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金子兜太選海程秀句鑑賞 441号(2008年4月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2008/8/11
刈田かな母は百一われは喜寿
新井娃子 埼玉

 母や百一歳、私は喜寿、二人とも充分生きました、言ってみれば刈田みたいなもんです、というようなことである。刈田のさっぱりした悔いのない感じがそのまま作者の気持ちなのであろう。


2

鑑賞日 2008/8/11
山家とは赤唐辛子の眠りかな
有村王志 大分

 実景としては、山家の軒先などに赤唐辛子が吊るして干してあるというようなものであろう。これを「山家とは赤唐辛子の眠り」とまとめて言い切っているのが面白いし成功している。眠っているように吊るされている赤唐辛子がよほど作者の山家の印象にあるのであろう。


3

鑑賞日 2008/8/12
百翁がわが庭と呼ぶ秋の海
安藤和子 愛媛

 「百翁」というのは固有名詞だろうか、あるいは百人の翁ということだろうか。作者の発想は分からないが、そのあたりはあまり詮索しないほうがいい。その言葉通りに受け取ってこのふくよかで神話的な秋の海を楽しみたい。


4

鑑賞日 2008/8/12
暁は拳石蕗の花咲けり
飯土井志乃 滋賀

 「暁は拳」という言葉に緊迫感がある。作者は朝早くから起きて、何かに立ち向かって行くような仕事をしている人なのか。つやつやとした葉の石蕗の花も咲いている。朝の清々しい張りつめた空気がある。


5

鑑賞日 2008/8/13
山古志の露晴れて牛角突けり
稲葉千尋 三重

 例の山古志村のことである。はじめ「霧晴れて」と読んでいた。実際は「露晴れて」だったのであるが、やはり「露晴れて」がいい。「霧晴れて」は理屈が勝つ感じになる。「露はれて」のほうは坦々と眼前にことを書いているというふうであり、明るい日差しの中での、営々とした人間の営みが描かれている気がするのである。


6

鑑賞日 2008/8/13
凩や転がっている俺の理由
井上俊一 愛知

 戯け。そして“落ち”のあるお笑いの軽快さがある。また人間というもののある一面を描いている。自然の中の人間というものも感じる。


7

鑑賞日 2008/8/14
星の綺羅雪くる前の田に佇てば
岩佐光雄 岐阜

 この「綺羅」は単に星がきらきら光るの「きら」ではないだろうか。そういうことで感じてみたい。雪がくる前の田といえば何もなくかなり荒涼としている。その田に佇ち、作者は自然の中に潜む何かきらきらとしたもの、雪がくる前の空気の微妙な感応を感じているのではないだろうか。星を見て星の綺羅を感じるのは当たり前であるが、雪くる前の田でそういうものを感じるということに俳諧がある。野ではなく田であるというのも生活の中の詩ということで俳諧的である。


8

鑑賞日 2008/8/14
下駄高く放る占い馬肥ゆる
宇川啓子 福島

 占いブームであるらしい。ことに女性というのは占いに弱いらしい。いかがわしい占い商法などもあるから注意した方がいい。「下駄高く放る占い」、昔の占いは情趣があったし、どこかのんびりとして牧歌的である。そもそもこういう占いは遊びの一部であり、こういう占いは健康的でもある。馬肥ゆる。


9

鑑賞日 2008/8/15
寒鯉を連れ去ってゆく建築屋
大口元通 愛知

 「連れ去ってゆく」という言い方の面白さ。連れ去っていって、食ってしまうつもりなのか、大事に飼うつもりなのか。どうしてこういうチャンスがあったのか、いろいろ想像できる。とにかく人を攫ってゆくような表現が面白い。


10

鑑賞日 2008/8/15
嫁が君ほうろく焼の握り飯
奥山津々子 三重

 「ほうろく」とは囲炉裏で使うような大きな底の平らな鋳物の鍋である。現在では殆ど使われていないし、多分を現在でも使っている家は古い農家のような家である。「ほうろく焼の握り飯」というだけで、とても懐かしい時代の雰囲気がする。それに「嫁が君」。懐かしい昔語りを聞いているような句である。


11

鑑賞日 2008/8/16
三日月やわれらぎっしり森抜ける
小野裕三 神奈川

 三日月のさっぱりとした感じと、「われらぎっしり森抜ける」の対比であろう。「われらぎっしり森抜ける」というわれらの状況を、作者はそんなに嫌がっているわけではない。むしろ楽しんでいる風情もある。「三日月」も良い、「われらぎっしり森抜ける」も良いと思っている風情がある。


12

鑑賞日 2008/8/17
詩のように初雪がふる札幌砂漠
親谷道子 北海道

 「札幌砂漠」という背景がこの句の詩情の演出して効果大である。新しい言葉であるからかも知れない。「東京砂漠」は言い古されているし、単なる砂漠ではつまらない。詩は何らかの部分において新しくなければ新鮮に響かない。「札幌砂漠」という言葉の発見がこの句の魅力である。詩は言葉の発見である。


13

鑑賞日 2008/8/17
夫をふと友と思えり冬の鹿
柏原喜久恵 熊本

 「鹿」を歳時記で見てみると次のように出ている。

 シカは晩秋が発情期で、雄は雌を求めて物悲しい声で長鳴きをする。また、雄の間で雌を争い角を合せて戦う。(現代俳句歳時記)

 この意味を知っていると「冬の鹿」という言葉が俄然何やら意味を帯びてくる。


14

鑑賞日 2008/8/18
槍鶏頭ことに前頭葉覚めて
金子斐子 埼玉

 「ことに前頭葉覚めて」と「槍鶏頭」のあの尖った赤の響き合い。


15

鑑賞日 2008/8/18
戦経て地べたに人が立っている
金子ひさし 愛知

 人間の歴史は戦争の歴史でもあるという。何回も何回も戦を繰り返すのが人間。大きな戦もあり小さな戦もある。愚かさの歴史でもある。大地から離れた意識の故の歴史でもある。そして戦が過ぎ去った時にふと人間は自分自身の本来在るべき姿に気づく。すなわち地べたに立つのである。


16

鑑賞日 2008/8/20
落ち葉の家ブンバブンバとやかん鳴く
河原珠美 神奈川

 明るくて軽いリズム感の中にいる作者。落ち葉も降り、やかんも鳴く。ある時間の心地よい日常感。ブンバブンバ・・


17

鑑賞日 2008/8/21
雪雪雪雪雪ねむくなるくすり
北村美都子 新潟

 風土感のある民話風の語り口と内容とも言えるし、いかにも現代人の自然との交感であるとも言える。とにかくこのリズム感がなんとも快い。


18

鑑賞日 2008/8/22
盲いの老犬われは隻眼山眠る
国しげ彦 埼玉

 「盲いの老犬」「われは隻眼」「山眠る」。これらの言葉がある厳かとでも言えるような光をもって響き合っている。


19

鑑賞日 2008/8/23
草雲雀遊びせんとや声澄んで
小長井和子 
神奈川

 『梁塵秘抄』の「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ」を踏まえている。この句から感じるのはやはり童心である。私達はいわば遊ぶために生まれてきたのであるから、やはり常に童心を心の中に持っていたいものである。童心を持っている人はその存在がどこかしら澄んでいる。逆に童心を失ってしまった人はその存在が濁っている。この句を読んでそんなことを思った。


20

鑑賞日 2008/8/23
歳晩や葱の白根と小言妻
小林まさる 群馬

 歳晩・・いそがしい時期である。しかし私も含めて男どもは女達に比較してぐうたらしていることが多いのではないか。妻に小言を言われた経験はおそらく誰にでもある。少しは仕事を手伝いなさいよ、とか言われてしぶしぶお節料理を作るのを手伝ったりすることもある。葱を使ってする歳晩の料理は今思いつかないのであるが、とにかく作者は葱を扱ったのかもしれない。その時に葱の白根が妙に印象的に作者の心に映ったのであろう。心理分析家ではないので上手く表現はできないが、確かに妻に小言をいわれた時の心持ちと葱の白々とした印象は似ている。つまりこの句は物による心理描写の句である。


21

鑑賞日 2008/8/24
猫一語我一毫の御慶かな
佐藤臥牛城 岩手

 虚子の「彼一語我一語秋深みかも」を踏まえて戯けている。一毫はほんの少しの意味であるが、この句の場合、髪の毛が少しだというニュアンスがある。


22

鑑賞日 2008/8/25
昼の虫独りの家は野末に似て
篠田悦子 埼玉

 野末に居るような感じを侘びしがっているのか、あるいは愉しんでいるのか分からない。その両方かもしれない。その両方であるというのが人間に真実であるような気がする。


23

鑑賞日 2008/8/25
土付きの里芋のようおとこあり
柴田美代子 埼玉

 私にしてみればごく当たり前の男像なのであるが、こういう句をあえて書くというのは、こういう男が少なくなってしまった所為かもしれない。見てくれはあまりぱっとしないが、味わってみると何ともいえない旨さがある。粘りもあって香りもある。


24

鑑賞日 2008/8/26
人日や水脈の及べる島を見る
清水喜美子 茨城

 「水脈の及べる島を見る」というのであるから、作者はその島を後にして船の上からその島を見ている状況ということが一番考えられる。また「人日」という人臭い言葉から、その島の人々の暮らしなどが想起される。作者は何か思いでの残る島を後にしているのだろうか。


25

鑑賞日 2008/8/28
米とぐも夢の中なり尉鶲
田口満代子 千葉

 荘子の蝶の夢の話を思い出した。自分が蝶になって花々の間を飛んでいる夢を見た荘子。朝起きてその夢のことを思い出している。しかしここに居る自分は実は蝶が荘子になっている夢を見ているに過ぎないのかもしれない、と思ったという話である。米をといでいる自分がいる。しかしこれは尉鶲が自分になってそういう夢を見ているのかもしれない。そういう雰囲気がこの句にはあるのである。

尉鶲(ジョウビタキ)

http://salpsyacho.seesaa.net/archives/200710-1.htmlより拝借


26

鑑賞日 2008/8/29
海峡に鯨うすむらさき縷縷と
田中亜美 神奈川

 「縷縷(るる)と」という言葉の響きがなんともきれいだ。それにつきる。対象が大きな動物である鯨であるだけに、この「縷縷」という言葉の効果がより大きいのかもしれない。うすむらさきの鯨が縷縷といる。地球愛しい。


27

鑑賞日 2008/8/30
枯菊を焚く生得の浪漫派
田浪富布 栃木

 「枯菊を焚く」ということと「生得の浪漫派」ということは因果関係ではなくて、枯菊を焚きながらそう思っているということである。そうなのであるが読んでいるうちにだんだん「枯菊を焚く」ということが実に浪漫のように思えてくるのは不思議である。


28

鑑賞日 2008/8/31
凍蝶と隣り合せの握り飯
新田富士子 愛媛

 死というものの持つ美しさ、そして生の喜び、その対比であり、また統合である。


29

鑑賞日 2008/9/1
難聴やりんごに蜜が入らない
長谷川育子 新潟

 今まで聞えていた人が難聴になった時のもどかしさや満たされない感じではないか。私は難聴ではないが、白内障が少し進んでおり、ものがぼやけて見えるのであるが、その感じを重ね合わせてみると解るような気がする。「りんごに蜜が入らない」という譬えが上手い。


30

鑑賞日 2008/9/2
芦刈了え強情な霧にぶつかる
浜 芳女 群馬

 現代人の生活には無いような場面であり雰囲気である。屋根を葺くために芦を刈ることも無くなってしまったし、また強情な霧という表現に見るようなアニミズム的な感覚も失われてしまったからである。遠い記憶と感覚が作者によみがえったのかもしれない。


31

鑑賞日 2008/9/3
かなり早起き外湯の桶に枯蟷螂
平山圭子 岐阜

 温泉場に来ているのであろうか。そして朝湯にでも作者は入ろうと思ったのであろうか。早起きして外湯まで行ってみると、そこの桶に枯蟷螂が居たというのである。わずかに起きている気配もある。この思い掛けない遭遇に作者は何かしら嬉しくもあり、そして仲間意識のようなものも起こったのではないだろうか。いのちといのちの小さな交感である。


32

鑑賞日 2008/9/4
哀悼歌銅鑼鳴るような紅葉谷
北條貢二 北海道

 哀悼の感情で人間は歌う。それは無言であるかもしれないが歌えばいい。一つの生命の終焉に対してそうするより他に何ができるというのか。人間ばかりでなく多分紅葉谷も歌っている。存在全体が哀悼の意を現わす。銅鑼が鳴るように。そういうものだ。存在とはそういう厳粛なものだ。


32

鑑賞日 2008/9/4
哀悼歌銅鑼鳴るような紅葉谷
北條貢二 北海道

 哀悼の感情で人間は歌う。それは無言であるかもしれないが歌えばいい。一つの生命の終焉に対してそうするより他に何ができるというのか。人間ばかりでなく多分紅葉谷も歌っている。存在全体が哀悼の意を現わす。銅鑼が鳴るように。そういうものだ。存在とはそういう厳粛なものだ。


33

鑑賞日 2008/9/5
大夕焼け花眼となりしまま沈み
松本照子 熊本

 雰囲気の句である。意味を解析していっても解らない。「花眼」は老眼を意味する言葉であるが、何となく老いというものが美しく祝福されたような言葉である。物事をはっきり見よう見ようとする、あるいは物事の白黒をつけたいとするのが若さであるなら、物事はぼやけたままにそのままで美しいと出来る美しさが老年にはある。そのことを暗示するかのごとき「花眼」という言葉ではある。句全体が、この老年の美しさを表現しているような雰囲気がある。


34

鑑賞日 2008/9/6
ひとりの音母へ母へと柿を剥く
丸木美津子 愛媛

 母へのひたむきな想いの中に居る、という感じである。ご母堂は病気なのだろうか。その母へ持ってゆく柿を剥いているのだろうか。「ひとりの音」というのが、その想いの中に浸っているという雰囲気を醸し出している。


35

鑑賞日 2008/9/7
何でもあって希望がない国草の実飛ぶ
三木冬子 東京

 言っている内容は誰でも言いそうなことであるが、この「草の実飛ぶ」が上手い。「草の実飛ぶ」が、この国の現状に対して、あるいは人間の愚かさということに対して、単なる皮肉ではなくて、深い悲しみを誘ってくる。私などはこの切なさに打ち負かされそうである。


36

鑑賞日 2008/9/8
十二月八日瘤持つ深海魚
三田地白畝 岩手

 日本軍の真珠湾攻撃の日である「十二月八日」と「瘤持つ深海魚」の不気味さの配合である。一見はなばなしく勇ましい開戦という人間達の心理の底にうごめく不気味なる何か、というようなことであろうか。


37

鑑賞日 2008/9/9
俳壇に室咲き多し寝るとする
柳生正名 東京

 「室咲き」は温室の中で咲く花のことである。冬の季語である。句はまことに痛快な俳壇批判である。要するに多くの俳人達は俳壇といういわば温室で、どの花が奇麗かなどと品評会をやっているに過ぎないのである。まあ、他人が遊んでいるのをとやかく言うことはないが、要するにトランプ遊びをしているようなものである。外界の大自然の中でも咲き誇ることの出来る花を咲かせて欲しいという願いもある。しかしそういうことを目くじら立てて言っても疲れるだけである。とにかく皆さん眠りこけているのであるから。自分も寝るとした方がいい。


38

鑑賞日 2008/9/10
あしあともて帰依せむ山や冬谺
柚木紀子 東京

 「あしあともて」は「足跡を以て」という意味であろうか。手を合わせたり、お辞儀をしたり、祈ったりではなく、足で歩いてその足跡を以て帰依しよう、この山に、というようなことであろう。生きることそのものが帰依であるというような態度に感銘を受けると同時に、それをこのような表現で表せるということに感じ入った。「冬谺」が美しく響く。そして実際に歩いている感じもしてくる。


39

鑑賞日 2008/9/13
即興とは現世を隠す時雨かな
渡部陽子 宮城

 時雨には即興感がある。そしてまた時雨には、いままではっきり見えていたものをベールのように隠すような風情があることを、現世を隠すと言ったのではないだろうか。そのような全体を言葉を倒置させて言ったような気がする。





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