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金子兜太選海程秀句鑑賞 460号(2010年2・3月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2010/4/2
黄落は目薬の木と覚えおり
阿川木偶人 東京

 「目薬の木」とはカエデ科の落葉高木である。樹皮を煎じて飲むと眼病に効用があるとする民間療法があったらしい。
 黄落している木を眺めている。確かこの木は目薬の木であったなあと思っている。黄落を眺めるということは目あるいは心の滋養になることだなあという含意を覚える。


2

鑑賞日 2010/4/2
竜胆は小さな裏切りと似ている
油本麻容子 石川

 『カラマーゾフの兄弟』のリーズのことが思い浮かんだ。彼女はアリョウシャを何回も裏切るが、おそらく彼女の裏切りは彼女自身の幼さから来ている悪意のない裏切りであり、それ故アリョウシャは全面的に彼女を許し愛し続けることができる。彼女の場合、その裏切りも含めて、その小さな存在自体が可愛らしい。そういえばリーズは竜胆のような雰囲気を持っている。


3

鑑賞日 2010/4/2
水澄めり直に響いて人声は
伊藤淳子 東京

 〈直〉は[じか]とルビ

 水が澄むゆえ、心も澄む。そのような時に人声が直に響いてくるというのである。人声の言葉の表面的な意味ではなく、その人声の持つ本質的な質が響いてくるのである。


4

鑑賞日 2010/4/3
橋裏や小春の亀と吾が破顔
岩佐光雄 岐阜

 「橋裏」というのが印象的である。社会のあるいは人生の表舞台ではない忘れられたような場所。そういうような場所で小春日に亀と吾が出会って笑っているというのである。


5

鑑賞日 2010/4/3
白露かわれかまろんで産土へ
大上恒子 神奈川

 白露がまるくなって土の上へこぼれ落ちる。そのようにわれもまるくなってこの産土へ還ってゆくのかもしれない。「白露かわれか」という言い方に、白露に自己の姿を垣間見ている作者の姿がある。


6

鑑賞日 2010/4/3
小鳥来る僕らの痩せる日常へ
大野泰司 愛媛

 「僕らの痩せる日常」という感覚は誰もが経験することではないだろうか。殊に俳句などの創作をやっている人は意識的にそういうことを感じるかもしれない。そういう時に小鳥がやって来てくれたというのである。


7

鑑賞日 2010/4/5
帰る燕還らぬ義兄はまだルソン
岡崎万寿 東京

 ルソンはフィリピンの一番大きな島で首都マニラがある。太平洋戦争ではアメリカ軍などとの戦いがあった場所だそうである。戦後世代の私にとっては、こういう内容の句は真に理解することは出来ないだろう。戦争で肉親が失われるということが実感として解らないからである。おそらく私などは、戦争反対といっても骨の髄からの感覚で言っているわけではないのかもしれない。


8

鑑賞日 2010/4/5
ストローの不覚の音や秋薔薇
奥田筆子 京都

 「ストローの不覚の音」というのは、何の気なしにズーズーと吸い込んで立ててしまった音のことだろうか。要するにそういう音を立てるのが相応しくないような雰囲気の場であったのだろう。「秋薔薇」というのがとり澄ました婦人達の雰囲気がある。


9

鑑賞日 2010/4/5
石蕗咲いて記憶の中をさっさと歩く
加地英子 愛媛

 「記憶の中をさっさと歩く」という表現が新鮮で実感がある。それゆえまた「石蕗の花」が引き立って美しい。


10

鑑賞日 2010/4/7
てのひら涸らし今ゆく姉に鳥渡る
川田由美子 東京

 「てのひら涸らし」という言葉に精一杯生きたという意味が含まれる気がする。逆にいえば、やっと今逝くことができると取れるかもしれない。そういう姉とともに鳥も渡ってゆくというのである。御苦労さんでした、という気持ちがあるような気がする。


11

鑑賞日 2010/4/7
鳥渡るもの動かせば鈴の音
河西志帆 長野

 「鳥渡る」と「もの動かせば鈴の音」の響きあいである。何を動かしたかどうかは解らないが、とにかくそういう偶然の中にある符合であり、またその時の作者の気持ちもこの偶然に共鳴して振動しているのであろう。


12

鑑賞日 2010/4/7
躁という爆発音を抱えて冬
岸本マチ子 沖縄

 多かれ少なかれ人間には躁状態あるいは鬱状態が巡ってくるものであるが、それを自覚しているかどうかが、病気であるかどうかの境であろう。この作者はそれを自覚して「躁という爆発音」と表現したところが冴えている。豪快でまた健康な一句である。


13

鑑賞日 2010/4/8
りんご摺る指に深夜の漫ろ神
草野明子 埼玉

 「漫ろ神」というのは誰にも取り憑くものであるが、深夜りんごを摺っている指に漫ろ神がやってきたという場面が面白い。深夜にりんごを摺るというのは、これは病人食を作っているのだろうか。そんなことを想像するが、ともかく几帳面にりんごを摺っていると、その几帳面さ目がけて漫ろ神がやってくるというのはよく解る。


14

鑑賞日 2010/4/8
牛膝お伽話にくっついて
久保智恵 兵庫

 〈牛膝〉は[いのこずち]とルビ

 「桃太郎」でも「金太郎」でも「猿蟹合戦」でも「べろ出しチョンマ」でも「花咲山」でもなんでもその登場人物にはみんな牛膝が付いているような雰囲気がある。そもそもお伽話の舞台は牛膝がありそうな舞台であるのかもしれない。お伽話というものの雰囲気を言い当てている句である。


15

鑑賞日 2010/4/8
楽しさよ高く残った柿の実の
河野志保 奈良

 実に素直に素直な言葉で表現した好感の持てる句である。こういう句作りを私も目指したいものである。


16

鑑賞日 2010/4/9
立冬のタオルのようにうたたねす
こしのゆみこ 
東京

 譬えの面白さであるが、この譬えから読者は様々に想像を働かせるだろう。私などは、ハンガーにかけっぱなしになって棒状に乾いてごわごわとしたタオルを想像する。つまり立ったままうたたねをしたのではないかというような想像である。


17

鑑賞日 2010/4/9
秋茄子腕の静脈地図に似て
小長井和子 
神奈川

 難しい。「秋茄子」と「腕の静脈地図に似て」の関連性が難しい。例えば、秋茄子をたくさん収穫して腕に重たい。その時に腕の静脈に気づいたというような状況かもしれないし、あるいは、秋茄子というのはとてもつやつやとして健康的な風体をしているが、腕の静脈が地図のように浮き出ていかにも健康なエネルギーを秘めた肉体との関連かもしれない。しかしやはり難しい。


18

鑑賞日 2010/4/9
手話で告ぐ天高々と深きこと
佐々木昇一 秋田

 心の芯に情が込み上げてくるような感動がある。正岡子規の「いくたびも雪の深さを尋ねけり」という句を思いだした。


19

鑑賞日 2010/4/10
言い訳の才槌頭かりんの実
塩谷美津子 福井

 「才槌頭(さいづちあたま)」とは、前頭後頭部が突き出て槌のような形の頭であるそうである(辞書)。そういう頭の形をしている人が言い訳をしている。作者は言い訳そのものよりもむしろその頭の形に気を取られている。才槌頭という言葉があるが、これはかりんの実にもにているなあ、などと思っている。本筋そのものよりも付随する些細なことに気を取られるということは心理的によくあることで、文学でもドストエフスキーなどはそういう事実を頻繁に記述する。まあ、そんな講釈は抜きにして、ある人物像がはっきりと見えてくる佳い句であると思う。


20

鑑賞日 2010/4/10
陽が落ちて猪起きてくる山の秋
篠田悦子 埼玉

 「猪起きてくる」が味噌であり、いかにも山の秋という風情を感じ、また生きものとしての山、生きものとしての秋を感じる。


21

鑑賞日 2010/4/10
オリオン流星群アフガン自爆者は見たか
杉崎ちから 愛知

 天然の美しい事象と人事の不条理を対比させた好句である。対比だけではなく、流星群というものと自爆テロというものの微妙な共通性もあり響く。


22

鑑賞日 2010/4/11
魚たちが海を耕す十三夜
鱸 久子 埼玉

 面白いなあ。そして雰囲気として十三夜がぴったりである。


23

鑑賞日 2010/4/11
萱刈りに入る縊死の樹あり淋し
瀬戸 密 北海道

 下五の語り口にとても感じ入るものがある。


24

鑑賞日 2010/4/11
睡蓮の池が市場のようであり
竹内義聿 大阪

 睡蓮の池が雑多で猥雑な市場のようであり、また美しい睡蓮の池のようであり、その両方であるのだろう。このことはおそらく世間あるいは世界の実像に違いない。


25

鑑賞日 2010/4/12
雁渡し父さんのような丸木橋
竹田昭江 東京

 「父さんのような丸木橋」というのはどういうものかと考えてみた。いつもそこにあって見慣れている、そして知らず知らずに自分の意識の中で懐かしいような、それが無くなると物足りないような事物(ここでは丸木橋)というようなものではないだろうか。そういう丸木橋を見ながら、今年も仮渡しの季節になったなあという感慨の句である。


26

鑑賞日 2010/4/12
紅葉のごとくに声の強い人
谷 佳紀 神奈川

 黄葉では駄目で「紅葉」である。この句は「声の強い人」を描いているともいえるし、逆にまた「紅葉」そのものを「声の強い人」と形容しているともいえる。そういうような紅葉を見たことが誰もあるに違いない。


27

鑑賞日 2010/4/12
なぜにわれ癌病棟に秋刀魚賞づ
中島偉夫 宮崎

 とぼけたような諧謔の味である。癌病棟といういわば深刻な状況にある吾が秋刀魚を賞でている、おれはもっと深刻にならなければならないはずなのにこんな日常のものごとを楽しんでいたりする、なぜだろう、不思議だ、というようなことではないか。蛭子能収という漫画家でタレントが「おれは葬式にいくと、むやみに笑いたくなってしまうんだ」と言っていたことがあるが、人間とは哀しくも可笑しいものである。


28

鑑賞日 2010/4/13
矢車草コーヒーがにがてです
中田里美 東京

 私はコーヒーが好きである。そして止めなければとも思っている。何故ならコーヒーは身体を冷すからであり、私は極度の冷え性であるからである。大体において暑い地方に産するものは身体を冷すそうなのである。また身土不二という考え方からいっても自分の身近に産するものを食べたり飲んだりするのが一番いいのである。「コーヒーは止めたほうがいいよ」と矢車草に言われている気がする。


29

鑑賞日 2010/4/13
秋燕や水が水呼ぶように握手
中村 晋 福島

 燕は秋になると南方へ帰ってゆく。おそらくこの句は別れの時の句のような気がする。その時にごく自然に素直な気持ちで握手できたというのではないだろうか。「水が水呼ぶように」をそのように取った。また秋の清々しい空気も感じる。


30

鑑賞日 2010/4/13
綿虫や狼の毛まぎれ込む
平山圭子 岐阜

 「綿虫」は俳句でよく詠まれる季語であるが、実は私はまだ見たことが無いので困るのである。私の自然への感受性が弱いのか、あるいは私の住んでいる地方には少ないのかよくわからない。晩秋から初冬にかけて群をなして飛ぶそうであるから、一回くらいお目にかかりそうであるが、まだである。「綿虫や狼の毛がまぎれ込む」と詠む作者は原初的な自然感覚があるに違いない。


31

鑑賞日 2010/4/14
渡りきて四日目ほどの鳥の貌
前田典子 三重

 諧謔味をじわっと滲ませた渋い句である。


32

鑑賞日 2010/4/14
霧深し山ふところの赤子かな
松山登美子 福井

 人間の赤子というものは誰しもいわば聖童であるが、特にこの句における「赤子」はそんな雰囲気を持っている。


33

鑑賞日 2010/4/14
一夜汲み二夜風汲み花すすき
三井絹枝 東京

 いいなあ。この口調。この作家のことを曾て〈情念の葦〉と形容したことがあるが、この句などにおいては、その情念が澄み切って風とお話しているようである。


34

鑑賞日 2010/4/15
夕焼が恐いのです五十肩
宮坂秀子 長野

 「夕焼が恐い」という感覚は郷愁のように解る気がする。つまりこれは幼時期に覚えることがある感覚ではなかろうか。あるいは、存在するということに対する戦きの感覚ではないだろうか。非常にデリケートでナイーブな感覚といえよう。そして、その感覚に対して「五十肩」という現実的な自己を対峙させ、人間存在の幅を表現している。


35

鑑賞日 2010/4/15
紅葉かつ散る軽く首曲げストレッチ
室田洋子 群馬

 この作家の日常の軽快感が見えてくるような句である。季語と句の内容が軽快なリズム感で繋がっている。


36

鑑賞日 2010/4/15
冬の蝿逐ふこと玉子立てること
柳生正名 東京

 「冬の蝿逐ふこと」と「玉子立てること」の微妙な類似性が面白い。相手を傷つければどちらも容易いのであるが、どうもそれも思いつかないし、どうもやっかいなことである、というようなこと。


37

鑑賞日 2010/4/16
日々たのし赤き魚飼う夫の秋
山岡千枝子 岡山

 色彩感と透明感と丁寧に流れてゆく日常感。いいなあ。


38

鑑賞日 2010/4/16
ビルに抱かれて海の音聞く清掃夫
與儀つとむ 沖縄

 昔流の言い方をすれば、こういう人物こそ地の塩である。おそらくこういう人物がいる限り日本は駄目にならないだろう。この人物は詩の日常を生きている。金に飢えものに飢えている人ばかりでは社会は干からびてしまう。この句の「清掃夫」のような人物こそがいわば賢者であり聖者なのである。


39

鑑賞日 2010/4/16
一茶忌や雀のあそぶ土もなし
若林卓宣 三重

 今日は一茶忌か、一茶といえばたくさんの小さな動物の句を書いたなあ。「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」とか「陽炎に子を返せとや鳴雀」とか「赤馬の鼻で吹きけり雀の子」とか「我と来てあそべや親のない雀 」とか「 牢屋から出たり入たり雀の子」とか雀の句もたくさん会った。一茶は生きることで苦労したけど、もしかしたら現代のおれたちよりずっと幸せだったかもしれない。だって、あれほどに動物や人間とのいのちの交感が持てたのだから。現代においてはどうだ。雀のあそぶ土もないじゃないか。


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