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金子兜太選海程秀句鑑賞 448号(2008年12月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2009/3/22 | |
うすき日にブーメランのよう銀やんま
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阿辺一葉 宮崎
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日にうすく透き通って銀やんまは美しい。「ブーメランのよう」でその美しさに自然のダイナミズムが加わった。 |
鑑賞日 2009/3/23 | |
ぬばたまのおどろはむかし洗ひ髪
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伊佐利子 福岡
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真っ黒な髪がぼうぼうもつれるようにあったのは昔のことだ、という「ぬばたまのおどろはむかし」という言葉使いが面白い。 |
鑑賞日 2009/3/23 | |
愚かなる人間爆心地に日陰
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石川青狼 北海道
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佇み、あるいは座り、爆心地を眺めている。キリコの絵を思わせるような陰のある静まり返った風景。 |
鑑賞日 2009/3/24 | |
山百合や横にかぶりを振る投手
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井出郁子 北海道
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「山百合」と「横にかぶりを振る投手」が付き過ぎず離れ過ぎずに気持ち良く通底している。 |
鑑賞日 2009/3/24 | |
鯉の洗の虹色ほどに娘の円み
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伊東友子 埼玉
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これは多分自分の娘さんのことを描いているのではなかろうか。こういう細やかな観察表現からそう思うのである。 |
鑑賞日 2009/3/25 | |
記憶その愛しき枷よ白木槿
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井上広美 東京
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「愛しき枷」と表現したくなるような記憶。その記憶は「白木槿」に象徴されるようなものであるというのであろう。「記憶その愛しき枷」という気付きに感心もし、またそうであるなあと思った。私達は現在只今に十全に在るべきだという観点からすれば、どんな記憶も枷に違いない。 |
鑑賞日 2009/3/25 | |
チャグチャグ馬コ先頭が糞るつぎつぎ糞る
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植田郁一 東京
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掛け声ともオノマトペとも取れる民謡調の「チャグチャグ馬コ」。「先頭が糞るつぎつぎ糞る」と畳みかけるリズム。この快いリズムの中に情景がはっきりと見えてくる。 |
鑑賞日 2009/3/26 | |
源流は知らず河口に青鷺
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内田利之 兵庫
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実存的な美しさがある。「河口に青鷺」という現在只今の現実存在そのものの美しさであるが、その美しさが「源流は知らず」という呟きとの対比によって見事に引き出されている。 |
鑑賞日 2009/3/26 | |
泰山木の花誰か喚いている奴が
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大口元通 愛知
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この句も前の句と同じような構造である気がする。「泰山木の花」の存在感である。それが、「誰か喚いている奴が」という言葉との対比で一層感じられる。 |
鑑賞日 2009/3/27 | |
山椒魚べたっと大地になっている
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大沢輝一 石川
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「べたっと大地になっている」という思想を背景にした感覚の働きというべきもの。 |
鑑賞日 2009/3/28 | |
備讃瀬戸触れんばかりに星が飛ぶ
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大西昭治 広島
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「備讃瀬戸」というのは備前・備中・備後と讃岐に挟まれた瀬戸内海ということであろう。こういう略しかたがあるのかどうか知らないが、とにかくこの「備讃瀬戸」という具体性が「触れんばかりに星が飛ぶ」の触感性と相俟って体感性のある一句となっている。 |
鑑賞日 2009/3/28 | |
八月の西空きのこ雲ふたつ
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緒方 輝 東京
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例えば東京在住の宇宙人が地球の歴史を客観的に記録したというような雰囲気があり、客観的な目であるゆえに、逆にあのことの不気味さが伝わって来るという効果がある。 |
鑑賞日 2009/3/29 | |
月が出るてのひらの砂へ自問自答
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奥貫恵巳 富山
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私にとってはイメージの広がる句である。砂浜だろうか、砂丘だろうか、砂漠だろうか、旅にある感じがする。月が出る。この美しい自然。私とは何か。私はどう生きるべきか・・・ |
鑑賞日 2009/3/29 | |
虫の闇夫の五体にぶっつかる
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加地英子 愛媛
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諧謔。「虫の闇」といういわばしんみりとした情趣、そして「夫の五体にぶっつかる」というごろごろっとした物体感のギャップが何とも可笑しい。 |
鑑賞日 2009/3/30 | |
かたつむりこどもの声に角が伸び
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北村美都子 新潟
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いのちといのちの感応。そしてそれを見つめている作者の目。 |
鑑賞日 2009/3/30 | |
無明とは野に傾きし緑樹かな
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児玉悦子 神奈川
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「無明とは野に傾きし緑樹」であると言っているのではない、と思いたい。「無明とは/野に傾きし緑樹かな」と切って鑑賞したいのである。「無明とは」という問いを持ちながら「野に傾きし緑樹」を見ているというふうである。つまりそういう状況は人間一般の状況であるし、句が理屈ではなく詩になる。 |
鑑賞日 2009/3/31 | |
悼・村松彩石さん
風雲そして天牛のうごかぬ暗さ |
小林一枝 東京
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〈風雲〉は[かざぐも」とルビ 親しい人、敬愛する人、自分の生の一部であった人が死んだ時に、今まで流れいた日常の時間が止まったように感じる。そういう刻を書き留めたような気がする。その刻の真情が言葉となって表れた気がする。 |
鑑賞日 2009/3/31 | |
夏負けのからだ扶ける井戸水呑む
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小堀 葵 群馬
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〈扶〉は[たす」とルビ ゆったりとしたリズムでいのち大事に生きている感じが好ましい。諧謔味も少しある。 |
鑑賞日 2009/4/1 | |
夜濯や森には空の巣もあらん
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佐々木昇一 秋田
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「森には空の巣もあらん」と思いながら「夜濯」をしている、という詩情である。作者が男性であることから、家に誰もいない状況というようなものも連想される。 |
鑑賞日 2009/4/1 | |
妻を風呂に入れる象の丸洗い
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瀬戸 密 北海道
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一つの介護の情景であろうか。介護というものは大変苦労の多いものだと聞くが、このくらいのユーモアでやれたら素敵ではないか。 |
鑑賞日 2009/4/2 | |
ねこじゃらし耳ほじくれば垢の音
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瀧村道子 岐阜
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ねこじゃらしで耳をほじくれば、ガサガサというような音がするが、それを垢の音だとしたユーモア。 |
鑑賞日 2009/4/2 | |
関連痛とは白南風のいたづら
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武田美代 栃木
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たとえば心筋梗塞など心臓部の痛みを上腕部の痛みと認知するような誤った感覚のことを「関連痛」というのだそうである。アイスクリームなど冷たいものを食べてこめかみなどに痛みを感じるのも「関連痛」の一つだそうである。作者は身体にある痛みを感じているが、これは関連痛かもしれないと思っている。さらにその関連痛は白南風のいたづらかもしれないと思った。自然現象と自然現象である人体の相互作用を感じる微妙な感覚もあるし、ユーモアもある。 |
鑑賞日 2009/4/3 | |
あの男たんぱく質だ枝豆だ
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田浪富布 栃木
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まさにこのように形容できる男がいたということであろう。筋肉質で、それ程太ってなくて、気さくで、お喋りで、行動的というような人物像が私には浮かぶ。 |
鑑賞日 2009/4/3 | |
ポリ袋飛ぶこともする晩夏なり
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峠 素子 埼玉
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さびしさといったらいいだろうか。泣けない悲しさといったらいいだろうか。プラスチックな時代の持つ哀しさのようなものがある。 |
鑑賞日 2009/4/4 | |
八月の般若心経うおんうおん
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中尾和夫 宮崎
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暑い盛りの、ということでもあるし、八月といえば、日本人にとっては終戦あるいは原爆という記憶でもある。その八月に、この知のエッセンスのような般若心経がうおんうおんと響いているというのである。 |
鑑賞日 2009/4/4 | |
呟きか人間らしく鳴くふくろう
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永田タヱ子 宮崎
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あの声は呟きととれないこともない。わざと人間らしく鳴いて人間に呟きかけているのかもしれない。「おろかだほー」とか「くるくるほー」とか。 |
鑑賞日 2009/4/5 | |
初蝉やまだ唇のやわらかし
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丹生千賀 秋田
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若者の清々しいエロスを、あるいは自然界のそれを、初蝉の声に託して書いたものと思われる。 |
鑑賞日 2009/4/5 | |
ああ世阿弥男色なりや土用波
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新田幸子 滋賀
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私の理解の域を越えているが、その肉体的な関係から、また精神的な師弟愛に到るまで、世界のさまざまな地域で、古代より男色というものは有ったらしい。これも人間界特有の混沌とした現象の一つなのであろうが、世阿弥も室町幕府三代将軍である足利義満の寵愛を受けていたと聞く。そういうこと、つまり、人間精神の持つ計り知れない混沌としたもの、を知った時の作者の驚きのようなもの、が「土用波」に表れている気がするのであるが。 |
鑑賞日 2009/4/6 | |
法師蝉陽は弱まらざるをえず
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林 梅男 兵庫
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夏から秋へかけての季節と身体が一体化したような、陽や季節に意識があるような、「陽は弱まらざるをえず」という面白い言い方。アニミズムの見地からも、かなり奥深いところの表明である気がする。「法師蝉」という具体的なものを入り口とした実相観入という趣でもある。 |
鑑賞日 2009/4/8 | |
鶏をさばく母若かりき八月くる
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前田典子 三重
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鶏をさばくあの頃の母は若かったなあ。八月も若かったなあ。その八月がまたやって来た。 |
鑑賞日 2009/4/8 | |
白南風と思えば妻の光り始む
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松本勇二 愛媛
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〈光〉は[て]とルビ 白南風とは梅雨明け後の明るい南風。さあ、光り輝く夏がやってくるぞ。この胸の疼くようなときめき。ふと見れば、わたしの妻も匂やかに光り始めた感じではないか。同じ作者の次の句を思いだした。 梅雨が明けたら思いきり人を愛せ |
鑑賞日 2009/4/9 | |
扇風機を崇めしづかな赤子かな
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マブソン青眼
長野 |
「崇め」がこの句の眼目である。善悪の彼岸にある赤子の状態。無分別三昧にも似た赤子の無垢なる状態である。 |
鑑賞日 2009/4/10 | |
ひとえ着て一羽のごとく佇む
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宮坂秀子 長野
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日常の中、ふと個になる瞬間。それはこの大自然という具現の奥にある本質的なものへの入り口であるのかもしれない。 |
鑑賞日 2009/4/10 | |
鏡中をさまよつてゐる夜長妻
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森 美樹 千葉
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表面的にはお化粧に余念が無い夜長の妻ということであるが、穿てば、人間存在の有り様そのものが見えてくる。諧謔。人間存在は諧謔である。 |
鑑賞日 2009/4/11 | |
八風街道東へつばな流すかな
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山本昌子 京都
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八風街道というのは、滋賀県の近江八幡市から八日市、永源寺を経て鈴鹿山脈をこえ、三重県桑名市に出る街道であるらしい。その名から、風のよく吹く峠で、しかも季節によって様々な方向の風が吹くというような峠が想像される。そのような峠が、現在は東へ茅花を流しているというのである。「茅花流し」とは茅花のほぐれる夏のころに吹く湿気が多く雨を伴いやすい南風で、夏の季語である。地名と季語の艶のある絡み合いとアニミズム。 |
鑑賞日 2009/4/11 | |
蜜豆を食べ過ぎるなよ夢に母
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山本弥生 愛媛
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夢に母が出てきて、蜜豆を食べ過ぎるなよ、と言ったというはずしの面白さでもあるし、夢の質というようなもの。 |
鑑賞日 2009/4/12 | |
谷底に石放るもう会えない人よ
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輿儀つとむ 沖縄
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「谷底に石放る」と「もう会えない人よ」のコンビネーションで、感情や知性よりももっと深いところに響いてくるものが創出されている。いうなれば、魂に近いところで、空なるものが響いているという感じである。 |
鑑賞日 2009/4/12 | |
冷奴トランプみたいに配りけり
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吉川真実 東京
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ポイポイポイと冷奴をトランプみたいに配ったというのである。そんなことをしたら冷奴がくずれるではないか、水が跳ねとぶかもしれない。しかし配膳の名人は手際よくほいほい配る。 |
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