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金子兜太選海程秀句鑑賞 459号(2010年1月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2010/3/20 | |
一つ蝶追うも追わぬも捨て聖
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相原澄江 愛媛
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「捨て聖」という言葉が新鮮である。何もかも捨ててしまったやけっぱちの虚無状態とも取れるし、逆に様々な欲から解放された自由な状態とも取れる。おそらく聖という者は、そのような際どい心理的な危うい地点を通過せざるをえないのではないだろうか。この句はそういう「捨て聖」の両面性をそのまま含んだような含蓄のある句である。 |
鑑賞日 2010/3/20 | |
怜悧であること青瓢箪長きこと
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阿保恭子 東京
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面長の飄々とした風貌の人物像が重なってくる。ヌーボーとして小賢しくなく、一見利発には見えないが実は知恵が深いというような人物である。 |
鑑賞日 2010/3/20 | |
荒縄に露のるいるい魄のことなぞ
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飯土井志乃 滋賀
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「荒縄に露のるいるい」としているのを見て強い印象を受けた作者は「魄のことなぞ」を思ったということであろうか。物質として現れ出でたるものの不思議さであろう。 |
鑑賞日 2010/3/21 | |
流れ星黒板キィーと鳴かせたり
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石田順久 神奈川
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どういう状況かは直に分るが、そのことを説明しないで、只単に流れ星が黒板を鳴かせたと言ったところに俳句的な面白みがある。 |
鑑賞日 2010/3/21 | |
卒爾ながらえんまこおろぎ鳴いており
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伊地知建一 茨城
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この句の面白みは「卒爾ながら」というような畏まった文語的な表現の出だしだろう。そして「えんまこおろぎ鳴いており」という落ち。落語を聞いているような味がある。 |
鑑賞日 2010/3/21 | |
これ位の月なら猫の重さかな
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大高俊一 秋田
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庶民の味というか、八っつぁん熊さんの味である。 |
鑑賞日 2010/3/22 | |
戦は嫌い秩父夜祭り待つばかり
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金井 充 埼玉
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庶民の素直な感情が素直に衒いなく表現されている。 |
鑑賞日 2010/3/22 | |
いつまで昭和の葦でいるの兄さん
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岸本マチ子 沖縄
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兄さんへの励ましと取った。言い方に味わいと魅力があり、また作者のさっぱりした性格が伝わってくる。一つの歴史を背負ってしまった兄への思いである。 |
鑑賞日 2010/3/22 | |
川であることと断絶滝落下
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北村美都子 新潟
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これはもう人間の生そのものを感じさせてくれる含蓄のある句である。はっきりいえば、生の一部である死ということを暗示している。 |
鑑賞日 2010/3/23 | |
青葉木菟樹海は覚めて大河かな
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小林一村 福井
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樹海を俯瞰しているような感じがある。朝日がのぼり樹海がその姿を現わしてくる。それを俯瞰するように眺めると大河のような感じがするのではないかと想像している。すなわちこの視点は青葉木菟のものでもあるような気がする。 |
鑑賞日 2010/3/23 | |
人や家畜に稔る静かを散居かな
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小堀 葵 群馬
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「かな」は「という」というようなニュアンスで読めばいいのではないか。「という」では説明的だと感じたので「かな」としたのではないか。とにかくこういう風景が見えてくる。 |
鑑賞日 2010/3/23 | |
この道は夕焼けに毀されている
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佐孝石画 福井
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風景としては、圧倒的な夕焼が見えてくる。そしてまた私は芭蕉の「この道やゆく人なしに秋の暮」を連想する。芭蕉の「この道」はもちろん人生の道というようなものが重ね合わされていると思うのであるが、この句においてもそれがあるのではないか。この句においては、自分という個我が意図したものよりも自然は大きかったという感慨がある。 |
鑑賞日 2010/3/24 | |
ナルキッソスの微笑ヒレナガニシキゴイ
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柴田美代子 埼玉
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ヒレナガニシキゴイを見てナルキッソスの微笑だと感じた飛躍。この鯉のこの世ならぬ美しさが目に浮かぶようであるし、またこのような人工的な鑑賞魚ということに関する若干の皮肉がないでもない。 |
鑑賞日 2010/3/24 | |
蓖麻は実にまひるの星座まうしろに
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清水 伶 千葉
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〈蓖麻〉は[ひま]とルビ 蓖麻というのは唐胡麻の別名であるらしい。この種子から作るのが蓖麻子油である。この句の魅力はまずこの蓖麻という言葉の新鮮な響きにある。そしてその響きにつられるように続くm音の響きが快い。そしてなにより「まひるの星座まうしろに」という大きな自然把握に魅力がある。 |
鑑賞日 2010/3/24 | |
触ってみれば私の骸骨小さめです
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釈迦郡ひろみ
宮崎 |
句全体が発するメッセージが小気味よい。「私の骸骨」という言い方も新鮮な把握であるし、「小さめです」という会得も好感があるし、「触ってみれば」という触感覚をともなった気づき感に実感がある。 |
鑑賞日 2010/3/25 | |
新米に麦少し入れ仲良きかな
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高木一恵 千葉
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色紙屋さんなどでよく見かける武者小路実篤の「仲よきことは美しきなか」というのがあるが、「美しきかな」と言わないで「新米に麦少し入れ」とさり気なく日常の行為で描いたのが俳句の優れているところであろう。俳句は概念の肉体化である。 |
鑑賞日 2010/3/25 | |
死ぬまで戦後秋冷へ割木積む
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瀧 春樹 大分
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「秋冷へ割木積む」に実感がある。その行為の中での「死ぬまで戦後」という感慨に真実味がある。 |
鑑賞日 2010/3/25 | |
ナマハゲの面を飾って稲を刈る
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館岡誠二 秋田
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土俗を書き取っている。調べてみると、なまはげというのは小正月の行事で直接に稲刈りや五穀豊穰などの意味はないらしいが、その離れたところが俳諧である。 |
鑑賞日 2010/3/26 | |
新松子姉が拗ねたりわらったり
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田村勝実 新潟
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「新松子」と「姉が拗ねたりわらったり」との関係である。姉のそういう新鮮な面の再発見ということであるかもしれないし、また新松子をめぐっての姉と誰か(子どもなど)とのやりとりという雰囲気もある。 |
鑑賞日 2010/3/26 | |
産まざりし子には名の無し夏燕
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土屋寛子 神奈川
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重い主題である。生と死ということ。斎藤茂吉の次の歌と同質の高い叙情を感じる。 のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根の母は死にたまふなり |
鑑賞日 2010/3/26 | |
旅に出て魚影のような秋の私語
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董 振華 中国
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「魚影のような秋の私語」が詩的であり、旅の漂泊感や非日常感を感じさせる。 |
鑑賞日 2010/3/27 | |
稲架中退八甲田山で全滅せり
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徳才子青良 青森
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八甲田山の麓かもしれない、稲架の列が八甲田山に向って行進しているように並んでいる。そんな風景を見ながら、作者は例の八甲田雪中行軍遭難事件を幻想的に思い浮かべたのではないだろうか。 |
鑑賞日 2010/3/27 | |
即物的な市民祭のあかとんぼ
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中村孝史 宮城
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市民祭か、それにしてもどうも則物的過ぎる市民祭だなあ、おや赤とんぼがとんでいる、赤とんぼはいいなあ、自由だなあ、というような感じに受け取った。 |
鑑賞日 2010/3/27 | |
蒟蒻玉に裏表なし山の守
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中山蒼楓 富山
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〈守〉は[かみ]とルビ あの野趣味野性味のある蒟蒻玉を見ながら、裏表のない生き方あるいは裏表のない人物像を思い描いたのではないだろうか。「山の守」は山の守に祈っているあるいは呼びかけているという雰囲気である。 |
鑑賞日 2010/3/28 | |
釣瓶落しこの位置は譲れない
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野崎憲子 香川
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秋の日が釣瓶落しのようにたちまち暗くなっていってしまう。私のまわりの何もかもがそのような状況である。しかし、私が今現在あるこの位置は譲らない、譲れない。何故ならこの位置は私というものの存在理由のように私には思えるからである。 |
鑑賞日 2010/3/28 | |
土にとけ芋虫と婆生き生き
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長谷川育子 新潟
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老人の孤独死というような問題が現在の都会では起っているが、田舎で土に親しむことがその生であったような老人にはそういうことはない。土や芋虫さえもが彼等の友達であるからである。 |
鑑賞日 2010/3/28 | |
飛魚や屋久島すっぽり洗われて
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林 壮俊 東京
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この「すっぽり」というのが実感であろう。実感に手を加えないで、あるいは実感を意味でいじくりまわさないで書くということも肝要なことであろう。あの辺りの生な印象が伝わってくる。 |
鑑賞日 2010/3/29 | |
ふんわりと秋の皮膚感いりたまご
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廣島美恵子 兵庫
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ふんわりとしたいりたまごを作りながらあるいは食べながら秋の清々しい感じを皮膚で感じているわけであるが、いつの間にかそのいりたまごのふんわりとした感じと秋の皮膚感が同じもののように感じられてくる。結局、気持ちの良い秋の日にいりたまごを作っている嬉しさ。 |
鑑賞日 2010/3/29 | |
小鳥来る草をくわえている老人
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堀之内長一 埼玉
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妙なことであるが、映像そのものではなく映像を描いた図が想い浮かぶのである。線で描かれたような図である。そして今にもその描かれた老人などが動き出しそうな感じの図である。 |
鑑賞日 2010/3/29 | |
現在地不明の森に毒茸
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三田地白畝 岩手
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寓意性豊かな句である気がする。社会の状況、人間の状況、そして飛躍してこの「毒茸」は原爆のキノコ雲のような想念まで働いてきてしまう。 |
鑑賞日 2010/3/30 | |
脱ぎ捨てのパジャマ夏くる男鹿半島
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武藤暁美 秋田
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若々しい初夏。若々しい男鹿半島。若々しい肉体。いいなあ。 |
鑑賞日 2010/3/30 | |
夾竹桃はるかはらから波頭
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村上友子 東京
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夾竹桃がある。遠くに波頭が見える。その波頭を見ながらはるかはらからと作者は感じている。そしておそらく、この夾竹桃も波頭をはるかはらからと感じているだろうと作者は感じている。この「はるかはらから」という言葉がその意味といいその音の響きといい全ていい。 |
鑑賞日 2010/3/30 | |
啄木鳥や言い張る時の首太し
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室田洋子 群馬
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「啄木鳥」と「言い張る時の首太し」が微妙にそして正確に繋がっていて上手い。観察力というものだろう。 |
鑑賞日 2010/3/31 | |
さくらんぼ明るい水底だってある
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森里美絵 埼玉
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さくらんぼがの実が明るい水底に落ちて見えているような景が思い浮かぶ。そして「・・だってある」という表現から、その景に作者の心模様が重なってくる。単なる写生ではない現代俳句の面白さであろう。 |
鑑賞日 2010/3/31 | |
山僧と穴惑卵呑みし顔
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柳生正名 東京
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〈山僧〉は[さんぞう]とルビ 煩悩具足の山僧のつやつやとした顔が見えてくる。「穴惑」という言葉の含蓄の故だろう。諧謔の味である。 |
鑑賞日 2010/3/31 | |
静原の稲架のたかさの返歌かな
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矢野千代子 兵庫
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感受性豊かな現代人の憂愁ではないか。田園の憂愁というような感じを受けるのであるがどうだろう。 |
鑑賞日 2010/4/1 | |
澄極み水の齢のなかりけり
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柚木紀子 長野
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〈澄〉は[すみ]、〈齢〉は[よわひ]とルビ 意識が澄んだ状態においては時間というものは消滅する。すなわち齢もなければ老もなく死もない。そういう事実を水に託して言ったのであろう。 |
鑑賞日 2010/4/1 | |
原爆忌静かな雨に傘湧けよ
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吉川渓美 埼玉
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原爆忌に静かな雨が降っている。大勢の人が傘をさしている。ややもすると人間というもの人類というものに悲観的な風景が開けてきてしまう。「傘湧けよ」は自分の気持ちを鼓舞するような、掛け声のような言葉ではなかろうか。 |
鑑賞日 2010/4/1 | |
白底翳あの夕顔のひらきしまま
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若森京子 兵庫
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〈白底翳〉は[しろそこひ]とルビ 「あの夕顔のひらきしまま」が何か過去の強い想い出に繋がっているような印象がある。私は読んだことがないが、源氏物語の「夕顔」の印象に由来している可能性もあるかもしれない。白底翳の物が白っぽくひらいて見える感じとの二物配合が俳諧的に見事であり、齢を重ねた作者自身の感慨深い想い出ということを暗示してもいる。 |
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