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金子兜太選海程秀句鑑賞 439号(2008年1月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2008/6/24
旅に病むアドリア海より這い上がる
阿久沢達子 群馬

 受け取りが難しい句である。「旅に病み」でも「旅に病んで」でもなく「旅に病む」であるから、「旅に病む」と「アドリア海より這い上がる」は並列されている。「旅に病む」気分は「アドリア海より這い上がる」ような気分であると私は取った。


2

鑑賞日 2008/6/24
曼珠沙華いまいましきは加齢かな
阿部一葉 宮崎

 「いまいましきは加齢かな」といういかにも庶民的な率直な口調。すなわち人間臭い、どちらかといえば中年の男臭い口調。さらにいえば、煙草臭い男の言い草のような口調。その口調と曼珠沙華の対比が面白い。


3

鑑賞日 2008/6/25
蝉しぐれ孫よ「ヒロシマ」学びしか
井川淑美 愛媛

 蝉時雨の頃にはどうしても終戦やヒロシマやナガサキを思いだす。あってはならない事であったが、起ってしまったことである。せめて人類はあの事実を、あの愚かさを忘れないでいて欲しいものである。そういう思いなのであろう。


4

鑑賞日 2008/6/25
玄海は無頼な匂ひ鳥渡る
伊佐利子 福岡

 玄海とは玄界灘のことである。これを混同して玄海灘とも書く。実は私は行ったことがない。行ったことがないけれど、「無頼な匂ひ」という表現でその雰囲気を味わうことができる。特に鳥が渡る頃の、晩秋だろうか、玄界灘の雰囲気を味わう。「無頼漢」などという言葉もあり、どこかそういう男の雰囲気をこの玄界灘は持っている。また「渡り鳥」「渡世人」などという男の表現もあるが、そういう擬人的な要素も感じてしまう。女性作家の感性かもしれない。


5

鑑賞日 2008/6/26
猫じゃらしそのまま話す野のことば
伊地知建一 茨城

 微風に揺れている猫じゃらしが見えてくるようだ。「そのまま話す野のことば」、まさにそういう感じである。


6

鑑賞日 2008/6/26
鳥渡るこの遠浅の深夜感覚
伊藤淳子 東京

 有常感という言葉があるとしたらそれである。鳥が渡って行く。時は流れるという。私は遠浅の深夜に居るような感じである。遠浅の深夜といっても、それは嫌な感覚ではない。瞑想あるいは黙想がずっと続くような、浸っているような、そんな感覚と言えるかもしれない。別に苛立ちも焦りももどかしさもない。ただもっともっと深い場所が、あるいは意識があるかもしれないとはうすうす感じてはいる。


7

鑑賞日 2008/6/27
わが消す灯亡母が灯して秋がくる
稲田豊子 福井

 亡き母であるから、この灯は象徴的なものと捉えたほうが解りやすい。死んだ母との交感が続いている作者の日常である。


8

鑑賞日 2008/6/27
溝蕎麦や尼僧がひょいと跨ぐなり
岩佐光男 岐阜

 溝蕎麦はピンクの小さな花を沢山つける野の花である。注意して見なければ気が付かないほど派手なところは全くない素朴な感じの花である。そういう溝蕎麦の雰囲気がこの尼僧を形容している気がする。庶民的で気取りがない。また「ひょいと跨ぐ」ということから、若々しいエネルギーも感じる。好感の持てる尼僧像である。


9

鑑賞日 2008/6/28
赤とんぼ肩にくるくる神の声
岩間愛子 茨城

 神というものは、何処かしら遠くに、天のあたりに、偉そうに居るものではない。本来、この句のように親しく身近に居るものである。それを感じたというのが素晴らしい。


10

鑑賞日 2008/6/28
描ききれず征く夕灼けを妻に母に
植田郁一 東京

 〈無言館〉と前書き

 「夕焼け」ではなく「夕灼け」であるのが印象的である。強く思いが後に残る、という感じがする。無言館というのは上田市にある戦没画家の絵を集めた美術館である。まさにこういう絵の前では、こういう句の前では無言で佇むしかない。「夕灼け」が悲しく無念である。


11

鑑賞日 2008/6/29
秋の海我は泳げぬ能登女
小木ひろ子 東京

 これは秋以外の海では駄目で「秋の海」がぴったりしている。自分の生い立ちや来し方をしみじみと感じているということに「秋の海」が相応しい。「泳げぬ」という言葉に実際に泳げないという意味もあるが、世渡りが下手だというニュアンスも感じてしまう。


12

鑑賞日 2008/6/29
先導の蟻小ざかしき髭を振り
小暮洗葦 新潟

 これはもうずばり寓意の句である。・・大統領や・・首相を思いだしてしまう。愚かなるリーダーということである。蟻のこの句のようなしぐさを見た時に、作者が日頃感じていることとぴったり符合したのだ。


13

鑑賞日 2008/6/30
最澄の膝に飛び込むかなぶんぶん
加藤青女 埼玉

 正確には鑑賞できないかもしれない。最澄を知らないからである。しかし高僧だということと、名前から受ける印象からだけでも鑑賞できないことはない。最も澄んだ高僧、そういう人物の膝にかなぶんぶんが飛び込んだというのである。静と動の対比がある。また悟り然とすることと、そういうことからはみ出してしまうエネルギーの面白さがある。「膝に飛び込む」というのも二種類の寓意が潜んでいる可能性がある。帰依ということと性的なものである。


14

鑑賞日 2008/6/30
措いて来しわたくしの声遠き鹿
北村美都子 新潟

 「奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき(猿丸大夫)」というのが百人一首にある。実際に鹿の声を聞いたことがないので調べてみたら、奈良県の公式ホームページの奈良の音風景というページ(http://www.pref.nara.jp/dd_aspx_menuid-1357.htm)に鹿の声があったのでお借りしてきた。

 この句はその遠い鹿の声が措いてきたわたしの声だ、というのである。何か切ないものがひしひしとある。ある過去の一点に自分の叫びのようなものを措いてきてしまった。実際に鹿の声を聞いた時にそのような感じが起ったのだろうか。そのような感じがした、という程度にしておかなければ、このような切ない気持ちで生きてゆくことはできない。魂が揺さぶられるような句である。


15

鑑賞日 2008/7/1
草の露買いかぶられて痛みいる
三枝正二 埼玉

 「草の露」と「買いかぶられて痛みいる」が微妙に微細に響く。


16

鑑賞日 2008/7/1
無月かな我に家族という羽音
佐孝石画 福井

 家族のメンバーがそれぞれ自分の仕事をしていて、互いに束縛をあまりしない家族、家族はいわゆる空気のような存在としてある。そういう家族像に思える。そして無月の時などにはその空気のように存在している家族が微かに羽音のように感じられる。落ち着いた、ある意味成熟した家族像ではないか。


17

鑑賞日 2008/7/2
旅泊り遠浅のよう月の町
下山田禮子 埼玉

 その町全体ずーっとが見張らせるような小高い所に旅泊りしたという感じである。ちょうど月が出ていてそれぞれの家や通りなどが月光に照らされている。月の光はあまねく町の隅々までゆき渡っている。どこか石造りの家並みのような異国情緒がある。そしてそういう景色や旅の雰囲気に浸っている作者の気持ち良い意識の広がり。


18

鑑賞日 2008/7/2
小鳥来る好きな木に来て薄瞼
白川温子 東京

 「好きな木」というのは小鳥が好きな木でもあり、作者が好きな木でもある。「薄瞼」をしているのは小鳥でもあり、また作者でもある。作者にしてみれば、小鳥が自分の好きな木に来てくれた、ほれぼれと嬉しいなあ、ということであり。小鳥にしてみれば、自分のお気に入りの木に来れて嬉しいなあ、ということである。「薄瞼」は陶酔の仕草。


19

鑑賞日 2008/7/3
雑学や奥歯に残る鱧の骨
菅原和子 東京

 鱧は小骨の多いウナギに似た魚であり、蒲焼きや吸い物にして食べる。まあ雑学というものは小骨の多い鱧を食べるようなものである。その鱧の骨が奥歯に挟まって残ってしまった、と作者は戯けているのである。


20

鑑賞日 2008/7/3
曼珠沙華袂の振れぬ紙人形
瀬古多永 三重

 紙人形の鮮やかな色彩とその質感。そして可愛らしく、またどことなく儚い感じ。「曼珠沙華」という連想と、「袂を振れぬ」という活写が、この紙人形を上手く描いているし、またこの紙人形と同じような在り方のものに対する心情もあるのではないかと思える程美しい。


21

鑑賞日 2008/7/4
猫の額だなと黒揚羽一巡す
田村勝美 新潟

 猫の額ほどの狭い庭、あるいは狭い農地。そこを黒揚羽が「猫の額」だなと言いながら一巡したというのである。とにもかくにもユーモラスである。同じ蝶でも、黒揚羽というどちらかというと豪華な感じの蝶であるのがいい。


22

鑑賞日 2008/7/4
人と寝てわが影濃ゆし秋祭
土屋寛子 神奈川

 一般的にいって、女性は他者との関係において自己を確認する。親との関係、夫との関係、子との関係、友人との関係、様々である。女性というよりも女性性がそうだといったほうが良いかもしれない。これは知と愛と傾向を分けるとしたら、愛の質の特徴なのである。その究極は神との関係ということになる。この句はそういう事実を雰囲気豊かに実感として描いている。秋祭という神事が相応しい。


23

鑑賞日 2008/7/5
難聴に差別に耐えて新酒かな
峠谷清広 埼玉

 「新酒」がとても効いている。実際の新酒の香がしてくるし、その旨味も伝わってくるし、またこれは心理的な意味でも新酒である。


24

鑑賞日 2008/7/5
童女いてかなかなの神様の隣り
遠山郁好 東京

 童女がいる。かなかなが鳴いている。そういう景色全体を慈しんでいる。「かなかなの神様の隣り」としか言いようがないのである。愛を通して神を感じる。慈しみを通して神を感じる。愛そのものが神の現われであり、慈しみそのものが神の現われであるともいえる。愛や慈しみを感じる時、存在はすべて神である。


25

鑑賞日 2008/7/6
無言館もう一度あなたの瞳みつめる
梨本洋子 長野

 「無言館」というこの美術館の名前そのものも雰囲気を作っている。無言の雰囲気。無言で見つめる雰囲気。陰影の深い雰囲気。濃密な時間の雰囲気。


26

鑑賞日 2008/7/6
バックミラーの狐火こぞって右折かな
平塚幸子 神奈川

 具体的には夜の自動車道路での景色であろう。バックミラーに映る自動車の列の灯を狐火であると感じたのではないか。そして鑑賞を進めれば、これら数多の自動車の灯は狐火のようなものではないだろうか。二十一世紀初頭の狐火である。それがこぞって右折(左ではなく)してゆくというのもある意味を感じる。人間そのものがだんだん狐火じみてくる。


27

鑑賞日 2008/7/7
栃の花愚かな電波地に充つる
藤井清久 東京

 栃の花の姿態と「愚かな電波地に充つる」の微妙な響きあいが確かにある。


28

鑑賞日 2008/7/8
霧湧きぬ地粉をこねるときにかな
藤野 武 東京

 戸隠かどこかで、手打ちの蕎麦屋が地粉をこねはじめた時に霧が湧いてきたというような場面が想像される。自然とともにある生活の中で身近で採れた食材を利用する生活。自然と共生する人間の営みの滋味が感じられる句である。逆にどうしても、人間の欲望が肥大した結果にやってくる食料危機などの状況を考えてしまう。


29

鑑賞日 2008/7/8
山岳や鴉の芯のおぼろなり
北條貢司 北海道

 都会に居る鴉は目立つし、どうしてもあいつらにはどこか芯があるような感じがあるのであるが、山岳地帯ともなると彼らの存在もまわりの風景に溶け込んでいるようでおぼろである。そういうような感覚ではないだろうか。


30

鑑賞日 2008/7/10
晩夏かな自転車を漕ぐわれは海鳴り
堀真知子 愛知

 いいなあと思う。好みの句である。青春性がある。生きてあるという感じがある。何かしら運命的な出来事が起る予感のようなものがある。晩夏という季節がまたいい。


31

鑑賞日 2008/7/10
虫の音の裏が無音の宇宙かな
マブソン青眼 
長野

 芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」でもそうであるが、人間はある瞑想的な音の向こう側に永遠の静かさや無音を感じることがある。芭蕉の場合は蝉の声であったが、この句の場合は虫の音である。芭蕉の場合は「閑かさ」と「蝉の声」を対比させてその永遠性に引き込まれる感じを起させるのであるが。この句の場合はそのことを直接的に書いている。芭蕉の句が聴覚的なのに対して、この句は視覚的である。


32

鑑賞日 2008/7/11
林檎剥く始めよければ終りよし
丸木美津子 愛媛

 「始めよければ終りよし」という一般的な事柄と、林檎の皮を剥くという具体的な事柄との響きあいである。林檎の皮を剥きながら「始めよければ終りよし」と言えるような上手くいった出来事のことを考えているのかもしれない。多分、林檎の皮をきれいに最後まで剥くのに、始めよければ終りよし、つまりきれいに最後までつながった林檎の皮を想像するのは、付きすぎの解釈だろう。


33

鑑賞日 2008/7/11
ブラジルで作句覚へてふらここに
石田春雪 
ブラジル

 ブラジル生活のわたしだが、作句を覚えてよかったなあ、ふらここなどという洒落た言葉も覚えたし、そんなことを考えながらふらここに乗っている、風に吹かれながらふらここで揺られているのは気持ちいいなあ、ふらここふらここ、ふら、ここに俳人わたしがいる。


34

鑑賞日 2008/7/14
落蝉や行者の脛は刃のやうに
柳生正名 東京

 千日回峰という行をするような行者が思い浮かぶ。その脛が刃のようであるとともに、その精神もきっと異常に研ぎ澄まされていることだろう。私などはこの行者という在り方に少々不自然なものを感じるのであるが、そのことと「落蝉」の関係はよく解らない。全体に死のイメージがあることは確かである。


35

鑑賞日 2008/7/14
現代や峠より見し晩稲あかり
矢野千佳子 
神奈川

 所々に残っている晩稲に陽があたって光っている。その光が峠から見えたというのである。既視感もあるかなり印象的な風景である。それが「現代」とどういう関係があるかということであるが、「見し」と過去形にしていることなどから、作者は大きな時の流れのアルバムというようなものを考えていたのではないだろうか。そのアルバムの中の「現代」の項目の中に「峠より見し晩稲あかり」という一枚があった、という感じである。


36

鑑賞日 2008/7/15
口閉じよ花葛は帆の傾れよう
矢野千代子 兵庫

 〈傾〉は[なだ]とルビ

 難しい句である。イメージがなかなか結ばれてこないのである。イメージが結ばれる前の心理的なエネルギーの威勢のようなものは感じる。「花葛は帆の傾れよう」というのが落ち着かない自分の心理状態を表現しているのではなかろうか。そういう心理状態にあるから、とにかく黙っていてくれ、と言っているようである。しかし解らないというのが正直なところである。


37

鑑賞日 2008/7/15
泥の音ちかづく顕るる蓮根堀
柚木紀子 東京

 〈顕〉は[あ]とルビ

 歩いていくと泥の音がだんだんとしてくる、何だろうと思っているとそれは蓮根堀だったというのである。蓮根を掘る泥の音がそんなに大きなものとも思えないし、何かの音がするがそれが泥の音だということも見ないうちから解らないのではなかろうか。つまり「泥の音ちかづく」というのは何かそのような気配を感じたのではないだろうか。この句全体にどこか泥の持つ気配のようなものがある。


38

鑑賞日 2008/7/16
麻痺の脛に蟻ら吟行のごときかな
輿儀つとむ 沖縄

 どのような状況で脛が麻痺しているのかわからないが、辛い状況なのかもしれない。しかしそれを眺めているときに蟻達が這い上がってきた。はは、まるで吟行のようである。それらのことを見つめている客観的な目がある。自分のことはさておいた、瞑想的な目といってもいい。





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