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金子兜太選海程秀句鑑賞 454号(2009年7月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2010/1/6
落花ですふふふと逃げる子捉まえた
阿木よう子 富山

 「落花」が「ふふふと逃げる子」であるような感じがしてくる。そういう共通性を感じ得る作者の感性である。アニミズムでもある。


2

鑑賞日 2010/1/6
紫木蓮の裏は白なり姉ひとり
阿保恭子 東京

 「姉ひとり」が自分にとって姉がひとりいるという意味にもとれるが、姉はひとりで暮している或いは姉は独身を通しているという意味にもとれる。「紫木蓮の裏は白なり」ということで、私には後者の意味合いにとってしまうのだが、どうだろうか。


3

鑑賞日 2010/1/6
岩かげに去年の空蝉春の暮
泉 尚子 熊本

 春愁というか、ある種春の持つ空しさのようなものか。花々が咲きだし、いろいろな動物たちも活発に活動を始める春の中、岩かげに去年の空蝉を見てふと物思いに捉えられた作者の姿が目に浮かぶ。


4

鑑賞日 2010/1/8
約束を信じる俺に蝌蚪群れる
伊地知建一 茨城

 「約束を信じる」という肯定的な健康的な態度ということが書かれている。「蝌蚪群れる」はその態度から生じる豊かさということであろう。武田鉄矢の「贈る言葉」という歌の中に次ぎのような言葉があった。

信じられぬと歎くよりも
人を信じて傷つくほうがいい
求めないで優しさなんか
臆病者のいいわけだから


5

鑑賞日 2010/1/8
猫の恋みな近眼になっている
市原正直 東京

 もしかしたら恋猫の眼は近眼のように少し出ているのかもしれない。観察したことがないので何とも言えないが、おそらくそうだろう。恋は盲目というようなことだけではないような気がする。


6

鑑賞日 2010/1/8
耕人に風のアドリブ斑のように
市原光子 徳島

 実際、汗を流しながら耕しているときに風が吹いてくるのは気持ちがいい。時にはジャズのアドリブ演奏を聞いているような変則的な風に身を任せることもある。この句はそのような気持ちのよい耕人の句であろうか。「斑のように」が何か心理的な葛藤を暗示しているような感じがするのであるが。


7

鑑賞日 2010/1/9
白胡麻ほどの水芭蕉また来ます
伊藤はる子 秋田

 「白胡麻ほどの水芭蕉」という譬えの意外性と的確さ。私はとても大きな水芭蕉が咲く鬼無里というところに住んでいるので、例えば尾瀬の水芭蕉のような小さな花を見ればこのように思えるという気がするのである。そして「また来ます」という親近感のある挨拶がまたいい。


8

鑑賞日 2010/1/9
手持無沙汰は軽い船酔い青葉冷え
加古和子 東京

 普段忙しい生活をしている人が、ふと日常から離れて青葉の中に佇んでいるというような情景が見えてくる。


9

鑑賞日 2010/1/9
地虫出ず脱け殻としてあるパジャマ
紙谷香須子 滋賀

 俳句だから「地虫出ず」と「脱け殻としてあるパジャマ」は別のことでもあるが、もう殆ど自分自身を「地虫」に譬えている感じである。その戯けが愉快である。


10

鑑賞日 2010/1/10
故郷のことばもぐもぐ鳥雲に
川崎千鶴子 広島

 「故郷のことばもぐもぐ」という人間味のある雰囲気が「鳥雲に」と相俟って、いわば庶民詩をなしている。ほのぼのとした好感が持てる。


11

鑑賞日 2010/1/10
落ちて上向く椿を友にわが八十路
上林 裕 東京

 椿の園の翁の図という感じである。淡い色彩を施した墨絵のような、枯れてはいるがほのぼのと艶のある雰囲気がある。


12

鑑賞日 2010/1/10
大脳のなかまで若夏そよぐなり
岸本マチ子 沖縄

 作者は沖縄の人であるから「若夏」は[うりずん]とでも読ませるのだろうか。厳密には〈うりずん〉は旧暦二、三月頃で〈若夏〉は旧暦四、五月頃のことであるらしいが、一括りにして初夏というような意味でも使うらしい。いずれにしても、嬉しくなるような沖縄の初夏。豪快な句である。


13

鑑賞日 2010/1/11
啓蟄や夢のあわいにきれいな帆
小長井和子 
神奈川

 「きれいな帆」というのが、何か実現可能な目標への道筋を象徴しているような雰囲気がある。やって来ては消え、やってきては去ってしまうさまざまな夢の中で見つけた「きれいな帆」である。自己の中のエネルギーを乗せてゆける舟の帆である。創造的な生活を送っている人に訪れる感覚であろう。「啓蟄」が自己のエネルギーの立ち上がりを暗示している。


14

鑑賞日 2010/1/11
阿部完市と居るアルバムを春の章
小堀 葵 群馬

 〈阿部完市〉は[あべかん]とルビ

 故阿部完市氏への共感と、これからの自分の行方への意欲であろうか。


15

鑑賞日 2010/1/11
電子音聞かず触らず野遊びす
近藤好子 愛知

 一読して了解する。一口でいえば、解放感であろうか。野はいいな、自然はいいな、ということであろう。


16

鑑賞日 2010/1/12
鷽鳴いて張り切る僧の単純美し
篠田悦子 埼玉

 単純であるということが人間の基本であろう。もう少しいえば、美しく単純であるということ。そして僧というものは本来人間の原型を示すべきものであるから、僧の単純が美しいというのはあるべき姿である。「鷽」という鳥の鳴き声も単純で美しい。


http://pikanakiusagi.web.fc2.com/songs/index.htmlより


17

鑑賞日 2010/1/12
桜古木に魅入って喉に風の来る
釈迦郡ひろみ 
宮崎

 肉体というものは忘我というものを許さないものがある。そのバランスがいいのであろうし、またこの世に受肉した業の所以でもある。その辺りの現象がリアルに描かれている。


18

鑑賞日 2010/1/12
被写体に花守ふたり入れておく
白井米子 愛知

 「花守」という季語の醸し出す雰囲気がこのスナップ写真を撮る瞬間に風情を与えている。ところで現代でも花守という人は居るのだろうか。


19

鑑賞日 2010/1/13
待春や枯死の森から海を見て
鈴木修一 秋田

 自然が確かなものとして在った時代での単なる「待春」というのではない。自然や人間存在が不確かな時代において、どこかに希望を見いだしたいという願望も含まれているのではないだろうか。


20

鑑賞日 2010/1/13
冬たんぽぽ明日にばかり負荷をかけ
芹沢愛子 群馬

 「明日にばかり負荷をかけ」といわれてみると、まことに我々人間の有り様であると思う。例えば、国債の発行高をみても全く未来に負荷をかけているといえるし、環境問題にしても何にしても全部未来に負荷をかけている。現在において何かを借りて、それを未来に返してゆくというパターンは現代の人間の一般的な在り方になってきてしまっているようである。強迫的な神経症的な在り方であり、野に咲く「冬のたんぽぽ」の在り方とは全く違う。弱い冬の日差し、それでもその刻を精一杯に咲いている冬のたんぽぽの在り方から、我々は学ぶべきであろう。
 われわれはたんぽぽになろう、冬のたんぽぽになろう


21

鑑賞日 2010/1/13
アイスバーン黒人きれいに歌いだす
十河宣洋 北海道

 「アイスバーン」のように「黒人きれいに歌いだす」ということではないか。黒人歌手の艶のある滑らかな歌声が聞えてくるようだ。


22

鑑賞日 2010/1/14
瞑想をしている豆が撒かれおり
高桑弘夫 千葉

 瞑想をしていて、いわば忘我の状態にしばらくいたら、いつの間にか豆が撒かれていた。あるいは、瞑想をしている豆が撒かれている。そういう二つに取れる面白さがある。


23

鑑賞日 2010/1/14
花盛り髪の毛ちょっと残るかな
高澤竹光 滋賀

 戯けの味。実際にちょっと残った髪の毛がかわいらしく見えてくる。「花盛り」と「髪の毛ちょっと」の対比が効いている。


24

鑑賞日 2010/1/14
燕が来れば祖母はきれいな手紙書く
たかはししずみ 愛媛

 「きれいな」がいいな。燕と祖母が響きあっているのだろう。


25

鑑賞日 2010/1/15
尿漏れの妻菜の花に少女となる
高橋 喬 新潟

 御高齢の方だろうか。老いということであろう。老い方にも二種類ある。いわゆる老醜という老い方と、もう一つは美しく老いるということである。この句における「妻」は美しく老いたといえる。


26

鑑賞日 2010/1/15
雉子啼く読むように書くたそがれ
田口満代子 千葉

 〈雉子〉は[きぎす]とルビ

 作者は女性。さらさらとかな文字で書いているような姿が目に浮かぶ。清少納言や紫式部といった王朝時代の雰囲気もある。「雉子啼く」がそういう雰囲気を醸し出している。


27

鑑賞日 2010/1/15
航空母艦という平らかなもの思えり
竹内義聿 大阪

 確かに航空母艦というものは普通の船に比べてやけに平らである。他の戦艦のように相手を威圧するような形はしていない。しかしやはりこれは戦争の道具であることには違いない。航空母艦の形の把握も含めて皮肉を込めて書いたブラックユーモアではないだろうか。
 「平らか」を辞書で引くと、高低や凹凸のないさま・たいら・おだやかで静かなさま・無事平穏であるさま・心が落ち着いておだやかなさま等とある。


28

鑑賞日 2010/1/16
噛むほどに貝柱なり余寒なり
武田美代 栃木

 肉体としての自己の認識。そしてその自己としての肉体は外界の自然としての肉体と繋がっているという感覚。


29

鑑賞日 2010/1/16
鶯やわがはらわたの鳴り通し
竪阿彌放心 秋田

 鶯の声と自分のはらわたの音そのものであるという大きな想念。


30

鑑賞日 2010/1/16
花はさくら木鶴のかたちに抱きあえり
田中昌子 京都

 「花はさくら木」という出だしが洒落ている。桜を見た時の心の弾みであろう。そして全体にダイナミックな自然のエロスというようなものもある。


31

鑑賞日 2010/1/17
白たんぽぽ愛は土星の輪のように
田浪富布 栃木

 きれいな句だと先ず感じる。「白たんぽぽ」もきれいだし、「土星の輪」もきれいだし、「愛は土星の輪のように」もきれいな愛の形である。


32

鑑賞日 2010/1/17
ふぐ刺しの震えのように君寄り来
日高 玲 東京

 この譬えが俳諧的で洒落ていて、また「君」というものにいろいろな想像力が働くような上手い譬えである。上等な小説の一場面のような味がある。


33

鑑賞日 2010/1/17
突然に砂丘が見える花の昼
堀之内長一 埼玉

 花の昼に突然砂丘が見えるという景自体が妙に美しい。単なる実景とはいえないプラスアルファを感じる。優れた画家の描く景色が単なる実景ではないようなものである。この「砂丘」に作者の何らかの心理的な投影がある気がする。


34

鑑賞日 2010/1/18
少女より少年草食的に春
三浦二三子 愛知

 牧歌的な雰囲気がある。現代の男子は草食系だと批判的に評されることがあるが、案外これは将来の平和的な風景の前兆かもしれない。


35

鑑賞日 2010/1/18
初蝶が薫るというくちびるかな
三井絹枝 東京

 この作家特有のエロスを伴う繊細な肉体の感受性。野に生えている草が感受性を持っているとしたら、その野の草の肉体の感受である。


36

鑑賞日 2010/1/18
言霊はふいに来るものお雛さま
茂里美絵 埼玉

 この「お雛さま」がふいに言葉を発したような雰囲気がある。そしてその言葉は何かとても意味のある言葉であるような。もしかしたら、こういう現象は女性に多く現れるものかもしれない。平たくいえば女性の直感力である。直感力不足は現代の不幸の一つであるが、女性がまだそれを失っていないのは幸いである。


37

鑑賞日 2010/1/19
追炊きのよう山茱萸が咲く日ぐれ
矢野千代子 兵庫

 「山茱萸が咲く日ぐれ」を「追炊きのよう」だと捉える感覚は細やかな感覚を持った女性の生活者でなければ出てこない表現なのではないだろうか。とても豊かな自然感覚であるとともに、豊かな生活感覚でもある。


38

鑑賞日 2010/1/19
六畳のまぼろしのはは鶴帰る
若森京子 兵庫

 亡母のまぼろしであろうか。母のイメージと鶴のイメージが重なり絡まりあっている。「六畳の」としたところが具体的なイメージを喚起する。



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