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金子兜太選海程秀句鑑賞 462号(2010年5月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2010/5/3
竹馬や遂に変らぬ二枚舌
阿川木偶人 東京

 竹馬の友というような連想が働く。つまりこの「二枚舌」の持ち主は竹馬の友であるような気がする。人間というものは生長して変っていくという反面全く変らないという部分もある。「竹馬」は二本の竹を使うが、そのことが「二枚舌」に響いている。


2

鑑賞日 2010/5/3
うたてやな冬バラのツルもてあます
阿久沢達子 群馬

 「うたて」というのは古語である。事態や心情が意志に関係なく移り進んでしまうさまを表す副詞であったり、情けない、いとわしいという意味の形容動詞であったりする。逆に冬バラのツルをもてあましているような状態をいう言葉であるとも解釈できる。とにかくこの耳慣れない言葉がいかにもしっくりと作者の気持ちを表現している。


3

鑑賞日 2010/5/3
自分史は自虐の記憶白鳥来
足利屋篤 群馬

 「白鳥来」と目の前がぱっと開けたような明るさが印象的である。


4

鑑賞日 2010/5/4
老いらくとおいらん並ぶ春の辞書
石上邦子 愛知

 辞書といういわば虚の世界で老いらくとおいらんが並んでいるのであるが、もしこれが実景であるにしても老いらくとおいらんが並んでいるのは虚に違いない、というような虚実入り交じった感覚が起る。


5

鑑賞日 2010/5/4
麦踏みのうしろの小言昼の月
一ノ瀬タカ子 
東京

 農村風景の中のよくある人間模様。昼の月がのどかな雰囲気を演出している。


6

鑑賞日 2010/5/4
蜘蛛の囲のなべて大きな限界集落
宇川啓子 福島

 限界集落とは過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になり、冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になった集落のことを指す。限界集落を超えた集落は「超限界集落」から「消滅集落」へと向かう。ーWikipediaよりー

 遅かれ早かれ人間はいつか消滅するだろう。しかし心配することはない。いのちは様々な形で存在し続けるだろうし、たとえ何の形も無くなったとしてもいのちはいのちであるからである。そんなことをこの句を読んで思った。


7

鑑賞日 2010/5/5
自然なり西に満月初日の出
岡崎万寿 東京

 〈自然〉は[じねん]とルビ

 自然(じねん)・・自ずからそうなった、あるいは偶然にそうなったというニュアンスがある。また、そうなったことのエネルギー、いのちのエネルギーとでも言おうか、を感じるような言葉である。自然(しぜん)という言葉が結果としての自然界を表している雰囲気があるのに対して、自然(じねん)はそのエネルギーを表している雰囲気がある・・というようなことをこの句から感じた。


8

鑑賞日 2010/5/5
クリオネの羽搏きほどの更年期
奥山和子 三重

 女性の閉経期の身体と心の中で起る微妙なものを何とも繊細な映像で表現したものである。


9

鑑賞日 2010/5/5
野良猫のライオン歩き雪来るか
木暮洗葦 新潟

 童話的要素、アニメ的要素、自然との呼吸、戯け、いろいろな要素がある。


10

鑑賞日 2010/5/6
櫟林の先が見え出す冬が好き
柏原喜久恵 熊本

 「櫟林の先が見え出す/冬が好き」と切って読むのがいいだろう。景色も見えるし、天気の良い日に冬枯れの野を歩いている気持ちの良さも伝わってくる。


11

鑑賞日 2010/5/6
自画像に最も似合う雪降り来
刈田光児 新潟

 自分の自画像を描くとしたら、それに最も似合う雪が降って来たというのである。今の自分の心持ちを象徴しているような雰囲気の雪が降って来たということでろう。


12

鑑賞日 2010/5/6
松ぼくり拾う独りの縄文期
川本洋栄 大阪

 松ぼくりを独り拾っていると、いつの間にか辺りが縄文期のような感じがしてきたという経験は誰でも持っているだろう。誰でも持っている感じを書き取れるか否かであるが、この作家は書き取れた。


13

鑑賞日 2010/5/7
正座して身体ひとつ鮭一切れ
北村美都子 新潟

 〈身体〉は[しんたい]とルビ

 この作家の生きている態度が伺われるようだ。一昔前の日本人が持っていただろう慎ましくも清く強い生き方を思う。


14

鑑賞日 2010/5/7
負け独楽を小鳥のように持ち帰る
木村和彦 神奈川

 「小鳥のように」という比喩がその独楽に対する愛着を表現して上手い。直喩の面白さ。


15

鑑賞日 2010/5/7
はにかめばやわらかな闇冬座敷
京武久美 宮城

 この雰囲気がいい。この冬座敷の何ともいえないやわらかな質感が好ましい。日本人の持つ一つの美質である「はにかみ」がこの情趣を作っているのだろう。


16

鑑賞日 2010/5/9
雪明り読経は走る絵巻かな
小林一村 福井

 読経に対してこのように肯定的なイメージを抱けるというのは素晴らしい。私などはただ眠くなるだけである。葬儀の時などに行われる読経というものに対して、単なるお仕着せの儀式に過ぎないという否定的な考えが私にあるからであるが、このように肯定的に色彩豊かなイメージを描ける人もいるのかと改めて思う。


17

鑑賞日 2010/5/9
顔剃られいて雪ぐにのしろさ想う
小林一枝 東京

 顔を剃られている時の気持ちよさが雪国の白さに結びついたのであろう。もっと言えば、私ではないあなた任せの潔い白さというものが雪国の雪の白さにはある。


18

鑑賞日 2010/5/10
いくたびも初日に融かす鬱なりし
小柳慶三郎 群馬

 〈鬱〉は[うつ]とルビ

 鬱というものを初日に融かすことができるだろうか。できないと思う。何故なら鬱という状態は自己と自然とが断絶している状態だからである。しかし、この句を作ったことによって鬱が融けたと思うのである。何故なら句を作るということの本質は自然と自己の繋がりを回復するということだからである。


19

鑑賞日 2010/5/10
城一つ白葱ほどに洗われて
鮫島康子 福岡

 女性らしい感覚ではなかろうか。城というものはもともと男の野望の象徴のような存在である。その城が洗われて真白になっている。しかし女性にとっては、それは白葱をきれいに洗いあげた時の気持ちよさと同等なことなのである。身近なことに喜びを見出せる女性(女性性の本質)の慎ましさが特にこれからの時代必要なのではないだろうか。


20

鑑賞日 2010/5/11
だんまりに似た仄暗さ白山茶花
篠田悦子 埼玉

 「だんまりに似た仄暗さ」もそれは「白山茶花」だと言われてみれば、「だんまりに似た仄暗さ」も肯定的なものに思えてくる。


21

鑑賞日 2010/5/11
山行者乾鮭しゃぶり子沢山
鈴木八駛郎 
北海道

 「山行者」は山の行者ということではなく山歩きをしている者という意味であろう。うらやましいほど健康的な人物像である。


22

鑑賞日 2010/5/12
がばっと起つえいざん北のおいらくよ
高沢竹光 滋賀

 この作家は滋賀県の人であるから、おそらく毎日のように比叡山を見て暮しているのであろう。友人のようなあるいは自分の存在の一部のような感覚になっているのかもしれない。その比叡山に「北のおいらくよ」と呼びかけている。自分も老いてしまったがおまえも老いたなあというような感じであろうか。老いたということを戯けている感じと比叡山への親しみ。「がばっと起つ」のは比叡山でもあるし、また自分がそのように起き上がったということでもあるような気がする。


23

鑑賞日 2010/5/12
寒満月ぶどう畑はどの辺り
田口満代子 千葉

 寒満月が出ている夜である。ぶどう畑があるようななだらかな斜面のある地形が見えてくる。寒満月とゆっくりとした対話をしながら、なだらかな地形の中に佇んでいるあるいは散策している作者が見えてくるようだ。


24

鑑賞日 2010/5/13
息絶えし馬を焚火のごと囲む
田中亜美 神奈川

 一昔前の光景としてよく有っただろう。私はこういう場面に出会ったことはないが、解るし、懐かしいものがある。そしてまたこの若い(と私は思っている)女性の作家は、どのような経路でこのような場面を書けたのであろうかと不思議でもある。


25

鑑賞日 2010/5/13
母に添い寝雪の深井戸のぞくよう
月野ぽぽな 
アメリカ

 「寝雪の深井戸のぞくよう」が一人の人間存在の深淵を覗き込むような感じで打たれる。この作家は長野県出身であるそうであるから、おそらくその幼い頃の経験からこのような譬えが出てきたのだろう。「根雪」でなく「寝雪」であるのもより雰囲気を作っている。今気がついたが「母に添い寝/雪の深井戸のぞくよう」とも取れる。つまりこの「寝」が両方の意味として働いている。齋藤茂吉に「死に近き母に添い寝のしんしんと遠田の蛙天に聞こゆる」というのがあったが、それを思い出させるくらいのものがこの句にはある。


26

鑑賞日 2010/5/14
雪国に雪降り人の囁くや
遠山郁好 東京

 雪国に雪が降る。それは当たり前のように受け入れられる。格別の驚きもなく格別の喜びもなく格別の悲しみもない。「また嫌なものが降ってきたなえー」などと言い合ったりしてみても、それはただ口癖のようになっているだけであり、彼等は心の中では受け入れているのである。この句における「囁くや」はそういうような既に運命を受け入れている人の囁き合いのように感じられる。


27

鑑賞日 2010/5/14
マチュピチュに在るごとく座す蒲団かな
中島偉夫 宮崎

 例えば枯山水や盆栽を眺めながら、そこに大自然や宇宙の相を観るということは日本人は得意なのではないか。だから蒲団の皺の一つ一つが山の襞に見えてきたりするというイメージの膨らみもよく解る。この句の場合は「マチュピチュ」と「蒲団」という思いがけない飛躍が面白いのである。


28

鑑賞日 2010/5/15
牡蠣のある静物描く重たい白
藤江 瑞 神奈川

 「重たい白」が言い得たのではないか。蠣殼のもつ重厚な白く鈍い光沢が見えてくる。


29

鑑賞日 2010/5/15
除夜篝頬熱くしてわれは旅人
堀真知子 愛知

 「われは旅人」という普遍的な題材を熱く描ききった好作。「除夜篝」と「われは旅人」を「頬熱くして」が上手く繋いでいる。


30

鑑賞日 2010/5/16
折角のまんまるの薄氷を落す
真島貞子 大阪

 この日常の遊び心が俳諧である。きれいなきれいなまんまるの薄氷も見えてくる。


31

鑑賞日 2010/5/16
雪だるまにおっぱい作れと泣く児かな
マブソン青眼 
長野

 可笑しい。作者は一茶研究をなさっているそうであるが、一茶が乗り移ったかのような作である。しかし、ひもじさを感じるよりむしろ性的な意味合いなどを感じてしまうのは時代のゆえであろうか。


32

鑑賞日 2010/5/18
鏡中の我にうっとり嫁が君
三浦二三子 愛知

 「嫁が君」とは本来新年三が日の鼠のことであるが、この句の場合は直接に嫁のことを言っている感じが強い。しかし、新年の雰囲気もあるし、また鼠ということで諧謔味が出てくる。心憎い程上手い季語の使い方である。


33

鑑賞日 2010/5/18
天狼星ぼんやり目覚めている原稿
茂里美絵 埼玉

 「天狼星/ぼんやり目覚めている/原稿」とこの二ヶ所のどちらかで切れる感じであるが、二ヶ所で切れているといってもいいのではないか。夜、原稿に向っている時の眠いがどこかが妙に冴えているというような状態を印象的に詩として表現している。


34

鑑賞日 2010/5/19
凍星よとても透明な眩暈
森央ミモザ 長野

 信州の冬の夜空は澄み切ってとてもきれいだ。そこにはこのごたごたとした日常にはない永遠の時間が流れているような感じがある。日常とはまた違った何か透明なものに触れた時のギャップがこの眩暈であろう。


35

鑑賞日 2010/5/19
月山や雪道僧に肩借りし
安井昌子 東京

 作者が女性だということを意識して味わった。そうするとそこに一つの妙なるエロティシズムの香に満ちた場面が見えてくる。


36

鑑賞日 2010/5/20
電車待つ下着のようなマスクして
矢野美代子 東京

 「下着のようなマスク」と受け取る感覚が面白い。そしてそう言われてみると、そういう感じのマスクをしている人がいるなあとも思うし、またマスクそのものが下着のようなものであるという思いにもなる。


37

鑑賞日 2010/5/20
大根干すための十字架立てておる
山口 伸 愛知

 大根干すために十字架状のものを立てているのだろうか。それを十字架と連想したのだろう。考えてみれば大根にとっては干されて漬けられて食べられるというのは背負わされた磔刑のようなものかもしれない。禅味というか俳味がある。


38

鑑賞日 2010/5/20
花八手無邪気な貌かはた白痴か
山本キミ子 富山

 「花八手」が内容に合っている。こういうのを季語の斡旋が上手いというのであろう。


39

鑑賞日 2010/5/20
ばななの皮一本分のばななの皮
横山 隆 長崎

 とぼけた味。作ったというのではなくふっと口から出たのであろう。作者自体の味である気がする。


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