表紙へ 前の号 次の号
金子兜太選海程秀句鑑賞 468号(2010年12月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2010/12/3
木偶と呼ばれT字路に佇つ瓜番よ
新井まり子 京都

 自分のことだろうと思う。「瓜番よ」は瓜番のようなものということであろう。まあまあ役に立たないことはないが、それほどのことはないというようなことだろう。「木偶と呼ばれ」ているのだから。「T字路」という真直ぐには行けない、せいぜい横に行けるだけの路というのも象徴性がある。多くの経験を積んできた人の感慨に違いない。私にも身に憶えがある。おそらく、右往左往しないで、眺めているのが最善なのかもしれない。


2

鑑賞日 2010/12/3
八月の祈り草木にかぶれた手
井手郁子 北海道

 「じっと手を見る」という啄木の歌を思いだすが、それよりも詩的であり、肯定的あるいはより覚醒的であり、イメージの広がりも大きい。短歌と俳句の特性の違いかもしれない。俳句は短い故に、それが上手くいったときには、逆にイメージの広がりが大きくなるような気がする。


3

鑑賞日 2010/12/4
向日葵に赤子を高く高く上げ
宇川啓子 福島

 いのちの讃歌。向日葵のいのち、赤子のいのち、赤子を掲げ持つ母のいのち、そして背後に太陽のいのちを感じる。映像としても、印象鮮明である。


4

鑑賞日 2010/12/4
人の世の方円に水こぼれ萩
梅川寧江 石川

 「水は方円の器に従う」という言葉を踏まえての作。哀しくも美しい抒情。一人の女性の物語が目に浮んだりもする。「萩」がその女性の哀しくも美しい化身のように思えたりもする。


5

鑑賞日 2010/12/5
閑けさや木の蝉まれに失禁す
大沢輝一 石川

 芭蕉の「閑かさや岩に染み入る蝉の声」の詩性を踏まえて、それに諧謔性を付け加えたもじりの句。詩と諧謔、それが俳句の大きな二つの要素である。


6

鑑賞日 2010/12/5
軍服の族何人門火焚く
岡崎万寿 東京

 〈族〉は[うから]とルビ

 父の若いころの写真などを見ると、父をはじめ軍服姿の兄弟やらが映っているのがある。そしてその何人もが帰ってこなかったという話を聞いたことがある。そういう血族に思いを馳せて盆の門火を焚いているというのである。忘れてしまいそうなところを思いださせてくれる一句である。


7

鑑賞日 2010/12/7
北信五嶽夭夭の桃懐に
小川久美子 群馬

 北信五嶽の懐の里に桃が夭夭の桃といえるような桃がたわわに実っているという風景が見える。この「夭夭の桃」は兜太の「抱けば熟れいて夭夭(ようよう)の桃肩に昴(すばる)」という『詩經國風』の句を踏まえた作であるから、当然、「桃」は女性、「北信五嶽」は男性的なるものの象徴であるだろう。自然の風景の中のエロスを感じる。兜太の句を知らなくとも、そういう感じは起りうるが、知っているほうが、より味わいは深い。


8

鑑賞日 2010/12/7
竹夫人われは正室足のせる
奥田筆子 京都

 解放された現代の夫婦関係における、妻の戯けであり、明るく軽快なエロスも漂う。


9

鑑賞日 2010/12/9
炎天の端から端に引越しぬ
小野裕三 神奈川

 どこもかしこも炎天、どこまで行っても炎天、逃れようもない炎天、という感じである。そうい季節感の中での日常感。


10

鑑賞日 2010/12/9
水を撒く身の濁流へ石ころへ
狩野康子 宮城

 人生真っ只中という感じの境涯感。人生は流れている、しかも概ね濁っている、そしてあちらこちらに何だかんだと焼け石が転がっている。水を撒いたってしょうがないかもしれない。しかしやはり水を撒く。水を撒くことくらいしかできない。


11

鑑賞日 2010/12/10
ががんぼの脚がはみだしてならぬ
加納百合子 奈良

 どうもぴったりと上手く当てはまらない。どうも全体が整合しない。どうももどかしい。こういうことは生きてあることの人間の常なる心理であるが、現代物理学の最先端の理論にも言える事だし、ガガンボの脚にでも言えることである。宇宙の斉一性。


12

鑑賞日 2010/12/10
押し黙る八月六日海の上
川西志帆 長野

 海の上で押し黙っているのは作者なのであるが、読んでいると、八月六日そのものが押し黙っているというような感じが起ってくる。人類最初の原爆が投下された日、八月六日。存在全体が沈黙して、時が止ってしまったようだ。


13

鑑賞日 2010/12/11
形見の傘と一緒に茅の輪くぐるかな
河原珠美 神奈川

 親しかった者、愛していた者を失った当所は、その喪失感に打ちのめされるが、時間が経つにつれて、何も失われてはいない、むしろその人は常に自分の中で一緒に生きているという感じにならないだろうか。おそらく、そういうことは、愛の不滅性ということの一つの反射であると思う。この句を見ながら、そんなことを考えた。


14

鑑賞日 2010/12/11
夜の喜雨蓮如のお文来たように
城至げんご 石川

 「蓮如のお文」は蓮如の文章、あるいは手紙というようなことであろう。作者は「夜の喜雨」を蓮如の言葉をのように感じている。一つの信仰告白でもあるゆえに、句が熱い。「夜の」という言葉にも含意を感じる。


15

鑑賞日 2010/12/12
他人には褒められる夫夏燕
木村清子 埼玉

 多くの人に共感を得る日常感である。そして、俳句というものはいいものだなあ、俳句は日常の詩であるなあ、と思わせるものは、やはり座五の「夏燕」の故であろう。


16

鑑賞日 2010/12/12
フィクションに軽いエロスや青蜥蜴
黒岡洋子 東京

 世界はフィクションに過ぎないかもしれない。神の書いたお伽話かもしれない。そして神はいたずら者である、洒落者である。そこにちょっとしたエロスも差し挟む。ちなみに「青蜥蜴」は尻尾の部分だけが青いそうである。


17

鑑賞日 2010/12/13
夏野から雲は流れてゆきにけり
こしのゆみこ 
東京

 好句である。さっぱりとした平明な叙述でありながら、万人が持っている原風景と言えるような、大きな景を見せてくれている。こんな句が書きたいものだ。


18

鑑賞日 2010/12/13
命終はしろさるすべりの風に
小林一枝 東京

 〈命終〉は[みょうじゅう]とルビ

 きれいな句だ。「しろさるすべりの風に」がとても良いし、その良さを引き立てているのが「命終」という言葉の選択であろう。


19

鑑賞日 2010/12/14
蛍火に自意識などはさらさらなし
小林まさる 群馬

 おそらく、蛍火を見たときに咄嗟に出てきた言葉なのではないだろうか。ごたごたと作り上げたのではなくて、さっと出てきた言葉だという印象がある。自分の中に潜んでいた言葉が蛍火と出会って自然に流れ出た感じである。ゆえに蛍火が妙に鮮明に見えて来る。


20

鑑賞日 2010/12/14
泣いて勝った妹にも白髪墓参り
小堀 葵 群馬

 法事などでの一つの場面が誰の目にも生き生きと思い出されるだろう。「泣いて勝った妹」に共感性がある。佳句である。


21

鑑賞日 2010/12/15
感情の広い林にパセリの家
斉木ギニ 千葉

 「感情の広い林」という捉え方が新鮮である。そして「パセリの家」がお洒落である。この作家は新鮮でお洒落な句を作る。


22

鑑賞日 2010/12/15
眼の届く中の日盛薬師かな
鈴木孝信 埼玉

 作者は病気療養中なのであろうか。眼が届く中に日盛りがあって、その中に薬師が立っている、あるいはその日盛りそのものが薬師に見える、というような感じがする。このような感じは、人間の希望というものの構造そのものの感じであると敷延できるような気がする。ちなみに「薬師」は医者という意味もあるが、薬師如来という意味の方が強いだろう。


23

鑑賞日 2010/12/16
特攻花ゴルフボールを隠しけり
高木一惠 千葉

 「特攻花」とは特攻隊にまつわる花だそうである。それは、大錦鶏菊だとも言われているそうであるし、天人菊だとも言われているそうである。詳しくは
http://washimo-web.jp/Report/Mag-TokkouBana.htm
を参照してほしい。
 ともかく、戦時中の特攻隊にその名前が由来する花がゴルフボールを隠してしまったというのである。豊かさ平和さ、もっと言えば豊かそうに見える平和そうに見える競技であるゴルフのボールと特攻花の出会いである。現代の繁栄の構造を切り取っている。


24

鑑賞日 2010/12/17
蝉の殼緑地に拾いベビーカー
竹内義聿 大阪

 ある場面が鮮明に見えてくる、という鑑賞でいいのだろうか。それとも、「蝉の殼緑地に拾い」と「ベビーカー」の何かしら微妙なつながりがあるのだろうか。今のところはよく分らない。


25

鑑賞日 2010/12/17
素裸にまどろむ僧の白きこと
堅阿彌放心 秋田

 いわゆる物体感、あるいは物象感ということであろうか。または、存在の無垢な感じ。


26

鑑賞日 2010/12/18
群衆や西日に弱味を握られて
峠谷清広 埼玉

 おそらくかなり多くの現代人の奥底に潜んでいる感じ方ではないだろうか。西日に弱味を握られているという感じである。現代人の心理を穿った心理詩であるし、勤め先から夕方帰宅するサラリーマンたちの姿が現前してくる現代の風俗詩でもある。また作者特有の諧謔感が何とも味がある。


27

鑑賞日 2010/12/18
水中花臓器切ったり繋いだり
中尾和夫 宮崎

 美しいがどこか儚いどこか人工的な感じの水中花と「臓器切ったり繋いだり」が響き合う。意味の上でも響き合うし、なにより視覚的感覚的に響き合っているというのが一番の魅力である。


28

鑑賞日 2010/12/19
茄子を焼く底光りするをんな来て
中島偉夫 宮崎

 こん「をんな」その人が魅力である。こういう魅力的な人物像を俳句という短い言葉で描けたのが凄い。


29

鑑賞日 2010/12/19
目刺し三匹の夕餉最小不幸というか
成田恵風子 福井

 「最小不幸の社会」ということを菅首相が言った。それを風刺している。言葉そのものではなく、むしろ言葉の奥に潜む政治家全般の思考の浅薄さである。現今では、幸不幸を経済的な部分に直結して考える風潮がある。果してそうだろうか。また幸不幸を段階的なもの相対的なものとして考えるが、果してそうだろうか。疑問を投げかけている。そしてその疑問は人間存在とは何かという問題を含む。


30

鑑賞日 2010/12/21
茎立ちやうかつに他人をなつかしむ
根岸暁子 群馬

 日常生活の中で、何かのきっかけである人のことを思いだしたりして、その人のあれやこれやを考えたり懐かしんだりして、ついつい時間を過ごしてしまうことがある。「茎立ち」は日常の象徴でもあるし、またついつい時間を過ごしてしまうということの象徴でもあるような感じがある。


31

鑑賞日 2010/12/21
白桃剥く指あり庇深くあり
日高 玲 東京

 「庇」は「疵」の誤字あるいは誤植ではないかとも思えるのだが。「疵(きず)深くあり」だと一種の境涯感であり、「庇(ひさし)深くあり」だと人間の隠微な性(さが)のようなものが表出される。前者はストレートだし、後者だと人間の性を穿って描いていることになる。どちらも捨てがたく面白いというのは不思議でもある。おそらく「白桃剥く指あり」という言葉の印象の強さだろう。


32

鑑賞日 2010/12/22
竹煮草ぐじゅっと昼がやってくる
平田 薫 神奈川

 こういう優れたオノマトペの句に対しては何も言うことはない。敢て言えば、「竹煮草」を配合させた手柄だろうか。
 オノマトペとは何ぞや。存在が発する言葉としての音?あるいは言葉と音の中間にあるもの?


33

鑑賞日 2010/12/22
辛味大根ちんまりと冷え地下市場
本間 道 新潟

 この句も「ちんまり」というオノマトペが大根の有り様、また地下市場の有り様、そしてどこか現代の生活様式全般のちんまり感を出している。


34

鑑賞日 2010/12/23
山の僧一汁一菜半ズボン
水上啓示 福井

 句としては「半ズボン」の落ちが全てである。そして興味としては、この僧自体に移ってゆく。この句に表現されているような山の僧がいることを思うと嬉しくなる。慎み深く且つ自由である僧本来の姿。


35

鑑賞日 2010/12/23
涼しさを恥ずかしと言ういもうとよ
三井絹枝 東京

 この妹の人物像が見えてくる。そしてその妹への作者の親しい眼差し。いい句だ。


36

鑑賞日 2010/12/24
竿燈のひかりのクロスワードかな
武藤暁美 秋田

 伝統的な祭りの「竿燈」を現代感覚で捉えたところが味噌である。

秋田竿燈祭りの竿燈 Wikipediaより

37

鑑賞日 2010/12/24
小気味よく夏野をよぎる独りである
村上友子 東京

 他者との煩わしい人間関係を離れての一人旅という感じもあるし、「独り」というのが実は風であったり他の事物であったりするような感覚も起る。「小気味よく」がまさに小気味よい。


38

鑑賞日 2010/12/25
自動的に口が開くなり焼きなすび
横山 隆 長崎

 焼きなすびがあまりに旨そうなので、自分の口がもう自動的のように開いてしまった、というのである。旬のなすびの旨そうな感じ、そしてそのなすびと自分との関係をコミカルにまた即物的に描いている。


39

鑑賞日 2010/12/25
夕月夜酒の肴の塩浸みる
佳 夕能 富山

 〈浸〉は[し]とルビ

 私は酒を嗜まないが、酒を嗜む人の気持ちが分るような感じがする。夕月を見ながら酒を飲む。その酒の肴の塩が体中に浸み、そして全てに浸みわたってゆくような感じ。人間に生まれてきてよかったなあ、酒というものがあってよかったなあと思う瞬間である。


表紙へ 前の号 次の号
inserted by FC2 system