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金子兜太選海程秀句鑑賞 444号(2008年7月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2008/11/22 | |
連翹や平らな犬を照らすかな
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油本麻容子 石川
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連翹が咲いている。その傍らに犬が寝そべっている。そういうような景色であろうか。そして彼らの交感である。「照らす」という言葉はかなり見かける表現であるが、「平らな犬」というのが新鮮である。 |
鑑賞日 2008/11/23 | |
下手くそな蝉がまだ居る敗戦忌
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有村王志 大分
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どのような時代でも、戦争を画策する人物がいるものである。あるいは知らず知らずの内に、そういう種を人間の心は持っているものである。どうもこの「下手くそな蝉」というのが、そういう事を匂わせている気がするのであるが。いずれにしても諧謔の味である。 |
鑑賞日 2008/11/24 | |
まんさくの娘石工の繊指かな
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五十嵐好子 東京
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石工になろうと修業している娘の手の指が、繊細なあのまんさくの花びらのようだ、というのではなかろうか。文脈としては「まんさくの繊指」そして「娘石工の繊指」ということであろう。娘石工の手の指を描くことによって、その人物の全体像を描いている。また、この娘石工の仕事場の傍らにまんさくの花が咲いている景色なども見えてくる。 |
鑑賞日 2008/11/27 | |
卓球の流星桃の花咲かす
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井上湖子 群馬
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上手な人同士が卓球の練習をしている時、その玉の軌跡な流星のようだ。その卓球練習場の傍に桃の花が咲き出した。そういうようなことではなかろうか。 |
鑑賞日 2008/11/28 | |
蛇穴を出て口の中見せにけり
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上野昭子 山口
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こういう場面に出くわしたことがないが、春先に蛇が口を開けているのを見て、こういう句が出来たのであろう。蛇と作者の小さなストーリーである。 |
鑑賞日 2008/11/29 | |
木の芽雨ふあっと生きて明日を読む
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上原勝子 神奈川
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「ふあっと」というオノマトペが新鮮。使い古された形では「ふわっと」という言葉があるが、それを微妙にはずしているところがいい。「木の芽雨」という季語とのくっつき具合もいい。 |
鑑賞日 2008/11/29 | |
枕頭のペン柔らかき囀りです
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植村金次郎 三重
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病床というような感じがする。文字を書くのを楽しみとしている人。枕頭のペンを見ながら何処かで小鳥が囀っているのが聞えてくるという柔らかい時間である。私などはペンそのものが柔らかく囀っているというふうに取れる。 |
鑑賞日 2008/11/30 | |
足萎えし母はさざなみ百千鳥
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榎本愛子 山梨
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足が萎えてしまった母親を作者は介護する立場にあるのだろうか。この母親の存在が作者には今は心地よく感じられるというふうである。さざなみのように感じられるというのである。百千鳥が気持ち良く囀っている。 |
鑑賞日 2008/12/1 | |
恋猫の流木上で争えり
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大下志峰 福井
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この句の面白さは、やはり私達の状況が象徴されていることではないだろうか。恋をし、争う、みんな流木の上のことである。 |
鑑賞日 2008/12/1 | |
うぶすなのへそ無防備な鏡餅
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大高俊一 秋田
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うぶすなの/へそ/無防備な/鏡餅、というように切れているようにまた繋がっている感じである。全体に無防備で居られるうぶすなの目出度さのようなものを詠んだのであろう。 |
鑑賞日 2008/12/2 | |
黄砂来る顎を撫でたり無視したり
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加藤邦枝 栃木
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黄砂が来たときの心理描写。「顎を撫でたり」というのが上手い。よわったなあ、どうしよう、というような呟きが聞えてくるような表現である。その後の「無視したり」が補って効いているのであろう。 |
鑑賞日 2008/12/3 | |
初蝶に肩かす空の緩びかな
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木村幸平 新潟
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だんだんと気候が春らしくなってゆく。気持ちもだんだん緩んでくる。そういう季節の蝶と作者の一つの対話である。蝶が自分の肩に止まってくれた。嬉しいという気分が底流にあるだろう。「空の緩び」と書いているが、これは作者の心の緩びの反映である。 |
鑑賞日 2008/12/4 | |
一遍の通りしあとの土筆かな
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黒岡洋子 東京
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一遍上人の雰囲気がとてもよく出ている。素朴で偉ぶってなくて庶民的で風土に溶け込んでいて・・・ |
鑑賞日 2008/12/5 | |
逃げ水の一路は定めなき遍路
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小林一村 福井
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境涯感であるが、しんみりしたりネガティブな雰囲気ではなくて、どこかで定めなき遍路を楽しんでいる感じがある。「逃げ水」という光を帯びたものがそういう雰囲気を作っているのかもしれない。 |
鑑賞日 2008/12/5 | |
葱を抜く人に声かけ過ぎるなり
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近藤好子 愛知
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日常の何でもない一コマを強く語ったという印象である。そこに何か意味があるのかといえば、多分何もない。逆にいえば、何もないのが人間存在であるという妙な響きが句全体から漂う。子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」のやり方を連想させるものがある。 |
鑑賞日 2008/12/6 | |
蒲団ごと夜を二つ折り独り者
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猿渡道子 群馬
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朝起きて、掛布団、敷布団と一枚一枚たたむのではなくて、全部いっぺんに二つ折りにして部屋の隅にでも置いておく、というような状況が思い浮かんだ。まあ、夜は夜として、蒲団と一緒に二つ折りにしてたたんでおけ、あたしゃ昼の活動が忙しいので蒲団や夜にはあまりかまってはいられない、というような活動的な独り者という雰囲気を感じる。 |
鑑賞日 2008/12/6 | |
春潮や沖を見つめて山人われ
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篠田悦子 埼玉
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全体に、自分は地であるという感じ。地に根差しているという感じ。そういうものが背後にあって、しかもキラキラとした春潮の沖を見つめているのである。人間の在り方として大事な二つの要素がしみじみとした感慨の中に描かれている。 |
鑑賞日 2008/12/7 | |
照らし合う記憶まぶしく磯あそび
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柴田和枝 愛知
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人生というのは、たった一日の磯あそびのようなものかもしれない。寄せては返す波寄せては返す波の記憶。一緒に遊んだ様々な人々の記憶。キラキラとした光の時間の記憶。そしてやがて暮れてゆく。人生はたった一日。 |
鑑賞日 2008/12/7 | |
大楽毛糞をけちらす地鶏かな
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鈴木八駛郎
北海道 |
〈大楽毛〉は[おたのしげ」とルビ 「大楽毛」は地名である。兜太に次の句がある 海鳥の糞にたんぽぽ大楽毛 『東国抄』 鈴木氏の句はこの兜太句のもじりであることは間違いない。もじりというか〈展開〉というか、〈楽しげ〉という共通の雰囲気を持つ違う場面である。面白い地名があったものである。 |
鑑賞日 2008/12/8 | |
種物屋主人鳥語のごとくあり
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関田誓炎 埼玉
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「種物屋」ということで、「鳥語」ということの微妙な関連性が感じられる。どちらかというと、軽い会話をさえずるように喋る人物像が浮かぶ。 |
鑑賞日 2008/12/8 | |
當麻白鷺つっと爪立ちささめごと
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田中昌子 京都
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當麻とは中将姫の当麻曼荼羅で有名な処である。私もその話はよく知らないのでWikipediaで調べてみた |
鑑賞日 2008/12/9 | |
青春のかけら小骨となりて冬
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谷岡城 愛媛
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「青春のかけら小骨となりて」ということは肯定的な事柄とも取れるし否定的な事柄とも取れる。読む人によって様々だろう。透きとおったきれいな小骨のような大切なこと、あるいは小骨のように咽喉にひっかかることがら。あるいはその両方。概ね両方だというのが真実ではないか。「冬」だって透明感のある好ましい冬でもあるし、寒くて嫌な冬でもある。 |
鑑賞日 2008/12/9 | |
くれないの落し角です朝寝です
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遠山郁好 東京
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かなり性的なものが暗示されている。しかしそれは、あっけらかんとして健康的な感じである。 |
鑑賞日 2008/12/10 | |
日脚伸ぶ両手一ぱい水の私語
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中島伊都 栃木
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「両手一ぱい水の私語」に尽きる。体感として、春の水のようす、あるいは春の喜びそのものが表現されている。 |
鑑賞日 2008/12/10 | |
榕樹や駒鳥の如悦なる人
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中原 梓 埼玉
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〈榕樹〉は[がじゅまる]とルビ あの鬱蒼と茂るガジュマルの林の中に居ると自然のエネルギー、自然の神秘の中に紛れ込んだ気持ちになるが、そういう場所で駒鳥のように悦になる人。そういう人物像を新鮮な驚きの眼で眺めている作者。榕樹の林をさえずりながら飛び回る駒鳥のようだ、と思っている。 |
鑑賞日 2008/12/11 | |
百千鳥円の中には井戸在りて
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日高 玲 東京
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さまざまな小鳥が囀っている、その円の中に井戸が在る、というのである。人間の孤独、あるいは存在そのものの深淵、そんなものを暗示しているようにも思われる。 |
鑑賞日 2008/12/11 | |
雁風呂にとぼとぼ後期高齢者
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福原 實 神奈川
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「雁風呂」という季語の意味が解れば自ずからこの句の味が伝わってくる。『現代俳句歳時記』には〈青森県外ヶ浜に残る伝説。秋に渡来するガンは海を渡る途中くわえてきた枝を水面に浮べて休み、陸に着くとそれを海岸に落し、春に北方に帰るときに再びその枝をくわえてゆき、海岸には帰れなかったガンの数だけ木片が残るという。里人はそれを拾い、死んだであろうガンの供養のために風呂を沸かすのだという〉と出ている。 |
鑑賞日 2008/12/12 | |
頭の中の蚯蚓なんぞも光りもし
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本田日出登 群馬
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高屋窓秋の「頭の中で白い夏野となってゐる」というのがあるが、あれの続編あるいはもじりであるという感じがする。頭の中で白い夏野となっている蚯蚓なんぞも光りもし、という具合になる。 |
鑑賞日 2008/12/12 | |
水飯の混濁ふかき胸の水
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松本照子 熊本
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この水飯のようにわたしの胸の中の混濁も深い、というようなことであろうか。もやもやとひやひやと混濁している心理状態というようなものかもしれない。 |
鑑賞日 2008/12/13 | |
散る青葉散らざる青葉奇数好き
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松本文子 栃木
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「散る青葉」というのは常磐木落葉のことで季節は夏ということであろう。句全体から、作者のきりっとして、あまりぐじゅぐじゅと物事にこだわらない性格が伝わってくるようだ。 |
鑑賞日 2008/12/14 | |
春寒やわれに売るべきイエスなく
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三田地白畝 岩手
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売るべきイエスもない、何もない、春寒だ、というのである。しかしそういう詩がこの人にはある。 |
鑑賞日 2008/12/15 | |
石鎚山やゴビの黄砂に染まざりき
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光宗柚木子 愛媛
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〈石鎚山〉は[いしづち]とルビ 霊峰石鎚山はゴビの黄砂に染まらなかったというのであるが、石鎚山への畏敬の念であろうか。青く澄んだ遠景の石鎚山が目に浮かぶ。 |
鑑賞日 2008/12/15 | |
掻いて雪掘つてまた雪絵ローソク
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武藤鉦二 秋田
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「掻いて雪掘つてまた雪」と「絵ローソク」がとてもよく響く。雪の白とローソクの白ということもあるだろうし、「掻いて雪掘つてまた雪」という雪国の生活自体がローソクに描かれた絵のようなもの、つまり実は絵ローソクのような美しい遊びであり、夢みられているようなものだ、というような思想が私には感じられる。 |
鑑賞日 2008/12/16 | |
覗き込み蝌蚪の群れより天奪う
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村上 豪 三重
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蝌蚪の群れを覗き込んで自分の影が陽を遮ってしまった、自分が覆いかぶさって蝌蚪と天の間に自分の影を入れてしまった、という状況である。自然に対しての人間、子ども達に対しての大人、生徒たちにたいしての教師等々の場合などに適用できる寓意に満ちているのではないだろうか。 |
鑑賞日 2008/12/16 | |
薬包紙ひらく余韻を早春とも
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茂里美絵 埼玉
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日常の小さな動作の中に詩を感じている。「薬包紙ひらく」であるから作者は病気なのかあるいは病弱なのだろうか。「薬包紙ひらく余韻」というようなものを感じるというのは、病気などの時の一層感受性が強まった状態が推察される。 |
鑑賞日 2008/12/17 | |
しゃぼん玉こぼれる馬の背は異国
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森央ミモザ 長野
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映像としては、しゃぼん玉が馬の背をこぼれてゆくという何とも美しい映像が見えてくる。そのことを異国のようだと言っているのかもしれない。または馬の背に乗った時の異国にいったような気分としゃぼん玉がこぼれるということを配合させたのかもしれない。 |
鑑賞日 2008/12/19 | |
わが影を憶えていたる春の坂
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守谷茂泰 東京
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この日常的な時間流れが溶けてしまったような懐かしさとでもいおうか、あたかも規則的に普遍的に動いているようにみえるこの日常の時間のまやかしを越えて存在するいわば無時間の中での我と春の坂の出会い。 |
鑑賞日 2008/12/20 | |
春の空てふ空白の席かな
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柚木紀子 東京
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〈席〉は[むしろ]とルビ 春愁にも通じるような空虚感ではないだろうか。春の空の持つ独特の雰囲気。自由であるがどこかしらほわほわっとして頼りなくとりとめのない感じ。冬の空や夏の空や秋の空のように何かしらはっきりと人間に提示してくるようなものもない。そんな感じかもしれない。 |
鑑賞日 2008/12/20 | |
女優とは表面張力冬の川
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渡部陽子 宮城
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女優というもののエネルギーのあり方を表面張力のようだといったのではないか。常に他人に見られていることによって彼女らは自分を律してゆく。他人に美しいと見られることによって彼女らは美しくなる。美しくなるとさらに他人に美しいという感じを与える。彼女らの美は表面張力のようなものである。そういう意味では彼女らは常に張りつめていなければならないが、そんなところが冬の川に通じる。 |
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