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金子兜太選海程秀句鑑賞 464号(2010年7月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2010/7/24 | |
鳥の巣やふと手のひらの水たまり
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伊藤淳子 東京
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母性を感じる。この宇宙のあるいはこの存在の母性というようなものである。そしてその宇宙あるいはその存在、あるいは時間といってもいいかもしれない、は流れてゆくものだという感じ方。この作家にはそのような質あるいは眼差しが確かにある。 |
鑑賞日 2010/7/24 | |
炭窯は山を離れず父は亡し
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稲葉千尋 三重
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炭焼きをしていた父の炭窯なのであろうか。「山を離れず」という言い方に実感があり、座五の思いが直に伝わってくる佳句である。 |
鑑賞日 2010/7/25 | |
春のからだ無畏の軌道を描きをり
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上原祥子 山口
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春が巡ってきて自分のからだもリラックスして自ずから無畏の軌道を描いているというのである。「無畏の軌道を描きをり」という言葉に自ずからの動きというニュアンスだとか、規則正しく巡ってくる季節というニュアンスを感じる。そんなふうに感じているうちに「春のからだというのは春そのものの身体だという感じがしてきた。 |
鑑賞日 2010/7/25 | |
春あけぼのを猫が見ている不思議かな
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大口元通 愛知
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これもアニミズムの一態といえるかもしれない。春あけぼのと猫の等価性である。そして日常の常識的な感覚を越えた存在物はみな等価であるという実感の不思議さ。 |
鑑賞日 2010/7/26 | |
恐山亀のこうらを団扇にす
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大高俊一 秋田
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民俗的な背景がある句かもしれないが、その辺りは私にはよく分らない。恐山では亀の甲羅を団扇のように使いイタコ(巫女)が降霊術を行うというようなことがあるのだろうか。分らない。私は恐山という山そのものが亀の甲羅を団扇にしているという神話的な解釈のほうがむしろ分りやすい。 |
鑑賞日 2010/7/29 | |
如月の鷹を熊野と呼びにけり
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大西健司 三重
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私は熊野を知らないのであるが、おそらく「如月の鷹」の感じに雰囲気が似ているのであろう。感覚の飛躍した譬えの面白さである。 |
鑑賞日 2010/7/29 | |
跳び箱を二人で運ぶ遅日かな
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小野裕三 神奈川
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遠い日のまだ小学生や中学生だった頃の時間を垣間みるような不思議な時間感覚がある。蕪村に 遅き日のつもりて遠きむかしかな というのがあるが、この「遅日」という季語は使い方によっては不思議な時間感覚に誘う気がする。 |
鑑賞日 2010/7/30 | |
白魚の言葉遊びのよう些些と
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黒岡洋子 東京
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白魚の踊り食いのような場面が想像される。「言葉遊びのよう些些と」で白魚が活き活き動いている生気が伝わってくるからである。自然の中に生息する白魚は見たことがないので想像がつかない。 |
鑑賞日 2010/7/30 | |
大地さがして背なの子が反り返る
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木暮洗葦 新潟
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「大地さがして」がとても新鮮な把握である。こういう見方ができるというのは、作者の大地への思いがあるからであろうか。背中に負ぶわれた子が反り返るのは昔はよく見かけた場面であるが、最近はあまり見かけない。 |
鑑賞日 2010/7/31 | |
存らへて春あり橋の反り美し
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小林一枝 東京
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「存らへて」という表記が相応しい。そして「春あり」も「橋の反り美し」もすべて響きあっている。 |
鑑賞日 2010/8/1 | |
一晩中鶴を通して鏡曇る
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斉木ギニ 千葉
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難しい句だ。私の想像力では解釈が及ばない。 |
鑑賞日 2010/8/1 | |
地を頼り水澄むおもい素朴かな
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篠田悦子 埼玉
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〈地〉は[つち]とルビ この句などは私にはすっと入ってくる内容である。このような素朴な心でいたいものである。しかし、最近はその地そのものが危うくなってきているという感じがあるから困ったものである。しかしやはり地に頼るしか人間には生存の可能性はない。つまり人間はもっともっと素朴な澄んだ心を取り戻さなければ地との健康な相互関係は失われてしまうだろう。 |
鑑賞日 2010/8/2 | |
打てば響いて産土に椎の実落つ
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志摩京子 東京
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「響いて」が句の中心にある気がする。自分と産土と椎の実が響きあっている。そのきっかけとしての「打てば」もいい。 |
鑑賞日 2010/8/2 | |
山脈や朧をひきて長生す
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清水喜美子 茨城
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「ひきて」が新鮮。長生しているのは山脈であり自分でもあり、また大きな歴史そのものという感じもある。 |
鑑賞日 2010/8/3 | |
土筆出て世間は薄い日光写真
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清水 瀚 東京
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単に「薄い写真」ではなく「薄い日光写真」と、より具体的なもので書いたのが味噌である。日光写真を見たときの印象が作句のもとになっているのだろう。土筆との交感の中で、世間は薄い日光写真のようだと思っている、と受け取れる。 |
鑑賞日 2010/8/3 | |
蜃気楼轍の先の温き家
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鱸 久子 埼玉
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心の景色を実景に託して書いた感じがする。「蜃気楼」「轍の先」「温き家」という言葉が象徴性を帯びている。 |
鑑賞日 2010/8/4 | |
メモリーといってしまおう春の雪
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鈴木佑子 東京
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書き方が面白い。春の雪の、それも都会の春の雪の感じが出ている。そして作者のそのものの質も。 |
鑑賞日 2010/8/4 | |
鹿が覗いてゆきし巨岩に蝌蚪生る
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関田誓炎 埼玉
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詩的レベルにおける、自然物どうしの関連性。楽しく豊かな物語である。 |
鑑賞日 2010/8/5 | |
川上へ翔ぶ鷹白髪が増えたな
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瀬戸 密 北海道
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川上へ飛翔する鷹と白髪が増えてしまった自分との対比であろう。そんなに嘆いている感じではなく、まあそれもいいか、しょうがないかという雰囲気である。 |
鑑賞日 2010/8/5 | |
土の匂いのシベリアタイガー薄目にて
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十河宣洋 北海道
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シベリアタイガーという虎がいるらしい。シベリアに住んでいるのだろう。デルスウザーラに登場する虎もこの虎かもしれない。ライオンなどもそうであるが、これらの猛獣には土の匂いということを越えてある種の神々しささえある。しかし、例のごとく彼等も絶滅の危機に瀕しているらしい。自然というものの神々しさが失われてゆく時代である。「薄目にて」に自分自身の運命を自覚しているような哀しい雰囲気を感じるのは過鑑賞であろうか。 |
鑑賞日 2010/8/6 | |
燕来る男鹿の漁師の大法要
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館岡誠二 秋田
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男鹿の漁師の大法要ということで、仏事というよりもむしろ土俗的な感じを受ける。燕は燕で彼等の営みをやっている。人間の営みと燕の営みの交錯。 |
鑑賞日 2010/8/6 | |
御仏にちょこんと菫いつもかな
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谷 佳紀 神奈川
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ほのぼのとした、あるいは可愛らしい、あるいはあったかい人間の心持ちが描かれている。私としては寺院に坐す御仏ではなく、お地蔵さんや道端の石仏のようなものを想像したい。「ちょこんと」や「いつもかな」がいい。 |
鑑賞日 2010/8/7 | |
椿浄土や春雪のただ中や
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田村勝実 新潟
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はっきりとした色の対比が美しい絵画風の句である。現在只今目の前にある景色を浄土だと感じている意識の冴え。逆にいえば、春雪のただ中に椿の花が咲いているという景色がその意識の冴えを誘った。 |
鑑賞日 2010/8/7 | |
鳥雲に躰にごっていたりけり
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中村裕子 秋田
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「鳥雲に」と「躰にごっていたりけり」の対比、つまり「鳥雲に」をきっかけとした一つの気付きであり、意識の澄みである。春の透明な空気感もある。 |
鑑賞日 2010/8/8 | |
老いは鬱日がな穿る啓蟄の穴
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成田恵風子 福井
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〈穿〉は[ほじく]とルビ 「日がな穿る啓蟄の穴」が、動作として実際に鼻の穴をほじくるとか耳垢をほじくるとかでもあろうし、また心理的な部分でのそういう動作でもあろう。「老いは鬱」はそれほど深刻な鬱というのではなく「老いというものや嫌なものだなあ」という感じであろう。全体的に一つの気付きがある。 |
鑑賞日 2010/8/8 | |
涅槃図の端数のように座りたる
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丹生千賀 秋田
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涅槃図の中にこのような感じで座っている者がいたのであろうか。そういう者に自分自身を重ね合わせて見ている。もし、涅槃図のような場面があるとすれば、こういう者にこそ仏陀は眼差しを向けているのだという感じが私にはある。 |
鑑賞日 2010/8/9 | |
逝く夫の灯があかぎれのように痛い
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浜 芳女 群馬
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このあたりの心情は私にははっきりと共有できる経験がないが、「あかぎれのように痛い」というのは、真実味が伝わってくる表現である。 |
鑑賞日 2010/8/9 | |
持ち帰る湖の木片雛の家
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日高 玲 東京
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楽しんでいる、慈しんでいる生活ぶりを垣間みることができるような一句である。 |
鑑賞日 2010/8/10 | |
母方は頬高なりし草の餅
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古舘泰子 東京
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草餅を食べている。そういえば母方の親戚たちと草餅を食べたことがあったなあ。母方の親戚の人たちはみな頬高だったなあ。草餅を食べながら母方の親戚たちのことを想っている作者の時間。 |
鑑賞日 2010/8/10 | |
雪解けぬロッキーの襞まさに黒
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ホーン喜美子
カナダ |
「まさも黒」というストレートな表現がいい。知らぬロッキーであるが、抜けるように澄んだ空気も感じる。 |
鑑賞日 2010/8/11 | |
号泣の夫よミモザの花房よ
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本田ひとみ 福島
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「号泣の夫」と「ミモザの花房」とどういう世界で通底しているのか考えてみた。美という世界であろう。・・よ、・・よ、と語りかける口調も相応しい。 |
鑑賞日 2010/8/12 | |
四月一日烏が瓦ごとごとと
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前田保子 神奈川
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実はこの句は昨日「烏」を「馬」と間違えて鑑賞してしまった。次がその鑑賞文である。 馬が瓦を荷車に載せてごとごとと運んでいるというのはかなり昔の風景であろう。四月一日ということで四月馬鹿、馬、と連想しているうちにそういう幻影を見た、あるいはそういう回想の世界に引き込まれたという感じである。「ごとごと」が荷車の音としても、幻想や回想の効果音としても洒落ている。 もう一回「烏」で鑑賞しなおさなければならない。 烏が瓦屋根にやってきて何やらごとごとと音を立てている。あいつらは何をごとごとと音を立ててやっているのだろう。そういえば今日は四月一日、四月馬鹿である。「四月一日」と「烏が瓦ごとごとと」の間に生れる微妙な虚の感覚である。考えてみれば人間の様々な行動は烏が瓦をごとごとと音を立てているのと同じようなものであると言えないだろうか。人間は自分たちのやっていることはみな実であり、価値があると思っている。しかし大方は虚であることが多いのではないか。むしろ烏がごとごとと音を立てて何かをしていることの方が実であると言えないことはない。 |
鑑賞日 2010/8/13 | |
初燕白いクルスへ真っ直ぐに
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松本ヒサ子 愛媛
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実景として、例えば教会の白い十字架に初燕が飛んできたという景色が見える。また物語の一場面としてとらえてもイメージの膨らむ美しい場面である。白が印象的である。 |
鑑賞日 2010/8/13 | |
もうすぐ桜鏡に映るたび泣く子
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宮崎斗士 東京
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どことなく優しい心情がただよってくる。「鏡に映るたび泣く子」がいる。「もうすぐ桜」といっている作者がいる。句の雰囲気から、この子は女の子のような感じもする。 |
鑑賞日 2010/8/13 | |
雨の粒空が逆さに落ちていく
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村松恵理奈
神奈川 |
雨が降っている時に空を見上げた感じだろう。ものに触れた時の新鮮な驚きがある。作者は非常に若い方である。 |
鑑賞日 2010/8/14 | |
地に殉教宙に毛深き蝶の貌
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柳生正名 東京
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〈宙〉は[そら]とルビ モスラという蛾の怪獣が確かいた。〈ゴジラ対モスラ〉というような映画だったような記憶である。「宙に毛深き蝶の貌」でこのモスラのことを思いだしたのである。句全体に現代という時代あるいは人類や地球に迫り来る運命の無気味さのようなものを感じるのであるが・・・ |
鑑賞日 2010/8/14 | |
右耳の悲し鳴りをり温める
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山岡千枝子 岡山
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日常の一つの時間を書きとったものだが、その内容と、また特にその語調から作者のいのちの息づかいのようなものがひたひたと伝わってくる。 |
鑑賞日 2010/8/15 | |
朝日さす真っ只中山笑う
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山本逸夫 岐阜
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「山笑う」というような季語はアニミズム的な自然の把握から来た言葉であると思うが、この句などはまさに山が実際に高笑いしているのが聞える。 |
鑑賞日 2010/8/15 | |
ともす灯の匂い遺りし踏絵かな
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吉川真実 東京
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こんな場面がイメージされる。作者は博物館か何かで踏絵を見ている。見ているうちに、隠れ信者たちが暗い部屋で小さな灯をともして祈りをしたり聖書を読んだりしているところが心に浮かんでくる。目の前にあるこの踏絵にその小さな灯の匂いが遺っているのうな錯覚を覚えた。 |
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