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金子兜太選海程秀句鑑賞 476号(2011年10月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2011/10/3 | |
樹に凭れ寂しげ父の日の男
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石上邦子 愛知
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この男は父だろうか、あるいは息子だろうか、あるいは単なる独身の男かもしれない。おそらく読者それぞれによって様々な想像が働くだろう。先頃父を亡くした私には私の想像が働く。「樹に凭れ寂しげ」というのは、もしかしたら他の人が私を眺めればそう見えるのかもしれないと思う。実際父の葬式の後に、隣の奥さんが私に「寂しいでしょう」という言葉を掛けてきた。私は寂しくなかったのだが・・ |
鑑賞日 2011/10/5 | |
水羊羮いつか貧しき臀部かな
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石川まゆみ 広島
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椅子に腰掛けて、または床に坐って、水羊羹を食べているのだろうか。水羊羮を食べながらも自分の臀部が痩せてしまっているのを意識している。若かりし頃の回想を伴う境涯感。更に言えば、良くも悪くも女という一つの限定から解放されてゆく時の自由さを伴う諧謔味。 |
鑑賞日 2011/10/5 | |
嘘泣きの子役ならべて驟雨かも
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市原正直 東京
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これは子どもの学芸会の劇を観ている時の場面だろうか。あるいは作者はそういうことの練習を指導するような立場におられる方だろうか。子ども達だから当然その泣き方も嘘泣きのような泣き方であろうし、どこか白けた雰囲気もあるに違いない。そういうようなその場の雰囲気を「驟雨かも」と表現したに違いない。響く。 |
鑑賞日 2011/10/6 | |||
更紗木蓮少ししわある顔曇る
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井手都子 北海道
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更紗木蓮のことを言っているのだし、更紗木蓮のような気品のある人のことを言っているのでもある。
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鑑賞日 2011/10/6 | |||
夜更かしの空気集まる山法師
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伊藤淳子 東京
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山法師は花であるが、またそれは山の法師であると受けとると、面白い雰囲気が味わえる。
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鑑賞日 2011/10/7 | |
虎杖は鍵師の堅さぽんと鳴る
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稲葉千尋 三重
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虎杖は茎が中空である。その茎を折った時の音がぽんと鳴ったのだろう。どこか硬質であるが、折れない程硬質ではないということか。「鍵師の堅さ」というのが飛躍したお洒落な譬えと言えようか。 |
鑑賞日 2011/10/7 | |||
老僧のさがりし肩に極楽鳥
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扇谷千恵子 富山
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老僧である。そしてその肩が下がっているから、イメージとしてはあまり威張っていないというか、堂々とはしていない老僧である。その肩に極楽鳥が来たあるいは止まっているという。これも飛躍した配合の面白さであろうか。
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鑑賞日 2011/10/8 | |
赤蛙人間も絶滅危惧種かな
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岡崎万寿 東京
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〈人間〉は[ひと]とルビ 〈人間〉と書いて[ひと]と読ませた理由を考えている。 |
鑑賞日 2011/10/8 | |
膝に水かたつむり固唾のみおり
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加古和子 東京
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膝に水がたまって痛い。一足ごとに膝が痛い。まるでかたつむりのような歩みになってしまう。そんな時の張りつめた気持ちが伝わってくる。句に迫真の力がある。 |
鑑賞日 2011/10/9 | |
人間怖き日は白玉に銀の匙
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門脇章子 大阪
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〈人間〉は[ひと]とルビ 人間が怖いと感じる日は、例えば白玉に銀の匙が添えられているような心理感覚だ、ということだろう。非常に繊細な感受性である。 |
鑑賞日 2011/10/9 | |
緑夜かな忘却という大きな巣
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河原珠美 神奈川
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いろいろな細かい心理的な印象が忘れられないで精神の病に陥っている人がいる。おそらく我々は忘却という大きな巣によって守られているのかもしれない。だから緑夜のような大きくつややかな安らぎの中にいて、みずみずしい感覚で生きていくことができる。 |
鑑賞日 2011/10/10 | |
風花や地には柩のなき葬り
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小長井和子
神奈川 |
あの大震災大津波での行方不明者の葬儀のようなもののことであろう。それは実際に行われたものかもしれないし、作者の心の中に起った葬りなのかもしれない。「風花」が無常ということの象徴のようにも受け取れるし、また死者に手向けられた花であるようにも受け取れる。作者は神奈川の人であるが、実際にその場に佇んでいるような臨場感がある。 |
鑑賞日 2011/10/10 | |
震禍の友に春霞など言はず問はず
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小林一枝 東京
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最近の本で金子兜太と佐佐木幸綱の対談の本があり、その中で震災のことを詠んだのは短歌に多く、俳句には殆ど無かったというような話題があった。現代に起っている悲惨な事象に対して俳句が何も言えないのなら俳句というものは詰まらないものであるが、海程の句に限ってはそういうことが無い気がする。おそらく海程が季題趣味に囚われていないからだろう。 |
鑑賞日 2011/10/11 | |
向日葵をたっぷり植えて覚悟かな
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駒崎美津子 埼玉
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肯定的で積極的でたっぷりとした明るい体感とでもいったらいいだろうか。 |
鑑賞日 2011/10/11 | |
東日本大震災
一生涯を埋めし瓦礫に春の海 |
篠田悦子 埼玉
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やはりこの「春の海」の存在感は凄い。ゆったりとした普遍性がある。しかもそれは明るい。人間の事象を越えて常に存在してあるものの象徴としての春の海である。 |
鑑賞日 2011/10/12 | |
東日本大震災
朴匂う仮設の厠山裾に |
末岡 睦 北海道
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被災地の人でない人が被災地の情景を書くというのは難しいだろう。その中には実際に現地に行ってみた人もいるかもしれないが、多くはテレビ画面などで取材することが多いだろうからである。でも「海程」の句には臨場感のある句が沢山あるのではなかろうか。それはおそらくいわゆる情(ふたりごころ)と想像力が豊かな人が多いからではないか。この句もそうである。 |
鑑賞日 2011/10/12 | |
都会てふ水風呂に一人紛れる
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鈴木孝信 埼玉
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肉体感覚あるいは肌感覚から引きだされた譬えの面白さ。都会の雑踏に紛れ込んだ時の実感が伝わってくる。 |
鑑賞日 2011/10/13 | |
子の恋を父のみ知らず桜桃忌
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鈴木修一 秋田
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「桜桃忌」とは昭和二十三年の六月にその愛人と入水自殺をした太宰治の忌日のことである。この句を深く理解するには太宰治のことを知らなければ理解できないのだろう。だから私には鑑賞不可能であるということになるが、仄かに香ってくる艶のようなものを感じ取ることはできる。 |
鑑賞日 2011/10/13 | |
花茣蓙に神と神々昏れゆけり
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田中亜美 神奈川
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世界は多神的にも捉えることが出来るし一神的にも捉えることが出来る。それらを同居させればいいではないかと私などは思う。神々というのは結局神の現れであるし、神というのは神々の本質であるからである。神が有りそして神々の現れがある。土俗的な雰囲気の中での神と神々の饗宴。いい句だ。 |
鑑賞日 2011/10/15 | |
愛鳥週間線量計を渡される
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田中雅秀 福島
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さあ愛鳥週間でーす。みなさん可愛らしい鳥達を愛しましょう。何々、線量計を持って用心深くやれば心配はありません。このブラックユーモアのような句が今の日本の現実である。 |
鑑賞日 2011/10/15 | |
地震後は歩きが早くなり菫
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谷 佳紀 神奈川
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在るということに対する信頼が失われると人間はゆったりとした歩みをしてゆくことが出来ない。自分が今立っているこの地が何時壊れるかも知れないと思えば落ち着かない。どのような状況になっても壊れないものは果してあるだろうか。菫よ。 |
鑑賞日 2011/10/16 | |
自画像に厚い化粧す麦の秋
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田沼美智子 千葉
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絵を描いているのだろうか。その絵の自画像に厚い化粧を施しているのだろうか。あるいは厚い化粧の自画像を眺めているのだろうか。私としては後者と受け取りたいのであるが。何故なら、嘗ての自分の厚化粧の自画像を眺めていて、あの頃は自分自身にとっては麦の秋のようなものだったと回想しているという時間が連想されるからである。あるいはこの自画像は虚像としての自分というような意味で使われたのかもしれない。 |
鑑賞日 2011/10/16 | |||
花おうち雲が広島なでてゆく
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月野ぽぽな
アメリカ |
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核爆弾、あるいは核の汚染の影響は長く長く続く。それでもその長い時間において、少しづつは癒されてゆくだろう。時に解決できないものはないという言い方もある。そのような癒しの優しい力というようなものを感じさせてくれる句である。 |
鑑賞日 2011/10/17 | |
鶏にまぶたまなじり南風吹く
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津波古 江津
神奈川 |
この鶏は目を瞑っているのだろうか。時々は目を開けたりしているが目を瞑っている感じがする。そして優しい南風の音や匂いや肌触りを感じている。鶏のまぶたまなじりに焦点を当てて瞑想的な雰囲気を醸し出している。 |
鑑賞日 2011/10/17 | |
野を渡りゆく律儀者天の川
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董 振華 中国
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野を渡りゆくような生き方をしている人物に対する思いではないか。実直で正直で企みが無く信頼できるような人物。天の川がその人を祝福しているようだ。また自分にとってはその人は天の川のような存在かもしれない。 |
鑑賞日 2011/10/18 | |
いくたりか陰も映して田を植える
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中島偉夫 宮崎
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巧みな描写句であるが、それだけではない気がする。心理句でもあり、また社会性のある句でもある。 |
鑑賞日 2011/10/18 | |
蕨一本赤子に持たす春だよ
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中島まゆみ 埼玉
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内容と相俟って座五の口調がいい。春のうきうきした気分、赤子への慈しみ、自然への親しさを感じる。 |
鑑賞日 2011/10/19 | |||
花枸橘ははに戦意のありしこと
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野田信章 熊本
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〈花枸橘〉は[はなからたち]とルビ 歳時記の「枸橘の花」の項には次のようにある ミカン科の低木、中国原産。四月ごろ、芳香のある白い五弁花を開く。枝にはとげがあり、生け垣にする。 写真も検索してみた。
この句、「花枸橘」が決っている。 |
鑑賞日 2011/10/19 | |
遠耳はまくなぎのせいさ列車ゆく
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長谷川育子 新潟
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遠くを列車がゆく。その音が妙にはっきりと聞こえる。これはきっとこの纏わり付いているまくなぎのせいだというのである。因果関係が無いようでもが、作者は「まくなぎのせいさ」と戯けている。田舎道のような雰囲気と戯け感。 |
鑑賞日 2011/10/20 | |
余震の村なまあたたかき袋角
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日高 玲 東京
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袋角とは生え替わったばかりのシカの角のことであるらしい。皮膚で覆われ、柔らかいこぶ状をしているとある。季節は夏。 |
鑑賞日 2011/10/20 | |
あまたなる言葉下界の六月ぞ
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平塚幸子 神奈川
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この句はやはり六月がぴたりだという気がする。他の季節や他の月では駄目だ。六月というものの季感をこの句から教えられる気さえする。初めて地上に下り立った何者かが発したような言葉であり、それゆえに尚更、六月とはこういうものだと納得する。 |
鑑賞日 2011/10/21 | |
木いちごの花の斜面や被曝せり
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本田ひとみ 福島
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木いちごの白い花があちこちに咲いている斜面。やがて野の蜜とでもいうべき実を沢山つけるだろう。しかし、しかし、おそらくこの斜面も被曝してしまった。犯されてしまった。野の花よ、野の蜜よ、ああ無垢なるものよ。 |
鑑賞日 2011/10/21 | |
薔薇の門ひとりが好きといふ虚実
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丸山マサ江 群馬
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他者とずっといれば一人になることを欲する。一人でずっといれば他者を求める。どちらの状態が実であるのか虚であるのか。内にあれば外を求め、外にあれば内を求める。その境にあるのは薔薇の門。虚実皮膜の間という言葉があるが、おそらくこの言葉は文芸上の事実というだけではなく現実の生においても事実なのだ。その象徴としての薔薇の門。 |
鑑賞日 2011/10/22 | |
朧月皆細目して横になる
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三井絹枝 東京
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まあ、そのものがはっきりと見えないときは、皆細目して横にでもなりリラックスしていればいいじゃないか。慌てることも急ぐこともない。かすんだ朧月の微光そのものが優しい。 |
鑑賞日 2011/10/22 | |
あめんぼや「光」と書いて黙っている
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宮崎斗士 東京
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透明な感性に魅かれる。あめんぼも作者も世界も静かな光の中に存在する。そういう時間。いい句だ。 |
鑑賞日 2011/10/23 | |
雨乞いや父の眉毛を切りそろえ
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武藤暁美 秋田
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殊更に神事という儀式を執り行わなくとも、意識の高まりにおいては日常生活の全てが神事であるということは一般的な事実であるが、それを「父の眉毛をきりそろえ」と俳諧味を持たせて言ったところが味噌。 |
鑑賞日 2011/10/23 | |
生きている皮膚は湿りて行行子
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茂里美絵 埼玉
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「生きている/皮膚は湿りて行行子」と切ってよめば、ああ自分は世界は生きているなあ、皮膚は湿っているし行行子も鳴いている、ととなる。生きてあるという実感を皮膚感覚や行行子の鳴き声を通して感得しているということになる。「生きている皮膚は湿りて/行行子」と読めば、皮膚という物に焦点を絞って書いているということになるが、それにはまたそれで即物的な面白い味がある。いずれにしても中七の「皮膚は湿りて」の実感が味噌。 |
鑑賞日 2011/10/24 | |
夜爪切る母に母なき螢籠
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柳生正名 東京
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何回か読んでいるうちに、個々の言葉の意味と韻律の中に作者の母に対する情が徐々にそして深く感じられてくる。逆に言えば、その情が言葉を選びリズムを選んだと言える。 |
鑑賞日 2011/10/24 | |
十薬や二人は緩い坂が好き
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吉川真実 東京
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この二人というのは夫婦であるような趣がある。この共に歩む二人の穏やかでゆったりとしたような生きる姿勢がある。「十薬」がじんわりととても良く利いている。 |
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