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金子兜太選海程秀句鑑賞 437号(2007年11月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2008/4/30
文字持たぬ民のありけり青葉木菟
浅生圭祐子 愛知

 文字持たぬ民――何かまだ純粋で野性で心魅かれるものがある民――しかし彼らは少数で目立たない。夜陰にまぎれて森に棲む青葉木菟族のようである。


2

鑑賞日 2008/5/1
逆上の気分充満羽抜鶏
池長露声 北海道

 作者自身の気分を客観的に眺めている感じである。それを羽抜鶏に譬えて戯けている。自分の心の状態を客観的に眺めることができれば、怒りなどの感情に振り回されることはない、しかもそれを戯けにまで高めることができれば尚更である。俳句をやっていることの一つの功徳ではある。


3

鑑賞日 2008/5/2
この水の広がりも旅山ほととぎす
伊藤淳子 東京

 大きな句柄である。はじめ「山ほととぎす」ということが「ほととぎす」でいいのではないかなどと引っ掛かったが、句全体を離して眺めてみると、そうではなくこの「山」が有るからこそ句がとても雄大に大きく見えることが解る。山も水も広がっているような大きな風景が見えるのである。そしてそれは旅だという。とても大きないい句である。


4

鑑賞日 2008/5/3
立ちて消える虹の両極征きし逝きし
植田郁一 東京

 死んでしまった親しい人を想い浮かべるとき、その人の存在の美しい面だけが想いだされる。ましてやその死が理不尽な運命でやってきたときなどは尚更惜しい、残念だと思わざるを得ない。しかしそういう人を思い出す機会もだんだんと少なくなってゆく。たまに思い出すことがあると、その人の思い出はもう空に掛かる虹のように美しい。そしてまただんだんと記憶から消えてゆく。


5

鑑賞日 2008/5/5
端居してのっと月日が傾いて
上原祥子 山口

 「端居」というのは納涼などで縁側などの端に座っているような状態を言うのである。一応そういう季題の意味を踏まえていながらも、この句の場合もっと大きな想念も加味されているような気がする。つまり、世の中の端っこに自分は位置を占めて、というような意味である。そして随分と月日(年月)がたってしまったものだ、というような感慨である。「のっと」がいい。


6

鑑賞日 2008/5/7
畦道は父の二の腕大西日
植村金次郎 三重

 農に打ち込んで生を送った父にとって田畑はもう父の肉体のようなものだ、と言っている。この田畑、この風土への親愛の情。大西日の中で作者はその親愛感を噛みしめている。


7

鑑賞日 2008/5/9
トルコ桔梗踵返すも選択なり
宇田蓋男 宮崎

 言っていることとトルコ桔梗がどう響くのか感じようとしてみた。明るく洒落ていて垢抜けたトルコ桔梗の花。本人にしてみれば格好が悪いが、客観的にみれば、踵を返すという選択は、このようなトルコ桔梗の雰囲気を持っているとも言える。


8

鑑賞日 2008/5/10
燕来て我が家我が家と喋りけり
内野 修 埼玉

 楽しい句である。毎年家の軒先にでもやって来るのだろう。今年もやって来た。それが作者は嬉しい。燕も嬉しい。作者と燕との気持ちの一致感。軒先でぺちゃぺちゃとしゃべくる燕の姿がとてもよく見える。


9

鑑賞日 2008/5/13
不惑とは暗号めきて花は葉に
宇野律子 神奈川

 不惑という言葉は孔子の〈四十にして惑わず〉という言葉から来て四十歳のことをそういうのだそうである。孔子という人物はどうも眉唾ものである。人生をあるいは人間を型に嵌めよう嵌めようとしている。人生に型などない。まあ型は有ったとしてもいいが、それを破ることに醍醐味があるともいえる。俳句でいえば、孔子というのは虚子みたいなものかもしれない。偉そうな一つの権威を作り上げて、そこに納まった。
 「不惑とは暗号めきて」、不惑とはまさに暗号めいた言葉である。「花は葉に」、この生命力この生そのもののエネルギーは不惑などという言葉には関係なくダイナミックなものである。


10

鑑賞日 2008/5/14
庭に真白き蝶きてヒラヒラ語り
戎 武子 岡山

 「ヒラヒラ語り」が眼目である。また紋白蝶などといわないで「真白き蝶」とあたかもその蝶の名を知らないもののように言ったのも効果がある。まだ言葉というものに汚されていない無垢な意識の状態を感じるからである。私達は言葉で詩や俳句を書くが、実は上っ面の言葉を剥いだ、何と言ったらいいだろうか、裸の意識とでもいうか、そういうものを書くことが一つの目的である、と気付かされるような句である。魅力がある。


11

鑑賞日 2008/5/14
絵日記の川蜻蛉淡くつるみけり
大西健司 三重

 子どもさんの絵日記なのであろうか。随分と美しい絵である。子どもは本来天才である。教育や社会あるいは自意識によってその天才を一度失ってしまう。そしてその天才を再び獲得することが一生の仕事となる。再獲得されたものは強い。本来持っている天才は淡く毀れやすい。それ故にまた美しい。この句のように。


12

鑑賞日 2008/5/15
万緑や宇宙にひとつ被爆星
岡崎万寿 東京

 広大な宇宙に一つだけ浮かんだ緑の地球。大事なもの。かけがえのないもの。そういう思いが伝わってくる。「万緑」と「被爆星」の対比が、このかけがえのないたった一つのものへの思いを強めている。


13

鑑賞日 2008/5/15
ナナホシテントウ旅の赤んぼ甘酸っぱい
加古和子 東京

 どこで切って読むかである。「ナナホシテントウ/旅の赤んぼ甘酸っぱい」か「ナナホシテントウ旅の赤んぼ/甘酸っぱい」か。私は後者のほうが解りやすい。ナナホシテントウも旅の赤んぼも甘酸っぱい、という意味あるいは、ナナホシテントウは旅の赤んぼでそして甘酸っぱい、という意味。メルヘンのような、甘酸っぱい童話のような雰囲気。


14

鑑賞日 2008/5/16
闘牛の地ひびき哀しわれは過客
金子斐子 埼玉

 旅人の哀愁。旅をしていて、その土地に根付いた様々な風物を眼にしたときなど、自分の根無し草的な在り方が感じられて哀しくなる。哀愁とは全く無縁なような闘牛の地ひびきの中であるからこそ、更にその対照が際立つ。


15

鑑賞日 2008/5/16
田水沸くたてよこたかさあるごとく
金子ひさし 愛知

 「たてよこたかさあるごとく」、つまり作者は陽に熱せられた田水の量感を感じているのだ。


16

鑑賞日 2008/5/17
青葉木菟人を見ている真面目貌
北村美都子 新潟

 作者も真面目貌で青葉木菟を見ている。そういう感じがする。真面目貌で人を見ている青葉木菟を真面目貌で見ている時間。そういう時間を感じる。やがてその時間の中には青葉木菟と自分しかいない。そして最終的には青葉木菟の存在だけがある。


17

鑑賞日 2008/5/17
牡蠣殻の冷える家とも岸辺とも
黒岡洋子 東京

 日常生活の中でふと感じる漂泊感。冷えてしまった牡蠣殻を前にして作者はそういう漂うような心理状態に居るのではないか。冷える牡蠣殻と自分との微妙な共通性を感じているのではないか。


18

鑑賞日 2008/5/18
蛞蝓尊がみそぎし泉あり
岡田誓炎 埼玉

 尊(みこと)は日本書紀の時代において神や貴人に対する尊称である。蛞蝓は多分人間の歴史よりももっと古い時代から現在まで存在している小さくて取るに足らない、人間にとっては嫌がられるようなぬめっとした小動物である。尊がみそぎをした泉に蛞蝓がいるというこの俳諧性が面白い。俳諧性とは一元的なものの見方が底流にあるということである。


19

鑑賞日 2008/5/18
梅雨荒れを喝采といふ病臥かな
高橋 喬 新潟

 自分が病気で伏せっているのに外界では自然や人が健康に活動している、という状態はそのギャップにさらにあせりや苦しさが募るということがある。却って外界の自然が荒れ狂っていたほうが気が楽であるという心理状態なのではなかろうか。〈内側と外側の一致の法則〉というものがあると聞く。


20

鑑賞日 2008/5/19
杼の音すこし青柿の玉に籠れる
高橋たねを 香川

 〈悼・中北綾子〉と前書き。〈杼の音〉は[ひのね]とルビ

 「杼」というのは織物で縦糸に横糸を通してゆくときに使う道具である。中北さんという人が織物をなさる方であったのだろうか。あるいはその人の雰囲気が「杼の音」のようであったのだろうか。とにかく「杼の音」が中北さんという人の生きていたときの波動のようなものを表現しているに違いない。その波動が今、青柿の玉にすこし籠っているように感じられるというのであろう。まだ熟していない青柿であるというのも何か死者のことに関連があるかもしれないが、そこまでは私には解らない。詩人の微妙な感受性である。


21

鑑賞日 2008/5/20
耳底は砂丘なりしよ南吹く
田口満代子 千葉

 軽い漂泊感。それも快い種類の漂泊感である。どこか自分の本性を想いだしているという雰囲気もある。かつて流浪していた頃の想い出が心を浸している、という感じである。いやそれは人間の本性なのだ。流浪するというのは。そしてこの作家の場合、そのことが快い魂の記憶としてあるのだ。


22

鑑賞日 2008/5/20
射程距離に馬のまぐわい四月馬鹿
殿岡照郎 
ブラジル

 「射程距離」という言い方をしていることから、私は狩猟民族であったころの感じと受け取れた。馬を狩猟することがあったろうか。もしあったとすればまぐわっている馬が射程距離に居るというのはもっけの幸いである。実際にまぐわっている馬を見ての幻想のような気もする。そしてその幻想を「四月馬鹿」で落している。


23

鑑賞日 2008/5/21
家よりも芭蕉大なる夜涼かな
中島偉夫 宮崎

 家よりも芭蕉の葉影が大きく見える位置に居る。夜涼であるから、その芭蕉の葉影が風にそよそよと揺れているような風情がある。気持ちのいい時間である。また「家よりも芭蕉大なる」と敢て言っていることから、ちまちまと限定された人間の日常から自然とともにあることへ解放された心持ちが感じられる。


24

鑑賞日 2008/5/22
くちなしやあらゆる雨の浅葱色
中田里美 東京

 くちなしの白い花が咲いている。雨が降っている。その雨が浅葱色に見えるのである。「あらゆる雨の浅葱色」という断定が面白い。そう断定することによってこの景色が単なる景色ではなく、絵画的な一つの完結した空間を作りだしている。


25

鑑賞日 2008/5/23
眠くなれば見えぬ目も閉ず浜昼顔
中原 梓 埼玉

 快い倦怠感というか、快い諦めというか、もう任せてしまっている境地というか、言っていることとは逆に妙に底明るいものがある。言ってみれば、そう「浜昼顔」の境地なのである。


26

鑑賞日 2008/5/24
雷あびて金剛力の蟻となる
野崎憲子 香川

 雷だとか金剛力だとか、大きな力が小さな小さな蟻に宿ったという対照の面白さ。ぴかぴかと黒光りした蟻の姿が目に浮かぶ。


27

鑑賞日 2008/5/24
橡の花鼻毛吹き出す神楽面
日高 玲 東京

 神楽面から鼻毛が出ているのであるが、その発見の時に感じた面白さと、橡の花の連想。これは橡の花を知ればすぐ納得する。

 http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/toti.htmlより


28

鑑賞日 2008/5/25
甲虫飛び立つ引力の油断
平塚波星 秋田

 以外な落ちにはっとするという仕掛けの句である。そして事実はそうかもしれないなどとさえ思う。この科学的見方が万能の時代に、このような自由な見方ができるというのも愉快なことである。


29

鑑賞日 2008/5/25
さみだれをあつめし日常ささにごる
藤野 武 東京

 この頃は五月雨がよく降るなあ、川が少し濁るように、私の日常も少し濁っているような気がするなあ、というようなことであろう。軽い日常の実感である。芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」の大ぶりを踏まえて、あるいはいなして軽く軽く日常感を出しているのが面白い。平仮名書きもそういう軽い意識であろう。


30

鑑賞日 2008/5/26
狐出てまぶしき青葉しぐれかな
前田典子 三重

 狐が出て嬉しいのだ。動物に出会うと今までの人間世界の日常とはまた違った世界が見えてくる。新鮮な目をその時獲得する。青葉しぐれがまぶしい。狐が出る拍子に青葉しぐれがざわざわっと降ったのかもしれない。狐の目にも人間との遭遇、青葉しぐれがまぶしく映ったのかもしれない。


31

鑑賞日 2008/5/26
三月のこどもひとりで歯をみがく
水野真由美 群馬

 三月というと自然の生命感が生動してくる、あるいは自然の光がだんだんと満ち満ちてくる、なんだかとても心嬉しい季節である。そんな三月の光の中で、こどもがひとりで歯をみがいているというのである。キラリとその歯が光るような印象がある。


32

鑑賞日 2008/5/29
球を描くような旅ですあめんぼう
宮崎斗士 東京

 あめんぼうが主人公であるような、詩的な童話の世界。それはミクロコスモスと言えるような一つの完結した世界でもある。作者の詩的イマジネーションから生れた世界である。


33

鑑賞日 2008/5/29
喪のいろの蕨煮ているまた戦争
武藤暁美 秋田

 「喪のいろの蕨煮ている」という表現がとても上手い。上手いとしか言いようがない。作者の心理を表現して、戦争というものの本質を表現して上手いのである。こういう表現はどこから生れるのであろうか。実際に蕨を煮ていたのであろう。その時に作者の深層心理の中で「戦争」という言葉と「喪のいろの蕨」という言葉が結びつくように突然やってきたのかもしれない。


34

鑑賞日 2008/5/30
時計草行きつ戻りつして一日
村上友子 東京

 “時“というのは不思議なものである。“時”は進むものなのだろうか。確かに時計における時は進んで行くように見える。この時計の時の進みとともに万物は流転していくように見える。人間は一日を一年を十年を生き、年老いて死んでゆく。しかし“時”は進んで行くものなのだろうか。“時”というものは進まない、“時”というものは永遠の現在のことである、と感じたことはないだろうか。「時計草」とは時計に似た花を咲かせる植物であるが、時計草においてはその針は動かない。あたかもこの“永遠の現在”を象徴しているようでもある。


35

鑑賞日 2008/5/30
ポテンヒット螢の宿にほたるかな
村田ミナミ 
神奈川

 ポッと灯った、という印象がある。もっと言えば、心の中にポッと灯ったという印象である。それが第一印象であるが、その心理的なメカニズムを敢て掘り下げてみても面白いかもしれない。ポテンヒットを見ているときの感覚は、特に応援しているチームの場合には、ああヒットになるかなどうかな、ヒットになれなれと願っている、そしてポテンとヒットになるとほっとして嬉しいのであるが、「螢の宿」と言われるような宿に宿泊する時も、「螢の宿」と銘打っているが螢が果しているのかなどうなのかな、多分いないのじゃないかな、などと思っている時に、螢がいた、というのはこのポテンヒットということに心理的にとても似ているのではないだろうか。心に灯が点ったという感じである。


36

鑑賞日 2008/5/31
蝦夷鹿は託かりもの霧の巻く
矢野千代子 兵庫

 〈託〉は[ことづ]とルビ

 山であろうか、霧が巻いている、そこに蝦夷鹿を見た。蝦夷鹿は託かりものだと感じた。仙境の雰囲気、また神話的な雰囲気である。


37

鑑賞日 2008/5/31
僧形やころんと枇杷の種を吐き
山田哲夫 愛知

 僧形の人がころんと枇杷の種を吐いた。つるんとした枇杷の種とつるつる坊主頭の相似性の面白さ。「ころんと」というオノマトペも面白い。瞬間的な事物の面白さである。


38

鑑賞日 2008/6/1
糸遊庵空中の花繚乱と
山本逸夫 岐阜

 「糸遊庵」というのは漫画家岡本一平の庵の名前らしい。その名前の面白さがある。また岡本一平の妻は岡本かの子であり、かの子と一平を題材にした瀬戸内晴美の小説には『かの子繚乱』というのがあるそうであるから、そういう連想が句にあるのは確かである。私は『かの子繚乱』も読んでないし、彼らのことを殆ど知らないので、正確な鑑賞はできないはずである。しかし逆にこの句から彼らの人生の雰囲気を感じ取ることはできる。


39

鑑賞日 2008/6/2
鐘は鳴り ゆめははだかの一部なり
横山 隆 長崎

 感覚的に解る句。「ゆめははだかの一部なり」という、自分というものがが透明になってしまって殆どもう夢の質のような感じ。自分というものはもう肉体でもなくエゴでもなく透明なエーテルのような感じ。そして澄んだ鐘の音が鳴っている。作者は長崎の人。長崎の鐘というと原爆ということを連想するが、そういう事も作者の心の中にはあるのかもしれない。そういう忌まわしい過去の事実と現在という時代。すべてを知っていながら、鐘は透明に静かに鳴っている。





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