表紙へ 前の号 次の号
金子兜太選海程秀句鑑賞 428号(2006年12月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2007/7/11
生かされて腰に巾着蚊取り線香
植田郁一 東京

 哀しくもまた可笑しい人間の姿。作者を全く知らないが、この「生かされて」という言葉にどこか大病をした後の雰囲気がある。そして現在は腰に巾着と蚊取り線香を付けて歩けるような状態で、蚊取り線香というから野を歩いている感じで、大きな自然の中をよろよろと歩いて行くというような滑稽味、人間の本質のようなものを感じる。


2

鑑賞日 2007/7/12
冬の山獣の糞に木木の種
内野 修 埼玉

 何の抵抗もなくそのまま味わえる。生命の相から見た冬の山の本質のようなものを感じる。


3

鑑賞日 2007/7/13
茱萸熟れて眼中の子の拗ねている
榎本祐子 兵庫

 単に「子」としないで「眼中の子」としたことによって、映像に心理的なものが加わって色彩が豊かになっている。絵画でいえば眼の中に風景があるような画面を想い浮かべればいいのではないか。


4

鑑賞日 2007/7/14
八月や地球に二つ爆心地
緒方 輝 東京

 非常に客観的な乾いた視点で事実が提示されている。だからどうのこうのとは一言も言っていない。地球の事を調べに来た宇宙人が客観的に記述しているような趣さえある。まるで、この事実を知れば、人間に関する全ての事実が解るというような記述である。「ハチガツチキュウニフタツバクシンチ。サアツギノホシニイコウカ」


5

鑑賞日 2007/7/15
父逝けり子供を夜歩きさせるなとぞ
小川久美子 群馬

 軽い味。諧謔。つまり、死というものを生の中の日常的な物事と同列に扱っている味である。つまり禅的な、物事をあまり深刻に考えない味である。


6

鑑賞日 2007/7/16
プードルと背中あわせの熱帯夜
荻原信子 埼玉

 抱っこなんかしていられない。プードルの方もそれはご免だ。お互いに背中あわせでぐんなりとした時を過ごしている。熱帯夜だからしょうがない。まあそれもいいじゃないか。そういう日常の一コマ。一つの日常の味である。


7

鑑賞日 2007/7/17
白桔梗いまわなる人呼びしは母
尾田明子 埼玉

 死という不可思議な現象。そして死の時の不思議なさえざえとした時間。そういう時間に私の意識が運ばれてゆく。


8

鑑賞日 2007/7/18
滝の夜少女のような和室かな
小野裕三 神奈川

 旅先だろう、滝の音をずっと聞いていて、その夜の宿の部屋が「少女のような和室」だった、というようなことではないだろうか。このような譬えが出てくるというのは感覚の冴えである。その感覚の冴えを産んだのは「滝の音」であるような気がする。感覚そのものの光と言えるようなものを感じる。


9

鑑賞日 2007/7/19
喜雨というそこひの母の前うしろ
加川憲一 北海道

 難しく考えないでいい。「喜雨」と「そこひの母」との交感である。「喜雨という」であるから「喜雨」と「そこひの母」が言ったのかもしれない。とにかく「喜雨」と「そこひの母」の取り合わせが面白い。また「前うしろ」とそっと付けたのも両者の優しい交感を感じさせる。


10

鑑賞日 2007/7/20
梅雨深夜声帯という浪漫あり
狩野康子 宮城

 「声帯という浪漫」ということで、私はこの人は歌を歌っているかあるいは声そのものを出してその変化を楽しむようなことをしているのではないかと思った。または他の人がそういうことをしているのを聞いている。あるいは声楽の音楽会を楽しんでいるということも考えられる。とにかく「声帯という浪漫あり」というのが具体的には特定できないが、しかしこの言葉が指し示すところのものは「梅雨深夜」というしっとりと湿った季節の深夜という艶のある時間に相応しいのではないか。


11

鑑賞日 2007/7/21
赤セロハン透かしみる癖八月来
紙谷香須子 滋賀

 「赤セロハン透かしみる癖」で少女というイメージが起こる。作者の中に存在する少女と見てもいい。そして赤セロハンを透かし見た時の世界と、終戦の敗戦の原爆の暑い八月が来るということが、どこかで触れ合ってくる。例えば少女のような、無垢なるこころが感じている、八月のイメージと言いたい感じである。


12

鑑賞日 2007/7/22
手花火に肉を焦がすを生という
上林 裕 東京

 死が観念であるように生も観念に過ぎない。敢て言えば生とは「手花火に肉を焦がす」ようなものですよ、と作者は言っているような気がする。


13

鑑賞日 2007/7/23
ふるさとありひとりよがりの大昼寝
京武久美 宮城

 全体的に健康的な感じ。「ふるさとは遠くにありて想うもの」という感傷ではなくて、直にふるさとに触れる大地に触れる感じがあり、また単に昼寝ではなく大昼寝というのがゆったりとしたリラックス感があり、それを「ひとりよがりの」と言う諧謔性もある。


14

鑑賞日 2007/7/24
鮎は藻を吾は川風を食べ加齢
黒川憲三 栃木

 多分、釣りをしているときの感慨なのではなかろうか。私は釣りをやらないのであるが、この句を読んで釣り人が釣りをしている時のとても良い時間を体験しているような気分になってきたのである。普通の日常の時間の流れとは全く別の時間の流れを釣り人は釣りという時間に体験しているのではなかろうか。


15

鑑賞日 2007/7/25
ぼんやりと茄子の親しさ介護かな
小池弘子 富山

 介護の生活をしていて、ふと「ぼんやりと茄子の親しさ」のような感じを抱いたというのであろうか。われながらわかる気がする。どのような事でもそれを受け入れて肯定的にすることで、今まで気づかなかった味を味わうことがある。この句の場合、介護生活における一つの味を「ぼんやりと茄子の親しさ」と表現したのであるが、共感が湧いてくる。


16

鑑賞日 2007/7/26
虫干しの岸辺は旅の途中なり
小林一村 福井

 さっぱりと書かれた句姿の中にあるそれぞれの言葉の指し示す意味内容が豊富である。とても佳い句ではないか。客観的に書かれた境涯感という言い方はどうだろう。


17

鑑賞日 2007/7/27
搾乳の人の姿勢を楷書という
今野修三 東京

 搾乳している人の形だけを描写した、いわば彫刻的な作品ではないだろうか。


18

鑑賞日 2007/7/28
烏賊火置く距離徒然の挽歌なり
佐々木義雄 福井

 雰囲気がよく伝わって来る。この生は徒然の挽歌であるという感じを持つことはある。それはしみじみと祈りを持って大切に生を生きていこうという感じである。そのような感じと「烏賊火置く距離」という雰囲気がとてもよく響き合うのである。


19

鑑賞日 2007/7/29
悼むとは乱読のごと夏の果
下山田禮子 埼玉

 悼むとは乱読のごとくだと作者は言う。何か心の芯が癒されない、納得しない、ああだこうだと外側に自分を納得させるものを求めるが、ただ疲れ果てるだけである。そういう状態ではなかろうか。「夏の果」が響く。


20

鑑賞日 2007/7/30
先生は呑気な金魚のかたちして
たかはししずみ 愛媛

 「先生」への親しみが明るく捉えられている。「呑気な金魚のかたち」という言葉がひらめいた時にこの句はすっとでき上がったのではないだろうか。とにかくこの言葉の持つユーモアと明るさが魅力の句である。


21

鑑賞日 2007/7/31
にら粥に玉子落して朱の月の
田中昌子 京都

 にら粥に玉子を落した時に朱の月のようだという感覚である。ただの粥でなくにら粥であるのが、作者のナイーブな色彩感覚を呼び覚まして、この句を書かせたのではなかろうか。


22

鑑賞日 2007/8/1
ラムネ直ぐからころからころマンネリズム
田沼美智子 千葉

 作者の日常の軽快感のようなものを感じる。軽いリズム感で作者は生きているのかもしれない。穿ってみれば、その日常の軽快感の中に物足りなさを感じているということもある。しかし大体において明るくそれ程深刻ではない。


23

鑑賞日 2007/8/2
赤とんぼ極楽とんぼのあみの中
田村行子 栃木

 思い出だろうか、それとも現在のことだろうか。とにかく、このような極楽とんぼが居るというのが実に嬉しい。句としては「赤とんぼ極楽とんぼ・・」と調子が快く、また作者のこの極楽とんぼなる人物に対する親しが感じられる。


24

鑑賞日 2007/8/3
あぶらぜみ加賀から京へ籠使う
土田武人 神奈川

 江戸時代くらいの短編小説とみれば解りやすい。夏の季節、加賀から京へ籠を使ったというのである。籠としてはかなり長い距離である。暑いし、うんざりするほどの長い時間である。さまざまなことに出会ったに違いない。しかし印象として一番残っているのは油蝉の声である。人間さまざまなことに出会うが、結局印象に残るのは些細なことへの感覚であるということはよくある。


25

鑑賞日 2007/8/4
印象は未完がよけれキャンプの火
中村孝史 宮城

 「印象は未完がよけれ」と言われるとなるほどなあと思う。印象というのはそういうものだという感じになる。このことと「キャンプの火」の配合。これは案外ちょうどいいのではないか。マッチの火だと付き過ぎだし、もっと長く燃える火だと「印象」という感じは出てこない。また、キャンプの火に照らし出された誰かの横顔などの印象であるという想像も出てくる。


26

鑑賞日 2007/8/5
友悼みさめざめ泣くに暑すぎる
長谷川育子 新潟

 可笑しい。泣き笑いの可笑しみである。肉体を持つ人間の哀しさの可笑しみである。人間存在への愛しさが滲んでいる。


27

鑑賞日 2007/8/6
山蟻や幼子爺へまっしぐら
平山圭子 岐阜

 なぜ響くのかということを考えてもしようがないのであるが、この「山蟻」が句の内容にとてもよく響く。まさに付き過ぎもせず離れ過ぎもせずに響くのである。山蟻と遊んでいた幼子が爺の姿を見てまっしぐらに走っていった、というような場面を思い浮かべるのも良いが、それは止めておいてこの響きそのものを楽しんでいたほうが詩的であり、上質の鑑賞のような気がする。


28

鑑賞日 2007/8/7
助詞のようにゆらゆらソフトクリーム
広辻閑子 石川

 助詞のようにゆらゆらしているのは作者の気持ちか、辺りの風景か、あるいはソフトクリーム自体か。いずれにしても現代の都会の心許ないような軽い明るさの雰囲気が感じられる。


29

鑑賞日 2007/8/8
八月や爛々と生おうおうと森
福原 實 宮城

 自然という生命体の命そのものが満ち満ちてくる八月という季節を、作者は自分の命と重ね合わせて感じているような力に満ちた句である。自然の命と自分の命が呼応している。


30

鑑賞日 2007/8/9
車椅子の病人立ってみせる夏
藤田ユリ子 愛媛

 「車椅子の病人立ってみせる 夏」としっかりと切って読むと味わいが出てくる。夏といっても様々な相があるが、私には爽やかで健康的で人間のエネルギーを誘うような夏を思う。五月ごろがそうではないか。読んでいるうちに「車椅子の病人 立ってみせる夏」と読んでも面白いと思った。車椅子の病人に夏が立ってみせた、というのである。すなわち立夏を詠んだものとも取れる。


31

鑑賞日 2007/8/10
苔に寝て霊長目はさみしかり
堀之内長一 埼玉

 映像と叙情の中間くらいのところで、しっとりとした雰囲気が出ている。大きな視点に立つ生命への優しさの眼差しという感じである。


32

鑑賞日 2007/8/11
花街の落書の蛇赤かりき
前川弘明 長崎

 一目瞭然印象鮮明である。しかも内容が内容だけにあからさまな性の観念が鮮やかで小気味よい。花街のいわばどろどろとした人間の情念や哀れさやはかなさというようなものはむしろあまり感じない。


33

鑑賞日 2007/8/12
はればれと水田の中に都市見えて
松本文子 栃木

 気持ちの良い風景句である。作者の肯定的な気分が表現された風景の中に満ちている。人間の文化というものが全的に肯定されているようである。


34

鑑賞日 2007/8/13
梅雨晴間老いて学べば死して朽ちず
光宗柚木子 愛媛

 「老いて学べば死して朽ちず」という格言のようなリズムが快い。それが格言の言葉だけに終らないのは「梅雨晴間」が有るからで、作者の生活のリズムが伝わってくる。


35

鑑賞日 2007/8/14
真青なる蓴菜戦争知らぬ子と
武藤暁美 秋田

 真青なる蓴菜をこの子と眺めている。〈この時〉への愛おしみの一句。戦争を知らないこの子。このような時がいつまで続いてくれるのだろうか。蓴菜の青、戦争を知らない子、これらが愛おしい。


36

鑑賞日 2007/8/15
穢れたる舌月光に晒しおり
山下真理子北海道

 舌は様々なものによって穢れる。喫煙によって、汚染された食物によって、ついてしまった嘘によって、人を非難した言葉によって等々。そのような舌を月光に晒しているというのである。典型的な人間の業が描けているし、月の光の美しさそして月の持つ神格性などが感じられる。作者は激しく真摯である。団塊の世代あたり以上の人ではないだろうか。


37

鑑賞日 2007/8/16
人に人離りゆく大山蓮華
柚木紀子 東京

 〈離〉は[さか]とルビ

 作者は東京の人である。東京の魅力は人間と人間のドラマの魅力であろう。人間と自然の関わりは当然少ない。人間関係だけでは疲れてしまう私はとても東京には住めない。大自然の持つ大いなる沈黙が私には必要である。大山蓮華はモクレン科の花で別名深山蓮華と言われるように深山に生える植物である。人間が自然から離れて行く状況を詠んだ句であろう。その状況を逆に、大山蓮華すなわち大自然の精がしり込みするように人間から離れていってしまうと書いたところがこの句の味噌である。自然の精である「大山蓮華」の表情が見えてくる。


38

鑑賞日 2007/8/17
旅終わる波が洗いし硝子掌に
吉川真美 東京

 季語はどこにもないが秋の感じである。夏の旅そして今は秋という感じである。「旅終わる」、「波が洗いし」、「硝子」、「掌に」、全ての言葉に作者の想いが感じられる。完成度の高い抒情詩である。句の奥から波の音が聞えてくるようだ。

表紙へ 前の号 次の号
inserted by FC2 system