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金子兜太選海程秀句鑑賞 440号(2008年2・3月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2008/7/18
袖通す私の中の野分かな
東 祐子 兵庫

 坦々と日常生活を送っているのであるが、心の奥は満たされていない状態。「袖通す」という日常の何気ない所作を表す言葉が効果的である。割烹着に袖を通す、スーツに袖を通す、寝巻に袖を通す、喪服に袖を通す、というように様々なことが連想される。しかししんしんと淋しい。


2

鑑賞日 2008/7/19
矢は熊へ蝦夷国風図絵屏風
石川青狼 北海道

 〈蝦夷国風図絵屏風〉は[えぞのこくふうずえびょうぶ]とルビ

 「蝦夷国風図絵屏風」というのがあって、その中に矢が熊に向って飛んでゆくという絵柄があるのであろう。そのままを五七五で拾い上げただけなのであるが、この屏風を見ながら蝦夷の国のことを偲んでいる作者の気持ちなのである。句を見つめていると、蝦夷の国の有り様が実体として実在として現前してくる。


3

鑑賞日 2008/7/19
梟や安心といいほうといい
市野記余子 埼玉

 梟の声の質から受ける感じである。「安心」といいまた「ほう」と言っている感じが確かにある。そしてその感じを作者が受け止められたのは、作者の気持ちが梟に梟の言っていることに同調したからである。


4

鑑賞日 2008/7/20
栗飯や筑波山下りて膝を折る
一ノ瀬タカ子 
東京

 〈筑波山〉は[つくば]とルビ

 信仰の山である筑波山を下りてきて、豊かな自然の恵みの象徴ともいえる栗飯を膝を折ってい頂いた。だいたいそのような文脈でどうだろうか。「膝を折る」というのは我を折るということに通じるし、我を折った人間でなければ自然の恩寵は味わえない。また信仰登山だとか修行だとかはすべて我を折るためにある。非常に言葉の象徴性が発揮されている句である。


5

鑑賞日 2008/7/21
綿虫や地団駄踏むよう擦れ違う
市原光子 徳島

 地団駄を踏むようにもどかしく擦れ違ってしまった、見逃してしまったということではないだろうか。擦れ違ったものは綿虫であり、綿虫のようにふわふわっとして掴み所のないものである。擦れ違ってしまったことことの結果の気持ちが綿虫のようにふわふわっとして掴み所のないもやもやとした気持ちであるということかもしれない。作者は物事をはっきりとさせておかないと気が済まない気質の持ち主かもしれない。もやもやと解釈が難しい句であり、地団駄を踏むようである。


6

鑑賞日 2008/7/21
柞紅葉陽が射しわっと戦闘的
伊藤 和 東京

 柞紅葉に陽が射した時の賑やかに沸き返る様子を戦闘的と形容したのである。今まで陰っていてあまり色も目立たなかったものが、陽が射して柞紅葉の赤が作者の眼と心に強烈な印象を与えたのであろう。その時に「わっと戦闘的」という言葉がやってきた。そういえば戦闘的な色といえば赤である。


7

鑑賞日 2008/7/22
夢もゆめわたし師走の月の上
太田順子 兵庫

 師走といえば、師も走る忙しい月という意味がある。その忙しい時節に空に出ている月の上にでも上ってのんびりとしたい、ということのような気もするし、実際にそのような夢を見たということかもしれない。しかしそれは夢も夢だと言っている。作者は普段忙しい生活の中にいる方かもしれない。


8

鑑賞日 2008/7/22
白ふくろうは遠火事にきている
大谷 清 埼玉

 どこかとぼけたような味の断定である。禅味といってもいいかもしれない。「白ふくろう? そいつは遠火事にきているよ」というわけである。色彩の美しさもある。


9

鑑賞日 2008/7/23
大法螺ふきの囲む焚火が消えんとす
岡崎文都 東京

 焚火を囲んで何人かが大法螺をふきあうような雑談をしている。その囲んだ焚火がやがて消えようとしている、というのである。カッカッと燃える焚火が大法螺の様子のようである。その焚火が消えようとしているというのは、大法螺の種も尽きたということの喩えのようである。大法螺と焚火の微妙な類似性が面白い。


10

鑑賞日 2008/7/23
十三夜誰かと影踏み遊びせむ
尾田明子 埼玉

 十五夜ではない十三夜、空には名月ではなくて後の月が出ている。その後の月のどちらかというと名月の影のような雰囲気の情趣。誰かと影踏み遊びをしたくなる。十三夜の情趣に繊細に感応した一句である。


11

鑑賞日 2008/7/24
柿にのこる渋は句友のごときもの
金谷和子 埼玉

 面白い喩えであり、なるほどなあと思う。柿は甘くて美味しいが、少し残る渋が舌をしびれるように刺激する。句友というのもそんなものであるということには首肯く人も多いだろう。


12

鑑賞日 2008/7/24
初秋刀魚理路整然と祖父の箸
上林 裕 東京

 昔気質の一つのタイプに属するような人物像が眼に浮かぶ。きっちりとした箸使い。秋刀魚という庶民的な魚であるのがこの祖父像にさらに肉付けしているし、初秋刀魚であるというのも何処かこの祖父の性格に清々しいものが加わる。几帳面な職人気質とでもいえそうな人物像である。


13

鑑賞日 2008/7/25
秋の耕杉菜の深い根を憎み
木村和彦 神奈川

 これは畑仕事をした経験のある人なら内容はすぐに解る。雑草としては杉菜ほど厄介なものはないのである。草掻きしても草取りしても必ずに根っこが残るから完全に退治することはできないで、いつのまにやらまた生えてくるのである。しかしこの句の良さはそういう事実にあるのではない。厳選された言葉運びの上手さから、どこか人間の業そのものをしみじみ書いているような趣がある。


14

鑑賞日 2008/7/26
冬のメロン集中力の範囲なる
黒岡洋子 東京

 そういわれてみればそうだなあと思う。冬のメロンなどというものは集中力の範囲に過ぎないということである。たくさんの資材やエネルギーや労力を集中させて作られる冬のメロン。作者はその事実を提示している。私などは、エネルギーの無駄な集中であると捉えるが、この「範囲」という言葉に作者にも皮肉な批判があるように感じるのであるが、どうだろうか。


15

鑑賞日 2008/7/26
稲穂のように言葉あふれて寝ねがたし
小長井和子 
神奈川

 金子先生の句に「暗い製粉言葉のように鼠湧かせ」というのがあった。「言葉のように鼠湧かせ」と「稲穂のように言葉あふれ」の違いはあるが、どちらも比喩が魅力的である。


16

鑑賞日 2008/7/27
目障りな柿の木も祖十三夜
小堀 葵 群馬

 〈祖〉は[おや]とルビ

 現代の慌ただしい、一見合理的に見える生活。つまり柿の木が目障りに見えるような生活。そういうわれわれ現代人が一昔前の懐かしい、ある意味で本物の人間の営みを覗き込んでいる風情である。柿の木と十三夜の組み合わせが何とも美しく懐かしい。


17

鑑賞日 2008/7/28
清僧は槍鶏頭のよう坐る
酒井郁郎 埼玉

 清僧とは大辞林に〈戒律を厳しく守り、品行の正しい僧。肉食・妻帯をしない僧。〉とある。また槍鶏頭という鶏頭の種類があるようである。下の写真

 この喩えの面白さである。意外でもありまた共通性もある。その内容を云々する必要はない。


18

鑑賞日 2008/7/28
虎落笛わけあるやうに矢継ぎ早
佐藤紀生子 栃木

 外界の事象を何かの兆しとして受け止めるというのは、その人の心理的な要素に左右されるのであろうが、現在のような不安な時代においては、少しの気象や自然の示唆も何かの予兆なのではないかと、感受性のある詩人は感ぜざるを得ない。


19

鑑賞日 2008/7/29
覚めてみる地球月より美しく青
志摩京子 東京

 宇宙飛行士の見る最大のものは地球であるそうである。最大というのはその宇宙飛行士の意識の転換という意味でである。地球は美しい、地球は一つだ、地球には国境などはない、という目覚めがあるというのである。この作者は、月などにわざわざ行かなくても、そのことに気が付いた。美しい地球、青い地球、大事な地球。


20

鑑賞日 2008/7/29
青葉木菟母に逢うので村に居る
鈴木八駛朗 
北海道

 事実関係や状況はいろいろに考えられるが、それを詮索してもしょうがない。「青葉木菟」と「母に逢うので村に居る」という二つの事物があたたかく、また芯の部分で透明感をもって響く。


21

鑑賞日 2008/7/30
釣舟草軽いものから船出する
高桑婦美子 千葉

 「軽いものから船出する」んだなあと作者は思っている。これは喩えであるから、その内容は云々できないが、あらゆる意味で船出とはそういうものであると納得するものがある。この船出という喩えを使ったことと「釣舟草」が響くのである。


22

鑑賞日 2008/7/30
嫁が来て村に小鳥の樹が殖える
瀧 春樹 大分

 村に嫁が来て嬉しいなあ。村が活き活きと華やいで来た。また村に子ども達が殖えるかもしれないなあ。そんな明るい気分で辺りを見回すと、何だか村の樹々に小鳥が殖えているようにさえ感じるなあ、というようなことではないか。とにかく嬉しい気持ちである。


23

鑑賞日 2008/7/31
友情やあさっては雪渓を下りる
峠 素子 埼玉

 山仲間どうしの友情をさらっとこのような形で書いたということに感心している。「あさって」という時間がちょうど良いかもしれない。明日だと慌ただしいし、明明後日だと友情も間延びしてくる。あさってまでの時間、友情を楽しむのにはちょうど良い感じである。


24

鑑賞日 2008/8/1
オフィス街視線ぐしゃりと落ちて冬
峠谷清弘 埼玉

 「ぐしゃり」一発。この即物感。視線というと人間の心理的なものが表れやすいものであるが、それがものが壊れたような「ぐしゃり」であるから、とてもインパクトが強い。季節感とはあまり関係ない人間の有り様が描かれている気がする。「冬」は必要であるが、それは背景程度のものである。


25

鑑賞日 2008/8/1
あれは白ふくろうの声新位牌
殿岡照郎 
ブラジル

 〈弟逝く〉と前書

 白ふくろうの声を実際に聞いたのかどうかは問題ではない。弟が逝って、その新位牌を前にしている作者の心理が、白ふくろうの声を聞いているような心理なのである。そう思う。


26

鑑賞日 2008/8/2
顔寄せていわし雲みる見舞かな
梨本洋子 長野

 顔寄せて「ほら私がわかる。あそこにいわし雲が出ているのが見える。」というような場面が見えてくる。


27

鑑賞日 2008/8/3
クレヨンの蓋あいており返り花
丹生千賀 秋田

 クレヨンの]蓋が開いている状態と返り花が明るく響く。きっとこのクレヨンセットはぎっしりと詰まった状態ではなくて、何本かのクレヨンがあるような状態なのではないかなどと想像が働く。


28

鑑賞日 2008/8/3
水ばかり描く老画家の渇水期
根岸暁子 群馬

 上手いなあ。水ばかり描く老画家というものそれ自体が新鮮であるし、また渇水期という季語が重層的にさまざまな意味を含みうる。


29

鑑賞日 2008/8/4
生真面目や猪は垣根を突破する
平山圭子 岐阜

 滑稽感のある句である。バスターキートンの喜劇のような味である。ときに生真面目なことは笑いを誘う。


30

鑑賞日 2008/8/5
水底に光は沈む冬支度
藤野 武 東京

 「水底に光は沈む」という静かな自然現象と、「冬支度」という人間の営みのどこが響き合うのかというのが問題である。冬支度をしている作者の心持ちが「水底に光は沈む」というような心持ちであったということであろうかと推測する。


31

鑑賞日 2008/8/5
布団干す父母に山の気満たすため
松本勇二 愛媛

 健康な精神。健康な精神は、愛と、日常の仕事を坦々とこなしてゆくことと、自然との交感によって生まれる、とでも言いたいような気持ちになる。


32

鑑賞日 2008/8/6
葡萄剥きも不妊治療も二人かな
マブソン青眼 
長野

 仲の良い夫婦像である。「葡萄剥きも二人」はいかにも若いカップルという感じであり、「不妊治療も二人」は現代的である。そして全体にそういう自分達のことを面白がって眺めている雰囲気もある。


33

鑑賞日 2008/8/6
黄落の階段までを父とゆく
水野真由美 群馬

 ある詩的な私小説の一場面という感じである。詩情があるそして叙情である。


34

鑑賞日 2008/8/7
澱みという字好きなり白さるすべり
三井絹枝 東京

 開き直って肯定しているようにも感じられる。「澱みという字好きなり」と言っている。私などは澱んだような状態になると、それを抜け出そうと焦ってしまうことがあるが、このように澱みが好きだと言ってしまうのも一つの手かもしれない。人はどんな状態にあろうともその状態を先ず肯定したほうが良いのは決まっているからである。肯定から肯定は生まれるのであるからである。私はどちらかというと、夏の日に照り輝く赤いさるすべりの方が印象的なのであるが、白さるすべりだって捨てたものではない。すべていいのだ。この句には生きる態度の大事な秘密が学べるような気がする。


35

鑑賞日 2008/8/8
帽子へこんでぽこんと直る母の秋
宮崎斗士 東京

 ちいさい秋ちいさい秋ちいさい秋見つけた。母の秋。帽子へこんでぽこんと直る母の秋。そういう雰囲気である。


36

鑑賞日 2008/8/8
佐渡ヶ島少女のつまむ赤南蛮
武藤暁美 秋田

 印象的な句である。作者は秋田の人であるから、佐渡へ旅行した時の句であろうか。不思議な印象もあり、また懐かしい印象もある。素朴な印象もあり、また現代的な印象もある。快活で茶目っ気のある少女の印象もあり、またおっとりとした少女の印象もある。これらの印象のベースとして佐渡ヶ島が横たわる。


37

鑑賞日 2008/8/9
夕焼けに突き刺さる月誕生日
森田高司 三重

 「夕焼けに突き刺さる月」、鋭利な表現である。鋭利ではあるが、痛々しくはない。むしろ鮮明な美しさがある。そしてそれが「誕生日」であるという。この鮮明で強い美しさの景色を自分の誕生日の一つの〈しるし〉として受け止めておきたい気持ちがあったのではないだろうか。


38

鑑賞日 2008/8/9
不安がすぅーと消えたよ明るいつわの花
山岡敬典 岡山

 全体の柔らかい口調が、内容にもぴったりしていて、雰囲気を作っている。「すぅーと」という擬態語がこの句の眼目ではないだろうか。「すぅーっと」ではなくて「すぅーと」というのが力が抜けていく感じ、緊張が解れてゆく感じが、直に伝わってくる。また単に「つわの花」ではなく「明るいつわの花」としてのは、その時の実感を重んじた結果である。


39

鑑賞日 2008/8/10
月の照る峠なるらむ汝ならば
柚木紀子 東京

 〈汝〉は[なれ]とルビ

 月の照る峠であってほしい。月の照る峠であるに違いない。あなたなのだから。そういう祈りと慈しみと力付けをもって、祝福して送り出している。他者の自立を助ける、本当の意味での、優しさを感じる。





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