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金子兜太選海程秀句鑑賞 433号(2007年6月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2008/1/18
梅綻ぶ漏らないほどの家に住み
相原澄江 愛媛

 ちょうど良い、穏やかで、ゆったりと自然と融合した人間の生活。こういう人間の在り方の原点のような句を読むと、現代の痙攣したような異常に興奮した人間の在り方が悩ましく思われる。この句のような慎ましさを取り戻さない限り人間の未来はないだろう。


2

鑑賞日 2008/1/18
雪国に雪が降らぬと書きしるす
阿木よう子 富山

 雪国に住む者にとって、雪が降れば嫌だけれども、雪が降らなければまたもっと大きな視点で心配になる。環境破壊ということであるが、作者はこの事実を噛みしめるように客観的に書きしるしたかったのではないだろうか。自分の心にそして読者の心に。


3

鑑賞日 2008/1/19
遊びからはみ出している蟹の足
市原正直 東京

 困った。解らない。何日か懐にしまっておこう。


4

鑑賞日 2008/1/19
ゆりかもめ本を返しにゆくところ
伊藤淳子 東京

 「本を返しにゆく」という日常の一コマの背景として「ゆりかもめ」がいるとみてもいいし、「ゆりかもめ」の飛翔のような気分で「本を返しにゆく」と取ってもいいし、「ゆりかもめ」のような真っ白な気持ちで「本を返しにゆく」というような雰囲気もあるし、、まだ他にもさまざまな受け取り方があるかもしれない。とにかく日常の詩である。詩であるような日常への憧れの心が呼び覚まされる。あるいはもっと飛躍して「ゆりかもめ」が「本を返しにゆく」と取れないこともないところが俳句の面白いところである。俳句は重層的に内容を含ませ得る詩である。


5

鑑賞日 2008/1/20
冬三日月老人涅槃の木菟彫る
上原勝子 神奈川

 この雰囲気。何と言ったらいいだろうか。濃密な底光りしているような時間。日常とはかけ離れた、あるいは日常の中にひそむ夢幻的な刻。例えば能という芸能が醸し出すような雰囲気。芭蕉の「月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿」などの雰囲気に通じる。


6

鑑賞日 2008/1/21
飽食のうしろめたさよ狐罠
榎本愛子 山梨

 「狐罠」に「飽食のうしろめたさ」というものの内容が響く。自己反省でもあろうし、先進国の人類の意識の底に巣くううしろめたさでもあろう。このうしろめたさを意識的に自覚することは、これからの地球人類にとっては大事なことである。そうでなくては狐罠から逃れられない。


7

鑑賞日 2008/1/22
睥睨も黙視も冬のゴリラかな
金谷和子 埼玉

 ああゴリラってそんな態度だなあと思う。冬という季節には特にそうだなあ、などと思っているうちに何だか人間でもそんな奴がいるなあ、とも思えるし、寒さに強ばって自分もそんな態度をとっているような気がしてくる。


8

鑑賞日 2008/1/22
冬籠り箔置くように追伸
狩野康子 宮城

 「箔置くように」で透明で薄いような冬の空気を感じるし、またとても大事で微妙な追伸を書いているような雰囲気である。「冬籠り」は[ふゆこもり]と読みたいような微妙な透明感がある。


9

鑑賞日 2008/1/23
こころ傾けて白鳥降りてくる
北村美都子 新潟

 実際に白鳥の降りてくるところを見て、それに感じて書かなければ、こうは書けないだろう。白鳥への意識の移入がなければ、「こころ傾けて」という表現は出てこないだろうということである。だから読む方も、白鳥が降りてくる時の姿が眼に浮かぶ。


10

鑑賞日 2008/1/23
密たっぷりの嬰児の足よ白さざんか
黒岡洋子 東京

 女性らしい句である。というか、母性らしい句である。男性には絶対に書けないし、母としての思いの浅い女性にも書けないだろう。大げさだという人もいるかもしれないが、こういう母性的な資質を持っている人がいるのである。天性の資質であり素敵なことである。


11

鑑賞日 2008/1/24
冬の野の落下速度を見ておりぬ
佐孝石画 福井

 内面的な句である。そういう糸口を見つけないと私にはなかなか理解しづらい。「冬の野」というのは作者の心の状態であり、その心の落下速度を見ている観照しているとみれば解る。また逆にそういう理解が定まると、実際の冬の野が落下速度を持っているようにも思えてくる。


12

鑑賞日 2008/1/24
天涯に惚けゆく妻と恋猫と
佐藤臥牛城 岩手

 〈惚〉は[ほ]とルビ

 哀しくもあるが、また愛しくもあり、そして存在の可笑しさのようなものも漂ってくる。ほんわりと明るいような世界がある。


13

鑑賞日 2008/1/25
春の水 推量という走るもの
清水 瀚 東京

 「推量という走るもの」という言い方の発見が楽しい。迸り流れる春の水も想像されるし、あるいは全く流れていない透明な春の水も想像される。いずれにしてもこの「春の水」は心の質の象徴であるという気がする。


14

鑑賞日 2008/1/26
着ぶくれて大地と繋がる野雪隠
新宮 譲 埼玉

 野にある雪隠に入ってしゃがんだ時に大地と繋がる感じというのはよく解る。それも着膨れて外側の空気と遮断されたような時に、尻だけまくって雪隠にしゃがんだ時にそう感じたというのもよく解る。姿態が想像されて滑稽感もある。


15

鑑賞日 2008/1/26
暖冬の満月汚れいるイラクは
杉崎ちから 愛知

 地球温暖化やイラク戦争という人間業の汚れを感じる。人間が汚れれば自然も汚れる。


16

鑑賞日 2008/1/27
冬ごもり蜘蛛におどろく娘らと
鈴木修一 秋田

 娘達とのいろいろな会話が聞えてくるような暖い雰囲気の冬ごもり。


17

鑑賞日 2008/1/28
はるかまで来たよう狐の嫁入り
鈴木祐子 東京

 どのような具体的事実に基づいているのかなかなか特定が難しいが感じは解る。存在の不確かさといったらいいだろうか。


18

鑑賞日 2008/1/28
初昔肝胆を火に照らしたり
関田誓炎 埼玉

 心とかいう言葉ではなく「肝胆」という言葉が効果的である。赤々と燃える火(炉火や暖炉の火を思う)に自分を開いている感じが強くなる。


19

鑑賞日 2008/1/29
群像の白い重量昼の梟
十河宣洋 北海道

 この「群像」が指し示しているものを特定することは難しい。梟の群像ともとれるが違うともとれる。もっと大雑把な現代の人々の把握であるともとれる。例えば大都会の雑踏を歩く人々。その人々の全体を「白い重量」であると把握した。そしてそれらが「昼の梟」のように眠っているような感じだというのである。


20

鑑賞日 2008/1/29
冬くれば芝居一座が男鹿に立つ
舘岡誠二 秋田

 男鹿の風土感。そして「芝居一座」というようなジプシーのような生活を思い浮かべると懐かしいものがある。


21

鑑賞日 2008/1/30
きさらぎの離宮截金杳とかな
田中昌子 京都

 〈截金〉は[きりかね]とルビ

 この句の鑑賞は私には不完全にしかできない。京都などにおける歴史的な建造物や寺社などの知識がないからである。「離宮」が何を指しているのか。截金で彩色されているのは離宮なのかあるいはその離宮の中にある仏像のことなのか。例えば金などで彩色されている建物に金閣寺などがあるが、これは金閣寺を指しているのか。あるいは離宮と言えば有名な桂離宮を指しているのか。桂離宮の中には截金で彩色されたような仏像などがあるのか。分からない。ただ、建造物にしろ仏像にしろ、截金で彩色されたものが杳としているという感じはとてもよく解る。


22

鑑賞日 2008/1/31
春雨や追憶の揺り籠の出窓
董 振華 中国

 懐かしくもあたたかい想い出。あまりに懐かしいのでいつの間にか涙さえこぼれるような雰囲気。「春雨」の情趣が句全体を包んでいる。


23

鑑賞日 2008/1/31
鳥雲に母にも妻にも叱られて
峠谷清広 埼玉

 ペーソスあふれる私小説という感じもあるし、〈永遠の夫〉という言葉が出てくるような普遍性もある。ペーソスもあるからその裏腹なものとして当然滑稽感もある。人間というものがしみじみと描けている感じである。


24

鑑賞日 2008/2/1
冬野の灯一つは押しかけ女房ん家
中島偉夫 宮崎

 〈家〉は[ち]とルビ

 あったか味がある。そこではさまざまなドラマが演じられていることだろうなあ、仲良くもあるし喧嘩もあるだろうなあ、しかしやはり強いのは女房だろうなあ、といろいろな想像が働く。親しみをもって人間というものを眺めている感じである。「女房ん家」という砕けた言い方もいいし、それが「冬野」の中にあるというのも、これもまたいい。


25

鑑賞日 2008/2/2
霞食べている父のようでもあり
中田里美 東京

 非日常的で、あいまいで薄い実在感というように言ったらいいだろうか。幽体感とでも言ったらいいだろうか。おぼろおぼろとした春の霞そのものの感じだと言えないこともない。


26

鑑賞日 2008/2/4
風邪に寝て切らるる花を見ていたり
中原 梓 埼玉

 意味付けができるが、その意味は言いたくはない。野暮になるからである。そのままに受け取って見ていると、何か胸の中にチクリとするものが走る。事実というものは時に人間の心をチクリとさせる。


27

鑑賞日 2008/2/4
ニートばかり陽に固まって薄暑です
中村加津彦 長野

 この句も意味付けができる。そしてその意味が逆説的で面白い。ニートの正確な定義は調べてもらえば解るが、要するに仕事も勉強もしないでぶらぶらしている若者という感じであろうか。一般的には否定的なニュアンスであるが、この句においては、実は彼等のみが自然の恩恵に浴して健康であり、一般の何の為に働いているのかも解らずにあくせくしている人を皮肉っている感じがある。そしてそれも一つの真実かもしれないと思えてくる。句はただ現代の風俗をさらっと描写したものであるが、こういう逆説的なものを感じ得るというのは面白いものである。


28

鑑賞日 2008/2/5
祈りかな掬って差し出す雪解水
堀真知子 愛知

 祈りの中に生まれ祈りの中に生き祈りの中に死んでゆく。そういう自覚の中に在りたいとこの句を見て思った。


29

鑑賞日 2008/2/5
命かな干柿越しに夕日浴び
松本勇二 愛媛

 この句の「干柿」はもちろん干柿を作るために簾のように吊り下げられて干されている柿のことである。その干柿越しに夕日を浴びている作者がいる。干柿の朱、夕日の朱、そして作者もまた夕日に染まっている。「命」と表現したくなるような感興があったに違いない。


30

鑑賞日 2008/2/6
御神渡り九十二歳をわたりゆく
丸山久雄 北海道

 九十二歳というもう何かを突き抜けてしまった広々とした意識のようなものを感じる。それはもう神が渡るという表現がぴったりのものなのかもしれない。ちなみに御神渡りは長野県の諏訪湖などに見られる現象であるが、北海道の湖などでもあるのだろうか。


31

鑑賞日 2008/2/6
笛吹きて夭き名の笛吹きて父
水野真由美 群馬

 〈夭〉は[みぢか]とルビ

 作者の父君は若くして亡くなられたのであろうか。この句はいい。父への思い、父の死への思い、その短い生涯への思い、それら万感がひしひしと胸を打ってくる。何の感情表現もなく坦々と巧みに書いているゆえに、逆に読む者はその感情中枢を揺さぶられて尽きないものがある。人生をたとえて「笛を吹く」とした美しい観念にも魅力がある。これぞ俳句のプロの技という感じである。久しぶりに落涙しそうになった。


32

鑑賞日 2008/2/7
曇天だけ集めて海鼠ありにけり
宮崎斗士 東京

 自分の心理的な状態を「曇天」と「海鼠」を借りて表現したのだと解釈すると理解しやすい。自分の今の状態は、曇天だけ集めている海鼠みたいなもんだ、というふうにである。そういう理解が定まった上で句を眺めていると実際に曇天の下にうごめいているあの海鼠の姿が目に見えてもくる。


33

鑑賞日 2008/2/8
白鳥吹かれ額に大きな夕闇が
森央ミモザ 長野

 白鳥が吹かれているのを眺めている。夕方になりあたりはだんだんと暗くなってきた。客観的にはそういう状況であろうか。この句の眼目は「額に大きな夕闇が」にある。夕闇というものが直に体に触れてくる感じというか、夕闇というものに新鮮な実体感があるし、穿てば心理的なものも重なっている雰囲気もある。そういう夕闇の中で、吹かれている白鳥が印象的に美しい。


34

鑑賞日 2008/2/8
流星に音なき不思議冬の旅
守屋茂泰 東京

 〈静寂の旅〉という雰囲気。流星のごとく人生は旅である。しかしそれは静寂の旅である。そしてまた不思議に透明感のある旅である。詩人守屋茂泰の在り方、その質がとてもよく感じられ見えてくる一句ではないだろうか。


35

鑑賞日 2008/2/9
料峭の石に雨ふる素読という
矢野千代子 兵庫

 「料峭」とは、春風が肌に寒く感ぜられるさま、と広辞林にある。また「素読」とは、意味を考えないで文字だけを声を出して読むことであるから、句の持っている雰囲気は感受できる。料峭の石に雨が降っているときの雰囲気でもあろうし、作者の心理状態の投影でもあろう。どこか自分と自然がしっくりしていない感じというか、季節が白々しい感じというか、そんな感じである。


36

鑑賞日 2008/2/9
俺も無党派すずなのくくたち
山口 伸 愛知

 俺も無党派すずなのくくたちみたいなもんだ、と軽く言い放った気持ち良さ。かなり自覚的な無党派であるような気がする。


37

鑑賞日 2008/2/10
百千鳥消える競走しておりぬ
山中葛子 千葉

 「百千鳥」という季語はその声に意味の重点を置いているらしいが、私にはその姿が見えたり消えたりする様子のような気がする。この「消える競走」という表現が洒落ているし、こういう表現が出てくるということは、作者の心理の質に関わっていることなのかもしれないと思った。私にはとてもよく解る心の質である。





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