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金子兜太選海程秀句鑑賞 461号(2010年4月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2010/4/17
煮凝りや逝きて岳父の戦後果つ
有村王志 大分

 「煮凝り」にスカッと戦後が果てたのではない、どこかしら無念な感じがある。戦争という十字架を背負って一生を生きた岳父なのではなかったろうか。


2

鑑賞日 2010/4/17
初しぐれ猫背の影をはしらせる
市原正直 東京

 軽い諧謔の味。「初しぐれ」というと芭蕉の

旅人と我が名呼ばれん初時雨
初時雨猿も小蓑を欲しげなり

などがどうしても思い浮かぶが、句はこういう句も踏まえての諧謔あるいは戯けであろう。


3

鑑賞日 2010/4/17
鉛筆はまだ降り出さぬ雪を書く
稲田豊子 福井

 こう言われてみると、鉛筆の素描というものは気配を描くのに適しているという感じがしてくる。そしてそれが逆に鉛筆デッサンの魅力なのであろう。この句自体にも雪そのものでなく雪の気配がひしひしと感じられる。


4

鑑賞日 2010/4/18
鹿の尻白く誘う時雨暗
井上湖子 群馬

 〈暗〉は[やみ]とルビ

 幽玄とほのかなエロスといったらいいだろうか。


5

鑑賞日 2010/4/18
すす逃や老人手帳ふところに
上野昭子 山口

 老人施設などの煤払いが想像されてくる。


6

鑑賞日 2010/4/18
老人と少年餅搗く旅の果
大谷昌弘 千葉

 「旅の果」がいろいろな物語を想像させる。


7

鑑賞日 2010/4/19
薄氷を真上から見る真顔かな
小野裕三 神奈川

 寓意を探ろうと思えばいくらでも探れるが、それは野暮である。人間が真顔になっている一つの時間を感じ取ればいいのではないか。


8

鑑賞日 2010/4/19
鶲啼くきっと小さな喉仏
柏原喜久恵 熊本

 鶲(ひたき)が鳴いている。きっと小さな喉仏を持っているのだろう、というのである。この想像力の面白さである。そして自然への親和感。


9

鑑賞日 2010/4/19
生意気な言葉の果ての海鼠かな
川崎益太郎 広島

 面白い。生意気な言葉を発してからどうも肩身が狭くなってしまって海鼠のような状態になってしまったというのだろう。あるいはもっと大きく、海鼠というものは前世で生意気な言葉を発し過ぎた為に今生は海鼠という生を与えられてしまった、とも受け取れる。


10

鑑賞日 2010/4/20
わが去なば詩語馥郁と冬渚
木村幸平 新潟

 〈去〉は[い]とルビ

 わたしが去ってしまえば、詩語がふくいくと香り立つだろう、この冬の渚で、というのである。同感である。おそらく自然というものは常に馥郁として香りたっているに違いない。もし人間がいなければ、もし人間が自我の目を通して見ることを止めれば。


11

鑑賞日 2010/4/20
大きくていつも冷たき花屋の手
金並れい子 愛媛

 いつも利用している花屋の手が大きくていつも冷たいというのである。現代の人間はそのコミュニケーションを言葉だけに頼りすぎている傾向があるが、言語以外のコミュニケーションがあるということをこの句は気づかせてくれる。


12

鑑賞日 2010/4/20
みしらぬ岸を崖と名づけて旅つづく
斉木ギニ 千葉

 私達の人生の歩みの一つの在り方の心理的なものを象徴的に描いた句のように思えてならない。


13

鑑賞日 2010/4/21
恐竜展猫背のわたしに雪が降る
坂本蒼郷 北海道

 そういえば恐竜というのはどこか猫背のものがある。そういう連想でこの「猫背のわたし」がどこか恐竜の骨格の中の一体のように思えてくる。そしてまた、ここにこうして並んでいる骨格の恐竜とわたしとは大して違わない同じようなものだという諧謔の味がある。


14

鑑賞日 2010/4/21
置きざりの昨日の射程木の実降る
佐々木義男 福井

 結局これが人生かもしれない。何だかんだ企んで私達は生きているが、それらは殆ど成就されない。ただ木の実が降るだけである。しかしこれは悲観的なことではなくておそらく大悟の相でもあるだろう。最後には常に不動にあり続ける自然の実相が見えてくるだけであろう。


15

鑑賞日 2010/4/21
短日や僧の母上畑に翳
篠田悦子 埼玉

 「僧の母上」ということもあって「短日」という季語が人生の短さそのもののような趣を帯びている。「翳」もそういう事実を裏付ける働きをしているようだ。しかしそれが悲観的な無常観に結びつかないで感覚的な映像に結びついているのは、やはり現代俳句ということであろうか。


16

鑑賞日 2010/4/21
ゆりかもめそっと一礼したような
下山田禮子 埼玉

 ゆりかもめが見えてくるし、またそのゆりかもめとのやわらかい交感がある。


17

鑑賞日 2010/4/22
抗えない闇なら添うよ不眠でも
釈迦郡ひろみ 
宮崎

 この句は人間なら必ず遭遇する闇というものに対する潔い態度を示している。こういう覚悟があれば、闇が闇でなくなり大いなる光になることを私は確信している。「添うよ」がポイントである。


18

鑑賞日 2010/4/22
直会や猪の生首薄目あけ
鈴木康之 宮崎

 「直会」とは神事の後の飲食の会であるらしい。その時におそらく神事で生け贄にされた猪の生首が薄目をあけていたというのであろう。この血なまぐさい有り様を神事として酒を酌み交わしている人間の残酷さあるいは存在の残酷さ不条理を、この猪は薄目をあけて眺めているに違いない。諧謔であるが重さのある句である。


19

鑑賞日 2010/4/22
日めくりの痩せて狐につままれる
高田ヨネ子 愛媛

 日めくりカレンダーが薄くなってきて狐がつまんだという事実らしきものがあるから、その奥にある言いたいことが飄々と立ち上がってくる。


20

鑑賞日 2010/4/23
山桑黄葉流星のごと旅にねむる
高橋一枝 埼玉

 豊かな自然を持つ惑星。人間あるいは私はその惑星を旅する旅人である。そういう想念がこの句を読んで喚起された。
 余談であるが、近年人間によるこの惑星の自然破壊という問題があるが、それは旅人の礼儀としては、一宿一飯の礼に反するものであろう。


21

鑑賞日 2010/4/23
人の死やほんに冷たき水あげる
竪阿彌放心 秋田

 人の死を慈しんでいるような、あるいは人の死を愛おしんでいるような語調が魅力である。つまりこれはいってみれば、生きとし生ける人間への思いであろう。


22

鑑賞日 2010/4/24
大根引き尻餅搗きし大正人
丹後千代子 福井

 現在のことでもある気がするし、回想的に言っている気もする。大正人といえば、私の父の年代でもあるし、金子先生の年代でもある。戦争という大きな体験を色濃く体験した年代である。そう考えていると、この大根を引くという行為そのものが戦争体験というものに重なって見えてくる。


23

鑑賞日 2010/4/24
煮凝りや家出のように家に居て
月野ぽぽな 
アメリカ

 内容は明白である。「家出のように家に居て」という言い回しと「煮凝り」を見つけたのが味噌である。叙情と自然感豊かな句を書くこの作家であるが、このような諧謔的な句も書くんだなあと思った。


24

鑑賞日 2010/4/24
谷底に牝鹿光陰の雫です
津谷ゆきえ 岐阜

 感動だろう。谷底に牝鹿が見えた時の。感動というのはつまり感の動きである。その感、つまり情に支えられた感覚が「光陰の雫」という言葉の発見に繋がったのだと思う。


25

鑑賞日 2010/4/25
冬至南瓜日向で爆発し損なう
長嶋武治 埼玉

 冬至南瓜が日向に置いてある。その存在感である。


26

鑑賞日 2010/4/25
冬月や悪事をせぬに家遠し
中村孝史 宮城

 夕暮れであろうか夜であろうか、冬の月を見ながら外を歩いている感じである。そして何故とは解らないが家に帰る気がしないというのである。おそらく人間特に男というものは定住したいという気持ちと漂泊したいという相矛盾する気持ちを潜在的に持っているのではないだろうか。その漂泊的志向ではなかろうか。


27

鑑賞日 2010/4/25
寒月光気管に入りぬさきみたま
中村裕子 秋田

 さきみたま(幸御魂)は人に幸福を与える神の霊魂だそうである。「気管に入りぬ」がこの句の味噌である。外界の自然もこの肉体も一如であるという思想であろう。


28

鑑賞日 2010/4/26
毒茸七つも生えて妙な家
中山蒼楓 富山

 何だか現実とお伽話の世界の境目にいるような妙な感じ。


29

鑑賞日 2010/4/26
不断念仏とは秋猿の毛づくろい
野田信章 熊本

 不断念仏をからかって言っているとも取れるし、不断念仏は猿の毛づくろいのように大事なことだと言っているとも取れる。いずれにしろ、人間の行為も猿の行為も同じようなものだという一元的な見方があり、痛快である。


30

鑑賞日 2010/4/26
じいさんの背中ほんのり梟啼くと
平井久美子 福井

 梟が啼くとじいさんの背中がほんのり見えてくる、じいさんの背中をほんのり想いだす。あるいは、ほんのり梟が啼くとしいさんの背中のようだ。いずれにしろ「ほんのり」が「じいさんの背中」と「梟啼く」という離れたものの共通の要素としてある。懐かしい昔語りの世界にいるようだ。


31

鑑賞日 2010/4/27
十月や影みな知恵のあるごとし
平田 薫 神奈川

 周囲のものの影がすべて知恵のあるごとく見えるというのは、見ている人が明晰な状態にあるということでもある。十月という季節にぴったりの気がする。


32

鑑賞日 2010/4/27
着ぶくれの腕組む父もいて反戦
平塚幸子 神奈川

 とても健康な反戦観といえる。


33

鑑賞日 2010/4/27
退院は永劫めきて師走かな
広瀬輝子 栃木

 退院の時が永劫めくというのは分る気がする。命そのものは永劫なのであるが、常にはそのことを忘れている。退院した時というのは命というものを否応なく実感している瞬間に違いないから、その永劫性も直感しているに違いないからである。師走という忙しい時期に人々が生きて動き回っている姿も永劫の一つの場面に違いない。


34

鑑賞日 2010/4/30
雲好きの林好きなり護憲論
松本文子 栃木

 司会者「さてあなたは何故護憲の立場を主張するのですか」
 論者「だってわたくし雲が好きで林が好きなんですもの」

 まことに詩的な護憲論であるが、結局憲法(九条)論議の真髄を表した言い方だと想う。


35

鑑賞日 2010/4/30
花火見るたびウンチする赤子かな
マブソン青眼 
長野

 この作家は一茶の研究をされているらしいが、この句などと見ると、さもあらんと思う。一茶に影響を受けたというのではなく、こういう句を書ける作家だから一茶の庶民性に引かれたのだと思うわけである。そして現代俳句の飛躍のセンス。


36

鑑賞日 2010/4/30
少年よ今踏んだのは鴨の声
三浦二三子 愛知

 芭蕉の「海くれて鴨の声ほのかに白し」などの抒情性を踏まえて読むと分りやすい気がする。少年が出会った或るみずみずしい体験のことを言ったのではないだろうか。


37

鑑賞日 2010/5/1
こころのかたち赤蕪を厚く切る
武藤暁美 秋田

 赤蕪がこころのかたちでもあるし、赤蕪を厚く切ることがこころのかたちでもあるということだろう。大切な日常をぶ厚く生きている人という感じである。


38

鑑賞日 2010/5/1
白鳥は附 大工道具館
矢野千代子 兵庫

 〈附〉は[つけたり]とルビ

 句意はあきらかであるが、真中を一字分開けた効果を考えてみた。一字分開けることによって、大工道具館があってその外で白鳥が遊んでいる景色がはっきりと見えるという視覚的な効果があると思った。


39

鑑賞日 2010/5/1
電車待つ下着のようなマスクして
矢野美与子 東京

 「下着のようなマスク」という譬えの面白さと的確さである。思わず笑える中に、都会の生活人の哀愁のようなものまで感じさせてくれる。


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