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金子兜太選海程秀句鑑賞 458号(2009年12月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2010/3/7 | |
亡母が亡姑語りしときの遠花火
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伊賀上寿賀子
愛媛 |
〈亡母〉〈亡姑〉はともに[はは]とルビ 母がまだ生きていた頃に亡姑のことをしみじみと語ったことがある。その時、遠くの花火が見えていた。その母も今は亡い。そして今もまた遠花火が見えているが、すべての過去の事どもの記憶はこの遠花火のように遠く美しい。そのようなことではないだろうか。 |
鑑賞日 2010/3/7 | |
濁流や朴の咲く日は音消して
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一ノ瀬タカ子
東京 |
清楚で美しい朴の花が咲いた。それを見ていると無音の境地に誘われて、いつも聞えてくる濁流の音も聞えなくなるようだ。 |
鑑賞日 2010/3/7 | |
豪雨三日バケツリレーのようにかな
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市原光子 徳島
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譬えの面白さである。読んでいると、このバケツリレーをしているのは天の雨の神々であるというような気がしてくる。 |
鑑賞日 2010/3/8 | |
蛇掴みて仲間はづれと思ひけり
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稲葉千尋 三重
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思春期の微妙な心の有り様である気がする。あるいは、蛇を掴むというようなことを、白い眼で見るような現代の子どもの心の有り様が背景にあるのか。「蛇掴みて」にある種の象徴もありうる。いずれにしろ、心理句である。 |
鑑賞日 2010/3/8 | |
雪渓に雷鳥という図式ふと
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宇野律子 神奈川
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「という図式ふと」で「雪渓に雷鳥」といういわば陳腐な図柄が再び新しくなって蘇ってくる効果がある。 |
鑑賞日 2010/3/8 | |
日本の蝉の木お昼ごはんかな
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榎本佑子 兵庫
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日本人に生れてよかった、という台詞のコマーシャルがあった。塩辛に茶をかけて食べるシーンであった。この句において、そのような日本の食事をしているに違いないと想像している。日本の蝉の木、そして日本のお昼ごはん、いいなあ、という感じである。 |
鑑賞日 2010/3/9 | |
ぽつんと父十の青田の月愛し
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大沢輝一 石川
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〈十〉は[とお]とルビ 棚田のような比較的狭い何枚もの田圃を打ち眺めている父の姿が見えてくる。夕暮れから夜になろうとする時間であろうか、空には月が出ている。そのような印象的な光景とともに、現代の農や農村の淋しい状況も感じられる好句である。 |
鑑賞日 2010/3/9 | |
夏期休暇二歳児の列透きとおる
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小野裕三 神奈川
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夏期休暇に二歳児の列が透き通っているという感覚は、豊かな恵まれた賜り物という感覚である。 |
鑑賞日 2010/3/9 | |
どくだみを煎じ老いの血の反戦
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加地英子 愛媛
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どくだみ→血→反戦とスムーズに観念が繋がって読みやすく、土に根差した人間の思想を感じる秀逸な反戦句である。 |
鑑賞日 2010/3/10 | |
揚げ油飛ぶやてんてんてんとう虫
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川崎千鶴子 広島
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料理をしている時の楽しい気分が伝わってくる。料理のような日常の仕事が楽しくやれるというのはやはり幸せということだろう。 |
鑑賞日 2010/3/10 | |
百千鳥子の声薄く真中にあり
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川田由美子 東京
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〈真中〉は[まなか]とルビ 「子の声薄く」に子への心配、ひいては人間への悲哀のようなものが感じられてしまうのであるが、どうだろう。 |
鑑賞日 2010/3/10 | |
黒髪は水にひろがり蛇泳ぐ
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北川邦陽 愛知
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「黒髪は水にひろがり」に女性の死のイメージを感じる。例えばオフェーリアという女性。それに対比して、「蛇泳ぐ」に男性の生のイメージがある。全体に生きていることの哀しみそして不条理というようなものを感じてしまうのであるが。 |
鑑賞日 2010/3/11 | |
今というこのときの純おどりの輪
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北村美都子 新潟
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「今というこのときの純」が祭の際や宗教的な儀式の中では殊に感じ易いというのはある。また、輪あるいは丸という形そのものも純な形である。 |
鑑賞日 2010/3/11 | |
豆飯や誰にも会わぬ孤独死や
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小林一枝 東京
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この「・・や・・・や」がものを並列して言うときの「や」に思える。林檎や蜜柑や・・や・・というようにである。「豆飯」というごく日常的なものと「誰にも会わぬ孤独死」といういわば悲惨な非日常的なものが坦々と並列されている感じがする。生死一如ということであろうか。 |
鑑賞日 2010/3/11 | |
浮力というもの梅雨の蝶地に低き
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坂本春子 神奈川
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地に低く翔んでいる梅雨の蝶を見て、浮力というものを感じたのであろう。この世界の全体的質量の把握があるし、またその世界に生きるこの梅雨の蝶のけなげな美しさというものも感じる。 |
鑑賞日 2010/3/12 | |
闇の音すべて消してよ不眠です
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釈迦郡ひろみ
宮崎 |
不眠とは自己の中の想念が沸き立って眠れない状態であろう。その自己の想念が「闇の音」として聞えるというのは、ある病的な状態であるともいえるし、あるいは客観的に自己を観察しているのだともいえる。 |
鑑賞日 2010/3/12 | |
飛魚とびすっと孤独に櫓の軋む
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新城信子 埼玉
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句は間違いなくいいものである。一人であることの淋しさが伝わってくる。そしてこの句の救いは孤独という言葉が使えたということ、すなわち孤独であるという認識が持てたことではないだろうか。もし「孤独」という言葉を使わないで同じ内容のものが書けたとしたら、その孤独は絶望的なものに感じられるに違いない。 |
鑑賞日 2010/3/12 | |
敗戦日握手に鉄の義手を出す
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杉崎ちから 愛知
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ブラックユーモアな反戦句である。 |
鑑賞日 2010/3/13 | |
削られし乳房にふれぬ蛍かな
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鈴木八駛郎
北海道 |
乳房を失った女性の哀しみ。そしてほのかなエロス。当然女性の作家かと思ったら男性の作家であるのは驚きである。 |
鑑賞日 2010/3/13 | |
百日紅越しに男体山孫が来る
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須藤火珠男 栃木
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〈男体山〉は[なんたい]とルビ 穿って読んでしまうのである。自分の娘と男との間に出来た孫がやってきた、というふうに。そしてそのことをこの風景に託して諾っている、というふうに。自然はすべて男性性と女性性でできているという感じ方である。 |
鑑賞日 2010/3/13 | |
孕みたる蝮や地霊添うごとし
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高木一恵 千葉
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まさにアニミズム的な交感である。孕みたる蝮、地霊、そして作者の。命を産みだす女性においては、このような感覚は男性よりも優れているのかもしれない。 |
鑑賞日 2010/3/14 | |
今むかし花火着て寝る湖族かな
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高澤竹光 滋賀
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おそらく今も昔もという意味であろう「今むかし」という言い回しや、「花火着て寝る」という言い回しや、「湖族」という造語が上手い。 |
鑑賞日 2010/3/14 | |
せめて今は子を抱く母で原爆忌
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たかはししずみ 愛媛
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「せめて」という言葉に作者の思いがこもっている気がする。重い人間の歴史に頭を垂れ、そしてまた自分もその歴史の一部であるということを自覚し、祈りをもって生きている姿である。 |
鑑賞日 2010/3/14 | |
チェロ弾きの指のうたかた青筋揚羽
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田口満代子 千葉
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この生全体が美しい夢である感じ。あえていえば、美しき無常観と言えるか。表面上の繋がりとしてはチェロ弾きの指の青筋なども見えてくるが、しかしそれは瑣末なこと。 |
鑑賞日 2010/3/15 | |
平泳ぎ海底火山このあたり
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田沼美智子 千葉
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臨場感があるし、また自分は地球を泳いでいるのだというわくわくするような把握がある。 |
鑑賞日 2010/3/15 | |
梅雨最中僧にもらいし絵蝋燭
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田村蒲公英 埼玉
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しっとりとした風情とあざやかな色彩。死と生の仄かなるエロス。 |
鑑賞日 2010/3/15 | |
耳底のつめたきホタルブクロかな
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月野ぽぽな
アメリカ |
耳底につめたきホタルブクロがあるという。一種の疎外感なのではないか。他人の発した言葉が耳底に冷たく残っているというような。心理句であると受け取った。 |
鑑賞日 2010/3/16 | |
朝日煙り夕日煙らせ秋分日記
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董 振華 中国
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自然とともにある豊かな日常、という感じである。 |
鑑賞日 2010/3/16 | |
すり足の清少納言夜の秋
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中村裕子 秋田
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こういう句が出来るというのは、その頃の文学などに相当親しんでいるからに違いない。全く親しんでいない私などにも、リアリティーをもってその場面が見えてくるから不思議である。 |
鑑賞日 2010/3/16 | |
目鼻とんで君達の今青の時代
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新田幸子 滋賀
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「青の時代」という肯定的な把握の言葉がこの句の良さであろう。 |
鑑賞日 2010/3/17 | |
ヒロシマの石に言の葉うましめよ
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野崎憲子 香川
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「ヒロシマ」に対する祈りの気持ち。そしてその悲惨が忘れ去られてゆくことへのもどかしさ。 |
鑑賞日 2010/3/17 | |
柳絮飛ぶ志を遂げざるに老いたるよ
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林 壮俊 東京
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ある兵士の祈り、という詩を思いだした。 自ら成し遂げるために強さを願ったが やはり「柳絮飛ぶ」にこういうことが感じられるのである。 |
鑑賞日 2010/3/17 | |
氷売り帰りは安寿の話して
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平井久美子 福井
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一昔前の情景であろうか。例えば子連れの小商人。懐かしくも心温まる、人間の根ともなる、一つの記憶である。 |
鑑賞日 2010/3/18 | |
湿舌の先っぽ昆虫展示室
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堀之内長一 埼玉
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作者は昆虫展示室に居る。どこかしら湿ったような雰囲気がある。そういえば、先頃見た天気予報ではこの辺りは湿舌の先っぽであるなあ、と思っている、というようなことではないか。そしてまた、「湿舌」というものと「昆虫」というものが感覚的に響きあう。 |
鑑賞日 2010/3/18 | |
蝿逃げてパチパチしたる赤子かな
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マブソン青眼
長野 |
蝿と赤子の生きもの感である。生きもの同士の交感である。 |
鑑賞日 2010/3/18 | |
空をいま出でゆく鳥や杜若
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水野真由美 群馬
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色彩が美しい。そして、動と静の対比。そして、漂泊と定住ということ。『伊勢物語』に「から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ」という「かきつばた」を読み込んだ歌があるそうであるが、連想が働く。 |
鑑賞日 2010/3/19 | |
隠棲の沼番盃にも蛍
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武藤暁美 秋田
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闇を照らす仄かな光としての自然の使者である蛍というもの。この隠棲して沼番をしている人の闇を照らしているに相違ない。 |
鑑賞日 2010/3/19 | |
約束は蝶の翳なり避暑期去る
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森央ミモザ 長野
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約束というものの頼りなさ儚さというようなものを「蝶の翳なり」と表現したのではないか。女性らしい繊細な感覚が魅力である。「避暑期去る」も物語性を付け加えている。 |
鑑賞日 2010/3/19 | |
かなかなや母いて卵かけご飯
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横地かをる 愛知
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穏やかな庶民の日常。そしてあたたかい雰囲気。そしてかなかな。生きているとはいいものだという実感が湧いてくる。 |
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