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金子兜太選海程秀句鑑賞 465号(2010年8・9月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2010/8/27
青き踏む人間無冠の力かな
有村王志 大分

 青き踏む/人間無冠の力かな、と切って読んでもいいし、青き踏む人間/無冠の力かな、と切って読んでもいいだろう。いずれにしても、若々しい(年齢に関係なく)生(なま)な人間のあり方が描かれていて好ましい。


2

鑑賞日 2010/8/28
ーと霧笛首を牽引されている
石川青狼 北海道

 首を牽引されているような感じだというのであろう。急かされているような感じだろうか。何かしらの運命に引きずられていくような感じだろうか。そのような心理状況がブオーと鳴る霧笛の音に収斂されてゆく感じである。


3

鑑賞日 2010/8/30
夏来たる男の口の半開き
伊地知建一 茨城

 今年の夏は暑かった。いやまだその夏が続いていると言ったほうがいいかもしれない。そんな暑い夏、うだるような夏の状況を重ねて句を鑑賞すると、何となくこの口を半開きにした男というのは、現在の日本のある年代以上の男性一般のことではないかと想像されてくる。芯のところで何となく疲れ、何となく鬱屈感があり、口を半開きにして喘いでいる。


4

鑑賞日 2010/8/31
春雷を遠い山河と思いおり
市野記余子 埼玉

 おそらくこれは都会に住む人の感覚ではないか。人々が沢山いて、人家やビルが建ち並び、山河からは遠い人の。人間が本来持っている自然への憧憬である。


5

鑑賞日 2010/9/1
花は葉に言葉を口にする不安
伊藤淳子 東京

 言葉を口にする不安・・この作家の一つの秘密を垣間見るような言葉だ。そういうデリケートなものがあるからこそ逆に佳句が量産できるのかもしれない。自分の心理の微妙なところを見つめることが出来るのだろう。これは句作ということだけでなく、日常的な言葉においてもそうである。不用意に発された言葉が他者に害を与えたり傷つけたりすることは往々にある。句であるが、花が葉になってゆく微妙な自然の営みがまた逆に感じられる。


6

鑑賞日 2010/9/2
月と日と吾のなす初夏の三角形
江良 修 長崎

 初夏という季節がこの句の気持ち良さにぴったりだ。真夏でも晩夏でもその他の季節でもこの気持ち良さは出てこないだろう。季節がだんだんと狂っていくように感じられる状況であるが、このような気持ち良い季節感のある句に百年後も出会うことができるだろうか。


7

鑑賞日 2010/9/3
水光りへとほぐれる民の田植かな
大野泰司 愛媛

 〈水光〉は[みで]とルビ

 「ほぐれる」が味噌。「ほぐれる」は、ああやっとお田植をするまでに段取りが進んできたという心理的な解放感でもあるだろうし、また水光りの田へ田植のために散らばってゆく人々の有り様の形容でもあるだろう。そしてやはりここは、昔ながらの手植えの田植であるほうが感じとしてはぴったりする。


8

鑑賞日 2010/9/3
昭和の日曇って飴色バイオリン
加川憲一 北海道

 私などの団塊の世代にとっては、昭和という時代がだんだん懐かしい時代になってきた。「曇って飴色バイオリン」がその懐かしさをずばりと表現してくれている感じがしてきてしまう。


9

鑑賞日 2010/9/4
豆飯や箸も刀も一文字
門脇章子 大阪

 辞書で引くと、「一文字」という語には、わき目もふらずに物事をすること、という意味もある。「箸も刀も一文字」というのは、おまんまを食べること(稼ぐこと)も、何かの芸道あるいは闘いに励むことも、わき目もふらずにやるべし、というような意味を含ませているのだろうか。そしてそれを「豆飯」という日常を感じさせる語と響かせているのであろうか。定かではない。


10

鑑賞日 2010/9/4
地をつかむ春の雨地の灯しかな
川田由美子 東京

 しっとりとした景色。しっとりとした心情。「地をつかむ」という把握が魅力である。


11

鑑賞日 2010/9/5
夜泣石もうすぐ麦の熟れる村
河原珠美 神奈川

 民話的な雰囲気にすっと誘われてゆく感じがやわらかい。


12

鑑賞日 2010/9/5
雲雀あがるわれのさみしさわれにかえし
京武久美 宮城

 歓喜しながら雲雀は上ってゆく。彼等は生れてきたことを全く祝福して喜んでいるようだ。それゆえに却って、彼等に取り残されたようなわれの孤独感が際立つ。「われのさみしさわれにかえし」という表現に実感がある。


13

鑑賞日 2010/9/6
楡よ租は海より仆れくるものを
九堂夜想 神奈川

 単に租が海より来たというのなら話は簡単だが、「租は海より仆れくる」というのである。「仆れくる」という言葉に、現在只今でも租がやってくる、しかもある威勢をもってやってくるという感覚がある。未来がとても不安な現在の地球の状況を感じてしまうのであるがどうだろう。


14

鑑賞日 2010/9/6
乳房張る田水張るごとほとばしる
久保恵美子 福井

 生命賛歌だなあ。子を育む乳。稲を育む田水。ほとばしる。


15

鑑賞日 2010/9/7
新樹等は空を歩いていたのです
佐孝石画 福井

 だから新樹らはこんなにきらきら生き生きしているのかあ。


16

鑑賞日 2010/9/7
わらび煮てまた山へゆく女ども
白井重之 富山

 春の農山村の一つの生活詩。女どものバイタリティーの強さへの驚きと親しみがある。


17

鑑賞日 2010/9/8
母の日や獣のごとく子を抱きし
鈴木幸江 滋賀

 獣のごとく本能的に躊躇無く子を抱いたその母の日であるなあ。昨今、しばしば子殺しの母のニュースなどを見ることがある。何が彼女らの本能をスポイルしてしまったのだろうか。


18

鑑賞日 2010/9/8
わらびぜんまい一存では鳥になれない
十河宣洋 北海道

 わらびぜんまいわらびぜんまいとおまじないをしたところで一存では鳥にはなれない、というように軽く洒落た句ではないだろうか。


19

鑑賞日 2010/9/9
母の日や夫怒らすも母ゆずり
高木一恵 千葉

 年齢を重ねるにしたがって、自分の性質がいかに父母ゆずりだとかということに気がつくことが多い。くしゃみのしかたなどのちょっとした動作からはじまって、あらゆることが父母ゆずりなのに驚きもし笑ってしまうことがある。そんな事実の一つに気がついて、作者は笑みを浮かべているのかもしれない。


20

鑑賞日 2010/9/9
日本狭しカーネーションのセロハン解く
瀧村道子 岐阜

 カーネーションもセロハンもおそらく外国からやってきたものであり言葉である。そういうカタカナ語に囲まれている日本の日常というものを作者はふと感じたのではなかろうか。カーネーションのセロハンを解く時のプラスチックな透明な音が印象的な句である。


21

鑑賞日 2010/9/10
早き瀬に自分確かめ春の祭り
遠山郁好 東京

 早き瀬に自分を確かめるということと春の祭がどうも上手く結びつかないと思っていたが、実はこの春の祭りは実際の祭りではなくて作者の内に起った心理的なものなのではないだろうかという気がしてきた。自分を確かめ得たということはどんな状況でも喜ばしいことであるし、さらに早き瀬に自分を確かめ得たというダイナミズムが春の祭りに相応しい感じなのである。


22

鑑賞日 2010/9/10
花満開いつも無口な樹の力
永井 幸 福井

 「無口な」と樹を擬人化して言ったところが味噌であろう。作者の中には、無口であることあるいは無口である人への共感の気持ちがあるのではないだろうか。


23

鑑賞日 2010/9/12
サックスよりあふれでてくるひなあられ
中尾和夫 宮崎

 面白い。理屈なく。こういう理屈なく面白いものを私も書きたいものだ。


24

鑑賞日 2010/9/12
おとうとは風かもしれぬ鶴帰る
永田タヱ子 宮崎

 身内のものでさえ、奴は不思議だと思うことはよくある。そして不思議だと認識したときに、その人に対する尊敬の気持ちだとか愛しく思う気持ちは増す。そのあたりのことが詩的に書かれている。つまりおとうとへの気持ちを感じるのである。


25

鑑賞日 2010/9/13
おぼろですが道まっすぐに水の地平
中村加津彦 長野

 中村さんは私と同じ長野県での俳句の先輩である。歳は私より上であり、今は七十歳過ぎくらいなのだろうか。この句のような境涯感はいいなあと思う。「おぼろですが」という話しかけるような出だしがこの人のいかにも気さくで優しみのある性格が出ていて親しめる。そしてやはり「水の地平」という締めが詩情豊かに秀逸である。


26

鑑賞日 2010/9/13
蝶々の顔おそろしき日暮れかな
蓮田双川 茨城

 蝶々の顔がおそろしいというのもインパクトがあるが、おそろしき日暮れというのもインパクトがある。全体にこの句は、存在というものに対する戦きであるような気がする。


27

鑑賞日 2010/9/14
鈍なればこその漂泊蝸牛
福原 實 神奈川

 〈鈍〉は[のろ]とルビ

 作者は自分の来し方を振り返っている。自分は鈍であると、そして自分の来し方は漂泊のようだと。この感じ方は案外多くの人が共有できる感じ方ではないだろうか。だからおそらく共感を呼ぶ句である。そして蝸牛のいのちとの共振というものは、漂泊の来し方の結末としては、やはりとても素晴らしいのではないか。


28

鑑賞日 2010/9/14
こころという梟のわが老年記
北條貢司 北海道

 「こころという梟」という譬え方が秀逸である。そしてそれは老年におけるこころの感じでもあるし、それを「老年記」という具体でさりげなく書いたのも上手いと思った。読んでいて、なるほどなるほどと首肯かされる句である。


29

鑑賞日 2010/9/15
還暦や我もろもろの芽を食みて
本田ひとみ 福島

 もちろんこの「もろもろの芽を食みて」は食用になる植物の芽を食べるということであろう。そそてさらに心の中に芽生えるさまざまな可能性へ挑戦したというようなことであるような気がする。私と同年代のこの作者のこの感慨が私にはよく解る気がするのだが。


30

鑑賞日 2010/9/15
まむし草漢ふたりが見せに来る
前田典子 三重

 「漢」は[おとこ]と読ませるのであろう。この〈漢〉という字から受ける印象は単なる〈男〉よりも雄々しく強いという感じを受ける。そのいわば益荒男が二人してこの女性である作者に「まむし草」を見せに来るというところが何とも可笑しい。草食系男子というようなことが頭を過る。


31

鑑賞日 2010/9/16
郭公来と告げて寂しき身繕い
眞下素子 茨城

 日常にふと起る寂しさを描いているのである。そしてそのことに「郭公」が響いている。閑古鳥とも呼ばれる郭公には、寂しさというような人間の一つの感情に響くものがあるのだろうか。物語りを作るとすれば、誰かに郭公がやって来たよと告げたが、その人から何の返事もない、というような人間関係の隙間問題もあるかもしれない。
 カッコウカッコウカッコウ・・・


32

鑑賞日 2010/9/16
青き踏む身の丈五尺五寸にて
松本悦子 東京

 「青き踏む」というどちらかといえば主情的心情的な言葉に対して、「身の丈五尺五寸にて」という即物的客観的な言葉の対比の面白さかもしれない。


33

鑑賞日 2010/9/17
子のなきを独というらし青き踏む
水野真由美 群馬

 子は自分を通過していく一つの独立した存在であり、子も他の人々と同じように与えられた一つの環境に過ぎない。与えられた環境は尊敬すべきであり愛すべきであるが、与えられなかった環境を悔やむべきでも何でもなく、それも一つの祝福された状態である。そういうことを自覚している作者の心意気を感じる。


34

鑑賞日 2010/9/17
辛夷の花筆談たまに大きなマル
宮崎斗士 東京

 辛夷の花。とても好きな花である。明るくて、気取らなくて、清楚で、自然である。そんな雰囲気がこの筆談をしている人達から感じられる。「筆談たまに大きなマル」という具体がいい。


35

鑑賞日 2010/9/18
片腕は天空にかけ豆の花
宮里 晄 沖縄

 気持ち良く晴れた日の爽快で大きな気分を感じる。


36

鑑賞日 2010/9/18
種袋ひらく歯切れよき嫁よ
武藤暁美 秋田

 昔風にいえば、小股の切れ上がったいい嫁、という感じだろうか。「種袋ひらく」にどこか健康な生殖というニュアンスがあって面白い。


37

鑑賞日 2010/9/20
鋤く母のおかしくも小粒雲雀かな
山本 勲 北海道

 「おかしくも」という言葉の必要性を考えている。無くても充分良いような気がするからである。確かに人間の味というものは増すような気がするが、気持ちの良い大きな景をうるさくしている感じもある。どうだろうか。


38

鑑賞日 2010/9/20
ほら穴は暗算のよう花吹雪
渡部陽子 宮城

 「ほら穴は暗算のよう」という感じはよく解る。これが「花吹雪」とどういう関係にあるか。なかなか私の中でその関係の像が結ばない。「花吹雪」も「ほら穴」で見た幻影のような感じも受けるが、それもこじつけのような気もしてくる。自分なりにも解らないというのはどうもすっきりしない。


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