表紙へ 前の号 次の号
金子兜太選海程秀句鑑賞 445号(2008年8・9月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2008/12/21
街の灯がこんなに並ぶ春の飢
伊地知建一 茨城

 「春の飢」が「街の灯がこんなに並ぶ」を食感的というか触感的というか体感的というか、そういう美にしたてているような気がする。


2

鑑賞日 2008/12/21
野鯉群れて僧に教師に目借時
市原光子 徳島

 駘蕩とた春の気分。そして春の魔法。


3

鑑賞日 2008/12/22
配管工Aに安らぎ枯草宇宙
宇田蓋男 宮崎

 好きな世界である。その無名性の宇宙意識というような思想が好ましい。「A」は句の語調を整える意味もあるし無名性を強調する意味もあるだろう。


4

鑑賞日 2008/12/22
犀迫るからだに嫌な暖かさ
大高俊一 秋田

 犀が迫ってくるときの生理感と心理感。サファリパークなどでの実感か。


5

鑑賞日 2008/12/23
春落葉詰物として副葬品
奥田筆子 京都

 詰物として副葬品としてその中に春の落葉がいっぱい詰まっているような柩、お洒落な柩である。


6

鑑賞日 2008/12/23
踊り場やわが階の果おぼろ
尾崎暢子 東京

 何を言いたいかは明瞭である。階を登りながらふと踊り場でそういう感慨を持ったところが面白い。


7

鑑賞日 2008/12/24
金臘梅の終着駅は無人です
小堤香珠 東京

 金臘梅の咲いている駅は無人だったというのである。無人であることによって、金臘梅との直接の対面がある。もっと言えば、日常を抜けた何かスカッとした無の空間時間に遭遇したという感じを受ける。


8

鑑賞日 2008/12/24
おにぎりのどこも底辺花は葉に
金谷和子 埼玉

 花が葉になる頃のピクニックか何かの雰囲気。作者はこんなことを考えている。あるいは仲間とこんな話をしているのかもしれない。地べたに座り込んで遅い花見をしているのかもしれない。


9

鑑賞日 2008/12/25
長駆するあめんぼうなり二十五菩薩
兼近久子 大阪

 「二十五菩薩」というのは浄土教で臨終の際に阿弥陀仏とともに来迎する菩薩、観世音・大勢至・薬王・薬上・普賢等々、をいうらしい。それが「長駆するあめんぼう」とどういう関係にあるのか難しいところであるが、もし繋がるとすれば、それは作者の心情という一点で繋がる以外にない。長駆するあめんぼうを見た時に感じたある情感が、作者の二十五菩薩に対する情感に繋がったということではないだろうか。この世すなわち浄土なり、という感覚でもある。


10

鑑賞日 2008/12/26
甚兵衛鮫の重さの国語辞典かな
北川邦陽 愛知

 甚兵衛鮫というのは全長十八メートルにも達する魚類としては最大のものらしい。人の命は地球よりも重いという種類の言い方に属するものだろう。甚兵衛鮫をもってきたところが味噌である。


11

鑑賞日 2008/12/26
猫の目が裸のまんま春の闇
河野志保 奈良

 猫の眼球の物象感もあるし、一般的に動物の目の持つたくらみの無さというようなもの。春の闇との対比でそれらがより新鮮に感じる。


12

鑑賞日 2008/12/27
蟻の列枕外してまどろめば
小長井和子 
神奈川

 蟻の列が夢の中なのか現実なのか、その境にあるような趣が面白い。


13

鑑賞日 2008/12/28
ユーカラの口は星形野老かな
猿渡道子 群馬

 〈野老〉は[ところ]とルビ

 ユーカラ(節をつけ韻文で語られるアイヌの叙事詩)を知らないので雰囲気で解釈する他はないのであるが、ユーカラの言葉(口)は星形の野老のようだなあ、あるいはユーカラの言葉は星形でまた野老のようでもあるなあ、ということではなかろうか。野老は山芋に似ているがひげ根が沢山あり苦味もあるという。ユーカラの持つ野性的でしかもキラキラと光っているような言葉をこのように表現したのではなかろうか。


14

鑑賞日 2008/12/29
失語症ふと聞く呟き何ですか
釈迦郡ひろみ 
宮崎

 事務的な仕事上の会話、習慣化されたうわべの挨拶、意識の表層を満足させる噂話、自己防衛や誰かを打ち負かすための議論の言葉等々がわれわれが普段使っている言語の役割である。だから例えば失語症の人が時々発する呟きとは、もっと根源的な何かを伝えたいと発している音声なのではないかという気がしてくる。


15

鑑賞日 2008/12/29
薫風や山より落とす己が影
鈴木幸枝 滋賀

 客観的には、薫風が吹いているような気持ちのよい春の山の上に立っている時に自分の影が山の斜面に沿って下のほうへ伸びているというような景色が見えてくる。薫風の気持ち良さや軽やかさを考慮すると、この「山より落とす己が影」というものが心理的な意味での自己脱却というようなものにも取れるのではある。


16

鑑賞日 2008/12/30
我はいま雲雀が落とす影法師
鈴木修一 秋田

 一人であることの感じ。それも溶け入っていくような一人であることの感じ。いわゆる孤独感ではない。つながりが失われているという意味での孤独感ではない。むしろ逆に、自我というものが小さくなって溶け入っていくのである。


17

鑑賞日 2008/12/30
鯉濡らす春月老いの寝入りばな
関田誓炎 埼玉

 この艶のある老境。どうだろう、人間は老いるにしたがって若い頃よりもっと深い味わいの艶が出てくる可能性があるのではないだろうか。


18

鑑賞日 2008/12/31
夕焼けるために山巓高野槙
高木一惠 千葉

 「高野槙」とはスギ科の常緑針葉樹の一種らしい。この「山巓高野槙」という硬くていかにも常緑の針葉樹のかたまりらしい表現と、「夕焼けるために」という柔らかい表現の対比が効果的である。夕焼の質感とその色、山巓高野槙の質感とその色の対比もある。


19

鑑賞日 2009/1/1
惚うけるや八十八夜ののんど鳴る
高澤竹光 滋賀

 戯けであろう。先日、黒澤明の「乱」を見たが、ピーターが扮していた小姓が主人である秀虎の咽喉が鳴ったのをからかって唄うようなセリフである。「ほうけるや〜はちじゅうはちやの〜のんど〜なる〜」というように。


20

鑑賞日 2009/1/2
薯植える吾ら北方志向型
田浪富布 栃木

 北方志向型であるからこれはジャガイモだろう。ジャガイモを植えながら「吾ら北方志向型」と大げさに戯けてみせたのではないだろうか。


21

鑑賞日 2009/1/2
露地うらの暗い疊句花れんぎょう
田畑桃里 神奈川

 〈疊句〉は[ルフラン]とルビ

 「疊句」であるという発見も素敵であるし、「疊句」と書いてルフランとルビをふったのもとても気がきいている。「露地うらの暗い」というのも元来明るい印象の花れんぎょうとの対比が効果的であるし、はっきりとその映像が目に浮かんでくる。全体にとても洒落た句である。


22

鑑賞日 2009/1/3
快楽に近し春蘭のうすみどり
玉乃井 明 愛媛

 盆栽に目がない人がいるように、殊に春蘭を愛でる人がいるらしい。そういう人の境地が分かるような句である。


23

鑑賞日 2009/1/4
鳥よりも高きに棲むを朧という
月野ぽぽな 
アメリカ

 想像するに、アメリカ在住の作者は高層マンションのようなところに住んでいるのだろうか。鳥よりも高い所に棲んでいる自分、さらには鳥よりも高い所に棲んでいる人類というものの在り方はおぼろである、という感じ方はよく解るし、自然感覚を失っていない作者のみずみずしい感性がある。


24

鑑賞日 2009/1/5
豆飯を昭和の映画のように食う
峠谷清広 埼玉

 「昭和の映画」が喚起する想像性はかなり一般性があるのではないか。多くの人がそれぞれに、多分あんな雰囲気だろうと想うに違いない。私などは白黒の小さい画面のしみじみと味のある日常の場面が描かれているような映画を想う。昭和の映画はどこか味があった。俳優にも味があった。「豆飯」の味と通じるものがある。


25

鑑賞日 2009/1/6
無限とう淋しい顔の馬冷す
遠山郁好 東京

 とても大きな時空を感じる。この作家はいつもそうだったのではなかったかと思う。この句の場合その時空が淋しさのニュアンスを帯びている。存在は淋しいものだと言われている気がする。スケールの大きな叙情。


26

鑑賞日 2009/1/7
病葉を焚き目じるしとしたりけり
中島偉夫 宮崎

 老境の身あるいは病身というような風情がある。そういう境涯にある身でいのちを焚いて目じるしとしたという風情。目じるしは後からやってくる者への目じるしである。こういう心境は私などにも少しは解るようになってきている。


27

鑑賞日 2009/1/8
結論は自愛であると牛蛙
長野祐子 東京

 牛蛙がそう言うところが面白い。そしてまた実際、そう言いそうな雰囲気を持っている。


28

鑑賞日 2009/1/8
憲法を若しと思う花水木
中村孝史 宮城

 「憲法を若しと思う」、そう言われればそう思う。あの高らかに人間の理想を謳い上げて恐れを知らぬ姿。私としては、若くて未熟だとは思いたくない。人間がその尊厳とみずみずしさを保つためにはこのくらいの言葉は必要なのではないかと思う。「花水木」が初々しくも美しい。


29

鑑賞日 2009/1/9
どう見てもクリムト姉の春衣かな
新田幸子 滋賀

 明るい春の気分。その明るさの中でかるくお姉さんをからかっている雰囲気。あのクリムトの絵がはっきりと目に浮かぶ。


30

鑑賞日 2009/1/9
落日のもつとも春の息吹かな
野崎憲子 香川

 落日にもっとも春の息吹を感じるというのである。内面のエネルギーの充実した艶のある心情ではないか。


31

鑑賞日 2009/1/10
鳥雲にわれらビキニ忌を忘却
野田信章 熊本

 春になって鳥が帰ってゆく風景はいかにも忘却というものに相応しい趣がある。忘却の快さに身を任せたい季節でもあるが、一方では忘れてはならない大事なこともある。その狭間に身を置いているのが人間というもののような気もする。


32

鑑賞日 2009/1/11
逆光や残る白鳥を鬱という
長谷川育子 新潟

 自然の流れに乗れないで取り残された感じ、また流れに乗れていないという自覚さえも持てない状態、そんな状態が続くと鬱に陥るのではないか。そんなことをこの句を見ながら考えた。鬱という心理的な現象のニュアンスが具体的な一つの風景に投影された。


33

鑑賞日 2009/1/11
空木咲くと令嬢たちのかくれんぼ
堀之内長一 埼玉

 「空木咲くと」の「と」が句に微妙なニュアンスを与えている。「空木咲く令嬢たちのかくれんぼ」でも麗らかで明るくまぶしいような令嬢たちの姿が見えるが、「と」が有ることによってもう少し想像の世界が広がるような気がする。つまり「空木咲く」ということと令嬢たちの関係がより親密なものになり、「空木咲く」が単なる背景としてあるだけでなく、何と言ったらいいか、空木と令嬢達のアニミズム的な共振性といったようなものが感じられてくる。この令嬢達は花の精ではないだろうかというような感じである。


34

鑑賞日 2009/1/12
弟は見事に遠し柿若葉
松本勇二 愛媛

 兄弟というものはいろいろな意味で遠くなってゆくものであるが、この「見事に遠し」というのが新鮮に感心する遠さを表しているようだ。「柿若葉」というのが弟の形容のようでもあるし、また弟との距離の新鮮さの形容のようでもある。


35

鑑賞日 2009/1/12
初笑いの叔母は太巻き寿司のよう
森 美樹 千葉

 体形的にも性格的にも「太巻き寿司」のような叔母が見えてくる。単なる笑う叔母ではなく「初笑いの叔母」ということで正月の華やかな雰囲気もある。


36

鑑賞日 2009/1/13
三日月は片手で隠れ麦の秋
柳生正名 東京

 豊かな自然とそれに関りあいながら生きている人間の姿が普遍的である。普遍的であるから、これは古代のことだといっても通じるくらいの情景である。


37

鑑賞日 2009/1/13
春暁のからす鳴きます適当に
矢野美与子 東京

 「適当」という言葉が面白い。その場に相応しく、そしてまたいいかげんに鳴くのである。あらゆる物事はその場に相応しく、しかし実はいいかげんなのかもしれない。この自由な感じが鴉の持つ雰囲気にあっている。気楽に行こうぜと鴉に教えられている気さえする。「春暁」という情感とこの気楽さの組みあわせが俳諧的である。


38

鑑賞日 2009/1/14
夜の村道明るい方言のあと吾れら
輿儀つとむ 沖縄

 風土感の中に社会性時代性そして個我の意識を織り込んだ好句である。



表紙へ 前の号 次の号
inserted by FC2 system