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金子兜太選海程秀句鑑賞 457号(2009年11月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2010/2/22 | |
晩年のいま形代に鳥と書く
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安藤和子 愛媛
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「形代」というのは、六月三十日の大祓え(心身の汚れを除く為の行事)の時に、紙で人の形に作ったもので、身体をなでて災いを移し、水に流すものであるそうである。この時この形代に自分の住所氏名などを書くが、その余白に願い事なども書くという。 |
鑑賞日 2010/2/22 | |
玉虫や躁が刹那を横切るよ
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石田順久 神奈川
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「躁が刹那を横切る」というような事実は誰にでもあるのではないだろうか。その一般的な心理の事実を玉虫に託して書いた。こう書かれてみると、確かに、そのような時は頭の中を玉虫が過るような感じである。 |
鑑賞日 2010/2/22 | |
蜜豆は首ふとくして食べるかな
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市原正直 東京
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中年以上の男性のそこはかとない滑稽感のようなものを感じる。蜜豆を食べるというようなことに象徴される場面に出会った時の羞恥心を含んだ畏まりのようなものである。 |
鑑賞日 2010/2/23 | |
デッサンのような風です蛍袋
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市原光子 徳島
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「デッサンのような風」とは、素のような、初めて出会ったような、新鮮な感じの風と受け取った。そういう気分で蛍袋に語りかけているという感じである。 |
鑑賞日 2010/2/23 | |
遠景にゲリラ傍らに花咲蟹
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井手郁子 北海道
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一枚の絵を眺めている。遠景にゲリラが描かれていて近景に花咲蟹が描かれている。そして、その近景には自分自身が居るのである。自分はこの絵を眺めている立場であるし、また同時にその絵の中の花咲蟹の傍らに居る。そんな感じがこの句を見ていると引き起されるのであるが、こういう状況は現実の世界と自分の状況であるともいえる。 |
鑑賞日 2010/2/23 | |
河骨や一日をもう置き去りに
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伊藤淳子 東京
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夢のような時間感覚といったらいいだろうか。素敵だ。そして「河骨」の花が美しく際立つ。 |
鑑賞日 2010/2/24 | |
ひとに会う前の孤独に梅雨の月
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宇川啓子 福島
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〈こどく〉は[ひとり]とルビ やはりこれは、「孤独」と書いて[ひとり]と読ませたのが適切である。その微妙な心境が出るからである。そしてまた、「梅雨の月」もその微妙な心理に響きあう。 |
鑑賞日 2010/2/24 | |
寄せてくる遁走曲の牛や晩夏なり
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岡崎文都 東京
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〈遁走曲〉は[フーガ]とルビ 一つの晩夏感が上手く表現されている。とにかく「寄せてくる遁走曲の牛」が上手い。流動して止まない人生を送っている人の晩夏という感じでもあり、様々な事件があった過ぎゆく夏という感じもあるし、夏そのものの持つエネルギーがその結末に向ってなだれ込んでゆく感じもある。 |
鑑賞日 2010/2/24 | |
リラ冷えというか目薬そしてテロ
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加川憲一 北海道
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「リラ冷え」「目薬」「テロ」という、すこし冷やっとするもの三つの配合である。この三つのものの飛躍感が快くもあり、そして「テロ」で締めくくった余韻もある。 |
鑑賞日 2010/2/25 | |
良寛のこひうた数多夜干梅
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門脇章子 大阪
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「良寛のこひうた数多」ということに関する印象が「夜干梅」によく出ているのではないだろうか。良寛の素朴さ、その数多の思い、その陰影、せつなくも甘酸っぱい。 |
鑑賞日 2010/2/25 | |
十薬の白を踏絵とふと思う
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川崎益太郎 廣島
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あの清潔で清楚な「十薬の白」と「踏絵」が微妙にそして確かに響きあう。十字架という形の連想も働く。 |
鑑賞日 2010/2/25 | |
無用の用露草と青に染められ
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川本洋栄 大阪
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「無用の用」、大事なことである。この大事なことを「露草と青に染められ」という表現で詩に高めて言っている。逆にいえば、「露草と青に染められ」てふと「無用の用」という価値を思いだしたのかもしれない。 |
鑑賞日 2010/2/26 | |
風葬の村にあわあわ虫篝
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岸本マチ子 沖縄
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「虫篝」とは、夏に田畑の害虫を誘い集めて焼き殺すために焚く火のことである。「風葬」とは遺体を埋めずに風化させる葬法であり、かつて沖縄などでは行われていたそうである。 |
鑑賞日 2010/2/26 | |
軍犬呼ぶ父の草笛原風景
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草野明子 埼玉
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軍犬を呼ぶ父の草笛が作者の原風景として脳裏にあるというのである。歴史の中に生きる人間の一つのアルバムの中の一枚である。私の中にはこのような記憶の映像はないが、この句を読んでいると、はっきりとその風景が見えてくるのは不思議である。句の力か。 |
鑑賞日 2010/2/26 | |
妻と呑む持薬は真水麦の秋
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小堀 葵 群馬
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「麦の秋」が句の内容を支えて厚い。全体に豊かで、透明感そして色彩感がある。 |
鑑賞日 2010/2/27 | |
鍋釜照らし家出でゆきし蛍かな
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今野修三 東京
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写生句としても日常句としても上手い。蛍の光が見えてくるし、鍋釜の煤や磨かれて光った部分も見えてくる。動きもある。寓意性もある。 |
鑑賞日 2010/2/27 | |
五体投地なにか言いけり海を指し
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斉木ギニ 千葉
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人間存在の特徴。人間は五体投地をし、また海を指して何かを言う不可思議な存在である。世界から切り離され、神に見放された独存的存在である人間は、こうしなければいられない。 |
鑑賞日 2010/2/27 | |
鮎釣るや中洲隕石降るという
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佐々木義男 福井
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川の中に入って鮎釣りをしている人の感覚を共有しているような気分になる。そこは日常から離れた一つの宇宙空間のような感覚である。川の流れが光り。鮎の体が光り。隕石だって何だって降ってくる。 |
鑑賞日 2010/2/28 | |
休耕の国のまほろば螢草
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佐藤臥牛城 岩手
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まあ、天から恵まれた土地を人間が耕そうが耕さなかろうが、自然そのものはまほろばに違いない。美しく豊かな自然と人間の愚かさの対比のような感じがする。 |
鑑賞日 2010/2/28 | |
山百合の白は山人の褌の白
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白井重之 富山
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〈褌〉は[みつ]とルビ 山百合も山人も結局同じ自然物だということであろうか。ところで、この句に書かれている雰囲気の「山人」というような人が実際にいるのだろうかと考える時に、やはりこれは神話的な次元の意識の句だと思い直すのである。 |
鑑賞日 2010/2/28 | |
空蝉や一刻ものの系譜なり
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須藤火珠男 栃木
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空蝉を見た、その一刻にありとあるものの系譜というものを感じたということではないだろうか。「ものの系譜」、すなわちあらゆるものが繋がっているという感じである。かつて私はこの空蝉の主だったかもしれないという感じである。私自身、空蝉を見たときにそういうような感じが起った記憶がある。 |
鑑賞日 2010/3/1 | |
自画像にささがねの蜘蛛下りるかな
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関田誓炎 埼玉
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「自画像に蜘蛛下りる」だけでもかなりインパクトがあるが、「ささがねの」という枕詞が句に底光りを与えている。 |
鑑賞日 2010/3/1 | |
眠りとはゆるぎなきもの大賀蓮
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高桑婦美子 千葉
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夏の日盛りに蓮の花が眠るように咲いている景色が見える。 |
鑑賞日 2010/3/1 | |
鮎跳ねる腕組み解くは自由だが
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田村勝美 新潟
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「腕組み解くは自由」は考えるという宿命に呪縛された人間の自由を表しているような気がする。それに対して「鮎跳ねる」は人間以外の自然物の本来的な自由を表している。自然存在と人間存在の違いの対比がこの短い俳句の中に提示されている。 |
鑑賞日 2010/3/2 | |||
楊梅に若き歯染めしはまぼろしか
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土屋寛子 神奈川
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楊梅は[やまもも]と読ませるのであろう。入梅の頃に赤い甘酸っぱい実をつける。赤い実をつけた楊梅の木を見ているのだろうか。現在の風景に過去の時間の記憶が重ねって厚い心情が感じられる。
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鑑賞日 2010/3/2 | |
梅雨夕焼け私の窓は一つなり
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峠 素子 埼玉
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心情豊かなそして一つの大事なものを心に抱いている人物像が思い浮かぶ。敬虔な熱情というような宗教性まで感じられる。 |
鑑賞日 2010/3/2 | |
少女達笑い声まで日焼だなあ
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峠谷清広 埼玉
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ガングロの少女というより、むしろ健康的で明るい少女達を思う。 |
鑑賞日 2010/3/3 | |
照葉樹林無頼もお通し下さるか
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中尾和夫 宮崎
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やはりこれは自然讃歌につながってゆく意識であろうが、そこの同時に自分というものが意識されていることが俳諧的であり全的である。自分の存在を無視した手放しの自然讃歌というものは危ういものがある。 |
鑑賞日 2010/3/3 | |
蜘蛛の囲にとらわれこの世まだ信ず
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中原 梓 埼玉
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バランスということであろう。この世べったりでもいけないし、この世から足を洗ってしまうのも具合が悪い。この世のからくりというものは蜘蛛の囲に似ている。そこに踏み込めばべたべたと引っ付いてくる。しかし引っ付くのが嫌だと逃げていると、この世というものがただ忌まわしいものになってきて、どうにも生き難くなってしまう。適当に蜘蛛の囲に捕らわれているのがいいのである。 |
鑑賞日 2010/3/3 | |
夕日の果て音たて水を落してきた
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中村加津彦 長野
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私にはこの句の主体は例えば‘川の精’のようなものに感じられる。あるいは‘自然の精’といってもいいかもしれない。具体的には夕日の果てにある滝のような景色が見える。 |
鑑賞日 2010/3/4 | |
日に一度土に帰りて蟾蜍
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成井恵子 茨城
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私の想像では、作者は日に一度農作業をしているのではないだろうか。これは私の経験からそう思うのであるが、私なども実際這いつくばって土いじりをしている時には、自分が蟾蜍になったような気がするのである。 |
鑑賞日 2010/3/4 | |
鬼ごっこの鬼に乳房のある暑さ
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新田富士子 愛媛
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幼稚園などで重量のある保母さんなどが子ども達と鬼ごっこをやっているような場面を想像する。汗ばんだTシャツなどが豊かな乳房に引っ付いているようなことを想像すると、確かに暑っくるしい。健康な肉体感。 |
鑑賞日 2010/3/4 | |
鶏と見ていた山のお寺の朴の花
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橋田サカエ 熊本
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何か言う必要もない一つの時間。それを書き取ることが出来た恵み。 |
鑑賞日 2010/3/5 | |
養蜂一家土地神に伏し山に伏し
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松本勇二 愛媛
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あらゆる習俗や宗教的な儀式が形骸化しているように見える現代において、もし真心を込めて土地神に伏し山に伏す養蜂一家がいるのだとすれば、それは或る意味で素晴らしい。もっとも単に儀礼的にこのような礼拝が行われたのだとしても、俳人である作者がその本質的な精神に感動したのだということはいえるだろう。 |
鑑賞日 2010/3/5 | |
山彦は天に泉は掌に溢れ
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三田地白畝 岩手
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何もいうことがないほど豊かだ。自然が溢れ、そして人間もその一部である。 |
鑑賞日 2010/3/5 | |
望郷やどこまで転ぶ夏帽子
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宮辺 潔 福井
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上手いなあ。この空間の作り方。非直接的な表現の中に溢れるような情感が感じられる。 |
鑑賞日 2010/3/6 | |
冷奴の角なぞりいる平和かな
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村上 豪 三重
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やはりまだまだ日本は平和である。パレスチナやイラクやアフガニスタンなどの戦闘地域はもちろんのこと、アフリカの飢餓地域や貧困に苦しむその他の地域に比べれば、日本の国防論争や貧富の格差問題などの侃々諤々は、まだまだ冷奴の角をなぞっているようなものであろう。 |
鑑賞日 2010/3/6 | |
遠花火静物として月日あり
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守谷茂泰 東京
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「静物として」という言葉の発見の新鮮さであろう。遠花火だけが微動している風景が見えてくるし、また、作者の、時間としての、月日の静かさのようなものも伝わってくる境涯句でもある気がする。 |
鑑賞日 2010/3/6 | |
父の日の父がやたらに畑を打つ
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山口 伸 愛知
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そこはかとない滑稽感が流れる。ある年代から上の人の、働くのが好き、あるいは働いていないといられない、という性質を捉えているように思う。 |
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