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金子兜太選海程秀句鑑賞 432号(2007年5月号)
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(作者名のあいうえお順になっています。)
鑑賞日 2007/12/14 | |
ときに黒く降り積む雪や鶴群や
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新井喜代子 埼玉
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〈鶴群〉は[たずむら]とルビ 「黒く降り積む雪」は実景だろうか。分からないが、作者の心理的なものの投影であると見れば理解できる気がする。「黒い雨」という原爆をテーマにした映画があったように思うが、そういう連想も働いて、何か時代への不安というものの表現のような気がする。黒く降り積もった雪の中に居る鶴群が我々自身の象徴のようでもある。 |
鑑賞日 2007/12/15 | |
野にあれば草の絮吹くバレリーナ
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安藤和子 愛媛
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私達が一般的にバレリーナに対して抱いているイメージがとてもよく表現されているのではないか。軽い軽い妖精のような感じ。バレリーナ自身が草の絮のように踊りながら飛んで行ってしまう感じ。 |
鑑賞日 2007/12/16 | |
十二月遠い人からポケットに入れ
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稲田豊子 福井
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十二月といえば年賀状などのシーズンであるから、いろいろな知人友人のことなどを想うことが多い。そういう人達のことを自分の中で整理している時に、関係の遠い友人から整理をつけてゆく、というようなことであろうか。食卓に並んだおかずの一番好きなものは後にとっておくというタイプの人かもしれないなどと思った。 |
鑑賞日 2007/12/17 | |
冬陽さす老人の笑み狭庭に満つ
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大内冨美子 福島
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温かい、とても幸せな時間、そして空間。 |
鑑賞日 2007/12/18 | |
まっ赤なる鯉冬の字のひとつかな
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大沢輝一 石川
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人間は世界を言葉で認識する。これは世界を把握したいという人間の方便である。他の生き物と人間との大きな違いであり、人間の優れたところでもあり、人間の傲慢さの元でもある。言葉の視覚的な表われが文字である。俳人というのは世界の詩的な表われあるいは俳味を言葉で表そうとしているから、世界が文字でできているという感覚になることがあり得る。 |
鑑賞日 2007/12/19 | |
毛皮着てよもつへぐいの類かな
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大高俊一 秋田
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「よもつへぐい」を大辞林で引くと |
鑑賞日 2007/12/20 | |
軍馬描かれ春は私を泣かすなり
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大野千穂 宮崎
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「春愁」という言葉があるが、このあいまいな言葉の意味を具体的に、このようなものだと解き明かしてくれているような句である。 |
鑑賞日 2007/12/21 | |
揚羽蝶の黒も夏のいとしさ樹間過ぐ
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小木ひろ子 東京
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〈揚羽蝶〉は[あげは]とルビ 単に一つの景が見えるだけでなく、その景の中に居る、その景が肉にまた心に沁みてくる感じである。「黒」であるとか「いとしさ」という言葉が効いているのではないか。「樹間過ぐ」というのも自分が樹間を過ぎてゆくような臨場感をもたらしている。 |
鑑賞日 2007/12/22 | |
われもまた銀河びとなり流れるなり
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小暮洗葦 新潟
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この「・・・びと」という言い方は懐かしい響きを持っている。もし〈日本びと〉という言い方があったとすれば、それは〈日本人〉よりもっと懐かしい風土感があるのではなかろうか。〈日本人〉というと、それは国家としての日本に所属する人という感じが強い。この句においては「銀河びと」という言い方がとても大きな懐かしさを誘う。 |
鑑賞日 2007/12/23 | |
寒椿コックの帽子高々と
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小野裕三 神奈川
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絵画的な印象が強い。それも都会的なセンスに溢れた。これだけの少ない字数でそういう印象を作り得るというのは、感覚が冴えているということであろう。感覚が冴えるというのは肯定的に物事や環境を受け止めているということであろう。 |
鑑賞日 2007/12/24 | |
端然と仕事始めの飯白し
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柏倉ただを 山形
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端然と仕事始めの飯が白い。そういう感じがあるなあと思いだす。今日から仕事をするという身の引き締まった感じ、そして餅や御節料理を食べたり、酒を飲んだりすることの多かった正月が終り、ごく普通の朝飯が妙に端然とかしこまっているのである。 |
鑑賞日 2007/12/25 | |
熱燗よりも孫のあんよにうす涙
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上林 裕 東京
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熱燗を飲みながら、孫のあんよなどを眺めている。歳をとってやけに涙もろくなったものだ。うっすらと涙なんかが出てきやがる。別に熱燗をのんだからというわけではなく、多分この孫のあんよが俺の涙を誘っているに相違ねえ。 |
鑑賞日 2007/12/26 | |
燃え尽きた天草の黙冬銀河
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岸本マチ子 沖縄
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天草四郎や島原の乱に思いを馳せている。「燃え尽きた・・黙」という表現に人間の情熱への共感とその運命を噛みしめている趣がある。これらもろもろの事の背景として「冬銀河」が美しい。 |
鑑賞日 2007/12/27 | |
息をしてはならぬ検査を冬の雷
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北村美都子 新潟
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切れ字としての「を」がとても微妙に上手く使われている気がする。「や」などよりも、あいまいに切れているようで実はもっと大きく切れている感じである。あいまいである故にその時の作者の微妙な心の動きが感じられるし、大きい故に連想の範囲がまた大きい。全体の印象としては、張り詰めた透明な意識という感じである。 |
鑑賞日 2007/12/28 | |
わが胸の底に不凍湖鰤起し
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木村幸平 東京
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胸の中にあるいは心の中に湖があるという表現はよく見かけるが、それをあえて不凍湖があると言ったのは更に穿った見方だと思った。鰤起しが鳴っている。それがこの胸の底の不凍湖に響いてくるようだ。 |
鑑賞日 2007/12/29 | |
いのししに足首かまれ地蔵さま
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黒岡洋子 東京
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民話風、滑稽風の味。「いのししにな、足首さかまれた、地蔵さまがおったと・・・」 |
鑑賞日 2007/12/30 | |
出会いとは地に膝をつき冬苺
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河野志保 奈良
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「出会いとは」の「とは」というのが上手いと思う。「出会いかな」などとすると大げさであるし臭い感じが出てくるが、「とは」とあまり強く切れない流したような、それでいて一般的にそうだという意味の言葉がさりげなく、この一句を品のあるものにしている。それからまた「地に膝をつき」というのが謙虚さ、あるいは人間が〈出会い〉を得るための姿勢というものが暗示されているようで、あるいは生きるということにおける作者の慎ましい姿勢が見えてくるようで、好ましい。 |
鑑賞日 2007/12/31 | |
海しずかヌードのように火事の立つ
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こしのゆみこ
東京 |
「ヌードのように火事の立つ」と感受する感覚は原初的な素の感覚ではないだろうか。人間というのはだんだんこの〈素の感覚〉を失ってきている。いろいろな虚飾によって感覚が邪魔されてきているからである。詩人においては時々ふとこの〈素の感覚〉を取り戻すことがある。そのような時に火事の起ったのを見て〈ヌードのように火事の立つ〉という表現を得たのだと思うのである。「海しずか」というのがこの素の感覚を取り戻す条件である。しずかな海を眺めていて、あたかも自分自身の心がしずかな海のような状態になっていたということが予想される。そういう心の状態の時に人間は〈素〉である。「ヌードのように」という感覚もそうであるが、「立つ」という感覚も実に原初的な素の感覚である。「ヌードのように火事の立つ」、別の言葉でいえばアニミズムの感覚である。 |
鑑賞日 2008/1/1 | |
青からすうり道標として尊けれ
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児玉悦子 神奈川
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単に「からすうり」でも面白い。青からすうりが生っている道を通りながら、何時このからすうりは赤くなるのだろうかなどとその道を通る度に思っている。そのような心理作用がこの句を作るきっかけになったのではないだろうか。いずれにしてもこのからすうりの存在が印象的である。 |
鑑賞日 2008/1/2 | |
枯葉踏む私語のさざなみ脱けるため
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小長井和子
神奈川 |
私の想像する状況は、団体旅行などに行って、とくに婦人の団体旅行などで、側に落葉道があるような場所に休憩している、あちこちで何人かずつ固まって私語をしている。御婦人方の私語というのは大体想像がつくのであるが、あのようなものである。そのさざなみのような私語から抜け出て静かな時を過ごす為に落葉の道へ踏み入った、というのではないだろうか。その心持ちがとてもよく理解できる状況である。句はその状況を比喩的に肯定的に美しく書いている。 |
鑑賞日 2008/1/3 | |
山黄葉片頬黄ばむ車中かな
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小原恵子 埼玉
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こせこせしない大ぶりな把握。それがいい。 |
鑑賞日 2008/1/4 | |
雪払う返り血のよう霊のよう
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佐々木宏 北海道
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「返り血のよう霊のよう」と戯けているのではないかと思った。全くどういう巡り合わせか、雪国なんぞという因果な所に住むはめになっているが、この雪なんぞというものは返り血のようなもの霊のようなもので、もうどうにもならない腐れ縁だ、というようなことではないか。 |
鑑賞日 2008/1/5 | |
狐からきつねの面を賜る上毛
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下山田禮子 群馬
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〈賜〉は[たば]とルビ 具体的にどのような事実から発想されたものであるか推察できないのであるが、土俗的な雰囲気を持っている句である。「賜る」という言葉や「上毛」という地名がその雰囲気を支えている。「狐からきつねの面を」もらうというだけではどこか皮肉な感じだけを受けるのであるが、もちろんそういう意味が込められている雰囲気も無いではないが、全体的には土俗というものを感じる。 |
鑑賞日 2008/1/6 | |
狐火なりそして誰かが抜けてゆく
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白石司子 愛媛
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生死の不思議さを土俗的にそして妖しい幻影として表現しているのではないか。 |
鑑賞日 2008/1/7 | |
雪染み入り川底の顔目覚めけり
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鈴木修一 秋田
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雪が川に染み入って川底がはっきり見えてきた、ありうは意識されてきた、というのが事実であろう。それを川底にさも人格があるように「川底の顔目覚めけり」と表現したのが味噌で、アニミズム的な要素や神話的な要素も加わってくる。 |
鑑賞日 2008/1/8 | |
しがらみや餅に捕られし歯一本
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鈴木康之 宮崎
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われわれはいろいろなしがらみの中で暮しているが、それは歯に餅がひっついてくるようなものでしょうがないし、まあそれほど深刻に考えるものでもない。たまには餅に歯を一本持っていかれることもあるかもしれないが、まあその程度のことである。 |
鑑賞日 2008/1/9 | |
喉すべる酢がき穂高はうすずみに
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田口満代子 千葉
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旅情である。この作者の句集を以前読ませてもらったことがあるが、〈地上を旅する置き去りにされた天使〉というようなイメージを抱いたことがある。〈置き去りにされた天使〉というのは少々大げさかもしれないが、〈地上の旅人〉あるいは〈時の旅人〉というイメージは当っているかもしれない。 |
鑑賞日 2008/1/10 | |
ナマハゲの藁をつかんで眠る海女
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舘岡誠二 秋田
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私にとっては、これは異国の風景を夢の風景を見るような趣とときめきがある。例えばアンリルソーの絵を見るごときである。ナマハゲも海女も実際には見たことがない所為かもしれないが、それだけではなく多分夢の質をこの句は持っている。 |
鑑賞日 2008/1/11 | |
てふてふは鋼たらむとまつしぐら
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佃 悦夫 神奈川
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蝶々がまっしぐらに翔んだ時のその感じを「鋼たらむと・・」と表現したのがユニークな表現である。このユニークさは作者の心の志向の反映に違いない。 |
鑑賞日 2008/1/12 | |
喉奥に次の歯があり冬の濤
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土田武人 神奈川
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次々と次々とやってくる冬の濤。遠くの一つの濤を見ていると、更にその向こうに次の濤がある。この海と空を全景のその奥を眺めているのであるが、それがまるで喉の奥のような感じられるというのである。ぱっくりと存在が口を開けているという大きな想念がある。 |
鑑賞日 2008/1/13 | |
餅花や主人に期待しない猫
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峠谷清弘 埼玉
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私小説風の俳味と言おうか。俳句版〈我が輩は猫である〉。背景としての「餅花」の味がいい。 |
鑑賞日 2008/1/13 | |
ほちゃれ鮭墓が三つとなりにけり
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徳才子青良 青森
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「ほちゃれ鮭」とは川を遡上して産卵の後に死んだ鮭のことである。ぼろぼろになって死ぬという。俺の家も何だかやと墓が三つとなったけれど、人間も鮭も同じようなもんだなあ、というさっぱりと軽くユーモアを持っていなしているという感じである。 |
鑑賞日 2008/1/14 | |
マスクしてパセリの緑に感激す
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長谷川順子 埼玉
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マスクをしたときの不自然な感覚。自然と隔てられた感覚。鼻と口がふさがれて眼だけが出ている。視覚だけが(聴覚もあるが)働く状態。そのときにやけにパセリの緑が鮮やかに映ったのであろう。マスクの白とパセリの緑の対比もある。「感激す」というストレートな表現。 |
鑑賞日 2008/1/14 | |
嗚呼夫よ生きて困らす枯葉でいい
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藤田ユリ子 愛媛
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状況はよく解る。そして「枯葉」がいいのではないか。枯葉のからからと乾いた感じが、句がセンチメンタルに陥ることを防いでいる。 |
鑑賞日 2008/1/15 | |
なべて人は小春の海に涙ぐむ
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堀之内長一 埼玉
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この断定が美しい。新しい発見であり、だからこそまた真実味もある。 |
鑑賞日 2008/1/15 | |
未だ脆き思想のころの隙間風
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松本勇二 愛媛
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過去を思いだしているのであろう。隙間風が吹いてきた。そういえば、まだ若いころ、そうまだ危なっかしい思想であの部屋に居た時も、こんな隙間風が吹いていたなあ、といったところか。読んでいるうちに、この「隙間風」が心の隙間風というようにも感じられてくる。現在、心に隙間風が吹いているような状況であるが、これはあの頃に経験したことでもあるなあ、というようにである。 |
鑑賞日 2008/1/16 | |
妊婦はや人魚のけはひ初日受く
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マブソン 青眼
長野 |
男にとって女性はもともと神秘的な存在であるが、それが妊婦ともなると余計に何か近寄りがたい尊敬とともに何か生き物感というようなものを帯びてくる。その微妙な感覚を「人魚のけはひ」と表現したのがとても素敵だ。その妊婦が初日を受けているというのである。生々しい淑気というようなものがある。 |
鑑賞日 2008/1/16 | |
二日の夜水のよう嘘のよう声す
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三井絹枝 東京
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「水のよう嘘のよう声す」、幻聴というようなことが思い浮かんだ。そういう病気でも聞えるし、あるいは預言者のような人達も聞えたそうである。いずれにしてもとても繊細な柔らかい感受性を感じるし、現実と幻影の間に居るような感じがする。「二日の夜」というものがその妖しい雰囲気に相応しい。 |
鑑賞日 2008/1/17 | |
口に運ぶすずなすずしろ流離かな
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横地かをる 愛知
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日常の中でふと感じる流離感。〈人生は旅である〉などと大げさな表明はしなくとも日々私達はそのようにうすうすとでも感じざるを得ない。そのあたりの事実をさらりと書いている。 |
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