表紙へ | 前の号 | 次の号 |
金子兜太選海程秀句鑑賞 466号(2010年10月号)
|
(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2010/10/3 | |
着こなしの良さも茅花を流すとや
|
相原澄江 愛媛
|
茅花流しはチガヤの穂綿を吹き散らす南風で、初夏のものである。いかにも気持ちのよい風である。着こなしの良さがその茅花流しを誘うというのである。人間の色気と自然の色気の溶け合いという風情で気持ちがいい。 |
鑑賞日 2010/10/3 | |
洗い張りする母の背に草矢かな
|
新井姪子 埼玉
|
昭和世代の私にとっては懐かしい情景である。モノクロのあるいはセピア色の情景である。「洗い張り」「草矢」「母の背」みんな懐かしい。 |
鑑賞日 2010/10/4 | |
さめやらぬ青大将のごろんかな
|
石川義倫 静岡
|
心の昂ぶりを書き取った。青大将がごろんといるのを見た時の驚きや興奮がなかなか冷めやらぬというのであろう。 |
鑑賞日 2010/10/4 | |
新じゃがを煮る眉山に眉を寄せ
|
市原光子 徳島
|
〈眉山〉は[まゆやま]とルビ 作者は徳島の人。徳島市には眉山(びざん)という山があるそうである。眉の形に似ているのだそうである。おそらく土地の人は親しみを込めてマユヤマと発音しているのかもしれない。その眉山を眺める時には自分の眉を山の形に合わせてみたりするのが、あるいは日常的になっているということもあるだろう。自分の土地への親しみと、また「新じゃがを煮る」という生活の弾みのようなものが合わさって、作者の日常を大事にしている感じが伝わってくる。 |
鑑賞日 2010/10/5 | |
句敵やそれとも寝ずのほととぎす
|
上野昭子 山口
|
「ほととぎす」からどうしても結社ホトトギスの人達のことを思う。あの人達はいわば寝ない時鳥のようだ。相も変らず、花鳥諷詠花鳥諷詠とやっていて飽きない。皮肉が痛快である。 |
鑑賞日 2010/10/5 | |
おとうとは河童の頭象の尻
|
大西政司 愛媛
|
思わず笑いたくなるような形容である。弟への親しみが伝わってくる。 |
鑑賞日 2010/10/6 | |
侍をたくさん噴いて弥生山
|
小野裕三 神奈川
|
弥生山とは旧暦で三月、新暦で四月頃の山のことである。この句の山は侍をたくさん噴いているそうであるが、活火山が噴いている様子だろうか。あるいは、この山の上を春の雲が流れてゆく様子であろうか。ともかく作者はそう感じたのであり、そういう心象風景もあるような気がする。 |
鑑賞日 2010/10/6 | |
ふる雪のとほいところにしんぶんし
|
加納百合子 奈良
|
降る雪そのものの視覚的な感じのような気がする。ほとんど仮名書きというのもそういう感じを起させる。そしてまた、「しんぶんし」というのは何か作者の心の裡にある気掛かりのようなものの象徴という気もしないでもない。 |
鑑賞日 2010/10/7 | |
御不浄につばめが来ますまほろばは
|
河原珠美 神奈川
|
「御不浄」「まほろば」という言葉。そしてそこに、つばめが来る。典雅な世界であると同時に俳味がある。 |
鑑賞日 2010/10/8 | |
孑孑や一切水光省略する
|
久保智恵 兵庫
|
〈水光〉は[みでり]とルビ 「一切水光省略する」と言われてみると、却って水の光を感じてしまう。きらきら光る水の中を孑孑がゆらゆらと上がったり下がったりしている情景を意識してしまう。そのものの不在を言えば、そのものの存在が却って意識されるという心理は確かにある。 |
鑑賞日 2010/10/9 | |
過去という絶対の上の昼寝かな
|
黒岡洋子 東京
|
もはや変えることが出来ないという意味では、過去は絶対である。過去のことに関して悩んだりくよくよしたりするのは本質的には何の意味もない。ただしおそらく業ということはあるだろう。違う言葉でいえば過去の結果として現在背負ってゆくべき十字架である。過去を絶対のものとして昼寝をする作者は、おそらく何かしら腹をくくった潔い生き方をしている人なのかもしれない。 |
鑑賞日 2010/10/9 | |
天牛よ“いづち昔の人や去りけむ”
|
小林一枝 東京
|
“いづち昔の人や去りけむ”、何処へ昔の人は去ってしまったのだろうか、というのである。この人間の普遍的な問いを、カミキリムシに問い掛けているのがいい。カミキリムシすなわち天牛という漢字の表記の面白さも加味されている。 |
鑑賞日 2010/10/10 | |
皐月に入るわれ娘を産みし日なり
|
小松京華 神奈川
|
もちろん作者自身が娘を産んだ日であるということなのであろうが、雰囲気としては何処かしら神話的な雰囲気、すなわち「われ」というのが宇宙あるいは世界そのものであるような大きな雰囲気がある。母性というものの持つ一つの雰囲気なのかもしれない。 |
鑑賞日 2010/10/10 | |
平凡とは丸いおにぎり森林浴
|
篠田悦子 埼玉
|
平和で満ち足りているなあという感じがする。そして羨ましくもある。森林浴に行って丸い白いおにぎりを食べる平凡。こんな平凡が平和であり満ち足りているということだということを忘れたくないものである。 |
鑑賞日 2010/10/11 | |
生きること生きて在ること野鶏頭
|
柴田和江 愛知
|
「野鶏頭」がいい。金子先生なら「野鶏頭いっぱつ」と言うだろう。野鶏頭の赤が染みてくる。 |
鑑賞日 2010/10/11 | |
青田あおし柩はしろし村の西
|
白井重之 富山
|
色彩の対比のうちに、生と死の対比を忍ばせて静かだ。「村の西」という場の設定も、生と死という全体を眺めている雰囲気を強めている感じがする。 |
鑑賞日 2010/10/12 | |
若き林檎若き小豚が食べ終る
|
末永有紀 福島
|
ころころとした若いいのちを、ころころとした若いいのちが食べたという面白さ。そいうことを微笑ましく見ている感じ。 |
鑑賞日 2010/10/12 | |
鰹一本ノーネクタイの背広で来
|
高木一恵 千葉
|
ノーネクタイの背広の男が鰹一本を持ってやって来た。あるいは鰹自身がノーネクタイの背広姿でやって来た。いずれにしろ、この鰹の印象が強い。 |
鑑賞日 2010/10/15 | |
泣くものに勝ってどうする茄子植える
|
高桑婦美子 千葉
|
「泣くものに勝ってどうする」というセリフと「茄子植える」との関係が分れば、この句の味は分る。農家であるにしろ、家庭菜園であるにしろ、茄子を植えるような日常を送っている人のイメージを想えば、地に足をつけた生活をしている人という感じがするが、そういう人のセリフとして「泣くものに勝ってどうする」という言葉は真実味がある。いい味だ。人間の味だ。 |
鑑賞日 2010/10/15 | |||
蚊遣火の消えて芭蕉の生家かな
|
田口満代子 千葉
|
||
〈蚊遣火〉は[かやりび]とルビ 三重県伊賀市上野赤坂町に芭蕉の生家が残っているらしいが、そこへ行った時の感慨であろう。現在では芭蕉もその縁の人々もいなくなってしまった、という当時を偲んでの感懐。「蚊遣火の消えて」と具体的な一つの事柄で表現しているところが、想像力というものであろう。
|
鑑賞日 2010/10/16 | |
くちなはと人売られゆく晩夏かな
|
田中亜美 神奈川
|
人間疎外ということを深く意識せざるをえない詩人の魂であろう。現代の日本においても、たとえば派遣労働者などは物のように売られているのだとも言えるし、外国では少女が売春のために売られるということもあるらしい。おそらくいつの世にあっても、人間の疎外ということを深く感じて表現するということは、詩人の役目に違いない。 |
鑑賞日 2010/10/16 | |
みぞおちは破船の昏さ草いきれ
|
月野ぽぽな
アメリカ |
自己の中の記憶の深い暗部を「みぞおちは破船の昏さ」と表象した。「草いきれ」は世界である。自己と世界の関係を真摯に描いているように思う。感性と表現力と内省の力を具えた作家である。 |
鑑賞日 2010/10/18 | |
休耕田われ泣きぬれて田となれり
|
徳才子青良 青森
|
作者は農の人なのだろうか。この田との一体感、土との一体感は一朝一夕のものではない。おそらく、このような句に対して、あれこれ言っても、そんな言葉はみんな軽いのではなかろうか。 |
鑑賞日 2010/10/18 | |
伊勢参り飛魚の目線で湾渡る
|
中島偉夫 宮崎
|
〈飛魚〉は[あご]とルビ おそらく飛魚に出会ったのであろう。そしていつのまにか自分も飛魚の目線になっていたというのであるが、そこには軽い「・・になってしまう」感覚というようなものがあったと想像される。 |
鑑賞日 2010/10/19 | |
みみずなくかの方丈記あたりまで
|
中田里美 東京
|
まことにこの世は虚実入り交じった世界である。虚は実は実であったり、実は実は虚であったりする。みみずが鳴くのも虚虚実実、方丈記に書かれていることも虚虚実実。この句を読んでいて、そんな虚と実の入り交じった感覚を抱く。 |
鑑賞日 2010/10/19 | |
二杯酢で海鞘食べるため洗顔す
|
中村孝史 宮城
|
三杯酢は酢・醤油・味醂で作るが、二杯酢は酢と醤油だけであるから、甘味はあまりない。それゆえに、より食材の味を直に感じることが出来るかもしれない。私は海鞘というものを一度だけ食べたことがあるが、どんな味だか忘れてしまった。おそらく、食通の人には独特の旨味があるのだろう。句は、洗顔して、雑念を払って、二杯酢で海鞘を食べるという一つの大袈裟な洒落である。 |
鑑賞日 2010/10/20 | |
ひかりとは盗賊かもめ母を拭く
|
中村裕子 秋田
|
「ひかりとは盗賊かもめ」で、光を散らしながらぎゃーぎゃーと群れ騒いでいるかもめの一団のようなものが想像される。強い生命力そのものといった印象である。そんなことを想いながら、逆に弱ってしまった母を拭いているのだろうか。 |
鑑賞日 2010/10/20 | |
鏡面のかまきり昏む捨田かな
|
根岸暁子 群馬
|
「鏡面のかまきり」というドキッとするような不吉な印象の鮮明な映像と、「昏む捨田」という憂愁を帯びた暗い映像、の配合。感覚的、心理的な句である。 |
鑑賞日 2010/10/21 | |
マスクして祖父はうなずく馬である
|
橋本和子 長崎
|
マスクしてうなずく祖父と、轡をはめられてうなずくような動きをしている馬のイメージの重なりが可笑しい。 |
鑑賞日 2010/10/21 | |
ゆとりとは土替えること半夏生
|
平塚幸子 神奈川
|
「ゆとりとは土替えること」というのはよく解る。「土替えること」というのは園芸などのこととも取れるし、心理的な意味、内面的な意味だとも受け取れる。半夏生は七月二日ごろで、この日から五日間は農事休暇にする習慣の地方もあるらしいから、そういうような意味でもこの「半夏生」が微妙に響いている。 |
鑑賞日 2010/10/22 | |
枇杷むくやかりそめの世もみずみずし
|
堀之内長一 埼玉
|
かりそめの世という意識は常に持っていたほうがいいし、逆にまた、それゆえにこの枇杷がみずみずしくもかけがえのないものに感じられる。このバランス感覚が一つの生きる秘訣であろう。 |
鑑賞日 2010/10/22 | |
黒揚羽庭にピアノのある如し
|
舛田子 長崎
|
そういわれてみると、黒揚羽から受ける感じとピアノから受ける感じは似ているものがある。少しエキゾチックで洒落ている。また、庭で黒揚羽が飛翔している時には、そこにピアノの楽曲が流れているような雰囲気もある。 |
鑑賞日 2010/10/23 | |
六月の背広に古きティッシュかな
|
松本勇二 愛媛
|
こういうことは誰でもが経験する日常のことであるが、つまりそういう何でもない日常にも意識を向けている俳人の面白さである。 |
鑑賞日 2010/10/23 | |
水替えて目高に独り善がりかな
|
丸木美津子 愛媛
|
人間の持つ可笑しさである。目高のほうでは、こんな水槽に飼われて、有り難くも嬉しくもないかもしれない。勝手に、水を替えたり餌をやったりして、さも目高も嬉しいだろうと思っている人間は、やはり独り善がりと言える。その辺りの微妙な可笑しさである。 |
鑑賞日 2010/10/23 | |
そのままぼおつと泣きし風知草
|
三井絹枝 東京
|
この作家の句は、そのままこの人が見えてくる感じがある。句がそのままこの人であり、この作家の存在感が直に伝わってくる。だから、頭なんぞはふっ飛んでしまって、とても魅力がある。この句においては、風知草がそのままこの作家であり、風知草とこの人は一体である。 |
鑑賞日 2010/10/23 | |
太陽の毛先がうなじに噛り付く
|
村松恵理奈
神奈川 |
だから、くすぐったいし痛くもある。太陽さん、あんまり私をからかわないで。でも、分っている、あなたは私を愛しているのね。いいわ、たまには私に噛り付いても。 |
鑑賞日 2010/10/24 | |
清貧や初蝶吾と塀の中
|
安井昌子 東京
|
「塀の中」を考えている。貧しさという塀の中だろうか。考えてみれば、人はそれぞれが皆、塀の中で暮している。富裕という塀の中、傲慢という塀の中、権力闘争という塀の中・・。しかし、もし明るい初蝶が訪れるとしたら、それは清貧という塀の中かもしれない。 |
鑑賞日 2010/10/25 | |
夏の波私の足跡食べつくす
|
山岸てい子 埼玉
|
まず情景が見えてくる。気持ちのいい情景が。ひたひたひたひたと夏の波が私の足跡を食べてゆく。同時に、私の過去も食べていってしまうようだ。私を、ただただ今在る、という境地にさせてくれる。 |
鑑賞日 2010/10/25 | |
春愁い目に余るほど自己愛しけり
|
横地かをる 愛知
|
おそらく、あらゆる愁いとは、目に余るほど自己を愛した結果なのだろう。「目に余るほど」がポイントではないか。つまりそれはもはや愛ではなく執着であるからである。そういう事の全体を作者は覚醒した。こう評してしまうと、句がつまらなくなってしまうおそれもある。この句には生きてあることの熱い血が流れている感じがあるからである。 |
表紙へ | 前の号 | 次の号 |