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金子兜太選海程秀句鑑賞 435号(2007年8・9月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2008/3/7
花三分耄碌しまして生き易し
新井娃子 埼玉

 まあまあこのくらいのところか、と戯けている。


2

鑑賞日 2008/3/7
句の屑の多しあめんぼういそぐなよ
荒井まり子 京都

 軽い焦燥感といったところか。


3

鑑賞日 2008/3/8
西行忌樹下の母子の耳飾り
市野紀余子 埼玉

 当然この句の「樹下」は西行の〈願はくば花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃〉の樹下であることを暗示している。この死ということと生ということの対比、また古の求道者の生と現代の軽いタッチの生き方の対比の妙である。


4

鑑賞日 2008/3/10
白鳥になりし初夢騒がしき
一ノ瀬タカ子 
東京

 実に臨場感のある初夢である。よく夢で見たものをここまで書き留めることができたと思う。実際自分が白鳥になった夢を見たらこんな気がするだろうなあと感じさせるものがある。


5

鑑賞日 2008/3/10
蜘蛛の巣のけむりのごとき物忘れ
伊藤淳子 東京

 物忘れのときの感じがとてもよく表現されている。殆ど切れがなく「蜘蛛の巣」と「物忘れ」がつながっているように書かれていて、それこそ「けむりのごとき」につながっていて、もやもやーっとした物忘れの状態が客観的に句として表現されている。


6

鑑賞日 2008/3/11
青枇杷や徘徊癖の人を見る
榎本祐子 兵庫

 「青琵琶」の健康的な若さと、そうでない「徘徊癖の人」の対比。


7

鑑賞日 2008/3/11
褌を垂らす天井万愚節
大高俊一 秋田

 今どき、褌を天井から垂らして干しているような生活をしていることを、愚かだなあと面白がっている風情。あるいはエープリルフールでそういう戯けをやったのだとすれば、相当な風狂人。


8

鑑賞日 2008/3/12
青竹にカーンと礫卒業す
小暮洗葦 新潟

 とても気持ちのいい句。気持ちのいい卒業。味わうと、何かいろいろ心理的な事情があるかもしれない卒業ということも想像できるが、とにかくそういうものを吹っ切って、未来に一歩を進めるというような気持ちのよい一区切りという感じである。


9

鑑賞日 2008/3/12
海明けのスローな粒々わたしたち
加川憲一 北海道

 「スローな粒々」という把握。わたしたちは大自然の中のスローな粒々である。こういう把握は健康的な把握ではなかろうか。実景感というよりも思想的に大きな景が見える。とにかく、言葉づかいが面白い。


10

鑑賞日 2008/3/13
揚ひばり飲食の野をもたらして
柏倉ただを 山形

 「飲食の野をもたらして」という言い切らない形に何か感謝のような、あるいは祈りのような気持ちを感じる。


11

鑑賞日 2008/3/14
臘梅や精神的に風邪ごこち
金子斐子 埼玉

 「精神的に風邪ごこち」という言い方が新鮮で面白い。


12

鑑賞日 2008/3/14
古池や蛙の目玉また目玉
金谷和子 埼玉

 もじりの面白さが充分に出ているのではないか。芭蕉句の聴覚的な表現から視覚的な表現への転換。そして芭蕉句には無い、いのちの生(なま)な感じが出ている。


13

鑑賞日 2008/3/15
青葉ざんざ野鍛冶の作るうさぎたち
河原珠美 神奈川

 「ざんざ」というのを擬態語ととった。ざんざと青葉が茂るというのはよく分かる感覚であり、とても魅力のある表現である。いかにも青葉らしい生命のエネルギーがざわざわとしている感じである。そこで野鍛冶がうさぎを作っているというのである。


14

鑑賞日 2008/3/15
春の蚊よ記号のごとく名を呼ばれ
河野志保 奈良

 囚人や兵士は番号や記号で呼ばれることがあるらしい。つまり相手を記号で呼ぶということは相手を個性ある生身の人間として見ていないということである。そんなふうな感じで名を呼ばれたというのである。まるで私は「春の蚊」のようじゃないか、というのであろうか。一茶に「通し給へ蚊蝿の如き僧一人」というのがあるが、この河野さんの句はもっともっと現代の人間性不在の世相を反映しているように思う。


15

鑑賞日 2008/3/16
水玉の服に体はまぎれたる
こしのゆみこ 
東京

 微妙な女性の感覚のような気がする。現代の洋服というのは体の線がよく見えるような、体の線を強調するようなものが多い。それに比べると例えばインドのサリーのような民族衣装はその布の流れるような美しさがあり、自然そのものの流れの中に肉体も存在するという感覚がある。この句における「水玉の服」などは洋服なのであるが、そこには自然のイメージがある。つまり、この水玉の服には肉体と自然とを融和させる働きがあるのである。そういうことに意識が働くというのが女性的な微妙な感覚だと思うのである。


16

鑑賞日 2008/3/16
涅槃西風歩みは走りかもしれず
小林一村 福井

 実際われわれは走っているのか歩いているのか分からない。もっと急ぐべきなのか、もっとゆっくり行くべきなのかも分からない。ただ日々をうろうろまごまごと行くのみなのであるが、しかしそういう事の全体がどうであれ、やはり祝福されているのである。そういう雰囲気がある。


17

鑑賞日 2008/3/17
遠い身内に会うとき喪服麦の秋
小堀 葵 群馬

 実際、葬式や法事などというものは、死者のためにあるのではなく、生者が顔を会わせて生きているということを確認するためにあるのかもしれない。逆に言えば、死者はそのような恩恵を生者に与えてくれているのかもしれない。「麦の秋」が同胞感というようなものを演出している。


18

鑑賞日 2008/3/17
土と暮らしぶっきら棒は茎立です
篠田悦子 埼玉

 土を暮らすということの飾り気のなさ、土と暮らしている人間の素な感じを言っている気がする。わが家でも、これから春になって真先に食べる畑のものは茎立菜である。一年で一番初めに食べる野菜であり、どんな他の野菜よりも一番美味いのではないかとさえ思う。あの野趣味。だからこちらもぶっきら棒に摘んできて食べる。


19

鑑賞日 2008/3/18
慈悲心鳥無為とも男なり
白井重之 富山

 〈無為〉は[なにもせず]とルビ

 この句は難しい。というのも「無為とも男なり」というのがいろいろに取れてしまうからである。私などには無為ということを最も高度な人間の在り方であるという考えがあるし、一般的には何もしない役立たずというイメージもあるだろうし、殊更「男なり」と男を強調しているからそこに父権的な意識があるかもしれないなどとも思うし、どうにも解釈が定まらないのである。ちなみに慈悲心鳥というのはジュウイチのことであるが、この慈悲心鳥という特殊な書き方にも句の内容に関連して何か意味があるような気がするが、それが掴めないのである。


20

鑑賞日 2008/3/18
れんぎょう雪柳多数派は大声
芹沢愛子 群馬

 れんぎょうと雪柳は殆ど同時期に咲く。あのたくさんの花をつけたれんぎょうや雪柳のかしましい感じが、「多数は大声」という、多勢に無勢という感じと響き合う。また、れんぎょうや雪柳が咲いているような場所で人々が議論しているというような景色も見える。


21

鑑賞日 2008/3/19
腕立てて伏せてぺしゃんこ目借時
高木一恵 千葉

 おっとりとした、のんびりとした人物像やそういう日常が見えてくる。腕立て伏せをなどをして少し体力でもつけようかなあなどと思い立ち、やってみたが、どうも日頃ののんびりした生活のせいか何回かやったらもうだめである。ぺしゃんこにつぶれてそのままじっとしているとそのまま眠ってしまった。ああ気持ち良かった。というようなことではないか。


22

鑑賞日 2008/3/19
心電図見ており眼窩意識して
高桑弘夫 千葉

 いろいろな場面が想像される。この心電図は他者のものか自分のものか、この眼窩は他者のものか自分のものか、心電図は他者のものであり眼窩は自分のものであるという可能性もある。他者としても、それは肉親のように大事な人であるかもしれないし、また医者が患者をみるような冷静な態度であるかもしれない。私の経験の範囲で一番ぴったりくるのは、だれか親しい人の心電図であり眼窩である。心配しながら心電図を見ている。そして随分眼も落ち窪んでしまったなあと意識しているという図である。


23

鑑賞日 2008/3/20
コンビニの明り縁に落花かな
田口満代子 千葉

 〈縁〉は[よすが]とルビ

 上手い句である。一読、叙情的な風景が現前する。二物の関係のつけ方が上手いのだ。この上手さは作者の心情の潤いのようなものから自然に出てくる気がする。


24

鑑賞日 2008/3/21
ぶらんこ漕げ漕げ逆さの母に逢えるまで
土屋寛子 神奈川

 落ちの妙。「母が見えるまで」ではなく「母に逢えるまで」が印象深い。ぶらんこだけのことでなく何か人生訓のような雰囲気を湛えているのも面白い。


25

鑑賞日 2008/3/22
任せっきりは一つの悟り藤の花
峠 素子 埼玉

 言っていることは普通に思い付くことであるが、藤の花がくっつくことによって、そのことがとても詩的な一つの日常空間を作るということは、とても不思議なことである。藤の花がそう言っているようにも感じるし、藤の花の美しさは一切方下の美しさなんだなあと納得する。


26

鑑賞日 2008/3/22
菖蒲湯の父のくしゃみが茶の間まで
峠谷清広 埼玉

 日常の詩というか生活詩というか、そういうものである。菖蒲湯という日常のちょっとした贅沢。そういう些細なことに詩は存する。


27

鑑賞日 2008/3/23
腰痛の一本もなき芽吹きかな
中村孝史 宮城

 自分には腰痛などという厄介なものがあるが、この木々たちはそんなものもなく実に健やかな芽吹きだなあ、というのである。


28

鑑賞日 2008/3/23
海鳴りを落さぬように葱坊主
丹生千賀 秋田

 「落さぬように」というのが意味を考えるとよく解らなくなるが、雰囲気としては解る。海鳴りの持っている野性と葱坊主のそれの響き合いという雰囲気である。


29

鑑賞日 2008/3/24
新緑や猫も小石も蹴りやすし
橋本和子 長崎

 ユーモア。そして皮肉。客観的に物事を見る態度か。


30

鑑賞日 2008/3/24
生はげの三人で行く一列
日高 玲 東京

 ぶっきらぼうに言い切った写生がその場面を切り取っている。


31

鑑賞日 2008/3/25
自転車の荷台に襁褓春の人
平山圭子 岐阜

 この自転車に乗っている人が使用する襁褓だろうか。あるいは老人の介護をする人の様子かもしれない。または赤ん坊用の襁褓かもしれない。いずれにしろ現代の風俗をかろやかに書いている。


32

鑑賞日 2008/3/25
片陰や寿命というは窮屈な
広辻閑子 石川

 熱い日盛りの中にある狭い片陰のことを書いたのであろう。それを「寿命というは窮屈な」という一般性のある感慨と結びつけたのが面白い。


33

鑑賞日 2008/3/26
軽薄なポリバケツ飛ぶ春の風
藤野 武 東京

 一般的に軽薄という言葉は「あの人は軽薄だ」というように人に対して使う言葉のような気がする。それを「軽薄なポリバケツ」としたところが面白い。アニミズムであり、現代の文明の軽妙な批判でもある。


34

鑑賞日 2008/3/27
陽炎のうつりし集合写真かな
堀之内長一 埼玉

 セピア色になってしまった遠い過去の集合写真を見ている雰囲気がある。陽炎のように不確かな時間と関係としての人間存在。そんなことを見つめている雰囲気がある。


35

鑑賞日 2008/3/27
さくら過ぎて全員が見る月球儀
宮崎斗士 東京

 集合的に大掴みに現代人を捉えているのではないか。人間の集合性ということでもあるし、明るく洒落た面を持つ現代の風俗ということでもある。


36

鑑賞日 2008/3/28
連翹やどこか短気なハングル文字
室田洋子 群馬

 ハングル文字というのが思い出せないのであるが、確かにハングルの人達の話し方はどこか短気である。何か怒られているような雰囲気さえある。そういうことと連翹の関連性は何だろうか。単なる対比であるのか、あるいはその花の形がハングル文字と似ているところがあるのか。


37

鑑賞日 2008/3/28
山法師だんべえとずらの国境
柳生正名 東京

 私は群馬県生れで長野県に住んでいるから、これは群馬と長野の国境であるということがわかる。そこに山法師が咲いているというのである。風土により作られる人々の気質のちょっとした違いを楽しんでいる風情がある。作者は東京の人であるが、こまめにまた細やかに旅をするような人かもしれない。そういう旅をも感じる。


38

鑑賞日 2008/3/29
無言劇もしくは春の燃えのこり
渡部陽子 宮城

 今の私の心は、無言劇もしくは春の燃えのこり、のような状態である、というようなことであろうか。人生の第二幕あるいは楽曲の第二楽章の静かさというような品格がある。香り高い内省がある。





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