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金子兜太選海程秀句鑑賞 449号(2009年1月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2009/4/13 | |
夏霧や記憶とは緑の濃淡
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飯島洋子 東京
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夏霧や記憶とは緑の濃淡にすぎない、と補うと私にはよく解る。 |
鑑賞日 2009/4/14 | |
山頂に鷹柱めく男あり
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飯土井志乃 滋賀
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あるものごとを極め尽くして、鷹柱のように飛翔している感じの男というような人物像が思い浮かぶ。例えば、俳句を評する時の金子先生のような。 |
鑑賞日 2009/4/14 | |
月代に紛れたき夜の化粧かな
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石上邦子 愛知
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夜の化粧をした自分がどこか恥ずかしく照れ臭く、いっそ月代に紛れ込んでしまいたい、というのである。何とも奥ゆかしい色気である。 |
鑑賞日 2009/4/15 | |
もう少しで啄木鳥になる仮眠
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市野記余子 埼玉
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啄木鳥の鳴き声やドラミングの音が遠くあるいは近くに聞えるような自然の懐での仮眠。トロトロと気持ちよく、自分という意識の内外に遊ぶというようなまどろみ。その辺りを「もう少しで啄木鳥になる」と表現した上手さ。 |
鑑賞日 2009/4/15 | |
不時着の気球であろう草紅葉
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井手郁子 北海道
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草紅葉している草原。遠くに不時着した気球のようなものも見える。そんな風景を想像するのである。「であろう」が風景の中の作者自身の存在感。 |
鑑賞日 2009/4/17 | |
雁や一度は目ざめる真夜であり
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伊藤淳子 東京
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漂泊感あるいは大きな時間感覚を底流に持っている人の日常の把握というものである気がする。 |
鑑賞日 2009/4/18 | |
旱魃のビル街にあり皿廻し
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岩佐光雄 岐阜
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現代という時代の危うさを書いているような気がする。 |
鑑賞日 2009/4/18 | |
馬市の風になりゆく曼珠沙華
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大西健司 三重
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「馬市の/風になりゆく曼珠沙華」と切ってもいいし「馬市の風になりゆく/曼珠沙華」と切ってもいい。つまり、風になりゆくのは曼珠沙華でもあるし自分でもある。「馬市」と「曼珠沙華」の二物を「風になりゆく」という気分で配合したのである。 |
鑑賞日 2009/4/19 | |
村人のおしゃべりに似て黒つぐみ
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加藤青女 埼玉
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私は鳥や鳥の鳴き声についてはよく知らないが、http://www.birdlistening.com/home/bird/gray-tt.htmに次のようにあった スズメ目ヒタキ科ツグミ亜科クロツグミ 多分このような知識を踏まえて作者はこの句を作ったのではないだろうか。 |
鑑賞日 2009/4/20 | |
張子の虎と満月を見ていたり
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金子ひさし 愛知
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一番目の解釈。張子の虎と一緒に満月を見ていた。満月ってきれいだね。そうだね。満月って不思議だね。そうだね。満月って円いね。そうだね。満月って美味しいかもしれないね。そうだね・・・・ |
鑑賞日 2009/4/21 | |
寂しさに耐へきれぬなり稲妻は
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川野欣一 兵庫
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人間の心模様を稲妻に託して詠んで秀逸である。 |
鑑賞日 2009/4/21 | |
鷺草と現に翔べる八十路かな
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上林 裕 東京
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私の場合、八十路まではまだ大分あるが、この句を読んで、こういうふうな八十路なら、それもまた捨てたもんじゃないと思った。生きているということは夢か現か、その境目はよく分からないものの、しかし確実なのは美しいということ。 |
鑑賞日 2009/4/24 | |
短命や弾丸のごとくに蝉は飛び
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北川邦陽 愛知
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〈弾丸〉は[たま]とルビ そう言われれば、蝉というものは弾丸のごとくに飛ぶことがあるなあと納得する、と同時に、これは戦場あるいは戦争というものの景色を重ね合わせていることは明白である。 |
鑑賞日 2009/4/24 | |
渓流が背骨のように神無月
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小山やす子 徳島
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「渓流が背骨のように」がよく解るし魅力のある感覚である。「神無月」との関連を考えているが、はっきりは解らない。「十一月」などと置いても良さそうだし・・、結局は解らなかったということにしておこう。 |
鑑賞日 2009/4/25 | |
大関の乳首むらさき半夏生
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坂本みどり 埼玉
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生(なま)な感じと、目線の滑稽感、およびむらさきの乳首と半夏生の組み合わせによる生命のさえざえしさのようなもの。 |
鑑賞日 2009/4/26 | |
独りという確かな躰緑夜です
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鮫島康子 福岡
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この‘独り’には孤独だとか寂しさというような翳はない。全一性があり、融合性がある。瞑想的であるともいえる。 |
鑑賞日 2009/4/26 | |
鮎跳ねる胡座の中の赤ん坊
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猿渡道子 群馬
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胡座の中の赤ん坊の感じが、鮎が跳ねる感じだというのであろう。生き物の持つエネルギー感が伝わってくる。 |
鑑賞日 2009/4/27 | |
誰も聴く薪割る音の深閑と
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篠田悦子 埼玉
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この句の眼目は「誰も聴く」である。薪割る音が深閑としているという気付きを単に表明したのでは新しくないが、「誰も聴く」が新しい。そこに居る誰もが、薪割る音の深閑を聴いている、と私は取った。いわば、悟りの共有である。そして本来、悟りとはそういうものであるはずである。大乗ということ。 |
鑑賞日 2009/4/28 | |
金婚や二人で黄葉の幹を抱き
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清水 瀚 東京
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どこか古代の雰囲気の中の二人という感じがある。エデンに帰ってきたアダムとイブというような雰囲気。だから、金婚といわれても、若々しい二人が想像されてしまう。 |
鑑賞日 2009/4/29 | |
どうせ不眠鳴けよ鳴け夜の虫
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釈迦郡ひろみ
宮崎 |
気取らないで、ずばっと言ったところが好感。 |
鑑賞日 2009/4/29 | |
雁渡しぎいんと言葉カーブする
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白石司子 愛媛
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「ぎいんと言葉カーブする」は、創作などをしている時の気持ちの良い瞬間を言ったのではないか。それが別名青北風である「雁渡し」の気持ち良さと通じるものがあったのではないか。 |
鑑賞日 2009/4/30 | |
よく晴れて日向が重し榠の実
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高橋 碧 群馬
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かりんの実の存在感。 |
鑑賞日 2009/4/30 | |
名刀展見てみちのくの早い冬
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舘岡誠二 秋田
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名刀を見た時の感じと、みちのくの早い冬の感じが響き合う。 |
鑑賞日 2009/5/1 | |
命日や蛇足なかりしなめくじら
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永田タヱ子 宮崎
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「蛇足なかりしなめくじら」は故人のことを形容しているのであろうか。滑稽感があり、いかにも俳句的な形容である。そして故人への限りない親しみ。 |
鑑賞日 2009/5/1 | |
秋比叡湖から歩いて来た青年
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野田信章 熊本
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私は俳句をやっているといっても、句会やその他の催しものには殆ど参加していない。『海程』では最近比叡山勉強会というのを行っているらしいが、その時にでも作った句ではなかろうかと想像する。その時に湖から歩いて来た青年がいたというのではなかろうか。志を持った青年のみずみずしさを感じる。また、比叡山延暦寺を開山した青年最澄のイメージに重なってもくる。 |
鑑賞日 2009/5/2 | |
だまし絵の浮遊感なり昼寝覚め
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野原瑤子 神奈川
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「だまし絵」というと次が先ず思いだされた。 婦人にも見えるし老婆にも見える、というだまし絵である。婦人が見えている時には老婆は見えない。老婆が見えている時には婦人は見えない。そのように、われわれも眠って夢を見ている時には現実は見えないし、目覚めてしまえば夢は非現実となる。昼寝覚めという状態はその中間の浮遊した状態であるかもしれない。この絵においても意識的に見れば、婦人と老婆を殆ど同時に見ることができる。 |
鑑賞日 2009/5/3 | |
曼珠沙華みて飲食にもどりけり
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蓮田双川 茨城
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非日常的な意識から日常的な意識に戻ったということであろう。ある言い方をすれば、日常的なものと非日常的なものの接点に詩というものは存在する気がする。 |
鑑賞日 2009/5/3 | |
猫背なり刈田の二人越後人
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長谷川育子 新潟
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前の句の評の言い方を引き摺っていえば、具体的なものと抽象的なものの間に詩は存在するともいえる。「猫背なり刈田の二人」という具体と「越後人」という抽象の間である。 |
鑑賞日 2009/5/4 | |
曼珠沙華母を支えきし軍手
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浜 芳女 群馬
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「曼珠沙華」と「母を支えきし軍手」の二物配合である。このように配合されて、この「母を支えきし軍手」が妙にふくよかで美しい。 |
鑑賞日 2009/5/4 | |
山鳥がほろりと啼いた子蟹が逃げた
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平井久美子 福井
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この自然観が魅力的だ。自然の構成物はばらばらに勝手に存在しているのではなく、それぞれが響き合い、エネルギーの糸で繋がっているように、物語の筋で繋がっているように存在している。しかも各々のものは自由である。「・・て・・」ではなく「・・た・・」であるのがいい。 |
鑑賞日 2009/5/5 | |
渦状星雲のような幼童燕来る
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藤井清久 東京
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「渦状星雲のような幼童」で充分受け取れるから「燕来る」は蛇足ではないかとも思われるが。 |
鑑賞日 2009/5/6 | |
色鳥よ木々と話すも酔余のこと
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堀之内長一 埼玉
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先頃、SMAPの草剛が夜の公園で酒に酔って素っ裸になって叫んでいたということで逮捕されたというニュースがあった。公然ワイセツ罪だという。私などはむしろこういうことは、非常に人間的な行為であり、逆に彼に対して親近感を覚えたくらいである。ある意味ほっとして心が和んだといってもいい。神経のすり減らされる社会生活の中で、あらゆるルールから開放されて裸(あらゆる意味において)になりたいというのはごく自然な本質的な欲求だからである。表面的な一切はとりあえず置いておいて、自然の髄に触れたいという欲求がすべて無くなったら、その時は人間性の壊滅だからである。 |
鑑賞日 2009/5/7 | |
風吹くごと揺れる友人更待月
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三井絹枝 東京
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更待月とはたしか二十日月のことであったろうか。夜もかなり更けた頃に出る。そんな月を友人と待っているときに、風が吹くごとくに友人が揺れたというのである。自然と人間の感応、というか既に自然の一部になってしまっている感じである。 |
鑑賞日 2009/5/7 | |
葡萄青し一人で開く鶴の本
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水野真由美 群馬
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いい時間である。若々しい気に満ちた瞑想的な時間とでも言ったらいいだろうか。 |
鑑賞日 2009/5/9 | |
待つことも励まし試歩に青葉冷ゆ
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安井昌子 東京
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「待つことも励まし」は普通のことであるが、「試歩に青葉冷ゆ」でその時間が詩の時間になった。 |
鑑賞日 2009/5/10 | |
視野のどこか山蟻なんとにぎやかな
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矢野千佳子
神奈川 |
旺盛ないのちの営みの真っ只中に居る感じ。「視野のどこか」に効果あり。 |
鑑賞日 2009/5/11 | |
世を待つや星荘厳露荘厳
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柚木紀子 東京
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まだ人の世というものが現出しない原初の時間。ただただ、星は荘厳であり、露は荘厳であった。 |
鑑賞日 2009/5/11 | |
ぶッつかり蟻ぶッつかりぶッつかり
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横山 隆 長崎
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蟻にたくして、庶民への共感がある。その喜怒哀楽やそのエネルギーへの共感である。 |
鑑賞日 2009/5/12 | |
銀やんま銀の運び屋のまなざし
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若森京子 兵庫
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言葉とそれの指し示すものは付かず離れずの不離不則の関係、あるいは相互依存・相互独立の関係にある。言葉がそのものをぴたりと言い当てているかといえば、そうでもないし、全く的外れかといえば、そうでもない。互いに依存しているし、また各々独立して動くこともある。この句の場合は「銀やんま」という言葉が独立してまず動いてから、実体がいかにもそのような感じに見えてくるというふうである。銀やんまが銀の運び屋のまなざしをしていると言われてみると、いかにもそのような感じに見えてくるから不思議である。 |
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