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金子兜太選海程秀句鑑賞 471号(2011年4月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2011/4/2
美女美食お金も好きと十夜僧
伊佐利子 福岡

 「十夜」とは、陰暦十月五日夜から十五日朝まで、浄土宗の寺々で行う十日十夜の念仏法要。十夜僧とはそれを執り行う僧侶のことであろう。痛快な皮肉である。もし僧自身があっけらかんとこのように言ったのだとしたら、ある意味、正直でよろしいとなるが、しかしその時は十夜なんぞという偽善はやらない方がいい。いづれにしても、現代の仏教の実情を描いている。


2

鑑賞日 2011/4/3
定年同士失業同士冬の旅
石川青狼 北海道

 まさに人生の哀愁の味、冬の旅の味であるが、どこかに諧謔の味が潜んでいて、面白がっている風情もある。俳味である。


3

鑑賞日 2011/4/3
梟よ君の水洟愛しかり
市野記余子 埼玉

 一応俳句的には「梟よ」で切って読むのだろうが、この梟と「君」は殆ど重なる。これはもう、人間の情の世界だ。
 金子先生の第46回現代俳句全国大会での講演に次のような部分がある。

 ・・・一茶は旅に出て稼ぎ、正月は家に戻り家族と一緒に過ごします。「鳩いけんしていはく」と前書きがあって「梟も面癖(つらくせ)直せ春の雨」という句がある、鳩とは妻の菊さんのことで、句のように菊さんから意見されたのです。「あなたはろくなことをしていないから顔の癖が悪いですよ、お正月ぐらいはいい顔になんなさい」と。ここから分かるのですが、一茶は今残っている一茶像の顔ではない、梟と詠われているように顎の張った農民顔で、肩もいかっていた、農民の体つきなんです。・・・

 作者にはこんなことからの発想もあったかもしれない。


4

鑑賞日 2011/4/4
ひとりとは巨岩見ている懐手 
伊藤淳子 東京

 「ひとり」という状態には二種類あるとラジニーシは言う。一つはロンリー(lonely)で、もう一つはアローン(alone)である。ロンリーは必要な他者が失われていると感じられる孤独な状態。アローンは何の喪失感も無く、愛に満たされているが、状況としては一人であるという静かな状態。この句はもちろんアローンの状態である。そういう余裕がある。「ひとりとは」という言い方にもそれが現れている。


5

鑑賞日 2011/4/5
補聴器が捉へし冬の尿の音
伊藤友子 埼玉

 「補聴器」だとか「尿の音」という卑近な道具立てが有って、それを「冬の」という詩情が繋いでいる。俳諧詩である。


6

鑑賞日 2011/4/6
鶴四羽村の鍛冶屋を悲します
上野昭子 山口

 情と言っていい程の、人間と自然との交感。だから当然そこには、一つの物語が生まれる。


7

鑑賞日 2011/4/8
マラソンのしぐるる一団君ありき
榎本愛子 山梨

 「マラソンのしぐるる一団」という言葉の暗喩するものは多様である。時雨の中でマラソンをしている一団、というのがごく普通の情景。時雨のようにさっと通り過ぎ、また次の一団がさっと通り過ぎるというような状況もある。また「マラソン」を人生レースの譬えのように、「しぐるる」を心理的な状況のように捉えることも出来そうである。そして作者は、そういうマラソンをしていた「君」のことを思っている。君への慕情。


8

鑑賞日 2011/4/9
冬の家皆正座して鯉食べる
榎本裕子 兵庫

 子どもの頃、時々知り合いの家から生きた鯉をもらった。家では必ず鯉こくにして食べた。あの頃は食料事情も悪かったし、わざわざ父が捌いて食べさせてくれたということもあって、普段にはないご馳走を食べるような気になって、皆正座をして食べたという記憶が蘇ってきた。


9

鑑賞日 2011/4/10
コンビニでおでん買うごと平和論 
大谷昌弘 千葉

 おそらくそうだ。本当の意味での平和論を言うには命がけの覚悟がいるだろう。しかしまた、本物の武装論を言うのにもとても大きな責任感をもって言ってもらわなくては困る。人間に対する責任、そして現在では地球環境に対する責任もある。コンビニでおでんを買うごときの平和論、あるいは武装論ばかりだというのは、事実として当っている気がする。


10

鑑賞日 2011/4/10
あまのじやく狐火につい寄りすぎて 
加納百合子 奈良

 「あまのじやく」ということと、「狐火」ということの間の微妙な関係の真実を作者は嗅ぎつけて書いたのかもしれない。


11

鑑賞日 2011/4/11
老兵肩を組み越前蟹を食う  
北川邦陽 愛知

 「きさまと俺とは同期の桜〜〜」というような歌が聞こえてきそうな句。


12

鑑賞日 2011/4/11
晩菊に雨降る言葉つつしんで 
北村美都子 新潟

 外側の事物と内側の気付きとの感応。


13

鑑賞日 2011/4/12
生涯の冬の都は怠惰かな
京武久美 宮城

 誰の裡にも「生涯の冬の都」とでも言うべきものが存在するような気がしてきた。そしてそれは「怠惰」だと作者は言っているのではなかろうか。心理的なある状態を「生涯の冬の都」と形象した表現力。


14

鑑賞日 2011/4/12
割れるほど息があふれて寒の月
河野志保 奈良

 呼吸感とでも言おうか。自分が割れてしまうほど息があふれてくる。寒の月が割れるほど息があふれてくる。自分も寒の月も共に呼吸している。


15

鑑賞日 2011/4/13
水を行く破れ紅葉や我が放蕩
小林まさる 群馬

 おそらく、自分を滑稽なものとして眺められるというのは、一つの悟りに違いない。自我の呪縛から解き放たれなければ、そうはいかないからである。何とも人間のおかしみを感じる句である。


16

鑑賞日 2011/4/13
白寿の人に会いにゆく日の小春かな
近藤好子 愛知

 何とも祝福された気分に満ちている。「小春」とは、まさしくこういう気分だ。


17

鑑賞日 2011/4/14
霧へ刃をふる林のなかの洋食店
斉木ギニ 千葉

 現代的な詩情とでも言っておこうか。この作者にはいつも新しいあるいは若々しい感覚の冴えがあるような気がする。


18

鑑賞日 2011/4/14
越は冬消し炭のごと生家あり 
清水 瀚 東京

 「消し炭のごと」と把握した感覚の冴え。


19

鑑賞日 2011/4/15
引越しは濁流のごと十二月
下山田禮子 埼玉

 何も言うことが無い程の中七の上手さ。「十二月」もその実感をさり気なく確かに支えている。


20

鑑賞日 2011/4/16
母というやわらかな着地鶴来る
白石司子 愛媛

 自分にとっての母ということ、あるいは自分が母であるということ、あるいは大地に象徴される母性的な存在であるかもしれない。いずれにしても「母というやわらかな着地」を得た時の、帰ってきたあるいは根付いた安心感。当然鶴もやって来るだろう。


21

鑑賞日 2011/4/18
綿虫の旅愁とも違う流れよう
白川温子 東京

 句作をするときに、自分の感じを言い止めよう言い当てようと努力する自分がいる。しかし、どうしても言い止められないことが多い。おそらく肝要なことは、そのような自分にも正直になることではないか、ということをこの句を見て教わった気がする。綿虫の流れてゆくのを見て、旅愁のようだけれども、どうもぴったりこない、どう表現したらいいのだろう、と迷っている自分がいる。それを「旅愁とも違う流れよう」と一歩下がって言い止めたのではないだろうか。


22

鑑賞日 2011/4/18
行くところあるから渡る雁の棹
高桑弘夫 千葉

 行くところあるから渡る雁の棹、しかるに俺は・・・。先ずはそういう作者個人の孤愁のようなものを感じる。違う見方をすれば、人間世界における混迷ぶりを皮肉っているのではないか、という感じもある。整然と秩序をもって渡る雁の群。それにひきかえ人間達は・・・。


23

鑑賞日 2011/4/19
鷹の爪熟れたり朝寝していたり
瀧 春樹 大分

 最終的には、自然は自ずからなってゆくという思想があるだろう。鷹の爪が熟れた、その時に自分は朝寝をしていた。あるいは、鷹の爪が熟れた、その時に鷹の爪は朝寝をしていた。
 金子先生の次の句を思い出した。

働くがごとき働かざるがごとき草青みたり    『皆之』


24

鑑賞日 2011/4/19
柚子は黄に老人あわく口述す
田口満代子 千葉

 人間が老いるということに対しての必然性の受容と慈しみの感情を伴った眼差しであろう。「あわく」が上手い、そして「柚子は黄に」が支えている。


25

鑑賞日 2011/4/20
流星や水際のやうな人とゐて
武田美代 栃木

 「水際のやうな人」とはどんな人だろう。踏み出しそうなあるいははみ出しそうな雰囲気を持っていて、日常的な世界とは違う世界を覗いているような雰囲気を漂わせているような人物がイメージされる。危ういものを持っているが、神秘性もあり魅力ある人物といったところか。そのような人物と一緒に居て、流星のような気分であるということではないか。譬えの卓抜さ。


26

鑑賞日 2011/4/20
吊し柿晩節乾ぶまいとせり
田浪富布 栃木

 日に照らされて吊されている柿の滋味に満ちた色合いを感じていたい。あまり、干し柿ということと、晩節乾ぶまい、ということを付けて鑑賞したくない。


27

鑑賞日 2011/4/21
風を乗り継ぎ光る木光る木の林 
月野ぽぽな 
アメリカ

 自分があたかも風の精になったような気持ちが起る。風の精になって、風を捉え風を乗り継ぎ、空中をスピードをもって浮遊してゆく。光る木光る木の林が延々と続いているのを通過してゆく。
 どうしてこういうイメージの句が書けるかというと、おそらく現在の作者の在り方から来るのであろう。現在、作者は風の精なのだ。


28

鑑賞日 2011/4/21
わがままな蝶来て困る冬の川 
津野丘陽 東京

 楽しい楽しいアニミズムの世界。わがままな蝶が来て困っている冬の川の表情が見えるようだ。


29

鑑賞日 2011/4/22
彼岸花薄明りして谷が鳴る  
林 壮俊 東京

 彼岸花が咲いている、薄明りして谷が鳴っている、というのである。薄明りしているのは彼岸花とも受け取れるし谷とも受け取れる。この句の鑑賞の眼目は「谷」という言葉の持つ象徴性に気付くかどうかではないか。私は偶然に、「谷」という言葉に人間の心の空虚な状態、聖書で「心の貧しきものは幸いである」という時の貧しき心、平たく言えば、謙遜の状態にある心、であるという連想が働く。


30

鑑賞日 2011/4/23
菩提子抛る躁鬱都市に住みなれて  
藤江 瑞 神奈川

 抛るものがドングリなどではなく菩提子であることが、句にあるニュアンスを加えているように思う。そしてやはり、躁鬱都市に住みなれて抛るものは菩提子だろうと思えてくる。ドングリなどではこの句のような心情の重みが出てこない。


31

鑑賞日 2011/4/23
柚子の黄眩し戦争を語らぬ父に   
藤野 武 東京

 何故父は戦争を語らないのか。おそらく語りたいけれど語れないのだ。言葉では伝わらないものがあるのだ。作者は父の沈黙の重さを感じ取っているのではないだろうか。そんな父の眼に柚子の黄が眩しげに映っているように見える。時間の厚みと心情の厚みの美を感じる句である。


32

鑑賞日 2011/4/24
アルバムを落とす地震や晩秋なり  
北條貢司 北海道

 「アルバムを落とす地震」という言葉に今回の大地震を重ね合わせている。自分の過去を一切合切根こそぎにしてしまう地震というものがあるのだということを今回あらためて知った。そのような大地震に会うことは人の一生で稀であろうが、多かれ少なかれ、人の生は危うく脆いものである。そんなしみじみとした思いが「晩秋」という言葉に感じられるのであるが。


33

鑑賞日 2011/4/24
数え日や無口をしあわせと言えます  
三井絹枝 東京

 「数え日」という季語と「無口をしあわせと言えます」という心情の織りなすしみじみとしたハーモニー。


34

鑑賞日 2011/4/25
蝉時雨砂山のよう雲のよう  
森  鈴 埼玉

 譬えの面白さ。意表を付いた譬えで、しかもどこかそのものの本質に通じているような譬えが優れた譬えと言えるのだろう。


35

鑑賞日 2011/4/25
柿すだれけむりのように日暮来て 
森 美絵 埼玉

 我々は時間意識の中に通常暮らしている。この時間意識は事物の変化によって認識される。ところが、心が無の状態になった時には、この時間意識は消える。いわば無時間の中に事物だけが存在している状態である。けむりのように日暮が来て、眼前には柿すだれだけが存在しているというこの句に、無心ということへの一つの入り口の辺りの意識を感じるのであるが。


36

鑑賞日 2011/4/26
冬草よ言葉あふれて無口なる
森央ミモザ 長野

 「言葉あふれて無口なる」はとても解る事実の一つである。「冬草」が配されていることによって、どちらかというと古風な日本の女性像が私には見えてくる。感受性豊かであるが、それを内面に押しとどめている、そして芯が強い。こういう人にとっては俳句表現というものは必要なことのような気がする。内面の力を感じる一句である。


37

鑑賞日 2011/4/26
瞑目は根雪の硬さ即身仏
柳生正名 東京

 即身仏というものを見て受ける感じを「根雪の硬さ」と表現したのが、実に、そうだなあ、と納得させられる。私自身はミイラだとか即身仏の姿は好きではないし、その思想も間違っていると思っているが、そういう判断を持ち込まないで、ただ「根雪の硬さ」と譬えることができる表現の力に感心する。


38

鑑賞日 2011/4/26
屯する君らの自由星月夜
安井昌子 東京

 屯する若者達への万感がこもっている。単なる批判でも単なる肯定でもなく、要するに万感である。しかし、最終的にはやはり肯定であろう。「星月夜」がそう言っているからである。


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