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金子兜太選海程秀句鑑賞 450号(2009年2・3月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2009/5/13
雲井より黒丑曳きて初春に候
足立あい 東京

 〈候〉は[そろ]とルビ

 のどかな正月の景色。どのような事実があるのかといえば、例えば雲の形がそう見えただとか、こういう図柄の年賀状を貰っただとか、いろいろあると思うが、要するに、このようなゆったりとした気分で初春を迎えたということであろう。そういえば今年は丑年である。


2

鑑賞日 2009/5/13
青ぎんなん感情握りしめたまま
伊藤淳子 東京

 「青ぎんなん」が「感情握りしめたまま」とよく響いている。感情を握りしめたままでいるのが、作者自身である気もするし、若い他者であるような気もする。いずれにしろ、この「青ぎんなん」がぴったりである。


3

鑑賞日 2009/5/14
秋の雷夜さりの雨を連れ廻す
伊藤はる子 秋田

 雷神ということにも通じるいわゆるアニミズムの感覚。


4

鑑賞日 2009/5/14
蜂の仔喰うて愛の荒廃思ひけり
上原祥子 山口

 蜂の仔を喰うというようないわゆる昆虫食というようなものは、いわば愛の行為である。大地への愛、自然の恵みに対する愛である。感謝と言ってもいいかもしれない。そういう愛が荒廃しているからこそ、食料自給率低下などということが起る。


5

鑑賞日 2009/5/15
末枯れやお菓子の時間そっとある
榎本祐子 兵庫

 晩秋の静かな時間。また、晩年の一日のひとときという趣もある。重くれもせず、軽くもならずで、重みあるいは軽みと言えるかもしれない。


6

鑑賞日 2009/5/17
秋情虫のかたちの少女たち
大沢輝一 石川

 〈情〉は[ごころ]とルビ

 いろいろな虫たちが少女たちのような相貌に見えるというのであろう。「秋ごころ」をもって見るとそう見えるというのである。「秋ごころ」とは何か。秋の情趣に浸された心であるが、「秋情(ごころ)」と書いていることから、これは兜太師のいう情(こころ)の意味で、対象と情(なさけ)を通わせるというニュアンスの強いこころであろうから、この句のような虫たちへの強い親しみが生れるこころである。


7

鑑賞日 2009/5/17
鶴渡る被爆の楠の真上かな
緒方 輝 東京

 被爆した楠の真上を鶴が渡ってゆくという。やはりこれは叙情だろう。


8

鑑賞日 2009/5/18
抱いて寝る山霧の子の柔らかさ
奥山和子 三重

 いい句だ。いい句を説明するのは蛇足に違いない。


9

鑑賞日 2009/5/18
晩秋美し手紙のような手を出して
兼近久子 大阪

 政治家が手を出すのとはわけが違う。真に何か情(こころ)を伝えようとして出す手である。美しい晩秋のそのような一つの場面である。


10

鑑賞日 2009/5/19
梅漬けて豆煮る母を無職という
河西志帆 長野

 この作家の反骨精神が滲み出た好句である。この作者とはある期間句会で御一緒したことがあるので、こんなことが言える。


11

鑑賞日 2009/5/20
降るだけのあそびこんなに木の実かな
河野志保 奈良

 嬉しく、また深さや静けささえも感じる自然観照である。


12

鑑賞日 2009/5/20
良い音で障子開ければ母御在す
狩野康子 宮城

 「良い音で」がとても真似ができないくらい上手い。明るく清潔感のある情愛。


13

鑑賞日 2009/5/21
相逢わぬ鳥にも人にも花野は黄
川本洋栄 大阪

 ぬくもりのある自然観が好ましい。少し切なさもある。


14

鑑賞日 2009/5/22
まるでシャガール大黄落の中をゆく
岸本マチ子 沖縄

 大黄落の中をゆく気持ち良さ。シャガールがぴったりだと瞬時に感じた。シャガールという音の響きが黄葉の葉がはらはらとシャワーのように散る感じでもあるし、またあの絵の持つロマンチックな雰囲気も相応しい。


15

鑑賞日 2009/5/23
九頭竜に足かけ霧の曲り角
小林一村 福井

 霧の出ている九頭竜川に接するようにある曲がり角というのが実景であろうか。それをダイナミックに神話的に表現した。


16

鑑賞日 2009/5/24
雁渡し薄暮の端に父の杖
下山田禮子 埼玉

 「雁渡し」という言葉のニュアンスと「薄暮の端に父の杖」が立て掛けてあるという状況から、この父は亡父、あるいは死に近き状態にある父、というような印象を受ける。要するに死出の旅路というような連想である。ただこれは一つの連想に過ぎないのであって、雁渡しの吹く頃の夕暮れ、端のほうに父の杖が立て掛けてある、という余情そのものが句の表情である。


17

鑑賞日 2009/5/25
吹雪くかな全てに僕等苛立ちながら
白石司子 愛媛

 考えてみれば、僕等が苛立つのも、自然界が吹雪くのも、これ全て自然現象の一部であり、忌避すべきことではないのかもしれない。ことさら忌避しようと思えば、よけいに苛立つ。吹雪いていること、苛立っていることを自覚して眺めているのがいい。そう作者はこの句を書いた時に自覚したのではなかろうか。


18

鑑賞日 2009/5/26
秋の蟻やたらに首を回しおり
高桑弘夫 千葉

 私は田舎暮らしなので小さな虫などが周りに出没する環境にあるが、、なかなかそれに見入って俳句に書くということにまではならない。せいぜい爪ではじき飛ばすくらいである。だから、こういう句が書けるということに対しては憧れもある。


19

鑑賞日 2009/5/28
秋の婚神鏡何も写さざる
高橋 碧 群馬

 穿てば、結婚というものの本来の姿が象徴されているようにも思える。何も条件のないところからの出発。三高などという打算などはもちろんない。有るとすれば、それは秋の空気のような澄みきった心の状態であり、運命を何か大きなものに委ねていこうという気持ちである。


20

鑑賞日 2009/5/29
道鏡に巨根の逸話猪が出る
瀧 春樹 大分

 巨根の逸話が出た時の感じと、猪が出た時の感じが、響き合うのである。


21

鑑賞日 2009/5/30
かりそめの頸持つわれら独楽を打つ
田中亜美 神奈川

 「頸」が独楽の心棒を連想させる。全体的に、独楽の本体=我々の頭すなわち我々自身、独楽の心棒=我々の頸すなわち我々の命、というような連想が働く。そのような、かりそめの頸を持っているわれわれが独楽を打っている、というのである。人間存在への知的な眼差し。


22

鑑賞日 2009/5/31
弟は母の声ですおみなへし
津谷ゆきえ 岐阜

 身近ないのちの連関あるいは連環への親しみのある優しい眼差し。「おみなへし」がその優しい感情の象徴ともとれるし、また女郎花という字が隠されていることを考えると、女声の弟に対するまた別の感情も隠されているかもしれない。


23

鑑賞日 2009/6/1
混浴のよう満山万野紅葉して
董 振華 中国

 様々な色の紅葉、また紅葉しない常緑樹、それらが入り交じって満山万野を覆い尽くしている。混浴のようだ、というのである。


24

鑑賞日 2009/6/2
夜の秋人はしゃがんで考える
永井 幸 福井

 「夜の秋」という夏から秋へ代ってゆこうとする季節感が、「人はしゃがんで考える」に相応しい。


25

鑑賞日 2009/6/3
ああ風が出てきたいちめんの十月
中田里美 東京

 きもちいいなあ。


26

鑑賞日 2009/6/4
葱刻むトルコマーチをゆつくりゆつくり
中原 梓 埼玉

 トルコ行進曲といえば、モーツアルトのものとベートーベンのものが有名である。葱をきざむのに適しているのはどちらかと思って、聴いてみたが、どうやらモーツアルトのほうが相応しいようだ。プロの料理人なら、あの原曲の速度で葱を刻めるかもしれないが、普通はやはりゆっくりゆっくりと口ずさむ感じであろう。「葱刻む」と「トルコマーチ」の配合が洒落ているし、「ゆつくりゆつくり」のリフレインも快い。現代の明るく落ち着いた感じのお母さん像が見えてくる。


音源はhttp://classic-midi.com/index.htmよりお借りしました。


27

鑑賞日 2009/6/5
落日しかし海が終わったわけでもない
中村加津彦 長野

 寂寥感あるいは孤独感というものがある。しかしそれを強くあるいは激しく表明しているのではなく、呟いているという感じである。


28

鑑賞日 2009/6/6
嫌いです蔓菜お浸し迷彩服
中村孝史 宮城

 「蔓菜」というのは食べたことも見たこともない。調べると、葉は肉厚で粘液質であるなどとあるから、ツルムラサキの食感と似ているかもしれないと思った。ツルムラサキは、私もあまり好みの食物ではない。句は、蔓菜のお浸しと迷彩服が嫌いだといっている。〈戦争〉というものを、軽くいなしている。


29

鑑賞日 2009/6/7
石蕗の花岩は真黒の芯を抱く
仁田脇一石 宮城

 岩の割れ目から石蕗が出て花を咲かせている。その石蕗の芯の岩に抱かれた部分が真黒だというのであろうか。男根女陰というような連想も働いてくる。自然界に遍在する愛交力。


30

鑑賞日 2009/6/8
おしゃべりは唾濃し晩秋路白し
橋本和子 長崎

 「おしゃべりは唾濃し」と「晩秋路白し」の配合である。この二つの事の配合によって読者は各人各様の解釈をするのであろう。「おしゃべりは唾濃し」という感じは、淡泊なおしゃべりではなくて、かなりくどくどとした会話や議論や説教じみた話しであるような気がする。そういう無駄な疲れるおしゃべりとは関係なく、この晩秋の路は白い、と私は受け取る。この「晩秋の路白し」をどのように受け取るかは、これまた各人各様であろうし、そこまで踏み込んであれこれいうのは野暮であるので(詩を壊してしまうので)、何も言わないが、とにかくこの「おしゃべりは唾濃し」が「晩秋の路白し」を印象的にしていることは確かである。


31

鑑賞日 2009/6/8
霜降や夫の辺にいて書は孝子
廣嶋美惠子 兵庫

 自分を律しながら生きている人間の姿勢というようなものを感じる。


32

鑑賞日 2009/6/10
緋鯉真鯉ぶつかりあって綾の響
福富健男 宮城

 映像美。


33

鑑賞日 2009/6/12
老いは内乱とめどなき黄落に佇つ
眞下素子 茨城

 今まで大切に大切に育み積み重ねてきたあらゆるすべてのものが脱落してしまう、失われてしまう。それが死である。その前兆が老いである。人は死を予感して戦く。内乱である。そのような感受性を持った人が、とめどなき黄落に佇んでいるというのである。これも人生における美しい一つの詩の場面ではある。


34

鑑賞日 2009/6/14
戦跡は花野たり得ず海茫茫
宮里 晄 沖縄

 「夏草や兵どもが夢の跡」というような、人間のどうしようもない営みとしての戦を、感慨深く、ある意味では懐かしく眺めているという雰囲気ではない。科学兵器で行われる戦争の戦跡は花野にはなり得ないというのである。座五の「海茫茫」から、作者の人間の愚かさや破壊された自然をも含めて、遠いものを眺めて佇んでいる雰囲気が伝わってくる。作者は沖縄の人である。


35

鑑賞日 2009/6/15
葱折れぬように転びし男かな
武藤鉦二 秋田

 葱を持っていて転んだ時に、その葱が折れないように転んだ。あるいは、葱畑を歩いていて転んだ時に、生えている葱が折れないように転んだ。私は経験としては後者の場面のほうが思い浮かぶ。滑稽感が漂う。


36

鑑賞日 2009/6/16
まんじゅしゃげ白い石から拾われる
茂里美絵 埼玉

 浄土感といったようなものがある。この白い石を拾っているのはお釈迦さま、というような想も出てくる。まんじゅしゃげの赤と白い石の対照が印象的である。


37

鑑賞日 2009/6/17
綿虫遊ぶ 一重瞼のまま遊ぶ
森央ミモザ 長野

 自分が童女だった時間にタイムスリップして童謡でも唄っているような雰囲気といおうか。私は、『悪霊』のスタブローギンの妻マリアなら、こんな唄を口ずさみそうな気がしてきた。いわば、聖童女の呟きというようなものである。


38

鑑賞日 2009/6/18
水澄むや漢の澄みのただならぬ
柚木紀子 東京

 〈対馬〉と前書

 「漢」は[おとこ]と読ませるのであろう。「男」だといかにも性別における雄という感じが伴うが、「漢」だと男性なのであるが、むしろその精神面を強調しているのかもしれない。この句から、非常に沈思した感じの男性像が浮かぶ。しかも剛健であるという感じの漢である。そういう印象は「対馬」という前書にも因るところがあるだろう。沈思黙考した剛健な漢。


39

鑑賞日 2009/6/18
栗食めばわが身絵本の中にあり
吉村伊紅美 岐阜

 絵本の世界や童話の世界だけを書いてもそれだけで、リアリティーに欠けたものになるかもしれないが、「栗食めば」で現実と絵本の世界が繋がった。「不思議の国のアリス」の導入部のような役割がこの「栗食めば」にはある。



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