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金子兜太選海程秀句鑑賞 477号(2011年11月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2011/11/3
星宿や頬打つしゃぼん流れ玉
阿保恭子 東京

 美しい情感。地上にあるということ、そしてこの時を過ごしているということ。僅かに儚さも秘められている感じがあるが、それ以上に美し。


2

鑑賞日 2011/11/3
蛇泳ぐかな人声のくぐもって
伊藤淳子 東京

 象徴的な句のような気がするのであるが。「蛇」はどうにもならない欲望のエネルギーの象徴、そして「人声」は良心や節度というようなものの象徴。私は、原発問題などを想起するのであるが。


3

鑑賞日 2011/11/6
瓦礫ばかりの干潟見据える夏鴉
井上湖子 群馬

 今月号の金子先生の句に「被曝の牛たち水田に立ちて死を待つ」という句がある。牛というのは家畜であるから、その命は直接に人間の命と連動してあり、より痛ましい感じを受けるが、この井上さんの句は鴉なので、また違った印象で受け取れる。人間や自然を観察しているふうもある鴉という動物だけに、どこかこの災害や人間の作ったものの瓦礫を不思議そうに眺めている雰囲気がある。


4

鑑賞日 2011/11/6
東北は無口重ねて花は葉に
宇川啓子 福島

 〈東北〉は[みちのく]とルビ。

 東北の重厚な風土感とそこに暮す人々のしたたかさ。そして土に根ざした軽薄でない人間の持ちうる充足感。今回の災害に取材して作られた句であろうが、そういうことを越えた、一つの重厚な人間と風土の在り方をも感じる。「花は葉に」がまことに適切に感じる。


5

鑑賞日 2011/11/7
額の花耳遠くして白し白し
内田利之 兵庫

 「耳遠くして」というのが重層的な意味を持っている感がある。詩的でもあり、瞑想的でもあり、また事実なのかもしれない。そういう世界に住み、物を直接的に見る時に「額の花白し白し」という新鮮な感じ方が起るのかもしれない。


6

鑑賞日 2011/11/7
無惨やな放射能の椎茸捨つ
江井芳郎 福島

 芭蕉の時代の無惨は「甲の下のきりぎりす」であったが、現代に於ては「放射能の椎茸捨つ」である。問題がより複雑で眼に見えないものになってきている。しかしこの無惨の根は同じだろう。すなわち人間の欲望ということではないだろうか。芭蕉の言い方を借りて現代の事象を述べているが、それ故になお一層、事の本質を見据えている気がする。


7

鑑賞日 2011/11/8
蚕豆の物語する小部屋あり
榎本祐子 兵庫

 誰かが蚕豆の物語をしている小部屋がある。あるいは蚕豆達が物語をしている小部屋がある。いずれにしても童話的な雰囲気が漂う。


8

鑑賞日 2011/11/8
心ひとつが屈葬のごと浸る新緑 
大沢輝一 石川

 例えば、孤独ではない孤の心。「心ひとつが屈葬のごと」だけなら孤独かもしれないと思うが、「浸る新緑」であるから孤独とはいえない。何故なら、自然との融合がある時に人は孤独ではない筈だからである。しかしやはり「心ひとつが屈葬のごと」は融合とはかけ離れた激しい言葉であるから、私の鑑賞も揺れ動いてしまう。


9

鑑賞日 2011/11/9
少年僧清く木耳採りにけり 
大谷昌弘 千葉

 「少年僧」が「木耳」を採ったという。この二物配合がとても面白い。しかも「清く」と念入りに強調されていて、この配合から起る想念を肯定的なものにしている感がある。


10

鑑賞日 2011/11/9
朝顔や光の中を母逝きぬ 
岡崎正宏 埼玉

 自分にとって大切な人が逝ったときに、その人の死を肯定的に捉えたいという気持ちが起る。そういう気持ちがこの美しい句を作らせたのだろう。「朝顔」が母の顔を見るように優しい。


11

鑑賞日 2011/11/12
水底の見えない川へ蛇流す  
奥山和子 三重

 水底の見えない川へ蛇を流したということから、存在つまり自己と世界の深淵というようなことを作者は感じたのかもしれない。


12

鑑賞日 2011/11/12
少女たちよく頷いて白い滝  
小野裕三 神奈川

 少女たちと白い滝の響きあい。「よく頷いて」というのが少女達の生態を上手く切り取っている。純粋な感覚がそこにある感じ。この作家の特徴かもしれない。


13

鑑賞日 2011/11/13
真向かえばあふるる母郷夏怒濤 
河原珠美 神奈川

 母郷への愛の真情が、今までせき止められていたかのように、表出している。「真向かえば」という一つ溜めた前置きによって、「あふるる母郷」というエネルギーの表出が一層強められてある。そして「夏怒濤」がこの熱い思いの流出に相応しい背景を作っている。


14

鑑賞日 2011/11/14
さるすべり世代交代静かなり 
北村歌子 埼玉

 さるすべりという花そのもの、またその言葉の意味も微妙に「世代交代静かなり」ということに絡んだり、あるいは全く離れたりして、雰囲気を出している。


15

鑑賞日 2011/11/14
扇風機八方美人を通すなり
熊坂 淑 神奈川

 ぐるぐると八方に風を送る扇風機と八方美人のかすりだろう。「さあさああなた、私の前をお通り下さい。なにしろ同類ですからなあ。いや同類というよりもあたなの方が上手かもしれませんなあ」というような扇風機の呟きも聞こえるようだ。


16

鑑賞日 2011/11/15
踏青や詩人になれる樹に凭れ 
黒岡洋子 東京

 詩人に憧れる若々しい胸の鼓動が感じられる好句である。私自身の心臓も共振して振るえてくる感じさえする。「踏青」という季語がこの青春性を支えて相応しい。そして、この心臓の鼓動、胸の振るえこそが詩人であることそのものなのだという気さえしてくる。そしてまた、「詩人になれる樹」というものの存在を感じることが出来るということが既に詩人なのであろう。


17

鑑賞日 2011/11/15
時の日のトイレにありし青い空 
こしのゆみこ 
東京

 さっぱりとして日常的な叙述の中に、俳諧性と詩性、更にまた存在の不思議さを感じさせてくれる秀句である。時間と物と自己意識が一体となってそこに存在するという感じである。


18

鑑賞日 2011/11/15
快い言葉遊びや麦星や
小原恵子 埼玉

 生におけるある一つの楽しさがころころと快く転がっているような印象の句である。天には麦星が輝いている。天の星達もころころと笑っているようだ。生は喜びであり、また遊びである。


19

鑑賞日 2011/11/16
花は紅柳は緑被曝せり
小柳慶三郎 群馬

 花は紅。柳は緑。相変わらずこの自然は美しい。しかしこの植物達もみな被曝しているのだ。ああ人間の業の何をか言わんや。


20

鑑賞日 2011/11/16
夏雲のかたまり父ののどぼとけ
佐孝石画 福井

 二物配合の面白さ。二物相似の面白さ。そしてそういう配合がスッと出てきた時の気持ち良さは俳人のものである。


21

鑑賞日 2011/11/17
婆さんが春の熊見てにっこりす
佐々木昇一 秋田

 おそらく、私も含めて、今の人は熊などを見れば恐い恐いといって戦々恐々とするだろう。親しいものとして見ることはなかなか出来ないだろう。だからこの句のお婆さんのゆったりした自然に親しい態度に、なるほどこれがおおらかに自然に親しいということなのかもしれないなどと思う。「春の熊」であることも、このおおらかな雰囲気の要因かもしれない。


22

鑑賞日 2011/11/17
霾や地球に人が居なくても 
篠田悦子 埼玉

 かつての恐竜がそうであったように、地球にとっては、人間は単なる一時的なお客さんに過ぎないのかもしれない。だからおそらく、いろいろな自然現象は地球に人が居なくても延々として続いてゆくのかもしれない。この句のような想像は感受性と想像力のある人は時たま思い描くことがある。殊に現代のように人間が暴走しているように思える時代には。


23

鑑賞日 2011/11/18
森林浴孫の一人にゲルマンの血 
菅原和子 東京

 息子か娘が国際結婚をしたということであろうか。自分の孫に異国人の血が混じるというのは、おそらくいいことである。自分の意識さえも国際人という感覚になるからである。さらに言えば、地球人という感覚になるからである。そういう意識の中での森林浴はまた違った味のものになるだろう。
 ちなみに私の場合は「孫の一人にニグロの血」ということになろうか。娘の連れ合いはセネガル人である。


24

鑑賞日 2011/11/18
海を持つ惑星我は青き踏む  
鱸 久子 埼玉

 気持ちのいい句である。地球に生きていることが嬉しくなる。豊かな自然、そして作者の気持ちも若々しい。


25

鑑賞日 2011/11/19
死の床でさんきゅうと母白鳥座
竹田昭江 東京

 こういう死に方はいいなあ。軽やかであけらかんとして、しかも美しい。死に際というものは、その人の生が凝縮されているそうであるから、おそらくこの母はそのような生を送った人なのだろう。「さんきゅう」と「白鳥座」


26

鑑賞日 2011/11/19
病めるときも富めるときも萍 
田中亜美 神奈川

 要するに、萍のような人生ということ。古くて新しい捉え方である。この作家の、物事の本質を見る目には共感するものがある。


27

鑑賞日 2011/11/19
風船玉膨らむほどに青地球
田中正能 神奈川

 大宇宙に浮く水の惑星である地球は美しい。そして膨らんだ風船が大空に昇ってゆく姿もまた美しい。その類似性。そして風船はやがて弾けて消滅してしま儚い存在だろう。地球は?と作者は問い掛けている雰囲気もある。「風船玉」「膨らむほどに」という言い方にそういうニュアンスを感じるのである。そして「青地球」が更に愛(かな)しくなる。


28

鑑賞日 2011/11/20
花うつぎ愛情という非対称 
月野ぽぽな 
アメリカ

 愛情という非対称。そう言われてみればそういう捉え方も出来るかもしれない。あらゆる関係の人間と人間、犬と人間、人間と猫、神と人間等々、みなどちらかの愛情の方が大きくて非対称のような気がする。作者がどの辺りの事実を発想源としているかは特定できないが、敢て勘ぐってみれば、「ああ私はこんなに彼のことを愛しているのに、彼はその半分も愛してくれない」というようなことを発想源だとすれば、それは女性の句としては相応しい気もするし、「花うつぎ」という言葉にも合っている気もするのである。いずれにしろ普遍性がある。


29

鑑賞日 2011/11/20
フクシマよ夭夭と桃棄てられる 
中村 晋 福島

 夭夭とふくよかな桃が棄てられてしまうフクシマ。ああ痛々しく哀れである。そういう現実を切り取って訴えるものが大きい。「フクシマ」でヒロシマを連想する。また、フクブクしい夭夭の桃のような福島よ、君は棄てられてしまうのか、と福島自体が棄てられてしまうような感覚も起る。
 兜太の次の句を知っていればより味わいも深い。

抱けば熟れいて夭夭の桃肩に昴      『詩經國風』
               ※夭夭[ようよう]とは若々しいこと


30

鑑賞日 2011/11/23
影というもの濃くなってから歩く
中村加津彦 長野

 「影というもの」という言葉の概念が広いので、つまり抽象的なので、受けとる人によって様々な連想の働く句ではないか。
 実景としては、夕暮れの時刻に夕陽を受けた自分の影が濃くなるまでの間、しばらく佇んでから歩くというような、人間の時間が感じられる。あるいはそんな時間を持つであろう人間像が感じられる。つまり物事を即断してしまわないで、‘待つ’ということの重要性を知っているような人。私は今この作者自身のことを思い浮かべながら書いているが、この作者の人間の味というものが少しは垣間見られたような気がしている。
 それから、神話的な見方も出来る。混沌の中にあらゆる事物が生成してくる過程の中で生命体が動きだす過程であるような感覚も起る。
 また、何か物事を始めようとする時の、始めはその物事の姿がおぼろであるが、だんだんとその姿がはっきりと濃くなってからからしか始められない、あるいは始めるべきだ、というような心理的な事実あるいは戒めのことを書いているとも取れる。


31

鑑賞日 2011/11/23
老いること知らず大暑の日本海
中村祐子 秋田

 真夏の日本海の持つ無限のエネルギーが感じられる。「老いること知らず」という言葉もそうであるが、「大暑」と限定することによって一枚のスナップ写真を見るように、「日本海」が人格性を帯びてきている。


32

鑑賞日 2011/11/24
滴りのたまゆら鳥の形せり
野崎憲子 香川

 滴りを眺めている自分がいる。そのほんの暫くの間、自分の心が鳥の形を取ったというのである。
 もう少し大きく受けとれば、この生そのものが滴りのたまゆらであるという受け取りかたがある。その場合「鳥の形」は鳥そのものでもいいし、あるいは作者の普段の心のかたちの形容だと取ってもいい。そして、このたまゆらなる生がたまらなく愛おしい、という余韻が残る。
 いずれにしても美しい句だ。


33

鑑賞日 2011/11/24
なんじゃもんじゃ守武千句の地なりけり
野田信章 熊本

 守武千句は伊勢神宮に奉納されたものらしいから、伊勢神宮にでも行った時の句であろうか。なんじゃもんじゃの木というのはヒトツバダゴの別名でもあるし、見慣れない立派な樹木に対して地元の人が付けた愛称でもある(例えば、クスノキ、アブラチャン、カツラなど)。「何てふ物じゃ」の転。このなんじもんじゃと守武千句をひっつけたところに可笑しみが出ている。


34

鑑賞日 2011/11/25
水で描く石蹴りの円星祭
平塚幸子 神奈川

 水彩絵の具で童画のようなものを描いているのであろうか。子供たちが石蹴りをしている場面を描いている。描いているのは作者であろうか、あるいは子どもであろうか。そういえば今日は星祭りの日。その絵の中にも星星がきらきらと描かれているような気がする。童心に立ち返らせてくれるような句である。


35

鑑賞日 2011/11/25
青水無月枕にたまる夜の体温 
藤盛和子 秋田

 「枕にたまる夜の体温」がいい。この肉なるものの温かみの感覚というか、この大地の温もりの感覚というか、そういうものと「青水無月」の空間的なみずみずしさが相俟って、生命としての人間が在るということの実感が伝わってくる。


36

鑑賞日 2011/11/26
黒牛に下弦の月のにほひかな
前田典子 三重

 下弦の月、上弦の月、満月、いろいろ考えてみたが、やはり下弦の月が一番納まりがいい。下弦の月であるから明け方であろうか、そういう事実としても納まりがいいし、また言葉としても納まりがいい。「にほひ」という言葉にも相応しい。黒牛に下弦の月のにほひ、いいなあ。ああ、夢みられている。


37

鑑賞日 2011/11/26
緑陰や八方美人のまま痩せて
森井栄子 東京

 可笑しみ。「まあまあ私って八方美人のままでこの頃では痩せてきてしまったわ。あーあ、まあいいか、とりあえずこの緑陰で一休み一休みと・・」というような呟きが聞こえてきそうだ。あるいは緑陰そのものの態を言っているのかもしれない。いずれにしろその可笑しみが伝わってくる。


38

鑑賞日 2011/11/27
野水仙夜がひびいて眠れない 
安井昌子 東京

 おそらく作者自身が眠れないのだろう。その事実を「野水仙夜がひびいて・・」と美しく詩にまで高めて肯定してしまう手腕には、詩心のない私は感心してしまう。そしてまた、この句を成した後に詩人はぐっすりと眠れたのかもしれない。


39

鑑賞日 2011/11/27
おいらん草ぽうっと火照るご老体
山本キミ子 富山

 若い人の体ではなく、「ご老体」であることが俳諧である。存在自体の艶ということにも通じてゆく。
 ちなみにおいらん草の香りは白粉の匂いに似ているのだそうである。


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