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金子兜太選海程秀句鑑賞 467号(2010年11月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2010/11/4
鳥なべて低きくもり日麦の秋
飯土井志乃 滋賀

 「鳥なべて低きくもり日」という感覚には諾わされるものがある。言葉で意識して自然に親しんでいる人でないと、こういう感覚にはなかなか気づかないだろう。


2

鑑賞日 2010/11/4
初夏の黄河という名の赤ん坊
井手郁子 北海道

 実際の黄河を赤ん坊と見做したのか、あるいはそういう名前の赤ん坊がいたのか。作句のきっかけは後者であるような気がするが、前者の捉え方というか想念もとても魅力がある。「初夏」がとても響く。


3

鑑賞日 2010/11/5
言葉とか雨は滲んで黒揚羽
伊藤淳子 東京

 抒情、そして、たっぷりとした実体感。


4

鑑賞日 2010/11/5
降る火山灰に茄子一輪の花かがやく
今福和子 鹿児島

 「火山灰」は[よな]と読ませるのだろう。冴え冴えとした景色。存在からの一つの啓示であるような景色である。


5

鑑賞日 2010/11/6
夏の星伯母はとぼけて白寿かな
宇野律子 神奈川

 「とぼけて」が面白い。「夏の星」と合わせて、この伯母さんの人柄が偲ばれる。


6

鑑賞日 2010/11/6
片耳の聞こえぬボクサー夏の星
榎本愛子 山梨

 「春の星」ほど若々しく溌剌としているのでもなく、秋の「星」ほどきらきらと光を発しているわけでもなく、「冬の星」ほど悲壮感を漂わせて冴えているというのでもなく、坦々とした熱を秘めて日々の努力をこなしている、栄誉や結果は二の次であるというような心持ちを持った人物像のような雰囲気を「夏の星」から感じる。しかも彼は「片耳の聞こえぬボクサー」なのである。


7

鑑賞日 2010/11/8
退屈な犬に嗅がれて蝸牛
榎本佑子 兵庫

 動物の日常といのちへの共感があって楽しくもあり親しくもあり好ましい。ゆったりとした作者の心持ちというものも感じる。


8

鑑賞日 2010/11/8
わが脳髄のジャズ涸らすなよ青水無月
大高宏充 東京

 〈脳髄〉は[しま]とルビ

 〈脳髄〉を[しま]と読む読み方があるかどうかは知らないが、「わが脳髄(しま)」で何か自分の心の中で大事にしている領域というようなものを句から感じた。また「ジャズ」という言葉に、何か自由で融通が利く心の在り方というようなものを感じる。つまり、いつまでの自由という心の在り方を忘れたくはないなあ、ということではないだろうか。そして、そういう心情が「青水無月」ととてもよく響き合うし、ジャズの音が聞こえてくるようでもある。


9

鑑賞日 2010/11/9
放馬そのたてがみ蛍の火にさらす
大西健司 三重

 放たれた馬がそのたてがみを蛍の火にさらしている。野性の味を味わっている。自由の味を味わっている。自由でなければ野性の味は味わえない。いい景色だ。


10

鑑賞日 2010/11/9
十月は父の忌父似の仏さま
小川久美子 群馬

 どこかの仏像を見ての感懐だろう。石仏のようなものかもしれない。円空仏のようなものかもしれない。父への思いの深さが感じられる。この作家は父の句の秀句が多い。


11

鑑賞日 2010/11/10
血筋だと道筋だのと柿青し
門脇章子 大阪

 ニーチェは人間を三つの段階に分類して、ラクダ・ライオン・子ども、という比喩で表わしているそうである。一番低い段階のラクダは、ただもぐもぐもぐもぐと伝統やしきたりや知識を咀嚼しているだけの存在。二番目の段階のライオンには自我の目覚めがあり、独立不遜に自分の道を歩む。最終段階の子どもになると、自我からも自由になる。この句における「血筋だと道筋だのと」言っている人はラクダである。要するに未熟で、まだ青く、食べれば渋い柿である。


12

鑑賞日 2010/11/10
鉄線花の蔓さき脳に近付きぬ
川村三千夫 秋田

 インドのラージャヨガでは、人間の意識の上昇の過程のそれぞれのステージをチャクラという。肛門の辺りにあるチャクラ、性器の辺りにあるチャクラ、臍の辺りにあるチャクラ、心臓の辺りにあるチャクラ、喉の辺りにあるチャクラ眉間の辺りにあるチャクラ、そして最後に頭の天辺にあるチャクラである。そしてそれぞれのチャクラはそれぞれ何片かの花びらをもった蓮の花でイメージされている。ヨギの霊的な生長にともなって肛門のチャクラから脳の天辺にあるチャクラまでその意識は登りつめるのである。そしてその意識の上昇にともなってそれぞれのチャクラの蓮の花が開いてゆくというイメージはそれなりに美しいものがある。ちなみに脳の天辺にあるチャクラは千片の花びらをもった蓮の花で象徴されている。
 この句を読んで、そんな事が連想されたのである。このチャクラの象徴としての花は鉄線花であってもかまわない訳である。「鉄線花の蔓」はすなわち意識の上昇の象徴ということになる。


13

鑑賞日 2010/11/11
鳳梨に口角上ぐる寂しさあり
木下ようこ 
神奈川

 〈鳳梨〉は[あななす]とルビ

 「鳳梨」とはパイナップルのことらしい。「口角」とは唇の両脇の部分であるから、「口角上ぐる寂しさ」とは微笑むような顔の形なのであるが寂しいという感じ。自分には寂しさがある、その時に鳳梨を出されてもてなされたので、微笑もうとしたが、やはり寂しい。心理の微妙なところを、「口角上ぐる寂しさ」と具体的に見事に書いたと思う。


14

鑑賞日 2010/11/11
初蝉やごはんの白さばかりです
小池弘子 富山

 単なる感覚でもない。虚無感でもない。「ごはんの白さばかり」という日常感は、平凡がすなわち永遠ということにつながっているような感じなのではないだろうかと推測している。そういう日常感に生きている時に、アクセントとして少し初蝉の声が混じる。


15

鑑賞日 2010/11/13
夏の山知ってる石に手を乗せて
河野志保 奈良

 さっぱりとした日常感と自然への親しさ。この親しさは恋人どうしのそれのようではなく、長年連れ添った夫と妻のそれのように、胸が高鳴るというようなものではなく、常に傍らを流れている水のように、さりげなく、またそれ故にその関係が切っても切れない程の親しさである。


16

鑑賞日 2010/11/13
驟雨来て下野薬師寺立つ如し
五島高資 栃木

 作者が見た幻影だという感じである。私はこの句を読んで、黒澤の映画『羅生門』の降りしきる雨の中に立つ羅生門の姿が思い浮かんだ。きっとどこかそういう連想を生む雰囲気がこの句にあるに違いない。「夕立」ではなく「驟雨」という字の感じであるとか「下野薬師寺立つ」であるとかから引き起される雰囲気である。


17

鑑賞日 2010/11/14
求人欄蝦夷梅雨らしきものの降る
佐々木宏 北海道

 北海道は梅雨が無いといわれるが、蝦夷梅雨というものがあるらしい。七月頃の肌寒い日に小雨が降ったりする。本州と同じく梅雨前線の影響であるが、豪雨とはならないそうである。昨今の求人欄の様子がこのような蝦夷梅雨の感じと通じるものを作者は感じている。


18

鑑賞日 2010/11/14
男梅雨緑野を目指す舟ありて
佐藤美紀江 千葉

 「男梅雨」とは、激しく降るがまた晴天も多いというような梅雨であるそうである。ちなみに「女梅雨」とはしとしとと長雨が続くようなものであるらしい。
 「緑野を目指す舟」というのは実際の舟だろうか。私にはむしろ象徴的な「舟」であるような感じがする。ざーっと強く激しく降ることもあるが、晴天の日も多い、男梅雨の季節に、緑野を目指す舟がある。若々しい希望とエネルギーの感じられる句である。


19

鑑賞日 2010/11/15
シェフのよう香魚ひんやり横たえて
猿渡道子 群馬

 とても新鮮な香魚(鮎)を俎板に載せて、これから調理しようとする時の高揚感が伝わってくる。ある種、仕事を始める時の敬虔な気持ちのようなものもあるかもしれない。「ひんやり」が印象的。


20

鑑賞日 2010/11/15
木槿とう気短な花お弔い
柴田美代子 埼玉

 「お弔い」という語調がポイントだろう。死者への、また死というものを内包する存在自体への、深く美しい想いを感じる。


21

鑑賞日 2010/11/16
夏の闇無灯回送列車来る
菅原和子 東京

 この「無灯回送列車」の存在感。無関心でいたり、放っておくわけにもいかない存在。人間の心理の闇の部分に存在する、退かしようもないものの象徴というような感じもある。


22

鑑賞日 2010/11/16
肉を焼く音ひぐらしとなりゆけり
鈴木修一 秋田

 「肉を焼く音」と「ひぐらし」の二物配合が、とにかく上手いのである。自然とともに在る野性的で自由な人間の営みという景色が見え、わが心の中の、それへの郷愁がかき立てられる。


23

鑑賞日 2010/11/17
歯を洗う朝氾濫の河があり
瀧 春樹 大分

 難解である。「歯を洗う」と「朝氾濫の河があり」の関係が私にはよく掴めない。「歯を磨く」ではなく「歯を洗う」というのも何かありそうだがよくは解らない。心理句のような気もするが定かではない。


24

鑑賞日 2010/11/17
アンリ・ルソー雨滝なす夜の緑かな
田口満代子 千葉

 〈雨滝〉は[うたき]とルビ

 アンリ・ルソーの森の中の風景を描いた作品のことを思えば、この句は解る。かといって、「アンリ・ルソー」と「雨滝なす夜の緑」が付きすぎているわけではない。付かず離れずのところに、この作者のロマンがある。


25

鑑賞日 2010/11/18
青田のむこう病むひとに添う山の神
田中昌子 京都

 いい句だと思う。生命感と祈りと優しさのある景色が見える。


26

鑑賞日 2010/11/18
一よりも淋しきいのち髪洗う
月野ぽぽな 
アメリカ

 「一よりも淋しきいのち」という把握、あるいは表現がとても魅力的である。人間存在として在ることそのものの孤独感といったらいいだろうか。一と零の間の孤独感といったらいいだろうか。死と悟りの間の孤独感といったらいいだろうか。人間存在としての根源的な問いが潜んでいる句だという気がする。


27

鑑賞日 2010/11/19
凝視のごと頬杖をして夏深し
董 振華 中国

 「凝視のごと」という言い回しがこの句の生命なのだろう。実際に凝視しているというのでは、何となく神経的になってしまうが、この句には、静謐な存在感がある。


28

鑑賞日 2010/11/19
母逝きて二人静は咲かぬなり
中島まゆみ 埼玉

 「二人静」という花の姿と、殊にその名前が、母とこの作者の曾て有った時間を暗示して、上手い句である。母と、そして母と過ごした時間への作者の深い思いが感じられて、じんとくる。


29

鑑賞日 2010/11/20
口蹄疫牛屠る夏星雫せよ
野田信章 熊本

 口蹄疫で屠られる牛達も人間の都合で屠られるのではなく、夏星に屠られるのだとしたら、諦めもつくかもしれない。しかし、ともかく、夏星よ雫せよ。祈りの句である。


30

鑑賞日 2010/11/20
ずいぶんと言い過ぎた夜のみみず鳴く
長谷川育子 新潟

 この「みみず」はどこか作者の胸の奥のあたりで鳴いているに違いない。しかし、最初からそういう風に受け取ってしまっては身も蓋もない。庭の隅かどこかでジーと鳴いている。それが「ずいぶんと言い過ぎ」てしまった自分の胸にジーっと響くのである。世界は自己の有りようの反映だからである。世界と自己は一つであるからである。


31

鑑賞日 2010/11/21
原爆忌乳房が二つあればいい
浜 芳女 群馬

 母性の象徴である乳房。その乳房が失われるということは、母性の喪失ということの象徴であるともいえる。戦争だとか、人を殺めること、ましてや大量殺人である原爆というようなものは、この母性ということには徹底的に反している。母性が健全に機能していれば、原爆投下などということは起きないはずである。


32

鑑賞日 2010/11/21
文芸や蔵は十分しぐれてる
福原 實 神奈川

 蔵の中に居て、蔵書の整理をしているとか、何らかの文芸活動をしているとかの場面などが思い浮かぶ。折から時雨が降っている。蔵の中も時雨ているように湿っぽい。そういえば、文芸の蔵というものも十分しぐれてしまっているようだ。


33

鑑賞日 2010/11/22
水彩の反故の重なり麦熟れて
藤江 瑞 神奈川

 この人は画家だろうか。少なくとも、絵を描くことが生活の一部になっている人のような気がする。水彩画の反故が重なってゆくなあ、麦が熟れているなあ、という実感に、絵を描くことが生活の一部となっている人の感懐があるように感じるからである。また、視覚的には、水彩で描かれた夥しい数の麦の穂が見えてくる。


34

鑑賞日 2010/11/22
ストッキング脱ぐように剥ぐ烏賊の皮
三木冬子 東京

 この人は料理上手に違いない。先日私も烏賊のてんぷらを作るときに烏賊の皮を剥いだが、なかなか思うようにいかなかった。ストッキングを脱ぐように烏賊の皮を剥げるのは手慣れた感じである。譬えに生活する女性の実体感がある。


35

鑑賞日 2010/11/23
デクノボーたれと裸子抱きあげる
三田地白畝 岩手

 「偉い人になれ」とか「強い人になれ」とか「美しい人になれ」とか「人の上に立つ人になれ」・・とかならごく常識的で世間的である。しかし、これらは全て他者との比較においての相対的な価値観である。いわば、競争社会でのあがきの投影である。その点「デクノボーたれ」というのはある意味絶対的な価値観に基づいた言葉掛けである。デクノボーであってもしあわせ、ビリであってもしあわせ、ということが大安心、大丈夫の境地だからである。


36

鑑賞日 2010/11/23
涼しさに恥ずかしさありいもうと
三井絹枝 東京

 妹と一緒に居ることの微妙な心理。あるいは妹その人の描写か。いずれにしても、人間存在の女性的な面を描くのが上手い作者ならではの表現。


37

鑑賞日 2010/11/23
母と握手ふつうの握手かたつむり
宮崎斗士 東京

 「母と握手ふつうの握手」と「かたつむり」の関係が問題である。心理的に疎遠になっていた母との関係がゆっくりと近づいてきた場面であるという感じがしないでもないし、単に日本人的な恥と平和の愛情表現の場面であるという感じがしないでもないし、母とふつうの握手しか出来ない自分を殼を背負ってゆっくりとしか歩けないかたつむりのようだと見ているのかもしれない。


38

鑑賞日 2010/11/26
蛍火や四十手前の寡婦の母
森  鈴 埼玉

 「四十手前の寡婦の母」という状態を「蛍火」に譬えている。小さくもあるが、美しく光っている。一つのいのちへの応援歌だ。


39

鑑賞日 2010/11/26
麦秋のどこまで眠りどこから死
柳生正名 東京

 黄金色のどこまでも広がる麦畑を見ている感じがある。そこに作者は存在というものを感じている。たとえばマーク・ロスコのある絵のように、構成の殆ど無い色面だけでできた抽象画を眺めていて、存在、あるいは人間存在を知らず知らずに思念していることが有るように。美しい色面を作り上げたマーク・ロスコは自殺してしたが、あの絵から想像してみれば、彼には死と眠りという観念の結びつきがあったとも考えられる。いや、今この句を読んで、そういうことを考えたのである。


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