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金子兜太選海程秀句鑑賞 436号(2007年10月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2008/3/30
邂逅も流離なるべし胡蝶蘭
阿川木偶人 東京

 再び出会うということもさすらいということの一つだろう、というようなことであるが、このことがあの蝶が寄り集まっているように咲いている胡蝶蘭の姿態と響き合うものがある。


2

鑑賞日 2008/3/31
棒切れで戦知らずが野に遊ぶ
阿木よう子 富山

 子供達の風景であろうか。そうだとしたら、作者は好ましくそれを眺めているのではないだろうか。この戦知らずが、と言いながらも、戦争のないことを喜んでいる風情がある。


3

鑑賞日 2008/3/31
供養とは語り継ぐこと花は葉に
浅生圭祐子 愛知

 「花は葉に」という季語の斡旋が上手い。


4

鑑賞日 2008/4/1
影踏みや初夏とは夕風の呼吸
飯島洋子 東京

 思いだして書いている感がある。影踏み・初夏・夕風などの気持ち良さを。


5

鑑賞日 2008/4/1
桐の花職場復帰の乳匂う
五十嵐好子 東京

 出産休暇後の職場復帰ということだろう。この「職場復帰の乳匂う」が実感的具体的でその感じが伝わってくる。そして高雅というような感じの「桐の花」がその背景にあることによって、よりその生(なま)な感じが生きてくる。この「桐の花」は背景として見てもいいし、また女性は桐の花でもあり乳の匂いを発しながら働くものでもあるというふうに取ってもいい。いずれにしろ、女性というものが魅力的肯定的に描かれている。


6

鑑賞日 2008/4/2
浜昼顔文脈とぎれとぎれなり
伊藤淳子 東京

 浜昼顔が咲いているような場所に腰をおろして、文脈がとぎれとぎれの話を聞いている、あるいはそういう会話をしているというような場面が思い浮かぶ。何かのんびりしてとてもいい時間だ。この浜昼顔は一面に沢山咲いているというふうではなく、とぎれとぎれに咲いているという風情がある。
 この作者は日常を詩的に掬い上げる力がある。詩的日常を生きているということか。


7

鑑賞日 2008/4/3
百足見ての一瞬の殺意許されよ
植村金次郎 三重

 句意明瞭であるが、この句の面白さはこう言っている作者にある。こういうことを言う作者の何というか粘っこい、情を重んずる、反省的な気質というか、そんなことは言わなくてもいいのにと思いながらも何処か憎めない人物像が思い浮かぶ。


8

鑑賞日 2008/4/4
仏頭が地に落ち蟻をつぶしけり
内野 修 埼玉

 この句から何か教訓や主張などを読むのはつまらない。世の中とはこういうものだと眺めているとそこはかとなく可笑しくなる。


9

鑑賞日 2008/4/4
鯨神輿浜が消えたとうねります
大西健司 三重

 語調などからこれは悲歌だという感じがする。人間の未来、自然の未来に対する悲歌である。


10

鑑賞日 2008/4/5
緑陰の真水のごとく無力なり
川田由美子 東京

 〈幸いなるかな心の貧しき者、天国はその人のものなり〉というマタイ福音書の言葉が若い頃はなかなか理解できなかった。この〈心の貧しき者〉というのは、この大自然の大きな力、またこの運命の大きな力にたいして自分という小さな存在は全く無力であるという自分の弱さを自覚するということではないだろうか。自分は一端のもんだ、自分は力がある、自分は結構いけてるなどと思うのは単なるエゴの表明であって、殆ど虚偽のものであるのが実情である。
 この句「緑陰の真水のごとく無力なり」というのはこのマタイ福音書の言葉に通じるものである。


11

鑑賞日 2008/4/7
でで虫やいつまで抱くの膝頭
久保恵美子 福井

 膝頭を抱いて座り込んでいるような人、あるいはそういうような心理状態にある人、その人は若い人のような気がするが、そういう人に語りかけているような雰囲気である。「でで虫」がいろいろな働きをしている。でで虫のようなかわいい人よ、と言っているようでもあり、でで虫のように少しずつでも進んだら、と願っているようでもあり、その外にもあるかもしれない。


12

鑑賞日 2008/4/7
仕事柄蜻蛉の中に立ちにけり
こしのゆみこ 
東京

 仕事柄蜻蛉の中に立ったのであるが、作者はそれを喜んでいる感じがある。またそんな仕事があるのかという疑問が読者には起るが、作者もその事を可笑しがっている。そして、そうこうしているうちに読者も蜻蛉の中に立っている。そういう追体験の感覚がある。


13

鑑賞日 2008/4/8
貝櫓見知らぬ窓に半旗かな
小長井和子 
神奈川

 日本では民家で半旗を立てる習慣がないから、これは誰か外国人が住んでいる部屋の窓であろう。半旗を立てたということは、その国でテロだとか殺戮だとか何かそういうような事件が有ったということを連想させる。貝櫓とは蜃気楼のことであるから、作者は見知らぬ窓に半旗があるというような事実を、蜃気楼を見ているようだと感じたのかもしれない。


14

鑑賞日 2008/4/9
杖と歩むはぐれやすさよ夏落葉
小林一枝 東京

 「杖と歩むはぐれやすさ」という表現が老年の頼りなさ・心許なさが具体的に表現されているし、それが目立たないでいつの間にか落ちているという夏落葉の態に響いている。


15

鑑賞日 2008/4/10
そこいらに夢置き眠る渡り漁夫
猿渡道子 群馬

 この句に共感を憶えるのは、私達は本質的に渡り漁夫であるからではないだろうか。そして夢を失った時には、渡り漁夫は単なる侘しいものであるが、夢がある限りはそこに心楽しさがあるに違いない。また。「渡り漁夫」という職業があることを、この句で初めて知った。そういう新鮮さもある。


16

鑑賞日 2008/4/11
金魚鉢なかに長崎ありにけり
品川 暾 山口

 金魚鉢といえば夏。夏の長崎といえば原爆投下ということを思わざるを得ない。金魚鉢を眺める行為などは実にゆったりした時間であり、平和な夏の夕涼みなどの時を思い浮かべるが、その金魚鉢の中に長崎があるというのである。拭いきれない記憶ということなのかもしれないし、平和の中に潜む戦争というようなことなのかもしれない。


17

鑑賞日 2008/4/12
闘牛や山を見るのに目を剥いて
篠田悦子 埼玉

 闘牛の牛が山を見るのにも目を剥いているというのである。生業がそのものの性格を形作るということか。人間にもこういう人が居そうだという連想がある。


18

鑑賞日 2008/4/13
紫陽花の夕暮れ揺れるから家族
柴田和枝 愛知

 紫陽花も揺れている。家族も少し揺れている。同じことだと見ている。見ようとしている。夕暮れの薄闇の中、作者の心のたゆたいが伝わってくる。


19

鑑賞日 2008/4/13
植田から君の声して布団干す
清水恵子 長野

 やはりこれは幸せという時間だろう。幸せというのは日常のほんの小さなことに潜んでいる。人々はそれを噛みしめたらいい。それに気付ける人は幸いである。俳句はそれを気付かせてくれる道具でもある。


20

鑑賞日 2008/4/14
総身を映せば蛇に戻れない
菅原和子 東京

 神話のような雰囲気。そして神話というものには真理が宿っているものである。例えば試みに私が感じるその一つを紹介すれば、自己というものを客観的に眺めてしまった後には、もう蛇のように無意識の中にのたくることはできないということである。


21

鑑賞日 2008/4/15
大でまり人は眠りを貪るべし
鈴木修一 秋田

 「人は眠りを貪るべし」というのは脳髄が痙攣しているような現代の人間の状況にあっては概ね賛成である。小でまりでなく「大でまり」であるのがいい。


22

鑑賞日 2008/4/16
ふくらはぎ痙るままにピーマンは函に
高橋たねを 香川

 〈痙〉は[つ]とルビ

 ピーマン栽培をしていたことがあるので出荷用の函に詰められたピーマンを連想する。ピーマンの出荷作業はかなり面倒で長時間座り続けて袋詰めする。足も痙ることがある。そんな場面が想像されるが、これは私に引き付けた解釈であろう。一般的には、ふくらはぎが痙るということと、ピーマンが函に入っているということは随分遠い繋がりである。ピーマンのあの青さとふくらはぎが痙るということが微かに響くが、他に何かあるだろうか。


23

鑑賞日 2008/4/17
汝の歯の白さ憎っくき麦の秋
土屋寛子 神奈川

 私の想像は一つである。汝というのは幼い子供。孫かもしれない。その子がかわいくて堪らない。その歯の白さまでがもうかわいくてどうしようもない。このかわいさに私は縛られてしまう。私を縛り付けるこのかわいさよ、憎っくきかわいさよ、というのである。そういう愛の状態、また子の成長を見守る状態が麦の秋に象徴されている。


24

鑑賞日 2008/4/18
国家なんか恐れぬ妻の裸身かな
峠谷清広 埼玉

 豪快豪快痛快痛快という感じである。カーリー女神にまで想が及ぶ。カーリー女神は夫シヴァ神の上で裸身のダンスを踊る。そして夫はそういう妻を愉快にさえ思っている。


25

鑑賞日 2008/4/19
枇杷は実に独居老人音読す
野田信章 熊本

 庭先に枇杷が実っている小さな庵などを想像すると楽しい。そこに独居している老人が何かを音読している。この風景実にいいではないか。


26

鑑賞日 2008/4/20
熱ありて浜昼顔と同じ目覚め
平井久美子 福井

 熱があっての目覚めは浜昼顔の意識と同じようだというのである。ボーッとしているが何処か違うところで覚醒しているような感じ。陽に照らされた浜昼顔が殆ど超意識の中に咲いているような感じとでも言おうか。無我の中で、作者と浜昼顔が繋がっているという感じ。作者は浜昼顔であるという感じである。


27

鑑賞日 2008/4/21
磁力かな村中の熊蜂くる
平山圭子 岐阜

 この句を読んで思いだしたことがある。わが家の庭先に犬槐の木があるが、この木は不思議な木で多分十年に一度花を咲かせる。この家に引越してから三度ばかり咲いた。初めてこの木に花が咲いた時に驚いたのは、この木の花は地味な花でそれほど見物に値するというものではないのであるが、驚いたのはもう無数の熊蜂が何処からともなく毎日毎日やって来てブーンと羽音を立てているのである。多分この花の匂いが彼らを引き付けたのであろうが、それは見ものであった。自然界は匂いなども含めて、ある磁力で成り立っているに違いない。


28

鑑賞日 2008/4/22
蝶一双水のひかりを縒り上ぐる
前田典子 三重

 二匹の蝶が縺れあいながら水面の上を昇ってゆく。「水のひかりを縒り上ぐる」と表現したのが手柄。物を光は同じものだという原初的な一つの感得がある。


29

鑑賞日 2008/4/22
捨猫の深爪からむふきのとう
松本照子 熊本

 捨て猫だから子猫のような気がする。しかも弱っていてあまり動けないような感じがある。蕗の薹があるところにじっとしているという感じである。その蕗の薹に爪を立てているのが印象的なのだ。


30

鑑賞日 2008/4/24
はつ夏の自画像馬を見ておりぬ
水上啓治 福井

 詩がある。どういう詩かということを表現したいと思っているが、例えば上質の絵を見ているときに感じるような詩。それは多分「自画像」という言葉から来る。それではそのままの鑑賞ではないかと言われそうであるが、どこか時間が止まっているような、あるいは見つめているような、そういう感じのものである。それもそのままではないかと言われそうであるから、あえてピカソの初期の叙情のようなとでも言っておこうか。


31

鑑賞日 2008/4/25
酔う二人ふくらんで見る金魚かな
三井絹枝 東京

 酔う二人がふくらんで金魚を見ている、とも、金魚がふくらんで酔う二人を見ている、とも取れる。「こいつら俺達によく似てらあ」という台詞が聞えてくるような雰囲気がある。酔う二人と金魚の相似性が楽しい。


32

鑑賞日 2008/4/25
旅という空き箱に鈴青水無月
宮崎斗士 東京

 瑞々しい旅の感覚。「旅という空き箱」という把握。実際に鈴を持っていたのか、あるいはこれも譬えか。おまけに「青水無月」までがこの瑞々しさを強調している。この瑞々しさの中にどこかしら青春の甘酸っぱさ、あるいは頼りなさが潜んでいる気もする。


33

鑑賞日 2008/4/26
草の花もあなたもくどいのだ
村田ミナミ 
神奈川

 草〉は[どくだみ]とルビ

 こういう句は一目瞭然、何の説明もなく面白い。


34

鑑賞日 2008/4/27
紙風船日の出の島をすべりおり
森田高司 三重

 一幅の絵。「すべりおり」が画竜点睛となっている。


35

鑑賞日 2008/4/27
高速道に先頭がある麦の秋
矢野千代子 兵庫

 「先頭がある」というのが眼目。私は、高速道路を走っている車列に先頭がある、と取った。そういえば、車というものはばらばらに走るというよりは先頭があってそれに車列が続いて走るというような形をとるなあと、改めて思う。普段気が付かないようなことを言われると、その風景がより見えてくるということがある。この句も麦の秋の中を走る高速道が眼前に見えてくる。


36

鑑賞日 2008/4/28
もどろかな紫陽花の鞠のバランス
山本昌子 京都

 もどることが出来るというのは多分人生のコツである。やり過ぎたら戻る。足りなかったらやる。このバランス感覚が全てではないだろうか。何はともあれ紫陽花が美しい。


37

鑑賞日 2008/4/29
娘の子ども近江訛りで真みどりで
横地かをる 愛知

 娘の子どもに会った時の強い印象という感じである。かわいくてしょうがないのであるが、どこか異質で物珍しいという感じ。「真みどり」という言葉には珍しい生き物を見たときの生々しい驚きの響きがある。





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