表紙へ 前の号 次の号
金子兜太選海程秀句鑑賞 431号(2007年4月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2007/11/3
一身のただ一心や穴惑
阿保恭子 東京

 「一身」と言われてみれば、蛇というのはそういう感じだなあと思う。そして「だた一心」と言われてみれば、そういう感じだなあと思う。それに引き換え私は・・・と作者は思ったのではなかろうか。あるいは、私もそうありたいと思ったのかもしれない。「穴惑」は蛇のことでもあるし、また作者の惑う状態のような気もする。


2

鑑賞日 2007/11/4
知床は水洟だらけ洒落気なし
池永露声 北海道

 「世界遺産にもなっているあの有名な知床半島にやってきたが、寒くて寒くて水洟ばかりがだらだらだらだら流れ出てきて、これじゃあ全く洒落っ気がねえ」。北海道膝栗毛。


3

鑑賞日 2007/11/5
蕪白くなる甘くなる寒くなる
伊佐利子 福岡

 その季節季節で食いたくなる野菜というのがある。それは決まってその時に収穫できる野菜である。長年野菜の自給生活をしている私の感想である。夏などは胡瓜の漬物などが美味くて美味くてたまらないのであるが、秋の風が感じられるようになるとだんだんと胡瓜に対する食欲が落ちてくる。代ってだんだんと大根や白菜などの漬物が美味いと思うようになってくる。ことにだんだん寒くなってくる頃の蕪の漬物などはもう堪らなく美味い。この句にはそういう季節と野菜のそして人間の係わり合いがある。白い御飯で蕪の漬物が無性に食いたくなってきた。


4

鑑賞日 2007/11/6
軍鶏三羽透けるまぶたの日向ぼこ
石田順久 神奈川

 そう言われてみれば、鶏のまぶたというのは透けている。観察眼の働いた写生句であるが、それだけではない。つまり単なる鶏ではなくて軍鶏であるというところがこの句を味わうところではないか。普段闘いにいそしんでいる軍鶏が陽の光に陶酔しているように日向ぼこしている。そこにやはり擬人化されたある意味を感じる。「三羽」は語調を整えるものであろう。一羽でもまた面白いような気がする。


5

鑑賞日 2007/11/7
蚕しぐれの薄暮や老母淋しがる
伊藤 和 東京

 蚕はどんな音を立てて桑を食むのであろうか。私は聞いたことがないのではっきりとは分らないが、それを「蚕(こ)しぐれ」ということからザワザワザワとかサワサワサワとかそんな音なのであろうか。とにかくそういう音がしている薄暮に老母が淋しがっているというのである。または老母が淋しがっている様子が蚕しぐれの薄暮のようだと言っているのかもしれない。とにかくこの「蚕しぐれの薄暮」と「老母淋しがる」ということが響き合って、薄墨色の鈍い光の叙情というような雰囲気を醸し出している。


6

鑑賞日 2007/11/8
狼や水位あがりし日本海
大下志峰 福井

 狼が、これは龍神というような感じの狼であるが、その狼が日本海を眺めて「ん、これは少し水位が上がっているな」と呟いているような光景が見えたりする。また、日本海の水位が上がっていること自体が狼である、すなわち自然というものを狼に象徴させて、それが人間に反撃の牙を剥き出してきた、というような解釈もある。いずれにしろ、人間による環境破壊というものを、自然の髄としての狼との配合によって描いている。


7

鑑賞日 2007/11/9
鴻毛の兵ながらへて冬耕す
緒方 輝 東京

 「鴻毛(こうもう)」とは鴻(おおとり)の羽毛のことで、きわめて軽いもののたとえ、と広辞林にある。「義は山獄よりも重く、死は鴻毛よりも軽し」とか「君命は重く、命は鴻毛よりも軽し」という言葉を背負って戦場に赴いたとか聞く。
 戦争に行った父親世代には、間違った戦争をしてたくさんの命を死なしてしまったという後悔があると聞く。逆に私のような戦後世代には、戦争に行って苦しい経験をした人に対して、自分たちは平和な時代に暮させてもらって申し訳ないという思いがある。だからこのような戦争体験者の重いものを背負ったしみじみとした句には何も言えないというのが私の感想である。事実を受けとめて味わうしかない。


8

鑑賞日2007/11/10
無花果の木下闇まで耕す父
小川久美子 群馬

 作者は私と同年代(団塊)だから、この父というのはやはり戦争をその青年期に体験している世代である。またいわゆるモッタイナイということを知っている世代でもあり、そういう世代の人間がよく捉えられているという面からこの句を受け取ることもできる。が、それだけではない。「無花果の木下闇まで耕す」というのが何か人間の内面の心理的な闇の部分まできっちりと掘り下げて整理しておきたいというような態度の人間像が浮かんでくる。それがまた無花果の木下闇であるから、哲学の虚しさのようなものも暗示されている気さえしてしまう。日常的な言葉で言えば、几帳面な父、几帳面すぎる父。そういう父を眺めている作者の眼差しがある。


9

鑑賞日2007/11/11
冬耕や石の中から石拾う
奥山和子 三重

 地の塩とでも形容したくたなるような人物像が思い浮かぶ。句全体が鈍い光を放っている。しかしこれは確実な光である。


10

鑑賞日2007/11/12
月白の地下に柱のありにけり
小野裕三 神奈川

 気味悪さが殆どない超現実主義の絵画のような印象といったらいいだろうか。澄み切った感覚的な画面である。


11

鑑賞日2007/11/13
屈強の破蓮として残りけり
こしのゆみこ
 東京

 存在感のある破蓮の姿がそこに現前する。破蓮の存在感を描いて成功しているとともに、作者の生きる姿勢への意思もしくは憧れのようなものが滲み出ている感じである。「屈強の破蓮として残る」ということへの共感である。


12

鑑賞日2007/11/14
放浪や峡に入り来し霧の戯れ
小林一村 福井

 〈戯〉は[しや]とルビ

 水墨で描かれた自由な感じの山水画のような雰囲気と言ったらいいだろうか。禅の要素も含まれるような。


13

鑑賞日2007/11/15
神無月や干潟つくづく濡れていし
小林一枝 東京

 〈神無月〉は[かみなし]とルビ

 つくづく濡れている干潟・・・自然は性でできている。そこに人間の情念、土俗的なものが重なり混じって、妙に生々しい性的な艶のある情感がある。・・・眼前にあるのはつくづく濡れている干潟。


14

鑑賞日2007/11/16
キツネノカミソリ先頭のぼく破顔
小原惠子 埼玉

 何人かでハイキングか何かに行った時、キツネノカミソリが咲いている所に出くわした、先頭にいるぼくは破顔になったということであろうか。「キツネノカミソリ」という民話的で人を化かしそうな名前と「先頭のぼく破顔」ということが、楽しい童話的な雰囲気を醸し出している。女性作家でありながら「ぼく」という言葉使いをしたこと自体、既にその世界に入り込んでいる、ということではないか。


15

鑑賞日2007/11/19
動きたくてたまらぬ老母や枇杷の花
佐藤幸子 新潟

 「動きたくてたまらぬ老母」ということで、私は私の義母もそうであるなあと思ったりしているが、だから老母のこういうあり方はかなり一般性があるのではないか、と思った。一般性があるからと言っても、それを見つけて書くということはなかなか気が付かない。そしてまた、「動きたくてたまらぬ」というように生き物のように老母を捉えていることが、「枇杷の花」とのいのちの交信という次元での響き合いがあるのではないだろうか。


16

鑑賞日2007/11/20
まひるまも落ちる星あり龍の玉
塩野谷仁 千葉

 「まひるまも落ちる星あり」ということが「龍の玉」という座五で納得できる。このことを「龍の玉」が言っているようなあるいは感じているような感覚が起る。人間には感じられないものごとを星や植物は感じあっているという事実に思い当たる。


17

鑑賞日2007/11/21
星が綺麗というだけのこと夜寒かな
篠田悦子 埼玉

 私などもこういう場面は何度も何度も経験していることであるが、こういう事が俳句になってしまうというのに感心している。つまり「星が綺麗というだけのことで俳句にはならないなあ、寒い寒い家に入ろう」などと私などは見過ごしてしまっていた気がするのであるが、この句を読んで、私なども沢山経験している日常の場面が見事に俳句に切り取られて書かれているのを見て、日常を見つめる俳句意識の足りなさを反省している次第である。


18

鑑賞日2007/11/22
大竜巻その夜寒月誰彼に
末岡 睦 北海道

 座五の「誰彼に」というぼそぼそっとした曖昧な言い方が、「大竜巻その夜寒月」という印象的な景色を何か抽象的な美としてそのまま取っておきたいような気持ちだったのではないかと推察する。


19

鑑賞日2007/11/23
からまつに雪しがみつき人は地に
鈴木八駛朗 
北海道

 発想としては「人は地にしがみつく」というのがあるかもしれない。しかしそういう理屈は消化されていて、北海道の風土感が表出されている。その風土の中に生きている人の息遣いも感じられる。印象としては「人は地にある」くらいの感じである。


20

鑑賞日2007/11/24
正論で破蓮までを歩けるか
高桑婦美子 千葉

 どこまでも歩けるのが正論であろう。しかし世の中には似非正論が多過ぎる。そういう似非正論のことをこの句は言っているに違いない。もっとも「論」ということ自体に限界はある。生というのは論理以上のものであるからである。生は広大である。生を論でからめ捕ることは出来ない。句において「破蓮」というものが象徴性をもった実体として迫ってくる。


21

鑑賞日2007/11/25
猫に髭父に北斗の光すこし
高橋たねを 兵庫

 〈光〉は[かげ]とルビ

 上手い句である。「猫に髭」などという入り方も俳味があるし、一転「父に北斗の光すこし」とキリッと心的事実に真向っている。実際その心的事実をこのように表現し得たという形象の力は大したものである。


22

鑑賞日2007/11/26
寝たきりを担いで葬の端に立つ
竹内一犀 静岡

 「寝たきり」という思い切った省略が却って表現を豊かにしている。庶民の味、人間の味がする。下町の人情噺というような落語的な風味もある。上質の川柳のような香りもある。


23

鑑賞日2007/11/27
時雨るるや家路半ばの恍惚よ
丹後千代子 福井

 時雨が降ってきた、自分は家路半ばで恍惚な気分になっている、というのである。人間誰しも恍惚な気分になる瞬間はある。それが時雨の中であり、また家路の半ばで予期せぬように起ったというのが、恍惚というものに出会う大きな条件を示唆されているようにも思うのである。矛盾した言い方になるかもしれないが、恍惚というのは外界の条件との因果関係が計算できないようなやり方で起るからである。この句は恍惚の場面としてリアリティーがある。


24

鑑賞日2007/11/28
冬至湯や故郷の言葉で独り言
峠谷清弘 埼玉

 ぽつんと一人湯に浸かっている作者の姿が目に浮かぶ。寒さが募る中、温かい冬至湯にほっとしてリラックスしているようでもあるし、またふと現在の自分の寂しさを感じている風情もある。


25

鑑賞日2007/11/29
山肌の人肌の朝花鶏来よ
遠山郁好 東京

 私達は自然の中に暮しているのであるが、常に自然に親しみを持って暮しているわけではない。むしろ現代人は自然と自己の分離感のもとに暮している場合が殆どなのではないか。自然から生れ自然の中で暮しそして自然に還ってゆくという感じ方が失われてしまったというのが現代の不幸の元である。しかし時として私達はこの感覚を取り戻すことがある。それは啓示のようにやって来る。自然がとても親しいものに殆ど自己と一体のものに感じられる時がある。この句はそういう刻を表現しているのではないだろうか。


26

鑑賞日2007/11/30
秋の蛇ことごとく水平であり
戸田寿美女 岡山

 作者は高齢の方なのであろうか。エネルギーの暴れている若者にはない穏やかで澄んだものの見方というものを感じるからである。もし若い人なら、それは若くして既に落ち着いた感性を持っているということであろう。


27

鑑賞日2007/12/1
すだち酸っぱし必修逃れなどありて
中村裕子 秋田

 心理的な「酸っぱさ」を「すだち酸っぱし」と匂わせた。物で表現するということ。


28

鑑賞日2007/12/2
全山紅葉とは対岸の気力かな
蓮田双川 茨城

 全山紅葉している山を前にして、大したもんだと思っている。それを「対岸の気力」と表現したことによって、この山との位置関係もよく分るし、活き活きと紅葉している山の樹々の様子が伝わって来る。紅葉した全山の大づかみなエネルギーの把握である。


29

鑑賞日2007/12/3
風の紫苑に父焼く骨の谺かな
はやし麻由 埼玉

 状況を表そうとして沢山の言葉が詰まっているが、それらがうるさくなく、全体的に一つの想いを受け取ることが出来る。亡父への想いであるが、その想いは純化され、作者の中で風の音のように響いている、という感じであろうか。父の死を淋しくも受け入れて佇む作者の心持ちがしんと伝わって来る。


30

鑑賞日2007/12/4
黄昏は甲冑のイメージに着ぶくれ
藤江 瑞 神奈川

 黄昏が甲冑のイメージに着ぶくれているのか、黄昏に自分が甲冑のイメージに着ぶくれているのか、どちらとも取れる。とにかくこの句の面白さは「甲冑のイメージに着ぶくれ」という表現だろう。


31

鑑賞日2007/12/5
石段に男のひびき山眠る
松本文子 栃木

 「男のひびき」の「の」は主格ではないか。つまり「男がひびき」に近いのではないか。そのほうが私には句が感じられる。
 石段で何か鍛練をしている男が想像される。そしてその背景に大きな力を秘めた山が眠っているというような景色である。


32

鑑賞日2007/12/6
がちゃがちゃや嫁の正論を反芻
丸山マサ江 群馬

 人柄も偲ばれるし、季語もぴったり当てはまっているし、とにかく生身の人間というものが感じられる好句である。


33

鑑賞日2007/12/7
冬蝶のぽと蒼みし紙包み
森央ミモザ 長野

 存在そのものの美しさ。存在を美しく感じる作者の感性といってもいい。「ぽ」という擬態語が印象的である。


34

鑑賞日2007/12/8
わが影という生き物に秋の蜂
守屋茂泰 東京

 「わが影という生き物」を光によってできる影と受け取るか、あるいは自分という現象そのものと受け取るか、表面的には前者であろうが、深いところでは後者のような気がする。意識としての自己と現象としての自己の分離感、と言ったらいいだろうか。現象としての自己(わが影という生き物)を見つめている意識としての自己がいる、と言ったらいいだろうか。内省的な傾向を持った作家である。


35

鑑賞日2007/12/9
自由という孤独車窓に柚子たわわ
安井昌子 東京

 煩雑な日常から遠ざかって旅にでも出る機会を得たのであろうか。あるいは子育てや仕事から解放されて自分の時間を自由に使える年齢になって旅にでも出たのだろうか。それも一人旅という感じがある。そして作者は孤独を感じている。そして車窓の柚子がたわわに実っているのを眺めている。解る気がする。そして人間存在に突き付けられ横たわっている〈自由〉というたわわなるものを想う。


36

鑑賞日2007/12/10
余情とは刈田見て来たあの渇き
矢野千佳子神奈川

 こう言われてみると、稲が刈られてしまった後の田はどこか空虚で目的を見失った時のような渇きの感じが確かにある。いわば負の情の感覚であるが、こういう負の感覚というのは言われてみないとなかなか気付かない。それを作者は「余情とは」とまで言って強調している。


37

鑑賞日2007/12/11
仏間なく秋思の風の冷たさに
山岡千枝子 岡山

 仏間がなく、秋思の風の冷たさに身をさらしている、置いている、というのであろうか。私なども仏間はもちろんないし、全く欲しいとも思わないのであるが、だからこの句に於ける「仏間」を自分が内省する一つの場所と考えれば理解できるのである。人間にはそういう場所そういう時間が必要である。


38

鑑賞日2007/12/12
山の月雪の足跡みな尾を持つ
山本 勲 北海道

 積もった雪に付いた足跡というのは、スッスッと掃いたような足を雪に擦った跡が付く。殊に新雪の場合に付くことが多いのではないか。それを「尾を持つ」と表現したというのが実景ではないだろうか。ただ、そういうふうな写生的な意味合いだけではないものがこの句にはある。どこか〈けもの〉の匂いのする句である。足跡が獣の足跡かもしれないというだけではなく、句全体からそういう匂いがするのである。野生の生(なま)な感じといったらいいだろうか。


39

鑑賞日2007/12/13
雁や寝心かくも覚束無
柚木紀子 東京

 〈雁〉は[かりがね」、〈覚束無〉は[おぼつかな]とルビ

 ある年齢に達してきた人の感慨ではなかろうか。ある年齢というのは、死や病を意識し始める年齢である。無意識のうちに人生は旅に過ぎないと感じる年齢である。芭蕉の「病雁の夜寒に落ちて旅寝哉」などという句が作者の脳裡を過ったかもしれない。

表紙へ 前の号 次の号
inserted by FC2 system