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金子兜太選海程秀句鑑賞 443号(2008年6月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2008/10/16
もの言う梟絵手紙のふくろう
相原澄江 愛媛

 よほど印象的な梟の絵手紙をもらったに違いない。その差出人が絵の梟に化身してものを言っているような手紙といったらいいだろうか。その印象を簡潔に書いている。


2

鑑賞日 2008/10/16
姪たちの黒いセータードイツ菓子
足立あい 東京

 黒いセーターを着た姪たちの姿を見てドイツ菓子を連想したのであろう。そういわれてみるとドイツ菓子の印象はどこか黒っぽい。そして菓子であるから洒落た華やぎもある。若い姪たちの色香も感じるしまた知的なものも感じる。この感覚の飛躍が面白い。


3

鑑賞日 2008/10/17
来ぬ人や管楽器ゆく冬の橋
飯島洋子 東京

 管楽器ゆく冬の橋、という詩情。


4

鑑賞日 2008/10/17
風邪ひきもいるらし洛中洛外図
石川和子 栃木

 洛中洛外図とは大辞林によると〈室町後期から江戸時代にわたって製作された風俗画の一。京都の市街と郊外の風景や庶民の生活・風俗を俯瞰(ふかん)するように描いたもの。主に六曲一双の屏風に描かれた。〉というものらしい。
 「風邪ひきもいるらし」と書かれたことによって、この洛中洛外図が生きている感じがしてくる。そこに描かれた人物やその他諸々のものが急に活き活きと動いているように感じられてくるのは不思議である。


5

鑑賞日 2008/10/18
鴨遠く解体の音のたそがれ
伊藤淳子 東京

 「解体の音」というのは自動車解体業者であるとか機械の解体業者がたてている音であろう。そのような音が聞える都会の片隅に作者は居る。遠くの空を鴨が翔んでいるのがかすかに見える。あるいは鴨が居るような遠くの川が見えるような場所かもしれない。「解体の音のたそがれ」と言っている作者は都会のわびしさを感じている気がする。


6

鑑賞日 2008/10/18
流氷や闇深きまま人間軋む
岡崎万寿 東京

 〈人間〉は[ひと]とルビ

 「闇深きまま人間軋む」というのはまさに現代の人間の様を表している感じがする。闇の中何も見えないままひしめき合って軋んでいる。まだ薄暗い海で流氷がぶつかり合い軋みながら流れている様子に似ている。


7

鑑賞日 2008/10/19
票田といわれる地帯猫の恋
小野裕三 神奈川

 選挙という人間社会の現象。そんなことはあずかり知らぬと恋にいそしむ猫達。この対照の面白さである。わんわんとうるさい選挙カー、にゃーにゃーとうるさい猫の恋。


8

鑑賞日 2008/10/19
抽象はさびし葱畑に屈み居れば
金谷和子 埼玉

 葱畑というものは一種のさびしさがある。ただただ青い棒のような葱が並んでいるだけである。冷たい抽象絵画のようである。作者のその時の心情が出ている気がする。


9

鑑賞日 2008/10/20
平城山よも一睡われも一睡
兼近久子 大阪

 〈平城山〉は[ならやま]とルビ

 平城山といえば、北見志保子の書いた短歌に平井康三郎が曲を付けた「人恋うは悲しきものと平城山にもとほり来つつたえ難かりき」を思い出すが、あの平城山だろうか。この歌を踏まえているとするとより味わいが深いような気もする。人恋うも、人生も一場の夢だという感じである。その鳴き声やその表記も含めて(ぬえ)という鳥の神秘性もある。


10

鑑賞日 2008/10/21
風のように父来て帰る初寝覚
川崎久美子 東京

 父への思いが私小説風にさらりと書かれているという感じである。


11

鑑賞日 2008/10/22
立春や鴉は鋼のオブジェです
河原珠美 神奈川

 言われてみると、「鴉は鋼のオブジェです」という感覚はよく分かる。私も、そう言葉に言ったことはないが、そう感じたことがあるというふうにである。立春の明るい日差しの中に、そのオブジェがつやつやと黒く光っている。


12

鑑賞日 2008/10/23
今朝の春巫女らの額に面皰の芽
上林 裕 東京

 〈面皰〉は[にきび]とルビ

 逃れようもない自然の節理の面白さ。神と動物の中間にある人間の可愛さのようなもの。


13

鑑賞日 2008/10/24
たまゆらの寒林はいま石ばかり
北上正枝 埼玉

 静かで、どことなく明るい風景を感じる。「たまゆら」という言葉のゆえだろうか。「寒林」だとか「石ばかり」だとか、どちらかといえば寒々しく殺風景な感じがしてもよさそうなものなのに、その奥に感じるのは、むしろ澄み切った意識である。作者の資質といえようか。


14

鑑賞日 2008/10/26
みずうみへ子はかくし持つ蝶の骨
久堂夜想 神奈川

 大人から見た子どもの不可思議な部分。大人には伝えることが出来ない子どもの心の秘密のようなものを垣間見た感じ。あるいは一般的に少年の憧れやロマンや心の中の大切な何かがみずみずしく描かれている感じである。「蝶の骨」というような表現は、思春期のともすれば屈折しそうな微妙な心理状態の表現ともとれる。


15

鑑賞日 2008/10/27
寒卵一心というやわらかさ
黒岡洋子 東京

 「一心というやわらかさ」が、人間の心理の在り方をよく捉えているし、それが寒卵の形態とよく結びついている。この寒卵は割られて皿の上にあるような状態の寒卵であろう。


16

鑑賞日 2008/10/28
着ぶくれて眠りはまるい繰り返し
河野志保 奈良

 眠りはまるい繰り返し、うたた寝の気持ち良さ。また、着ぶくれてうたた寝をしている人の姿を写生している雰囲気。


17

鑑賞日 2008/10/29
児が駆け出した雪降りの永平寺
近藤好子 愛知

 歴史性・物語性のある詩的空間。どこか魂の衝動のような趣もある。


18

鑑賞日 2008/10/29
白鳥という笑わない母である
佐孝石画 福井

 白鳥から受ける印象を書いたものではないだろうか。「母」という言葉は自然のあるいは大地の私達へのメッセージであり、白鳥の場合は笑わないのであるが、そのような本質を感じる。


19

鑑賞日 2008/10/30
冬紅葉よもつひらさかその真上
下山田禮子 埼玉

 「よもつひらさか」とは黄泉の国と現世との境界にある坂であるらしい。幻想的な句であり、また事実、幻想である。幽玄の世界に引き込まれそうにもなる。


20

鑑賞日 2008/10/31
薄氷や私というひとりの他人
白石司子 愛媛

 人間だけが〈私〉というものあるいは〈自己〉というものを意識する。それは存在との分離感であり、孤独感である。〈私〉とは何なのか。時にそれはそらぞらしい他人のようである。ぺらぺらと剥がれる薄氷のように冷たくそして果無い。全体に孤独感が漂う。


21

鑑賞日 2008/11/1
訃報一つ生身を打ちて立春なり
鈴木修一 秋田

 立春という、これから自然界の生命現象が盛んになってゆくその境の日に、一つの訃報を聞いた。その対比である。「生身を打ちて」や「なり」という言葉遣いから、その訃報に自分は打ちのめされたけれども、いやいや自分はその人の分も強く生きてゆこう、というような心意気を感じる。


22

鑑賞日 2008/11/2
地の神は地べたに座り独活を喰う
鈴木八駛郎 
北海道

 地の神が地べたに座って独活を喰っている。神話的なのであるが、とてもリアリティーがあり、そういう光景が目に浮かんでくる。私には、飄々とした風体の老人のような姿が目に浮かぶ。作り物ではない感じが句にあるというのは、この句の種になる事実が在るということであろう。


23

鑑賞日 2008/11/3
産土も北辰斜め春立ちぬ
鈴木康之 宮崎

 生まれ故郷に帰ってきてみると、ここでも北極星は斜めに掛かっているなあ。そういえばもう春だなあ、というのである。ただそれだけのことなのであるが、言葉を選んで凝縮して書かれると、それが詩になるということである。


24

鑑賞日 2008/11/5
朝日の中の透徹や霜野原
鈴木祐子 東京

 この景色、そしてこの心持ちはよく経験するのであるが、私の場合は上手く表現できないでいた。作者は、その景色のエッセンスと心持ちのエッセンスを「透徹」という言葉で言い得ている。


25

鑑賞日 2008/11/6
田の月がいたくて睡りぐすりをのむ
末永有紀 福島

 優れた感覚である。眠れないような神経が興奮している状態を「田の月がいたくて」と言い得たところが詩である。


26

鑑賞日 2008/11/7
寒牡丹凝視というは魔性なり
高桑婦美子 千葉

 一つの物や事だけを集中して凝視するということは、全体の生の流れを逸脱してしまうことになる。そういう事実を「魔性」という言葉で言い当てた。何だかこの「寒牡丹」は真赤な色をしているような気がしてきた。


27

鑑賞日 2008/11/9
龍の玉昨日落した目の鱗
瀧 春樹 大分

 この連想の飛躍が面白い。


28

鑑賞日 2008/11/13
ありし日の君は真水か梅咲いた
根岸暁子 群馬

 「ありし日の君は真水か」という表現が新鮮である。梅が咲いたのを見ながら、そのありし日の君を想っている。私は梅、君という真水を受け咲いた、というような意味合いも少しあるかもしれない。


29

鑑賞日 2008/11/14
小鳥屋のとなり むっつりとして大河
野間口千賀 
鹿児島

 「むっつりとして」という卑近な表現がいい。沈黙というような言葉よりいいだろう。大河と自分が対等にあるいは肉体的にあるいはアニミズム的に関っている。「小鳥屋のとなり」も対照的魅力的な配合である。一字空けも味がある。


30

鑑賞日 2008/11/14
地球と引力やっと納得入学す
長谷川順子 埼玉

 小学校への入学だろう。そのくらいの年齢の子どもが、地球と引力ということにやっと納得して入学した、というのである。旺盛な好奇心を持つ子どもの魅力が描かれている。その子と作者の地球と引力についてのやり取りが、ほほ笑ましくもあり、丁寧でもあり、また作者の少しほっとした様子なども想像される。


31

鑑賞日 2008/11/15
卒寿かな戯れせんとや嫁が君
林 壮俊 東京

 卒寿、すなわち九十歳になって、この遊びごころ、この艶、素敵である。


32

鑑賞日 2008/11/16
川に沿う人の生活よ柿明かり
平山圭子 岐阜

 〈生活〉は[くらし]とルビ

 川に沿って暮すというのは、昔から人間にとって基本的な暮らしぶりであったはずである。生命を直接維持するための真水、あるいは穀物を得るための真水、雨や泉というようなものも考えられるが、その殆どは川から得ていたはずである。水道の完備した現代生活においては、そのことを忘れがちになるが、本質的には何も変ってはいない。作者は「川に沿う人の生活」に出会って、この本質的な生命の感じに触れた感があったのではないだろうか。「柿明かり」というのが、この生命を照らして祝福しているようである。


33

鑑賞日 2008/11/17
正月過ぎゆるゆる単純もどりけり
ホーン喜美子 
カナダ

 ゆるゆると単純がもどり、ゆったりとした普段の生活になってゆくのをほっとしながら眺めている風情。ハレとケというリズムで生は出来ている。その生のリズムの一場面の丁寧な描写。


34

鑑賞日 2008/11/18
瓜坊は闇を食むことから始む
松本勇二 愛媛

 瓜坊、すなわち猪の子は闇を食むことから始める、というのである。猪の子というものを実際に見たことがないが、生まれたての瓜坊が夜の闇の中で口をもぐもぐさせている様子が目に浮かぶ。


35

鑑賞日 2008/11/19
お雛さまぼくは段々馬の面
水上啓治 福井

 お雛さまとの対比を使って戯けている。「ぼくは段々馬の面」というのが、馬の面のように顔を長くしながら、お雛さまに見入っている場面が見えてくる。果ては馬の顔そのものがお雛さまを見入っているという楽しい映像になってきたりする。


36

鑑賞日 2008/11/19
空欄なりときどき木の葉踏む母よ
宮崎斗士 東京

 少し高齢になった母親の、「空欄」とでも表現したくなるような時間。その時間に母は落葉などを踏んでいる。掴みどころのない茫々とした人間存在を感じる。


37

鑑賞日 2008/11/20
老僧は土鈴のかたち冬の旅
横地かをる 愛知

 「老僧は土鈴のかたち」という飛躍した比喩で様々な連想が働く。人間は僧になるという決心をした時には何らかの理想を高く掲げていたに違いない。例えば真理の鈴を振り続けよう、というような理想を持っていたかもしれない。その僧が老いてしまって、身も心も金属の鈴のようではなくて土鈴のような趣になってしまった。しかし鈴は鈴であり、まだリンリンと響いていることは響いている。人生は旅であり、また冬の旅であることが多い。


38

鑑賞日 2008/11/21
独り身に刃の沈みゆく霜夜かな
渡部陽子 宮城

 孤独感。その限定された時間と空間の中を一本の刃が沈んでゆく。死、あるいは自殺という観念も現われ、そして沈んでゆく。外は霜の夜である。




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