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金子兜太選海程秀句鑑賞 452号(2009年5月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2009/7/21 | |
阿武隈川の寒の四つ手やわが生まれ
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足立あい 東京
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〈阿武隈川〉は[あぶくま]とルビ 「四つ手」は〈四つ手網〉のことであろう。辞書で引くと・・・正方形の網の四隅を十文字に渡した竹などで張り、その交点に、ひも、または差し出し棒をつけたもの。水底に沈めておき、引き上げて魚をすくい取る。四つ手。・・・とある。阿武隈川の近くで生まれた作者が、寒の時期に阿武隈川で四つ手を見たのをきっかけに、子どもの頃のことがいろいろ回想されたのであろうか。いや単に回想されたというよりももっと強い‘産土感’というようなものであろう。 |
鑑賞日 2009/7/22 | |
友は手で首切るしぐさ雪しずか
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石川青狼 北海道
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「雪しずか」の客観的叙情性がいい。 |
鑑賞日 2009/7/24 | |
凍蝶に微動ありしを責めにけり
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石田順久 神奈川
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例えば、一ミクロンの誤差が重大な結果をもたらすような、最新テクノロジーの微細なる世界に携わる技術者の意識のようなものを感じた。 |
鑑賞日 2009/7/25 | |
十二月鵜の止まる木を日暮という
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伊藤淳子 東京
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・・を・・という、という書き方がこの句の場合は成功しているのではないか。現実べったりの日暮感ではなくて、どこかしら物語のような感じとでもいおうか、あるいはこの現実そのものが一つの物語であるというような感じである。この物語という言葉の部分は夢であるとか詩というような言葉に置き換えてもいいが、この作家にはそういういわばゆったりした思想がある気がする。 |
鑑賞日 2009/7/25 | |
花びら餅もほむほもほと話すかな
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伊藤はる子 秋田
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「花びら餅」というのはごぼうと白味噌餡とピンク色の餅を餅や求肥で包んだもので、平安時代の新年行事である〈歯固めの儀式〉を簡略化したもので宮中のおせち料理の一つと考えられてきた(Wikipediaより)そうである。 |
鑑賞日 2009/7/26 | |
満一歳鶺鴒ほどの小走りや
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稲葉千尋 三重
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読めばすぐ納得する句。「ほどの小走りや」というような言葉の捌き方の上手さがある。 |
鑑賞日 2009/7/27 | |
玻璃越しに冬の鳥立つ顔撓る
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大内冨美子 福島
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撓る、は撓(しな)るであろう。こういう場面を見たことがない。つまり鳥の顔までも見たことがないが、そういうふうであるのかと感心している。生命の力感が素敵だ。 |
鑑賞日 2009/7/27 | |
大根に隠し包丁遺言なし
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加地英子 愛媛
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〈遺言〉は[いごん]とルビ 隠し包丁とは食べやすくしたり、火の通りをよくするために、見えないような場所に包丁目を入れることである。句意はあきらかであろう。奥ゆかしい生き様。失われつつある日本人の美点であるのかもしれない。 |
鑑賞日 2009/7/28 | |
冬銀河直下マゼランの気分なり
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加藤邦枝 栃木
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一読、よく分かる句である。世界一周航海を果たしたマゼランの気分。冬銀河は男のロマンを掻き立てるような雰囲気があるが、作者が女性であるというのが面白い。 |
鑑賞日 2009/7/28 | |
寒いだけ難聴という身辺は
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木村和彦 神奈川
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この皮膚感覚を追体験する感じさえある。難聴ならばこそ、その皮膚感覚が強まるのであろう。 |
鑑賞日 2009/7/29 | |
梟やたくさんの夜超えた山
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河野志保 奈良
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「たくさんの夜超えた山」への尊敬の気持ち、あるいは同志のような気持ちもあるかもしれない。その山で今梟が鳴いている。私にはこの梟の声が満足感のあるあたたかい声に聞える。 |
鑑賞日 2009/7/29 | |
色鳥来塑像の並ぶ高窓に
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小長井和子
神奈川 |
美術研究室のようなものの高窓である。作者の位置を考えている。作者はこの高窓を見上げているのだろうか、あるいはこの高窓のある部屋に居るのだろうか。一読して見えたのは、作者はこの高窓を見上げているという景色であったが、何回も読んでいるうちに、作者はこの高窓のある部屋に居るのではないかと思えてきた。そのほうが色鳥が来たことへの喜びとか驚きとか歓迎の気持ちが感じられるからである。 |
鑑賞日 2009/7/30 | |
藷など煮つ冬眠というやさしき態
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小林一枝 東京
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〈態〉は[さま]とルビ 「つ」という柔らかいつなぎの言葉がとてもいいのではないだろうか。もちろん「態」を[さま]と読ませたのもいい。 |
鑑賞日 2009/7/31 | |
風まみれのてのひらでした冬夕焼
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佐孝石画 福井
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「風まみれのてのひら」の解釈はともかく、この言葉との連関で、この「冬夕焼」がとても美しい。 |
鑑賞日 2009/7/31 | |
ナマコと私少しぶるんと海馬揺れ
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佐々木宏 北海道
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海馬とは・・大脳の古皮質に属する部位で、欲求本能自律神経などのはたらきとその制御を行う・・と辞書にある。生物としての、あるいは動物としての私、というもの。 |
鑑賞日 2009/8/01 | |
群れ昇る恍惚あらん鷹柱
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高木一惠 千葉
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鷹柱を見た感じが、いかにもそこには恍惚があるだろうという感じ方がよく解るのであるが、その他にも「群れ昇る恍惚」という言葉から、大乗的な恍惚というものまで作者の脳裏にはあったのではないかと想像できる。私は、非常に質の高い、また密度の濃い句会のことなどを想像している。 |
鑑賞日 2009/8/02 | |
花八つ手金酔えば朴さびしいよ
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高橋たねを 香川
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〈金〉は[キム]、〈朴〉は[パク]とルビ 何ともいえない人間の場面の味。花八つ手がいい。 |
鑑賞日 2009/8/03 | |
自恃ともちがう静けさよマスクして
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田口満代子 千葉
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「自恃ともちがう静けさ」というのは解る気がする。本来、自恃によって静けさは得られないのではないか。自分の個我を頼りにしている限りは真の静けさはやってこないのではないか。この句における静けさは、もっと大きなもの、むしろ自己放下によるものではないのだろうか。ただそれがマスクをした時に起る感じかどうかはよく分からない。私はマスクが嫌いで殆どしたことがないせいもある。 |
鑑賞日 2009/8/04 | |
トイレにさざんか初公開の花のごとし
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竹内義聿 大阪
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トイレに入ったら、そこにさざんかが飾ってあった。その出会いの驚き、新鮮さ、意外性。「初公開の花のごとし」という表現が出てきた。 |
鑑賞日 2009/8/05 | |
旅次の東国初夢のあぐらかな
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董 振華 中国
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旅次の東国であぐらをかいている初夢を見た。あるいは東国に旅することそのものを初夢で見た、とも取れないことはない。いずれにしろ、東国は師金子兜太の居るところ。「あぐら」が、本来居るべきところでリラックスしているという感じを醸す。 |
鑑賞日 2009/8/06 | |
おでん食う父母混浴みたいです
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峠谷清広 埼玉
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おでん自体も混浴みたいだし、それを食べている父母も混浴みたいだ。庶民の味。 |
鑑賞日 2009/9/09 | |
小鏡に雪ちらちらと巨石群
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永井 幸 福井
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私はこの「巨石群」というのはいわゆる巨石文化の巨石群であるというふうに想像した。だから、小鏡を覗いているのは作者であるかもしれないが、巨石文化を作り出したころの古代人が銅製の小鏡を覗いているというようにも取れて、イマジネーションの膨らみが出てくる。 |
鑑賞日 2009/12/17 | |
陽とトランペット探す滑走路の枯野
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中村加津彦 長野
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作者は何か明るいものそして高らかに鳴るものを探しているのであろうか。「滑走路の枯野」とは滑走路を枯野に見立てているように思える。全体的に、自分自身の飢えと、現代文明の持つ飢えの感じのような気がする。 |
鑑賞日 2009/12/17 | |
鳥の頭一瞬白し細雪
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中山蒼楓 富山
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感覚的な句であると思う。感覚だけで書いている潔さがある。感覚的オブジェとも言えそうである。 |
鑑賞日 2009/12/17 | |
勺玉は冬の怒濤のにほひかな
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野崎憲子 香川
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勾玉という古代の装身具に冬の怒濤のにほひを感じている作者。非常に離れたものの配合であるが、首肯けるものがある。感覚だけでみても面白い感覚だし、この勾玉にまつわる歴史や神話などの連想もはたらく。 |
鑑賞日 2009/12/18 | |
上澄みに俺の髭面薺粥
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蓮田双川 茨城
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髭面が映るくらいだから、この粥は相当薄い粥に違いない。病気の時の食事なのかもしれない。そう考えると、髭も剃らずに病気療養をしている人の姿態が見えてくる。また、薺の香りなども作者は感じていて、いかにも回復時における食事だという趣がある。 |
鑑賞日 2009/12/19 | |
草紅葉黄泉の母宛胸の内
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長谷川順子 埼玉
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草紅葉で切って読むのだろう。呟いているような雰囲気がある。私は胸の内でどこか黄泉の国の母を宛にしているところがあります、というような心情であろうか。「草紅葉」がその心情の質を十分に伝えてくれている。 |
鑑賞日 2009/12/19 | |
竹の実の餅の甘さよ学童疎開
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林 壮俊 東京
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竹の花はめったに咲かないという。そしてむしろ咲くのは飢饉の時などに多いという。あるいは竹の花が咲くのは不吉なことの前兆であるなどとも言われるらしい。したがって竹の実を食するというのもめったにないことであろう。そういうことが戦時中にあったのであろうか。この句は「学童疎開」ということも含めて、一つの事実の記録としての価値もあるし、単なる記録ではなく、「竹の実の餅の甘さよ」という感懐も書かれていることから、その事実が息づいて私達に伝わってくる。 |
鑑賞日 2009/12/20 | |
忘れぐせ大根煮てるベルが鳴る
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平野八重子 愛媛
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私もそうであるが、歳をとってくると多かれ少なかれ忘れぐせがある。様々なことを同時にやるという家事などの中では、自分が今何と何をしているのか忘れてしまうことが往々ある。そんな日常の一コマが臨場感をもって描かれていて実感がある。 |
鑑賞日 2009/12/20 | |
鳰浮き出る度にあたらしい
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松本勇二 愛媛
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人間の一つの心理の過程の事実を鳰の浮き沈みに託して書いたもののような気がする。例えば、俳句を作るということなどにおいてもこのような心理過程はある。真の意味で一句が出来るということは、大げさに言えば、古い自分が死んで新しい自分が生れるということである。自分自身が沈んでしまったような渾沌とした心理状態の時に一句出来ると、また水面に浮き出たような、新しい空気が再び吸えたような心持ちになるのである。金子先生は〈更新感〉と言っている。 |
鑑賞日 2009/12/21 | |
口元に雪を惑わせ如意輪さま
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水上啓治 福井
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面白い句である。まず、如意輪観音像の口元のあたりで雪がくるくると舞っているのが見える。そして、その舞っている雪は如意輪観音の言の葉であるような映像にも見える。「惑わせ」という言葉から来る面白みであるが、さらに「如意輪」というのは遊女という意味もあるから、そのあたりへの想像も広がる。 |
鑑賞日 2009/12/21 | |
鉛筆にまだ降り出さぬ雪匂う
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水野真由美 群馬
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文筆のような仕事をしている人、ものを書くということを大切に思っている人がノートや原稿用紙を前にして、これから何か書こうとしているような時の姿が目に浮かぶ。感覚のあるいは感受性の冴えた時間である。 |
鑑賞日 2009/12/21 | |
若き日のぽろんと折る膝紙雛
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三井絹枝 東京
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男の私としてはとても近づけないような、女性特有の感受性ではなかろうか。だから、あまり句の内容に入り込んで鑑賞すると、多分それは野暮になる。こういう美しい壊れやすい繊細なものは、外側から眺めているのが一番いい。 |
鑑賞日 2009/12/22 | |
陽の葉牡丹そうだ羽もつ母だった
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村上友子 東京
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「そうだ」が快く響く。作者の心の弾みを感じる。 |
鑑賞日 2009/12/22 | |
躊躇する日の出を見たり生家
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森田高司 三重
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一般的ではないかもしれないが、私には濃いオレンジ色の日の出が見える。印象鮮明な句である。この印象鮮明さは「見たり」と言い切ったところや、五七三という尻尾を切ってしまったところや、なによりも「躊躇する」という日の出の擬人化ではないか。 |
鑑賞日 2009/12/22 | |
暴走族なんか古くてお正月
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矢野美与子 東京
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私にはこの作者がかつて暴走族だったような雰囲気が感じられるのであるが。「わたしもかつて暴走族で突っ張っていたものだが、あんなことはやはり古くさいことだなあ・・この当たり前の日常の充実して新しいことといったら・・今日はお正月・・この当たり前にやってくる晴れの日がまた新しい・・」。日常が日々新しく充実して感じられるということが幸せということだろう。 |
鑑賞日 2009/12/23 | |
酒止めた父と落葉のよく煙る
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山内崇弘 愛媛
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酒止めた父と/落葉のよく煙る、と切って読みたい。そうすると、酒止めた父もいて、落ち葉焚きをしているという雰囲気のある情景が見えてくる。 |
鑑賞日 2009/12/23 | |
影法師きみがはたらく月光市
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山本逸夫 岐阜
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童話風あるいは影絵風の景色が見えてくる。そして「きみ」というのが大切な人だという感じがする。宮沢賢治の世界に通じるものがある。 |
鑑賞日 2009/12/23 | |
木枯し奴わたしに小皺の置き土産
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山本キミ子 富山
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〈奴〉は[め]とルビ 「木枯しめ」ではなく「木枯し奴」としたのは、より親しみを出す為ではなかろうか。まあ、奴が置き土産にしていった小皺ならしょうがないだろう、というような戯けを込めた達観が感じられる。 |
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