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金子兜太選海程秀句鑑賞 455号(2009年8・9月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2010/1/20
養花天あやふやな問いあやふや
浅生圭佑子 愛知

 「養花天」は花曇のことで、サクラの咲く頃の曇天をいう。

 雰囲気の句である。「あやふやな問いあやふや」が「養花天」に相応しい。


2

鑑賞日 2010/1/20
絵蝋燭そこはかとない発芽です
井手郁子 北海道

 絵蝋燭の灯を見ながら、そこはかとない発芽だと感じている。絵蝋燭の灯自体がそこはかとない発芽のようだとも思えるし、そこはかとない発芽は、心理的なものであるかもしれない。どちらにしても、ぽっと灯っている絵蝋燭が見えてくる。


3

鑑賞日 2010/1/20
畦塗りをきれいに仕上げ祖国びと
伊藤はる子 秋田

 国と民衆は一体であるか、という問題がある。国と民衆が一体であると感じられる時はその時代は健康であろうし、国と民衆の心が乖離している時代はおそらく不幸な時代であろう。
 この句などはそういう意味で、とても健康な意識である。


4

鑑賞日 2010/1/21
種子を蒔くしぐさ錠剤口中へ
井上湖子 群馬

 日常の中の軽い戯けごころだろう。余裕の結果として戯けごころは出てくるが、戯けることによってまた余裕が生れてくるかもしれない。どんな時もどんな事柄においても戯けごころを持っていられるのというのは宗教的なことである。深刻さはいけない。take it easy という言葉が好きである。


5

鑑賞日 2010/1/21
五月巨きこの立ち眩み立山は
岩佐光雄 岐阜

 〈巨〉は[おお]とルビ

 立山の存在感と五月という季節のひかりを感じる。そして否応のない臨場感がある。言葉の使い方のゆえだろう。


6

鑑賞日 2010/1/21
明るくて暗き人をり雪の中
内野 修 埼玉

 雪の眩しい光の中にいると、人影がその光を反射して明るく見えたりまた、逆に暗く見えたりするということと、「明るくて暗い」というのがその人の心理的なものを言っているようなことでもあるダブルイメージということであろうか。


7

鑑賞日 2010/1/22
ぶなの雪間はぶな千年の幹まわり
大高俊一 秋田

 千年のぶなの、そして雪の存在感を感じる。


8

鑑賞日 2010/1/22
みくまりや猪は葛の根噛むという
大西健司 三重

 〈噛〉は[しが]とルビ

 単に「噛(か)む」ではなく「噛(しが)む」である。こういう言葉があるのかどうか私は知らないが、とにかく感じが出ている。「歯牙む」ということであるような気もする。(


9

鑑賞日 2010/1/22
時として読経のような芽吹きかな
狩野康子 宮城

 この把握はよく理解できる。むしろ、そこらの坊さんの読経よりも、芽吹きのほうが真の意味で読経の本質に近いという感じはある。


10

鑑賞日 2010/1/23
右耳が目白とらえて象の耳
川崎千鶴子 広島

 デフォルメの手法といえるだろう。目白の画像と声を検索してみた。

http://www.flickr.com/photos/bluegreycat/419992616/より

11

鑑賞日 2010/1/23
片栗の花寝転びて不思議発見
北村歌子 埼玉

 ごく手近なところで不思議が発見できるという素敵な驚きの句である。「不思議発見」というテレビ番組があるが、あの番組を作るほどの取材をしなくとも、見る目があれば多分どこにでも不思議が転がっているのだ。

片栗の花
http://www.ginzado.ne.jp/~yamai/haru-katakuri.htmより

12

鑑賞日 2010/1/23
墨界や旅人のほか在らざるを
久堂夜想 神奈川

 「墨界」というのが微妙に洒落ている。たとえば芭蕉などはこの墨界に入り込んで、まさにそこで生きた人間だという気がするが、この句はそういう世界をうち眺めている感じである。入り込まないで、うち眺めているというのが現代的であり、思索的であり、また絵画的である。


13

鑑賞日 2010/1/26
耳鳴りやあらつと不安の布靴かな
久保智恵 兵庫

 〈布靴〉は[シューズ]とルビ

 散歩あるいはジョギングなどに出かけようとしていたのだろうか。その時に耳鳴りがして不安になったというような場面を想像した。「布靴」という具体物で状況を設定しているのが面白い。心理的な不安な状態を抱えている時にごく小さな事物に目が止るというのはあることではないだろうか。大げさな例になるが、例えば断頭台に引かれていく囚人が、ごく些細な事柄がやけに鮮明に目にとまるというようなことをドストエフスキーは書いている。


14

鑑賞日 2010/1/26
鯨鳴く夜更に手紙読むような
黒岡洋子 東京

 鯨が鳴くというのは、夜更に手紙を読むような感じである、ということあろうか。

鯨の鳴き声    (http://whalesong.net/より)

 聴いてみると、まさにそういう感じがしないでもない。


15

鑑賞日 2010/1/26
Smile を菫と書いて手紙終ゆ
斉木ギニ 千葉

 洒落ている。生活を楽しんでいる。気持ちが明るくなる。一度真似したいくらいだ。絵文字もいいけど、こういう発見のほうが豊かだ。


16

鑑賞日 2010/1/26
立葵捕手は五度目の首を振る
柴田和江 愛知

 「立葵」と「捕手は五度目の首を振る」に微妙な関係性がある。論理的な窮屈な関係性ではなく、幅が広くて読者の自由な想像を誘う。こういう関係性を詩的な関係性というのだろうか。


17

鑑賞日 2010/1/27
青葉木菟埴輪の農夫肩に鍬
鈴木康之 宮崎

 句に見入っていると、埴輪の時代にタイムスリップするような感覚も出てくる。夏である、遅くまで農作業をしていた農夫が鍬を担いで帰ってゆく、夜になってしまった、どこかで青葉木菟のホーホーという声も聞えてくる。こういう感覚が起きるのも、「青葉木菟」という言葉のゆえであろう。


18

鑑賞日 2010/1/27
喪服脱ぎ妻まどろみの揚羽蝶
舘岡誠二 秋田

 喪服を脱いでまどろんでいる妻に揚羽蝶を感じたのであろう。ほのかなる色気である。もともと喪服にはそんな感じがあるし、それを脱いでいるという表現もそういう感じを強める。


19

鑑賞日 2010/1/28
としよりが黙るは不思議葱坊主
田浪富布 栃木

 どちらかといえば、やはり田舎の風景が見える。一つの良き時代の懐かしい風景かもしれない。


20

鑑賞日 2010/1/28
束の間を彗星碧し浮寝鳥
土屋寛子 神奈川

 「束の間を」という言葉がこの景を生きたものにしている気がする。そして、湿った無常感ではなくて、いわば乾いてきらきらとした絵画的な宇宙観である。


21

鑑賞日 2010/1/28
物言えば薄紙剥くように春
津谷ゆきえ 岐阜

 芭蕉の「物いへば唇寒し秋の風」の対のような句である。もちろん作者もそれを意識して作ったのであろう。芭蕉の句が秋という季節とともに閉じてゆく心境であるのに対して、この句は春という季節とともに心が開いてゆく感じがする。


22

鑑賞日 2010/1/31
巧者なるうぐいすに遇う白髪かな
中島偉夫 宮崎

 穏やかで明るい老境の一日を楽しんでいる風情である。巧みに鳴くうぐいすの声が聞えてくる。


23

鑑賞日 2010/1/31
帰るところがないさくらの下にいる
中村加津彦 長野

 私達人間の状況を深く詠んだ句であるという気がする。この「さくら」には死のイメージがある気がする。私達にはこれといって帰るところはない。そして常に死というものと隣り合わせにいる。しかし、その居る所が「さくらの下」であるというのが嬉しいではないだろうか。殊更帰らなくてもいい、ずっとそこに、さくらの下に、居ればいい、という気になってくる。


24

鑑賞日 2010/1/31
妻のわがまま恐ろし可笑しヒアシンス
中村ヨシオ 
和歌山

 音の響きからいっても、その可愛らしい形や色彩からいっても、ヒアシンスがとても内容に相応しいのではないだろうか。


25

鑑賞日 2010/2/1
引鶴の声弱視の子等にひびき落つ
はやし麻由 埼玉

 弱視の子等への眼差しと、感覚移入である気がする。弱視であるゆえに鶴の声がより響くのである。鶴の声と子等のざわめきが呼応する感じである。
 なお、この作者には「淑気満つ視野狭き目を空に向け」という句があるから、御本人も眼に不自由を感じている身なのかもしれない。


26

鑑賞日 2010/2/1
風がいいと逝きて八十八夜かな
平塚幸子 神奈川

 この人は八十八夜の頃に逝ったのだろうか。あるいは、立春の頃に逝って、その頃から数えて八十八夜経ったということだろうか。二つの取り方が可能である気がするが、いずれにしても「風がいい」と言って逝くなんて洒落ている。禅的であり、このようにありたいと思う。


27

鑑賞日 2010/2/1
蝉の穴父の残した沈黙は
堀真知子 愛知

 寡黙な父親像が思い浮かぶ。父親というものは沈黙でしか表現しえないことがある。その父は逝ってしまったが、その沈黙の言葉は確実に残っている。蝉の穴のように。


28

鑑賞日 2010/2/2
土に還る土偶を照らす青葉かな
堀之内長一 埼玉

 作者は土偶を見ている。「土に還る」で切って読むのが一般的だろう。青葉の日差しの中でそういうふうに思っている穏やかな作者が見えてくる。また、土偶を見ながら自分も土偶のような者だという思いも若干ある感じがする。


29

鑑賞日 2010/2/2
春光や地に家建てる自然かな
間瀬ひろ子 埼玉

 「地に家建てる」は、コンクリの上にビルを建てるということではなくて、土があり植物も共生している地面の上に家を建てて住むというニュアンスを感じるのであるが、どうだろうか。


30

鑑賞日 2010/2/2
さみしげに秋刀魚ながむる赤子かな
マブソン青眼 
長野

 全体的に秋の淋しさという風情もある中に、秋刀魚は私の食べ物じゃあない、私はオッパイが飲みたい、というような滑稽感も滲む。


31

鑑賞日 2010/2/3
現し世に父母をらぬ日や春の水
水野真由美 群馬

 全体に美しくも愛しい、そして哀しい情感が流れている。


32

鑑賞日 2010/2/3
糸遊やイエス三十四にて果つ
三田地白畝 岩手

 全体に美しい。糸遊もイエスも、そして三十四で果てたことも。不思議と悲しい無常観を感じないのは、イエスというものに永遠性を感じるからだろうか。これは私に特有のものであろうか。そしてまた思うのであるが、「糸遊」という言葉選びが適切である気がする。


33

鑑賞日 2010/2/3
刳り舟はまだ山にあり青葉木菟
武藤鉦二 秋田

 「青葉木菟」がとても適切。人間の営みと自然が響きあっている。「まだ山にあり」が上手いのではないか。人間の営みと自然の広さを感じる。


34

鑑賞日 2010/2/4
他人という奇想天外チューリップ
村井 秋 神奈川

 そういわれてみればそうだと思う。往々人間は自分の尺度で他人を計ってしまい、失敗したり喧嘩になったりすることがあるが、他人というものは奇想天外なものだという認識があれば、より生きやすいかもしれない。「奇想天外」という言葉が新鮮でインパクトがある。そしてまた「チューリップ」も「奇想天外」に響きあって楽しい。


35

鑑賞日 2010/2/4
鳥の巣や人は気紛れ旅に出る
森 美樹 千葉

 軽妙洒脱。自然存在と人間存在の違いが、軽いタッチで書かれている。


36

鑑賞日 2010/2/4
もの書けばさくら吹雪の混沌や
矢野千佳子 
神奈川

 何かしら作物を書いている時の、充実した、また混沌としたものに身を任せている気持ち良さのようなものを感じる。


37

鑑賞日 2010/2/6
月でブランコする蜘蛛よ妻は跣かな
山本 勲 北海道

 夜、月が出ている。その月を背景にして蜘蛛の巣がある。その蜘蛛の巣が揺れている。まるで月でブランコをしているようだ。おいおい見てみろよ、と妻に声を掛ける。寝るつもりで既に跣になっている妻もやってきてその月と蜘蛛を見る。そんな情景なども思い浮かぶが、それは過鑑賞の域かもしれない。全体にひんやりとして艶のある童話的な雰囲気を味わえばいいのかもしれない。


38

鑑賞日 2010/2/6
雑木山ああ楽しひかり赫く
山本逸夫 岐阜

 「ああ楽し」と素朴で直裁な表現。と同時に「赫く」と「赫」の字を使うことによって細やかな雑木林の感じを表している。


39

鑑賞日 2010/2/6
人間に猫用缶詰花粉症
渡部陽子 宮城

 「人間に猫用缶詰」というアンバランスな事態。実は花粉症というものも何かのアンバランスな事態なのではと思わせる。


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