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金子兜太選海程秀句鑑賞 442号(2008年5月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2008/9/15
ろうばいを過ぎて食堂へ行く哀
足立あい 東京

 生きるということは哀である。美しくもあり、そして哀しくもある。美しいものに感じ入る時もあり、また腹が減ることもある。美しいものに感じるのも哀であり、腹が減るのも哀である。どことなく切なく美しい句である。哀。


2

鑑賞日 2008/9/16
偉いとか偉くないとか冬大根
石山一子 埼玉

 偉いとか偉くないとか人間はやかましいが、しかしそれも冬大根の品評会みたいなもので、どっちみち大したことはない、というような痛快な響きがある。


3

鑑賞日 2008/9/16
鈍行や雪の浮力は詩のような
岩佐光雄 岐阜

 鈍行列車で雪の中を行く時の叙情。叙情であるが、センチメンタルな気持ちを通しての叙情ではなく、叙情そのもの、あるいは乾いた叙情というようなもの。


4

鑑賞日 2008/9/19
賽銭を拾わず踏まず初詣
岩瀬徳次 群馬

 この諧謔の味が何とも愉快である。実際の場面として充分にありそうで、私がそういう場面、賽銭が落ちているのを見つけたような場面、に出会ってもこういうふうにしたろうと思われるが、そこの所に微妙な人間の心理を見つけた作者の手柄である。


5

鑑賞日 2008/9/19
餅搗きの前夜の母は決起めき
宇野律子 神奈川

 この母の気持ちもよく分かるし、この母を見ている作者(娘)の気持ちもよく分かる。たかが餅搗きくらいでと娘は思うが、されど餅搗きというのが母の気持ちであろう。時代の意識のずれということもあるかもしれない。そういう両者の諸々の心理や状況が、この「決起めき」という言葉ひとことで表されている。


6

鑑賞日 2008/9/20
うたた寝は群鶴の足ばかりなり
榎本祐子 兵庫

 「うたた寝(して見る夢)は群鶴の足ばかりなり」と取ったほうが分かりやすいかもしれない。うたた寝そのものが群鶴の足のようなものだと取っても分からないことはない。いずれにしろ何となく味気なくて満たされない眠りということであろうか。作者の心理的な状況かもしれないし、あるいはこれは現代人共通の心理的状況なのかもしれない。


7

鑑賞日 2008/9/20
牛飼いも蓮如も雪の峠越ゆ
大西健司 三重

 蓮如という人物を知らないので、そのあたりは鑑賞不十分になるだろう。蓮如は坊さんであるということは知っている。それもかなり名の通った坊さんであることも知っている。そういういわゆる高僧も牛飼いも共に雪の峠を越えてゆくというのである。どこかしら艶のある風景であり、また物語性も感じられる。


8

鑑賞日 2008/9/21
銃殺や我等は何もせねど雪
大谷昌弘 千葉

 時々テレビ画面などで銃殺の場面を見ることがある。お茶を飲みながらであったり、飯を食いながらであったりする。他人事のように見ている自分がいる。しかし実は他人事ではない。そういうことの全体に対する責任さえ我々にはある。ただそれをどうすることも出来ないのだ・・・・雪が降っている・・・・


9

鑑賞日 2008/9/21
差出人不明の賀状官能的
川村三千男 秋田

 この「差出人不明の賀状」の存在感。書かれている、あるいは描かれている内容が官能的だということもあるのかもしれないが、その存在自体が妙に官能的である。


10

鑑賞日 2008/9/22
白鳥来と誌せし今日の一番星
北村美都子 新潟

 白鳥が来て嬉しいなという心の弾みが、あたかも一番星にそう誌されているように感じさせるわけであるが、もしかしたら占星術師のように、一番星に誌されたから初めて白鳥が来たことを知ったのかもしれない。これはもう星と白鳥と人間の相互交感の世界である。そしてこのような相互交換、すなわち詩の支配する世界に住んでいたいものではある。


11

鑑賞日 2008/9/22
声あれば茨城訛りの鮟鱇よ
木村和彦 神奈川

 「あーあ、おらはこんな顔に生まれちまったけんどよ、これだって食えばあんがいあっさりしてうめえんだー。だがらさみんな高え金っこさ出しておらの鍋を食うんでねえか、そうだっぺよ。」とまあ茨城訛り風に書いてみたが、正確かどうか知らない。私の妻の祖母が茨城訛りだったことを思いだして書いたのであるが、間違っていたら茨城の人には謝っておきたい。ともかく鮟鱇の顔を見ていると茨城訛りを話すような感じは確かにある。どことなく死んだ妻の祖母に似ていなくもない。親しみのあるいい祖母だった。


12

鑑賞日 2008/9/23
大日如来畳に下ろし煤払い
金並れい子 愛媛

 普段何気なく行っている習慣の中に潜む諧謔である。


13

鑑賞日 2008/9/23
テンが跳ぶ郷一直線に陰のこす
後藤岑生 青森

 「テンが跳ぶ」というような純粋な自然界の現象はあまりお目にかかることがない。それゆえに、「テンが跳ぶ」だけでも新鮮な驚きがある。作者も驚いたのではなかろうか。この驚きをいかに句にするかということで、「郷一直線に陰のこす」と付けた。圧縮された言葉選びの中にテンの残像が残る。心理的にも残るし、風景的にも残る。上手い。


14

鑑賞日 2008/9/24
やさしさが時雨れているよ橋の反り
小林一枝 東京

 「やさしさが時雨れている」という抒情的な表現と「橋の反り」という造形的な表現がバランスをとって句の姿を作っている。


15

鑑賞日 2008/9/24
柿盗りの相棒だった焼香する
小堀 葵 群馬

 こいつは俺の柿盗りの相棒だったなあ、という述懐に様々の過ぎ去った年月のことが込められているし、その友が死んだということで自分の齢ということもしみじみ感じている情趣がある。そしてその思いに沈むのを断ち切るように、またこれからの生をしっかりと生きてゆこうという決心のように、またこの友への万感を込めて、「焼香する」のである。


16

鑑賞日 2008/9/25
樹のまわり雪に着地の涛がしら
佐々木義男 福井

 お手上げ。


17

鑑賞日 2008/9/25
年寄を演じきったり獅子頭
柴田和枝 愛知

 お見事、と作者は感心している。「・・やー」と叫びたくなるような瞬間。


18

鑑賞日 2008/9/26
人の日の仮泊のような森の月
下山田禮子 埼玉

 無常というと湿ったような感情が感じられやすいが、仮泊というともう少し乾いたさっぱりした受け取り方になる。この世というところにちょっと仮泊しているだけですよ、という感じである。「人の日」というのは正月七日のことであるが、この句の場合どこか人の世というようなニュアンスも感じられる。「森の月」を「仮泊」のようだと感じている作者もこの世を仮泊だと感じているに違いない。全体に無常ということを視覚的な感覚で表現している感じである。


19

鑑賞日 2008/9/26
人日やこわされる家みてとおる
杉崎ちから 愛知

 偶然に人日の句が続いた。人の世の移り変わりということを、いかにも客観的に突き放して書いている。前の下山田さんの句でも、この杉崎さんの句においても、「人日」という季語の持つ〈人の世〉というようなニュアンスを味わわせてもらった感じがする。それを「人日」といかにもさりげなく言うところが俳句の良さであろう。


20

鑑賞日 2008/9/27
天狗山沖に原潜陸に墓
瀬戸 密 北海道

 人間の歴史の中の人間の尊厳と人間の欲望の対立のような感じである。墓は人間の歴史であり、天狗山は人間の尊厳であり、原潜は人間の欲望である。


21

鑑賞日 2008/9/27
嫁が君鳴かせてわが家すこし窮屈
高橋たねを 香川

 この「嫁が君」はもう殆ど嫁そのものである。いや別に嫁のことを言ったのではない、ネズミのことを言ったのだ、ととぼけるのも俳句の一つの手であり面白みである。


22

鑑賞日 2008/9/28
膝枕処女航海のよう小春
田浪富布 栃木

 膝枕をしてもらっているのは奥さんであろうか。年を取ってから奥さんに膝枕をしてもらっているような雰囲気である。どことなく色気も漂うが、それは小春日のような色気である。


23

鑑賞日 2008/9/28
怠惰続きて七種粥熱しあつし
玉乃井明 愛媛

 今日はリズムという観点から見てみよう。「怠惰続きて七種粥の熱きかな」とでもすれば比較的に定型に納まる。これでもいいのであるが、これだと如何にも客観的に書きましたという風であるし、、何かが欠けてくる。その何かとは生動感である。「七種粥熱しあつし」としたからこそ、粥をふうふう吹きながら食べている様子が伝わってくるし、臨場感も強くなるし、作者の生へ読者も参加している感じが起りやすい。しかしどちらもいい。


24

鑑賞日 2008/9/30
浄土の岬より春眠始まれり
董 振華 中国

 「浄土の岬」は、浄土のような岬、あるいは浄土感が起きてくるような岬、と取った。そのような岬に居て春眠を催してきた、と受け取った。穿った見方をすれば、この作者は疲れていたのかもしれない。浄土というのはバランス感覚の中に存するとも言えるし、バランスを回復する過程で起る感覚であるとも思えるからである。


25

鑑賞日 2008/10/01
履初めの妻のお尻に紙の屑
峠谷清広 埼玉

 庶民的な一つの風景である。さっぱりと健康であり、庶民的な色っぽさもある。


26

鑑賞日 2008/10/01
千空の葬紅葉に雪寂しけり
豊山くに 青森

 「千空」は俳人の成田千空氏のことであるが、千の空というようなイメージも妙に纏わり付いて悲しみが深く増してくる。


27

鑑賞日 2008/10/02
うすい齢重ねるも芸白障子
長谷川育子 新潟

 「うすい齢重ねるも芸」というのは、いかにも東洋的な飄々とした在り方を想像させる。あまり自分を主張するでもなく、まったく自然に身を任せきってしまうというのでもなく、その中間の中庸を心得たような在り方である。まさに「白障子」の在り方に似ている。内界と外界を適当に仕切り、おだやかな白い光を醸し出す。


28

鑑賞日 2008/10/03
雁渡る赤城明けく我ここに
長谷川順子 埼玉

 〈明〉は[さや]とルビ

 一般的で古典的な誰もが感じたことのある風景とその中に居る自分を明瞭に描いている。国定忠治の「赤城の山も今夜を限り、雁が鳴いて南の空に飛んでいかあ」というセリフが隠されているのが既視感を誘うのかも知れない。


29

鑑賞日 2008/10/04
淑気満つ視野狭き目を空に向け
はやし麻由 埼玉

 視野狭窄症というのがあるらしいが、ここでは一般的に、ものの見方が狭いという意味で解釈したい。そういう意味では人間は誰しも視野が狭い。自分は視野が広いと思っている人は錯覚しているに過ぎない。逆に、自分は視野が狭いと思っている人こそ実は、そのことによって視野が広くなる可能性を秘めている。視野が深くなる可能性と言ったほうがいいかもしれない。だからこそ淑気が満ちているのを感じることも出来る。


30

鑑賞日 2008/10/05
橡の花わが影に倦み谷深し
日高 玲 東京

 「わが影に倦み谷深し」という言葉は深い。私達の現象的な存在は影のようなものである。そしてそれに「倦む」という言葉を発するというのは、動物とは異なった人間の本質的な事柄なのではなかろうか。人間存在の深淵というような感じである。そしてそこに橡の木が突っ立って花を咲かせている。人間存在に対比してこの橡の木の存在感も重いものがある。


31

鑑賞日 2008/10/06
取り箸を正面に置く冬景色
廣嶋美恵子 兵庫

 冬の引き締まった空気や、窓から見える冬景色などが感じられる。その食事の席が正式な畏まったような引き締まったような席である雰囲気もある。「取り箸を正面に置く」という動作がそんな雰囲気を感じさせる元である。


32

鑑賞日 2008/10/07
初産に旗ふっている十二月
藤盛和子 秋田

 「旗ふっている」のは「十二月」だというニュアンスが面白い。光に満ちた小春日を思うのである。


33

鑑賞日 2008/10/08
頬杖の蜜寒林にゆきわたる
堀之内長一 埼玉

 頬杖をしながら寒林を眺めているという場面であろうか。「頬杖の蜜」と言っているから、この頬杖は内面が満たされていくような瞑想あるいは黙想のような状態であるように思う。自分の内面が満たされてゆくと自ずからその「蜜」は外界の自然にも及んでゆきわたる。内面の蜜などと言わないで「頬杖の蜜」と言ったこと、またゆきわたる外界が「寒林」であることも上手い。


34

鑑賞日 2008/10/09
鮫すーっと動いてたっぷりの夜かな
宮崎斗士 東京

 たっぷりの夜。たっぷりの時間。たっぷりの量。たっぷりの絵画的空間に誘われる。その空間で鮫がすーっと動く。「鮫」は冬の季語であるらしいが、冬であるということも、この艶のある瞑目的な空間に相応しい。


35

鑑賞日 2008/10/10
口べらしの唄あり筵織り継げり
武藤鉦二 秋田

 「口べらしの唄」とはどういう唄であろうか。例えば〈五木の子守唄〉は口べらしの為に奉公に出された娘の唄である。また俗説としては〈かごめかごめ〉や〈通りゃんせ〉などもその類いの解釈も可能らしいが、あまりよくは知らない。いずれにしろ昔の貧しい民衆の唄の中には必ずそういう唄があったに違いない。筵を織ることを代々継いでゆくような民衆の唄である。また筵を織りながらそういう唄を口ずさんでいたのかも知れない。悲しく、そして哀しい。この句は哀しいながらも生き継いだ民衆のいのちの句である。


36

鑑賞日 2008/10/11
水鳥を数え尽くして寄る辺なし
守屋茂泰 東京

 私達の生の営みは何かを数え続けているようなものである。そしてその過程でその何かを数え尽くしてしまったような感覚に陥ることがある。数え尽くしてしまった、次に何をしたらいいのだろう。そのような空虚な心理状態は誰しも経験することである。しかし多分慌てないほうがいい。その荒涼とした冬景色に見入ればいいのだ。この句では結論は言ってない。ただ「寄る辺なし」と手放しでいるだけである。水鳥を数え尽くしてしまった、あとは荒涼とした冬景色が広がるのみである。この手放し状態を是認する時に、詩人は何かを発見するに違いない。


37

鑑賞日 2008/10/12
冬蜂にそっと音叉を寄せにけり
柳生正名 東京

 動作としてもやってみたくなるような動作であるし、実際に手に音叉があり冬蜂がそこに居たら、私でもやるだろう。日常ではあまりやらないが、しかし如何にもやりそうな動作の発見がある、ということが一つの面白みである。そしてまた、微かに震えるように存在する冬蜂と音叉の関係が詩的に響きあってもいる。


38

鑑賞日 2008/10/14
赤き蕎麦挽きて夢さむ井月忌
山本逸夫 岐阜

 赤蕎麦というのはネパール原産のものらしいが、近年品種改良によって日本でも栽培されるようになったらしい。普通蕎麦は白い花を咲かせるが、この蕎麦は赤い花を咲かせるらしい。この句は二通りに取れる。夢を見ていて赤蕎麦の実を挽いている時にその夢が覚めた。もう一つは、この夢というのが土から離れた夢的な人生観のようなもので、その夢から赤蕎麦を挽いていて覚めたというもの。この二つの夢はどちらもリアリティーから離れているということで同じようなものであるが、それが赤蕎麦を挽くといういかにも土に根差した行為によって目覚めさせられたというのである。そして「井月忌」であるが、井上井月という人はどちらかというと土から離れたいわば夢のような人生を送った人物ではないだろうか。


39

鑑賞日 2008/10/15
冬晴の螺旋階段口語体
渡部陽子 宮城

 冬晴の螺旋階段を上ってゆくときの気分が口語体のようだというのであろう。飾りなく軽やかということか。どちらかというとビルなどの外側に付いている簡素な螺旋階段を連想する。そう言われれば、しっかりとした普通の角張った階段は文語体のようであり、軽やかに曲がりながら上ってゆく螺旋階段は口語体の会話そのもののようである。軽やかに交わされ上り詰めてゆく会話そのものを、冬晴の螺旋階段と形容した雰囲気もある。





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