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金子兜太選海程秀句鑑賞 447号(2008年11月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2009/2/10 | |
蚊は声なく夕べ浮かべり紅し
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足立あい 東京
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ひっそりと目立たない小さきものの〈いのち感〉である。 |
鑑賞日 2009/2/11 | |
コンペイトーのやうな園児ら星まつり
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伊佐利子 福岡
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コンペイトー(金平糖)というのは昔の菓子で星形をしていた。その金平糖のような園児らが星まつりをしているというのである。星々も子どもらもこの宇宙で遊んでいる。 |
鑑賞日 2009/2/12 | |
膝抱けば野猿の姿桃熟れる
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岩瀬徳次 群馬
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「膝抱けば野猿の姿」と「桃熟れる」がどこか本能の部分で通じ、響く。 |
鑑賞日 2009/2/13 | |
曝書して牛の歩みの黒々と
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上原祥子 山口
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「牛の歩みの黒々と」と作者は自分の在り方、あるいは自分の行き方、あるいは自分のあるべき姿を表明したくなったのではなかろうか。曝書をしている時に、この言葉が啓示のようにやって来た雰囲気である。 |
鑑賞日 2009/2/14 | |
草取って当たり前なる葱畑
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江井芳郎 福島
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葱畑の雑草を取っていかにも当たり前の葱畑になった、というのである。当たり前の気持ちになったということでもあり、健康な人の感覚である。 |
鑑賞日 2009/2/15 | |
石化した私すり抜け梅雨晴間
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大内冨美子 福島
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梅雨の晴間、私は何と石化してしまっていたことだろう、というのではないか。石化していると表現した時には既に石化が解けてきたことであるからである。 |
鑑賞日 2009/2/16 | |
昔ほたるは馬の眸に棲んでいた
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大沢輝一 石川
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むかしむかし蛍というものは馬の眸に棲んでいたんだと、というおとぎ話の雰囲気もあるし、昔見た馬の眸そのものの思い出という感じもある。 |
鑑賞日 2009/2/17 | |
戦犯の父や父の日来たりけり
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緒方 輝 東京
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戦犯といっても、法的な意味での戦犯もあれば心情的な意味での戦犯もある。明らかに戦犯であっても罪の意識を全く感じていない人もいるだろうし、殆ど戦犯ではないのに自分は戦犯だと思っている人もいるかもしれない。どのような意味合いでの「戦犯の父」であったとしても、われわれはその息子であるということを噛みしめておくべきだろうという感慨を、この句を読んで持たされた。 |
鑑賞日 2009/2/18 | |
青嵐明日の淋しさ知っている
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小堤香珠 東京
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青嵐が叙情となって吹き抜ける。いい句だ。しかし味わっていると根源的な淋しさのようなものに遭遇して切なくなる。 |
鑑賞日 2009/2/18 | |
落花いつから被弾のように母座り
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加川憲一 北海道
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落花の中に座るこの母の内面(来し方を想い座り続けているような)も描かれているような映像美。 |
鑑賞日 2009/2/19 | |
枕経つづくひと夜の黴静か
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門脇章子 大阪
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縁者の死であろうか、枕経が続いている、作者は「今夜の黴は静かだ」と妙なことを思っている、という俳諧性。あるいは、黴さえも静かに鎮魂の席に参加しているという涅槃図絵性。どちらもある。 |
鑑賞日 2009/2/20 | |
蟹裏返す一人になれば一人ごと
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紙谷香須子 滋賀
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「蟹裏返す」という妙な行動が「一人になれば一人ごと」という感じに合っている。大型の蟹ではなくて小型の沢蟹のような蟹である感じである。 |
鑑賞日 2009/2/21 | |
日光黄菅の原まっすぐに憲三逝く
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上林 裕 東京
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「逝く」だから追悼句だと思うが、普通に「行く」でも通用する。すっきりと憲三氏の存在感を表現していて気持ちがいい。追悼句だとしたら故人の来し方行方への尊敬の念が溢れた好句である。 |
鑑賞日 2009/2/22 | |
間に製函工場が立ち麦の秋
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北川邦陽 愛知
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〈間〉は[あい]とルビ 要するに麦秋の頃、麦畑の中に製函工場が立っている風景である。「間(あい)に」という言い方によって抒情が生れているような気がする。「麦の秋」の側からの発語であり、「あい」という鄙びた言い回しの中に哀愁がこもる。 |
鑑賞日 2009/2/23 | |
徒然に生きよう黒牛の黒眼あり
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久保知恵 兵庫
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〈徒然〉は[つれずれ]、〈黒牛〉は[べこ]とルビ 「黒牛の黒眼」の無垢、あるがまま、そして企みの無さ、ということであろう。 |
鑑賞日 2009/2/26 | |
サングラスからだのどこか出日本
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柴田美代子 埼玉
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「心はどこか」とかしないで「からだのどこか」と言ったことが面白い。 |
鑑賞日 2009/2/27 | |
戒名もさらしくじらもさみだるる
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清水 伶 千葉
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戒名もさらしくじらも何もかも五月雨の中にあるなあということであろう。俳諧的な取り合わせの妙であり、語呂の良さである。 |
鑑賞日 2009/2/28 | |
芥子坊主君の言葉へ付箋かな
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下山田禮子 埼玉
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「君の言葉へ付箋」という洒落た言い方と「芥子坊主」の配合がこれまたさっぱりと洒落ている。 |
鑑賞日 2009/3/1 | |
私へ戻りゆく水脈明易し
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白石司子 愛媛
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夜の間のさまざまな想念や悪夢や憧れ等々から日常的ないつもの私へ戻ってゆく過程を書いたと思われる。その心理的な時間を「水脈」と表したのが上手いし、また「明易し」という季語も大きくものをいっている。 |
鑑賞日 2009/3/2 | |
子疲れの母の口紅花は葉に
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新城信子 埼玉
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女から母に変ってゆく時期を書いたように思う。「花は葉に」がストレートに響く。 |
鑑賞日 2009/3/5 | |
先陣の虫鳴き出づる地声なり
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須藤火珠男 栃木
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滑稽感。「先陣の虫鳴き出づる」と大げさに言い出されて、さてどんな声かと期待すれば「地声なり」と落とされる、そのギャップ。 |
鑑賞日 2009/3/6 | |
秋風に鶏交わる不安定
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瀬川泰之 長崎
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滑稽感と秋風の風情。言われてみれば、動物が交尾する姿はみな不安定な気がする。 |
鑑賞日 2009/3/6 | |
産土や歯を剥く獅子に熊ん蜂
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関田誓炎 埼玉
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郷土芸能か何かの獅子舞の獅子であろうか。郷土の民俗と自然を慈しみ眺めている感じがある。 |
鑑賞日 2009/3/7 | |
まぶしすぎるいきなりパーキンソン病宣告
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竹内義聿 大阪
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パーキンソン病を宣告された時の印象を「まぶしすぎる」と表現したのであるが、やはりこれは強烈に印象的な句である。 |
鑑賞日 2009/3/8 | |
大阪のことば肉感的に夏
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月野ぽぽな
アメリカ |
そう言われてみればそうだなあと思う。五七五で切ってみると、大阪の/ことば肉感/的に夏、となるが、こういうふうにすぱっと切れないリズムが内容にまたふさわしいのではないだろうか。 |
鑑賞日 2009/3/9 | |
盆の月峠越えれば寝るとする
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董 振華 東京
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盆の月が峠を越えたら寝るとするか、というのんびりした風情が先ず感じられる。また、外には盆の月が出ている夜だなあ、今やっているこの仕事も峠を越えたら寝るとするか、という発想でもあるような気がする。 |
鑑賞日 2009/3/9 | |
寝冷えしてリストラよりも恐い妻
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峠谷清広 埼玉
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恐妻俳句の名手が本当の恐妻家であるとは限らないのではないか。客観的に書けるということは、そのことに巻き込まれていないということであり、そのことを眺めて楽しんでいる風情もあるからである。 |
鑑賞日 2009/3/10 | |
守宮のどこにも力が入っていない
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中田里美 東京
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一つの気付きの面白さ。無為の為ということであり、自然体ということである。自然体でないものに陥るのは人間ばかりである。 |
鑑賞日 2009/3/11 | |
老い母の膕見える夏の家
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中村孝史 宮城
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〈膕〉は[ひかがみ]とルビ しみじみとした雰囲気。「老い母」というゆったりと味のある出だし。そして台所仕事でもしているのだろうか、膕が見えている。季節は春でも秋でも冬でもない、生命の極まった感のある夏。いのちを愛おしむ感じといってもいい。 |
鑑賞日 2009/3/12 | |
夏の月み熊野という怒濤かな
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野崎憲子 香川
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「み熊野」は「御熊野」および「深熊野」であろう。熊野という宗教性を帯びた土地柄とその自然が混然と怒濤のように感じられるというのである。「夏の月」が神秘性を添えている。 |
鑑賞日 2009/3/13 | |
茅花流し鳥のいる木を知る少女
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日高 玲 東京
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自然の中の精霊の詩とでも言いたくなるような気持ちのいい句である。 |
鑑賞日 2009/3/14 | |
梟よわれは言葉を建設す
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北條貢司 北海道
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どこかしら絶対的な存在物である「梟」と、「われは言葉を建設す」といういわば危うい行為の対比であるように感じられる。 |
鑑賞日 2009/3/15 | |
展望のすばらし吾が部屋百年祭
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右田春雪
ブラジル |
作者がブラジル居住であるから、ブラジル移住百年祭ということであろうか。そう思って句を読むと、やりとげた満足感のようなものがひしひしと伝わってくる。 |
鑑賞日 2009/3/16 | |
春鳥夜の色より少し白
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三井絹枝 東京
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呟くような感覚性といったらいいだろうか。何故「春の鳥」としないかといえば、そうするとこの危ういような呟きの感覚性が失われてしまうからのような気がする。半分この世ならぬ、憑依した女性の呟きのような面白さ。 |
鑑賞日 2009/3/17 | |
浮世絵に素足のわたしが紛れ込む
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宮坂秀子 長野
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優れた浮世絵から受ける感じを言い当てている気がしてきた。「素足のわたしが紛れ込む」ような感じである。感覚の冴えとそれを的確に具体的な言葉で表現したということではないだろうか。 |
鑑賞日 2009/3/18 | |
蕗の歯応え介護のひとつひとつかな
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宮崎斗士 東京
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もちろんそんなにパッとした味ではないが、味わっているとそれなりの素朴な良さがある。そんなことではないか。味としないで「歯応え」としたのも味があり、介護の所作のひとつひとつが込められている気がする。 |
鑑賞日 2009/3/19 | |
北の岬破れ団扇の置かれおり
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武藤暁美 秋田
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いかにも殺風景なあるいは荒涼とした北の岬の風情が破れ団扇という小道具で演出されている映像である。穿てば、作者自身の心理描写と取れないこともない。 |
鑑賞日 2009/3/20 | |
人声の残すむらさきかぶと虫
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森央ミモザ 長野
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「人声が残すむらさき」という感覚の繊細さに魅かれる。 |
鑑賞日 2009/3/20 | |
稲光り脳が一番柔らかい
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横山 隆 長崎
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「稲光り」と「脳が一番柔らかい」の飛躍した対比によるインパクトの強さ。 |
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