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金子兜太選海程秀句鑑賞 470号(2011年2・3月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2011/2/11 | |
千本の塔婆や影や穴惑い
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荒井まり子 京都
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日常を一枚めくれば、私たちは死の影に怯える存在である。ちらちらと垣間見える死というものへの不安を抱えて惑いながら生きている私たち人間。そんな人間存在の本質を描いているように見えるのだが。 |
鑑賞日 2011/2/12 | |
回送電車に遮断機降りる敗戦忌
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有村王志 大分
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微妙だが、「回送電車に遮断機降りる」というのは、どことなく甲斐がない、どことなく虚しい、というような感情が潜んでいないだろうか。 |
鑑賞日 2011/2/13 | |
紅葉狩り黄砂がすでに来ておりぬ
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上野昭子 山口
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「黄砂」は一応春の季語である。春に多いらしいのである。この句、微妙に環境破壊による季節の狂いというものを匂わせている気がする。俳句は基本的には肯定の文学であり、またその多くの部分が季語の味に拠っているものだとすれば、地球環境がめちゃめちゃになってゆくことと、俳句が書けなくなってゆくということは、同時進行かもしれない、という悲観的な見方も私の中にはある。 |
鑑賞日 2011/2/14 | |
東京は集積回路穴惑
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岡崎正宏 埼玉
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「東京は集積回路」というほぼ完璧に近い譬えに対して、「穴惑」が、何かそういうメカニックな完璧さに収まり切らずにはみ出した、人間の生生しい本能のダイナミズムのようなものを感じさせて、素晴らしい。句として完成されていて、しかも内容的には、完成されえない世界の実相が描かれてさえいる気がする。また、現代文明の前で戦いている人間というものも感じるのである。 |
鑑賞日 2011/2/15 | |
想ほえば狐火は薔薇をみていた
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加納百合子 奈良
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青春時代の回想のように思える。狐火のような現実味の無さの中で、憧れのように薔薇を夢見ていた。青年は夢を夢見る。考えてみれば、夢と現実は両輪のように手を取りあって進んでゆくべきもののように思えるが、逆に現代の若者はその夢の部分が少なすぎるように感じるのであるが、どうだろう。「想ほえば」という出だしが、作者の現実と夢の間をたゆたうような心理状況を暗示している気がする。 |
鑑賞日 2011/2/16 | |
金木犀唯一の吾を包み込む
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北村歌子 埼玉
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SMP風に言えば、ナンバーワンではなくオンリーワンの吾であるという感じ方。忘れがちであるが、とても大事な感じ方であろう。そういう感じ方に生きることが出来るなら、自然は優しく吾を包んでくれる。金木犀の甘い香りが吾を包んでくれる。 |
鑑賞日 2011/2/17 | |
老いの形空に紛れてそぞろ寒
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京武久美 宮城
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〈形〉は[なり]とルビ この「空」には何もない空っぽというニュアンスがあるのではないか。そもそも自己の姿などというものははっきりしないものであるが、老いて死に近くなればなるほど、その姿は空に紛れるように、実に不確かなものに思えてくる。自分は実際何者でもないという感じ方が強くなってくる。そういうような心持ちを心もとなく思っているというのが句意なのであろうと推測している。しかし、自分は何者でもないという感じ方は、実は素敵なことなのではないだろうか。 |
鑑賞日 2011/2/18 | |
菊盛り鹿のおしりが集まって
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河野志保 奈良
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微笑ましく豊かな日常性をユーモラスに描いた。隠された一つの面白さは「菊」と「おしり」の類似性であろう。兜太にも 渚辺に若きらの尻みな黄菊 『詩經國風』 というのがある。兜太句は直接的な表現であるが、河野句ではさりげなく暗示されている。 |
鑑賞日 2011/2/19 | |
金木犀に銀木犀に人は居らず
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小林一枝 東京
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孤独感ではないだろうか。人の不在が甘い香りで咲き誇る金木犀銀木犀との対比で描かれている。あるいは、無縁社会と言われはじめている現代の世相を描いているのかもしれない。 |
鑑賞日 2011/2/20 | |
白鳥来て一病息災の母あり
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小堀 葵 群馬
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素直で平明な句。生を祝福されたものと受け取っている。 |
鑑賞日 2011/2/20 | |
はぐれてから記憶はじまる雁が飛ぶ
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斉木ギニ 千葉
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心理句であるが、「雁が飛ぶ」がその心理状況の背景として、また象徴として、句全体に詩的な雰囲気を与えている。 |
鑑賞日 2011/2/21 | |
限界集落娘が来て十一月の御強
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坂本蒼郷 北海道
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〈御強〉は[おこわ]とルビ 限界集落(げんかいしゅうらく)とは過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になり、冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になった集落のことを指す、とWikipediaにある。その前の状態(人口の50%が55歳以上の集落)が準限界集落である。そして、やがて限界集落は消滅集落となる。 |
鑑賞日 2011/2/22 | |
冬じたく父も羆もなんか事務的
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佐々木宏 北海道
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おそらく北海道の冬は相当厳しいものがあるだろう。だから冬じたくもそれなりに心してやらなければならない重大事に違いない。その重大事をほいほいと何でもないことのように事務的に行う父、そして羆。句の裏には、そのように自然に対して身構えることもない父や羆の態度に対しての敬意があるのではないだろうか。じわっとした滑稽感を醸し出す書き方の中に、自然に溶け込んだ父や羆の姿が描かれている気がする。 |
鑑賞日 2011/2/24 | |
厚かまし紅葉が富士の上に散る
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清水 瀚 東京
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アニミズムというか、自然への親しさ。実際には、遠近の関係でそのように見えたということであろう。 |
鑑賞日 2011/2/25 | |
八月や船渠に潜水艦の全裸
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杉崎ちから 愛知
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「潜水艦の全裸」の存在感が凄い。これは思想などを越えた存在感である。ゆえに、反戦的な人はそれなりに、また好戦的な人はそれなりに、その存在感を味わうに違いない。私達の世界には、この戦争の為の代物が羞じらいもなくヌッと存在していることは確かである。 |
鑑賞日 2011/2/26 | |
木の実落つふたりそろって鼻めがね
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芹沢愛子 東京
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確かこの作者のご主人はやはり俳人の宮崎斗士さんだ。お歳はよく知らないが、二人そろって老眼なのであろう。夫婦そろって共通の畑で過ごすことが出来るというのは恵まれた時間だ。武者小路ではないが「仲よきことは美しきかな」とでもいいたくなる。「木の実落つ」はいわゆる付かず離れずである。 |
鑑賞日 2011/2/27 | |||||||
秋風よむかし投石という兵器
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高桑婦美子 千葉
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投石をする兵器には二種類あるようだ。投石機と投石器である。投石機は比較的に大きな石を飛ばすもので、城門などを破壊する威力もある、投石器は掌で握れるくらいの小石を飛ばすもので簡単な構造の道具である。この句における私のイメージは投石器のほうである。小さな石が秋風に混じってひゅんひゅんと飛んでくるという感じがするのである。戦をするというのが、どうしても避けられない人間の性ならば、せめて投石器くらいの武器でやったらいいのではないか。句にはどこか、古代への郷愁のようなものが混じっていないだろうか。
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鑑賞日 2011/2/28 | |
恋の猫月光浄土横切りぬ
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高田ヨネ子 愛媛
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冴え冴えと澄んだ月光浄土を、恋の熱に浮かされた猫が横切った。官能の極限に現出する美の質を垣間見るような感じ、とでも言おうか。 |
鑑賞日 2011/3/1 | |
携帯電話に撮られたりして穴惑
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田口満代子 千葉
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〈携帯電話〉は[ケイタイ]とルビ 「穴惑」という季語の持つ性能が十分に発揮された佳句である。俳句らしい軽快感や戯けもあるし、穿ってみれば、文明批評に繋がっていくような趣もある。 |
鑑賞日 2011/3/2 | |
覚めてまた眠し九月の柱かな
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武田美代 栃木
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現代的な住宅でなく、古い田舎の家でうたた寝をしているような感じである。古い家の柱や梁というものは妙に存在感がある。ラジオもテレビもなく、忙しくもなく、そこでぼんやり過ごしていると、知らず知らずのうちに、その柱や梁などと対話をしているような感じになる。九月というまだ暑さの残る季節、これは午睡かもしれない。外では蝉などもまだ鳴いているかもしれない。そんなゆったりとした一つの時間。句を眺めていると、覚めてまた眠いのは、この柱そのものなのかもしれないという感じにもなる。 |
鑑賞日 2011/3/3 | |
砂嵐混じる抒情や雁渡る
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田中亜美 神奈川
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砂嵐が混じっているような抒情。あるいは抒情が混じっているような砂嵐。言われてみれば、そういうような抒情あるいは砂嵐がある気がする。たとえば映画「アラビアのロレンス」の雰囲気などが想い出されたりするのであるが、厳しい状況に寄りそう抒情美とでも言ったらいいだろうか。ああ雁が渡る。 |
鑑賞日 2011/3/4 | |
忘れっぽいとか夜が明けたとか曼珠沙華
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谷 佳紀 神奈川
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私達の日常に寄り添って咲いてくれている曼珠沙華の美しさと存在感。「忘れっぽいとか夜が明けたとか」という具体的な言葉で日常というものを表現しているのが印象的であるし、俳諧的である。 |
鑑賞日 2011/3/5 | |
雁や野をかき切つて夕日川
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野崎憲子 香川
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雁が飛んでいる、野には夕日に映える川が流れている。これだけでも色彩豊かで十分に美しい情景なのであるが、この作者はそれだけでは満足しない。野を「かき切って」夕日川、という強い表現をする。この作者の今までの兜太選秀句を見てみた。 わくらばや浮いて光の耳となれ 自然に対する、あるいは自己に対する、あるいは存在に対する強い希求がこの作家にはあるような気がする。 |
鑑賞日 2011/3/6 | |
曼珠沙華すまんじゅう店すぐそこです
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長谷川順子 埼玉
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私は群馬出身なので、すまんじゅうを食べた記憶がある。皮の小麦粉に麹か甘酒が練り込んであり、酒の匂いとわずかな酸っぱさが魅力の美味しいまんじゅうである。殊に、その出来立てのほやほやの匂いが店先から匂ってくる時などはたまらない。形はすこし平べったくて、色は真っ白い。句は「曼珠沙華」の赤と「すまんじゅう」の白との対比が印象的であり、また「すまんじゅう店すぐそこです」という、日常の歩みの中のうきうきした気分が伝わってくる。 |
鑑賞日 2011/3/7 | |
瓜ン坊というかラグビーボールというか
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幅田信一 福井
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瓜坊はラグビーボールのようだ、というのはなるほどそんな感じがする。だから、その比喩の結果だけを陳腐な言い回しで書いただけでは当たり前であまり面白くない。この句の魅力は、その比喩に至る生き生きとした心の動きを掬い取ったような言い回しである。 |
鑑賞日 2011/3/8 | |
満月やシルクロードを急がない
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平塚波星 秋田
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境涯感だろう。冴えた境涯感。 |
鑑賞日 2011/3/9 | |
秋耕や朽ちし畳を鋤き込める
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平山圭子 岐阜
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生活詩とでもいおうか。人間が食べた食物の余り、人間が住まった家、そしておそらく回り回って人間の身体そのものも土に還ってゆくのであろう。そういうサイクルの中で我々は生きている。生きてゆくべきだろう。しかし現代においては、実際はなかなかそうはなりにくい。例えばこの古い畳を畑に鋤き込むということでも、余程古く作られた畳でない限りは、化学繊維で作られた畳糸が腐らないので、これを除かない限りは、そのまま鋤き込むことはできない。この句においては、この畳が余程古く作られたものであるが、あるいは畳糸を丁寧に取ってから(この作業は実に面倒である)、鋤き込んだのであろう。 |
鑑賞日 2011/3/10 | |
紅葉かつ散るふっと酸鼻という言葉
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堀之内長一 埼玉
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他の動物と人間の大きな違いは、人間には笑いと涙があるということである、とある人が言っていた。そして人間のタイプとして、笑い人間と涙人間がある。厳密なものではなく大雑把なものであるが、おそらくどちらかのタイプに人間は分けられるかもしれないと思う。究極的には、存在というものは悲ということと喜ということの統合された現れだと思うのであるが、相対的にはどちらかに身を置いておくのが、いわば大地に根差している感じがするということがある気がするのである。自分のことを顧みてみれば、私は涙人間だと思うのである。悲と喜という両方の要素を共に持ってはいるが、どちらかと言えば悲に身を置いておく方がイージーなのである。違う言葉で言えば、笑より悲に美をより感じるということでもある。 ちなみに、「酸鼻」とは〈鼻に痛みを感じて涙が出ることからひどく心を痛めて悲しむこと。また、いたましくむごたらしいこと。また、そのさま。〉と辞書にある。 |
鑑賞日 2011/3/11 | |
黄落のほろにがい闇眠れない
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本田ひとみ 福島
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心にあたたかさを呼ぶ一定の達成感も諦めもあるが、心の何処かにほろ苦い闇がある、というような境涯感と言えないだろうか。個人的な境涯感であるけれど、人間存在そのものが抱える問題を孕んでいるとも言える。突き詰めれば死の不安、自我の不安すなわち私の不安である。 |
2011/3/12 | |
東北地方太平洋沖地震
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昨日、東北地方を中心に大地震があった。おそらく「海程」の仲間の中にも被災した人が沢山いるに違いない。昨日その句を鑑賞させてもらった本田ひとみさんも福島の方であるから、もしかしたら大変な目に遭われているかもしれない。これらの方々のことを想うと、とても心配である。 |
鑑賞日 2011/3/19 | |
ギンヤンマいい質問がつぎつぎ来る
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宮崎斗士 東京
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きれいで気持ちのいい句。きれいなのはギンヤンマ。気持ちのいいのはいい質問を受けた時。それらがつぎつぎ来るというのだから、もうこれはたまらない。スーイスーイとギンヤンマが来るようにスーイスーイといい質問が来る。 |
鑑賞日 2011/3/20 | |||
烏瓜の花なり星の抜け道なり
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武藤暁美 秋田
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一つの童話世界の入り口のような句。入り口でもありまたおそらく出口でもある。そしてまた一つの童話世界そのものでもある。
ちなみに烏瓜の花は日没後に咲く。 |
鑑賞日 2011/3/21 | |
小難しい息子いらない唐辛子
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村井 秋 神奈川
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この唐辛子の存在感。その一本の唐辛子の赤い色が鮮やかだ。おそらくこういう内容の句を作るのはとても難しいのではないか。単なる愚痴になってしまう可能性があるからだ。この句の場合、この唐辛子の存在感が句全体の品位を高めている。潔い感情の表出だという感じがある。 |
鑑賞日 2011/3/22 | |
煮凝うっすら崩れリアス式海岸
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村上友子 東京
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そもそも日本人は小さなものに大きなものをイメージする力が強いのだろうか。例えば盆栽、あるいは枯山水などに大自然そのものの姿を感じるというようなこと。もっとも盆栽や枯山水は自然そのものの縮小版という概念がそもそも含まれているが、この句などにおいては、更にイメージの飛躍の新鮮さがある。 ちなみに、時節柄、あの東北のリアス式海岸での大津波をこの句に重ねて想ってしまう。 |
鑑賞日 2011/3/23 | |
夫に添う離島や冬菜繁らせて
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諸 寿子 東京
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読者にとって、読者の微妙な心理的要素を沢山投影できるような句である。「夫に添う」を肯定的な健康なものとして捉えることも出来るし、また皮肉な言い方に捉えることも出来るし、また肯定であるが珍しいことだと眺めている感じもある。この揺れの大部分は「離島」という言葉をどう受けとるかということによるが、このように解釈の幅広さを読者に許すというのは俳句の面白さでもあるし、またそもそも事実を受けとめる時の人間の心理の両面性というのは常にあることなのかもしれない。 |
鑑賞日 2011/3/24 | |
案山子より人痩せ峡の危な唄
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柳生正名 東京
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〈峡〉は[かい]とルビ 「危な唄」というのは、たとえば酒の席などで唄われそうなぎりぎり卑猥な唄のようなものであろうか。案山子よりも人が痩せているような貧しさの中で、そういう種類の唄が唄われている。人間の性(さが)というものを眺めている感じの句である。 |
鑑賞日 2011/3/25 | |
黄菊白菊どのバンザイも嫌ひなり
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前田典子 三重
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人はいろいろな機会に「バンザイ」ということをやる。しかし考えてみればこのバンザイということは、勝ち負けのある世界での、勝つという価値観、あるいは優れているということへの憧れ、の表明ではなかろうか。黄菊白菊はそんな世界のことを何も知らない。何も知らないからこそ、また真に美しい。作者はそのあたりのことを言いたかったのではなかろうか。 |
鑑賞日 2011/3/26 | |
十一月素足のごとく風かな
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輿儀つとむ 沖縄
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「風かな」という字足らずの言い方が魅力だ。「風が吹く」などと整えると臭くなる。作らない魅力。素の魅力。とても難しいことだ。 |
鑑賞日 2011/3/27 | |
七十六歳になった野菊をおがむ
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横山 隆 長崎
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山頭火ふうの言いっ放しの味。飄々とした味。素の人間の味。言いっ放してあるが、五七五の定型感があるから、落ち着いた人生の歩みを感じる。 |
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