「ほんとうに皆いなくなる」という言葉の対比によって、生とは何か、死とは何か、その不可思議さなどが提示されている。こういうことを実感を伴って提示するのは難しいのであるが、この句はそれをやっている。


33

鑑賞日 2011/12/22
波郷に焦土われらに青き荒野かな
堀之内長一 埼玉

 〈荒野〉は[あらの]とルビ

 若々しい句であると思う。どちらかといえば私などは、既に人間の未来ということに関しては悲観的である。なるようになるさ、あるいは、どうにでもなれ、というように思ってしまうこともある。この「われらに青き荒野かな」という表明に、私は人間の未来を信じて立っている人の姿を見るのである。分解すれば、「われら」そして「青き荒野」という言葉にそれを感じるのである。


34

鑑賞日 2011/12/22
人の子も仔猫も空気被爆かな
マブソン青眼 
長野

 「空気被曝」という言葉、そして小さいいのちに対する眼差し。句の背後に、誰も逃れようのない核物質拡散の現実への思い、人間の愚かさへの思い、があるのではないだろうか。


35

鑑賞日 2011/12/23
老いしまま螢に解けるいのちかな
三井絹枝 東京

 この句は、というかこの作家の句はある禅定の境地にあると言っていいかもしれない。禅定すなわち三昧である。アニミズム的な世界観に全く同化したような境地とでも言おうか。魅力がある。


36

鑑賞日 2011/12/23
日盛りの牛撫でて藁測定員
武藤鉦二 秋田

 「藁測定員」というのは稲藁の放射線量を測定している人のことだろう。とても穏やかであたたかい風景の中に恐ろしい事実を潜ませて書いている。坦々とした語り口が事実を突きつけてくる。


37

鑑賞日 2011/12/24
夫在りき夫の死ありき遠花火 
村田厚子 広島

 「遠花火」という季語の性能が発揮されている。逆にいえば、この季語の性能を引きだしている句なのである。季語俳句として完成度が高いと思う。


38

鑑賞日 2011/12/24
老樵声かけ帰る浮巣かな  
諸 寿子 東京

 これは今の時代のことか、あるいは一昔前のことか。いずれにしろ、いのちといのちの響きあいの有る(有った)時代。いずれにしろ、生きて在るということのエッセンスがある。


39

鑑賞日 2011/12/24
寝てばかりの帰省子に窓開け放つ 
山本昌子 京都

 いつの時代にもありそうな微笑ましい場面である。いつの時代にもありそうな青年像と、この青年を気づかい世話をやく女性像である。また、殊に離人的自閉的な現代の青年ということにも想像が及ぶ時代性もある。


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