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金子兜太選海程秀句鑑賞 469号(2011年1月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2011/1/1
延暦僧録白蛾の静止水平に
飯土井志乃 滋賀

 この句を理解するには「延暦僧録」という書物を知らないと理解しづらいと思うが、私はそれを知らない。調べてみると〈奈良時代の伝記書。唐からの帰化僧思託(したく)の著。延暦7年(788)成立。日本最初の僧の伝記といわれるが、現存せず、宗性(そうしょう)の「日本高僧伝要文抄」などに一部が引用されている。〉とある。
 作者の、黙想に近い一つの刻を感じる、とだけ言っておこう。


2

鑑賞日 2011/1/1
秋刀魚焼く母は私の影の中
石田順久 神奈川

 情景としては、昔の七輪で、庭先で、秋刀魚を母が焼いているというようなものがある。その母は傍に立っている私の影の中にいる。心理的にみれば、いかにも慎ましい昔気質の日本の母親像というものが表象されているように思う。


3

鑑賞日 2011/1/2
白さるすべり祖は大きな波しぶき
稲葉千尋 三重

 「祖」はおそらく[おや]と読ませるのであろう。単に一代の「親」でなく、自分の存在の全てがよって立つものとしての「祖」であるという感じが起る。全体に躍動感があって清潔に美しい。


4

鑑賞日 2011/1/2
嘘多少持ち合ひて来し十三夜
宇川啓子 福島

 「嘘多少持ち合ひて来し」が「十三夜」という月の状態にとてもよく符合する。うーん、なるほどなあと思う。自然の中に隠された譬えを見事に書いている感じである。


5

鑑賞日 2011/1/3
鮃一枚きれいに食べて神無月
榎本佑子 兵庫

 この「神無月」はたとえば「十月」だとか「十一月」ではいけないのだろうか、と考えている。「鮃一枚きれいに食べて十一月」というような感じでも十分なのではないか。どうだろうか。


6

鑑賞日 2011/1/3
父の肩叩けば木の実降る如し
岡崎正宏 埼玉

 人事と天然の事象との響きあいが快い。また意味内容から、リズミカルな温もりが伝わってくる。


7

鑑賞日 2011/1/4
秋水こんこん老いて情の高ぶるも
岡崎万寿 東京

 〈情〉は[こころ]とルビ

 最近よく思う、句に対する鑑賞文などは蛇足だと。共感できれば、それでいいではないかと。特にこの句のように平明であふれてくるような句にたいしては、おそらく鑑賞文は色あせる。


8

鑑賞日 2011/1/4
朝顔の軽さで妻の座りけり
小野裕三 神奈川

 朝顔の軽さという把握の新鮮さと、朝顔の軽さで妻が座っているという何とも楽しい譬え。夫の側から捉えた、妻というものの一つの像が描かれている気がする。


9

鑑賞日 2011/1/5
鷹旋回地に能弁の君居りて
加古和子 東京

 空には鷹が悠々と旋回している。地にはよく喋る君が居る。じわーっとくる可笑しみと言えようか。ゆったりとした自然の中での、人間存在の可笑しみである。


10

鑑賞日 2011/1/5
秋の蚊の骨あるごとき力かな
川崎益太郎 広島

 人間の営みの中での秋の蚊であるとか、風情としての秋の蚊であるとかを突き抜けて、存在物としての秋の蚊の態を書き取っている。この集中力。


11

鑑賞日 2011/1/6
三人はひとりとふたり曼珠沙華
河西志帆 長野

 「曼珠沙華」がとても美しい。「三人はひとりとふたり」という、どちらかといえば抽象的な言い方による背景があるからだろうか。「三人はひとりとふたり」という真っ白い背景と曼珠沙華の赤が引き立てあって、とても美しいのである。


12

鑑賞日 2011/1/6
教授とかやくざも級友鰯雲
木下ようこ 
神奈川

 時の流れという大きな目で見れば、教授もやくざもそれ程の違いはない。それぞれみな自分の級友である。女性らしい大きな家族感のようなものを感じる。この「鰯雲」には、時の流れを包み込む大きな温もりがある。


13

鑑賞日 2011/1/7
別々に蟋蟀聞くを流離という
小池弘子 富山

 愛とは存在への入り口。存在から引き離されてしまった感じが付き纏う状態を流離というなら、まさに愛するものと別々であるという感じを抱く状況は流離だといえる。胸のあたりで蟋蟀の声がひりひりと鳴いている。


14

鑑賞日 2011/1/7
わが影の森歩く音夏がゆく
坂本春子 神奈川

 自分が森を歩いている、と取りたい。そしてその自分を「わが影」と眺めている。眺めているのは、自分の背後に居る大きな意識。例えば芭蕉の「名月や池をめぐりて夜もすがら」などの意識状態と同レベルのものを感じる。しいて言えば、禅定と言いたいような意識の在り方。


15

鑑賞日 2011/1/8
肉厚き海鞘にぐい呑み祭り笛
坂本みどり 埼玉

 一つの豊かな人間の営みの情景。


16

鑑賞日 2011/1/8
秋の雷卒塔婆倒れ凭れあう
佐々木昇一 秋田

 一つの映像である。黒澤映画の魅力は何と言ってもその映像にあるが、あのようなモノクロの映像感がある。「倒れて凭れあう」を考えてみたが、「倒れ凭れあう」の方がある種の劇的な切迫感があるようだ。


17

鑑賞日 2011/1/10
鳥渡る網膜剥離の眼裏を
佐藤鎮人 岩手

 私自身も網膜剥離のケがあるし、眼底出血のケもあるので、身につまされるものがあるが、いざそうなった時に、このように句で遊べるというのは、やはり大したものである。


18

鑑賞日 2011/1/11
柿紅葉金の目玉の魚煮る
重松敬子 兵庫

 豪華な感じといってらいいだろうか。自然そのものの豪華さ、自然の中の営みの豪華さである。


19

鑑賞日 2011/1/11
人去りて夜は川鳴る秋山家
篠田悦子 埼玉

 私のような山住まいの者にとっては、非常によくわかる句である。ましてや我が家の裏には川が流れていて音を立てているから尚更である。作者は埼玉の人であるが、どのような環境のところに住んでいるのかなどと興味が湧いてくる。


20

鑑賞日 2011/1/12
一遍の一本の道鳥渡る
白石司子 愛媛

 もうこれは「一遍」と「一本」という音の類似の面白さに尽きるのではないか。意味としては慣れ親しんだ一般的なことであるが、「一遍の一本の道」と言葉によって、とても新鮮な感動がある。


21

鑑賞日 2011/1/12
露原に屈めば私という孤島
菅原和子 東京

 考えてみれば「私」という意識がある以上、「私」は常に「孤島」なのであるが、普通はそれに気付いていない。気付いていないよりは気付いている方がいい。「孤島」でなくなるための一歩であるからである。この句は、詩的のその事実を書いていて、とても魅力がある。


22

鑑賞日 2011/1/13
鹿踊りこおろぎの声踏みしめて
鈴木修一 秋田

 「鹿踊り」という祭りを通して、作者は自然の中の人間の営みということを思っているのかもしれない。踏みしめるのがこおろぎのであるのが味噌。


23

鑑賞日 2011/1/13
熱帯夜街に変電所が浮かぶ
高桑婦美子 千葉

 街に変電所が浮かぶのを幻影として見ている感じである。都会という人工物の幻影性のようなものを感じてしまうのであるが、どうだろうか。


24

鑑賞日 2011/1/14
おなじ眸をして華人韓人川とんぼ
高橋たねを 香川

 「川とんぼ」が自由で楽しい。「華人韓人川とんぼ」のリズム感。そして、「華人韓人川とんぼ」の本質の共通項としての「眸」が水の流れのように貫いている。


25

鑑賞日 2011/1/14
死に蝉として四五日を吹かれをり
武田美代 栃木

 何の感傷もないこの死観に共感する。「死に蝉」というさっぱりとした言い方、そして「四五日を吹かれをり」という客観性のある言葉の運び。


26

鑑賞日 2011/1/15
散骨の亡夫岩になれ夏の山
中島まゆみ 埼玉

 〈亡夫〉は[つま]とルビ

 散骨というような埋葬の仕方が増えて来ているそうである。私自身の骨も散骨してもらおうかと思っている。本当のところは、私はどんな形の埋葬でもかまわないのであるが、今のところ散骨が一番面倒臭くない感じがするし、また妻などはそのイメージにおいて散骨を望んでいるようだ。死んでまで、穴蔵のような狭くてじめじめしたところに入っていたくない、風や樹木や水の流れとなって、この大自然の中に在りたい、というようなイメージだと思う。しかし、それでも、やはり、この世に生きた証として、小さな石で碑のようなものは作りたいと思っている。遺された人にとっても、対象物として、何か固まった形のものがあるのは、祈りが捧げやすいのである。「散骨の亡夫岩になれ」というのはとてもよく理解できる。「夏の山」も熱く明るく、とてもいい。


27

鑑賞日 2011/1/15
百日紅真昼おもたき瞼よ
新田幸子 滋賀

 一般性のある句ではないか。つまり多くの読者が、百日紅が咲いているような夏の真昼の感じを追体験できる。


28

鑑賞日 2011/1/16
美作の駅の白桃旅にあり
野原瑤子 神奈川

 「美作」という地名と「白桃」の配合の妙。この水々しく旨そうな白桃、そしてこの旅自体が水々しく旨そうな旅である。


29

鑑賞日 2011/1/16
鮭遡上敵前上陸のようなり
蓮田双川 茨城

 作者にはこういう戦場体験があるのだろうか。私などには及びもつかない連想であるが、それでもそのダイナミズムの共通性は分る気がする。


30

鑑賞日 2011/1/17
薪割る音す修道院は霧の中
浜口眞砂子 長崎

 修道院というものの感じがよく出ているのではないか。おそらく其所にも日常生活があり、何かをやっているのであるが、外側の世界から見ると霧の中にあるようによくは見えない。


31

鑑賞日 2011/1/17
まんじゅしゃげ睫毛を競う声ありき
平塚幸子 神奈川

 なかなかお洒落な句である。「睫毛を競う声」が曼珠沙華の声のようでもあるし、若い女性等の声のようでもある。色香が漂う。


32

鑑賞日 2011/1/18
この坂を下れば過去ぞ鬼やんま
本田ひとみ 福島

 時間というもの、あるいは過去というものの存在感を、見事に言ってのけている。怖れの感覚、好奇心、自制心等といったものも潜んでいるように感じる不思議な句である。存在と時間。


33

鑑賞日 2011/1/18
息をして忘れていたる残暑かな
三井絹枝 東京

 前から思っているのであるが、この作家はどこか、植物の化身のような句を書く。草でもいい、木でもいい、彼らは息をしていて、暑さも寒さも忘れている。


34

鑑賞日 2011/1/19
つくつくしつくづくつくしつかれけり
森 鈴 埼玉

 「つかれけり」と落としたとこに、一つの滑稽感がある。


35

鑑賞日 2011/1/19
人老いて夕顔ひらくとき夕餉
茂里美絵 埼玉

 「夕顔ひらくとき夕餉」という、自然と呼吸を合わせた日常感が素敵だ。静かに澄んだ老境。寂しさも静かに混ざる。


36

鑑賞日 2011/1/20
もう誰のことも思わず穴惑い
森内定子 福井

 人間の心理のある負の状況を「穴惑い」に結びつけて言い留めている。こういう句を見ると、やはり、花鳥諷詠など糞喰らえと思わずにはいられない。


37

鑑賞日 2011/1/20
坐るたび空を見る癖野紺菊
森央ミモザ 長野

 「野紺菊」が素晴らしい。金子先生の言い方を借りれば、「野紺菊」一発ということになる。読んでいると、この野紺菊は作者であり、また作者は野紺菊である、というふうに思えてくる。


38

鑑賞日 2011/1/21
をみなえしときけば川崎展宏さん
矢野美与子 東京

 川崎展宏さんを知らないので、なるほどなるほどとは首肯けないのではあるが、おそらくこういう感じがあるのであろう。句や写真の顔などから、ある程度、なるほどとも思える。作者が川崎展宏さんに親しみを持っているのは確かである。


39

鑑賞日 2011/1/21
郁子明り長生きは娑婆塞ぎとも
山本キミ子 富山

 郁子[むべ]は暖地の山地に生える常緑つる性植物で、果実は通草に似ている。

 「長生きは娑婆塞ぎとも」というのは、そうだとも言えるし、違うとも言える微妙な問題である。「郁子明り」の中で観照しよう。


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