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金子兜太選海程秀句鑑賞 429号(2007年1月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2007/8/18
茂吉翁この秋馬穴新たにせり
阿保恭子 東京

 日常の詩。軽い諧謔。そして人間臭い人間の典型であるような茂吉への親しみ。それらが秋という気持ち良い季節感の中に描かれている。


2

鑑賞日 2007/8/19
貧血の馬が殴られ秋日落つ
池永露声 北海道

 荒々しくも大きな自然の中の叙情。怒りも哀れさもこの大自然の中のドラマの一部である。作者は北海道の人、北海道開拓民の歴史というようなことを感じる。「秋日」が悲しくも美しい。

3

鑑賞日 2007/8/20
やけに静か血管外科と黒葡萄
石上邦子 愛知

 血管外科がやけに静かだというのは解る。黒葡萄がやけに静かだというのも解る。この句も面白さはその両方をコラージュして見せたことである。


4

鑑賞日 2007/8/21
朱鷺色の鎖骨あるかな秋の暮
市野記余子 埼玉

 閑寂なまたモノクロームな感じの「秋の暮」に対して、「朱鷺色の鎖骨」という艶めかしい色彩感が印象的である。また古来〈もののあわれ〉とか〈寂しさ〉を本意としてきた「秋の暮」の概念がひっくり返される感じに小気味よいものもある。とにかく「朱鷺色の鎖骨」がなまなましい。
 ちなみに朱鷺色というのは下のような色である


5

鑑賞日 2007/8/22
いつも一途な水の流れよ色鳥来
伊藤淳子 東京

 たっぷりと澄んでいる。この作家の句は安心して読める。何も言うことがないくらい明快である。意識が澄んでいるのだろう。自分自身が大地の意識と同化しているようなたっぷり感がある。


6

鑑賞日 2007/8/23
秋風は戦争告知かも知れず
稲岡巳一朗 島根

 秋の初風のような雰囲気を感じる。本来秋の初風は涼やかで気持ちのよいものであるが、その風を戦争告知の感じに受け取るというのが新しく現代的であり、また現代の不安な時代を作者は感じ取っているにかもしれない。


7

鑑賞日 2007/8/24
月の友象の眼をして集まれり
上原祥子 山口

 象好きであり、月好きである私にとってはとても親しみのある句である。何年か前の私の絵には象が必ず現れそして月も現れた。象あるいは象の眼に象徴される何かと月に象徴される何かはどこかで密接に繋がっているのかもしれない。


8

鑑賞日 2007/8/25
人生論舌に触らぬ鱧の骨
内田利之 兵庫

 鱧を食いながら人生論でも闘わせているのだろうか。この「舌に触らぬ鱧の骨」の暗喩の幅はとても広い。「鱧」を辞典で調べて見ると次のような説明がある。
 ウナギ目の海魚。全長約2メートルの大型の肉食魚。性質が荒くて、口が大きく、歯が発達する。漁獲した際には大きな口と鋭い歯で咬みついてくるので、生体の取り扱いには充分な注意が必要である。ハモという和名も、よく咬みつくことから「食む」(はむ)が変化した呼称といわれる。小骨が多いので骨切りをし、吸い物や蒲(かば)焼きなどにする、高級食材である。
 これらの説明を句と合わせて読んでいると、ついニヤニヤした笑いが出てきてしまう。


9

鑑賞日 2007/8/26
忘却とは松にただよう花火殻
金谷和子 埼玉

 譬えの新鮮さ面白さ。こう言われてみると、忘却というのはそのようなものかもしれないと思う。「忘却」と発すること自体がまだ忘れきってはいないということであり、微妙に記憶が残存している状態であるから、「松にただよう花火殻」と言われれば、成る程そうだと思うのである。また「忘却」ということの過程を表しているとも言える。「松にただよう花火殻」のように少しためらいながらもだんだんと消えてゆく。


10

鑑賞日 2007/8/27
米袋抱き上げ縄文の体温に
柄沢あいこ神奈川

 「体温」と言ったのが上手いというか、言い当てたという感じである。おそらくスーパーで売られているビニールに入った米袋ではなく、農家で扱うような麻袋やそんなものに入った重たい米袋のような気がする。私もそういうのを抱き上げた経験があるが、米の温もりはまさに縄文の温もりである気がしてきた。


11

鑑賞日 2007/8/28
漂泊の表面張力すすき原
川崎益太郎 広島

 気持ちのいい句である。この句の「表面張力」という言葉がとても魅力的である。たっぷりとした「すすき原」のイメージがあるし、また「漂泊」ということのある気持ち良さの形容のような言葉でもある気がする。透明感があるし、気が満ちている。「漂泊」と「すすき原」という古典的な結びつきの事柄を現代感覚で捉えて秀逸である。


12

鑑賞日 2007/8/29
黒揚羽吸いこまれるようもの忘れ
川田由美子 東京

 この「もの忘れ」はいわゆる日常的な意味でのもの忘れではないような気がする。いわば超日常というか忘我というか、そんなものに近いのではないか。美しいものに遭遇した時にそういう事は起る。この句はその過程を描いているように思う。


13

鑑賞日 2007/8/30
船箪笥開ければ祖母の花野かな
河原珠美 神奈川

 船箪笥とは、千石(せんごく)船などの船室に置いて使用した、小形の箪笥と広辞林にある。多分そのような箪笥を作者の祖母が持っていたのであろう。その船箪笥を開けると、そこには祖母の花野が広がっていたというのである。「花野」という言葉の持つイメージを最大限に活かした上手い譬えである。


14

鑑賞日 2007/8/31
野ぶどうのひそかに熟れる愛が欲し
川本洋栄 大阪

 しっとりとした叙情。野趣もある。現代人ではないもっと昔の野生味を帯びた若い女性などを想い浮かべるとぴったりするので、男性作家だと知って少し驚いた。何はともあれ香り高い一つの文学である。


15

鑑賞日 2007/9/1
火祭りよ陸果てのいや立ちくらみ
九堂夜想 神奈川

 〈陸〉は[くが]とルビ

 この作家には注目しているものがある。その技巧だとか何かではなく、その意識の在り方である。俳句は日常の詩であると言われるが、この人の場合はそうではない気がする。日常を逸脱した意識を書こうとしている。書こうとしているのではなく、そういう意識の中に在るということかもしれない。それが興味深いのである。言葉も沢山知っているし文学的知識も豊富なような気がするが、危惧するのは単なる文学的な個性を狙ったものに終るのではないかということである。何はともあれこの作家は面白い。
 この句なども例えば金子兜太の

無神の旅あかつき岬をマツチで燃し

のような個我の主張の気持ち良さを感じる。


16

鑑賞日 2007/9/2
戦友が田ごとの月に立っている
国しげ彦 埼玉

 何ともシュールな幻想的な映像が見えてくる。かなり強い印象がある。幻想的ではあるが強いリアリティーがある。作者の心の中の真実が形象化したということではなかろうか。


17

鑑賞日 2007/9/3
其処にコホロギ妻の眠りの浅ければ
小林まさる 群馬

 妻の眠りが浅くて、そしてその傍に蟋蟀が居るということなのであるが、この書き方によってさまざまな心の情景が加味されて来るような気がする。多分妻は病気か何かで眠りが浅い状態である。それを気遣って作者の眠りも浅い、ふと気が付けば「其処にコホロギ」が居る、このコホロギも妻を気遣ってやって来ているような気さえする。「其処にコホロギ」という表記も蟋蟀の不思議な存在感が出ているし、「浅ければ」という言い方が心理の綾を書き取っている。


18

鑑賞日 2007/9/4
猫じゃらし引越すように死ねるかや
今野修三 東京

 「引越すように死ねるかや」の内容はともかくとして、猫じゃらしが風に揺れているのが目に見えてくるような不思議に味の句である。「人間は一本の猫じゃらしである」という言葉が出てくるような洒脱さがあり、少し哀しくてまた可笑しい。


19

鑑賞日 2007/9/5
穴惑い耳掻きの届かざる点
酒井郁郎 埼玉

 耳掻きをしていてどうしても届かない点がある、ということと「穴惑い」との二物配合である。一見非常に直接的なダジャレのような配合のようにも見えるが、「穴惑い」という言葉の持つアナロジーの広さを考えると様々な連想の働く句である。


20

鑑賞日 2007/9/6
目にも見よ大鯉跳ねし良夜かな
清水喜美子 茨木

 豪快で気持ちのいい句。良夜に大鯉が跳ねたのを見た心の弾みが伝わって来る。「大鯉跳ねし良夜」がこの句の骨格である。「目にも見よ」はそれに大きさと威勢を与えている、いわば作者の個性の部分ではないか。


21

鑑賞日 2007/9/7
カンナの向こう海の光は永久に
鈴木修一 秋田

 〈永久〉は[とこしえ]とルビ

 カンナと海の対比は一般的な配合であるが、「永久に」と言ったのがこの風景に命を与えているし、作者の気持ちが何処にあるのかがはっきりしてくる。画竜点睛といったところ。カンナと海で検索したところ次の句があった。

カンナ燃え異人眺めし海輝やく      清水基吉
カンナ燃えいよいよ海は寂しい画布    鈴木修一
滑走路尽きてすぐ海花カンナ     池田秀水
カンナ咲く海の遠のく埋立地       田山諷子
ことに海青き日カンナ紅き日よ      河原白朝

 ここにも鈴木修一さんは顔を出している。


22

鑑賞日 2007/9/8
あさがおや仕事の鬼とう吾子貧し
高木一恵 千葉

 「あさがお」ということで清々しい感じの人物(吾子)像が浮かんでくる。作者は誇りに思っていると同時に心配もしている。社会の不条理ということもちらりと有る。しかしあさがお。あさがお。応えはあさがおに有る。あさがお。


23

鑑賞日 2007/9/9
すこし猫背アンダルシアの日雷
高橋たねを 兵庫

 アンダルシアの日雷が少し猫背だというのか、あるいはアンダルシアの日雷に遭遇している自分が少し猫背だというのか、あるいはもっと小説の一場面ふうに日雷の鳴っているアンダルシア地方を旅している男が猫背だったということもある。いずれにしても旅情と、そして或る境涯感がただよう。妙に明るくそして少し哀しい。


24

鑑賞日 2007/9/10
満月や死ぬことの不思議なけれど
高橋明江 埼玉

 死ぬことの不思議なけれど・・・ああおしい・・・という感じだろうか。全体に柔らかい心地よい境涯感。満月の光。そしてその夜の雰囲気に包まれた自分が居る。


25

鑑賞日 2007/9/11
長き夜や嗚呼診断書の簡潔さ
永井 幸 福井

 「長き夜」、「診断書の簡潔さ」、的確で解りやすい配合で何も言うことがないくらいである。〈長き夜〉の特質が活きている。


26

鑑賞日 2007/9/12
二百十日歯科医に歯茎つつかるる
中島偉夫 宮崎

 ちょっとした日常の戯け。「歯科医に歯茎をつっつかれている。痛えなあ。そういえば今日は二百十日の厄日だわい」といったところ。


27

鑑賞日 2007/9/13
生活のそよそよ蜥蜴匂うかな
中田里美 東京

 「そよそよ」が両掛かりで「生活のそよそよ」とも読めるし「そよそよ蜥蜴匂う」とも読める。そよそよした生活とはどのようなものであろうか。それはそよそよと蜥蜴が匂うような生活である。心が落ち着いているから感覚が冴えているような生活。いわばそよそよと心の中を風が通っていくような生活である。


28

鑑賞日 2007/9/14
落葉毎に笑う白寿の母がいて
蓮田双川 茨城

 落葉毎に笑う九十九歳の母がいる。図として面白い。桃源郷のような雰囲気さえする。この母はもう抜けてしまっている感じである。この世のしがらみから抜けている子供のようであり、また賢者のようでさえある。実際は惚けているのかもしれないが、惚けているということと賢者であるということは見かけ上紙一重である。


29

鑑賞日 2007/9/15
一遍忌鋼のような足に触れ
藤田ユリ子 愛媛

 息子か夫かあるいは一遍そのものの像の鋼のような足に触れたのかもしれない。だんだん後者であるような気がしてきた。ともかく鋼のような足と一遍の取り合わせが新鮮であり、一遍が鋼のような足を持っていたと思うと、とても首肯けるものがある。


30

鑑賞日 2007/9/16
馬覚めて闇から闇へかかる橋
堀之内長一 埼玉

 夜であろうか、馬は覚めているあるいは覚めた、闇から闇に橋がかかっているの、という景色である。馬という動物の持つあたたかいような懐かしいような雰囲気があり、そしてまた無垢であり原初的な意識の在り方が感じられる。「闇から闇へかかる橋」というのが現代という時代の象徴のようでもあり、あるいは現象世界そのものを表現しているようでもある。なまあたたかい胎から世界を眺めているというような雰囲気である。


31

鑑賞日 2007/9/17
水引草に触れた時間が入り口です
宮崎斗士 東京

 全体のみずみずしい感性。「水引草」が効いている。

水引草

http://www2.wind.ne.jp/sirakami/photo/photo.htmlより


32

鑑賞日 2007/9/18
みちのくや亡者踊りの眼が三つ
武藤暁美 秋田

 秋田県の最南部羽後町には西馬音内(にしもない)盆踊りというのがあって、別名亡者踊りと言われているそうである。顔をすっかり頭巾で隠して踊るそうである。
 とにかくこの句の眼目は「眼が三つ」というドキッとさせられる表現にある。第三の眼などという霊的な人間精神の在り方を連想するし、全体に土俗信仰的なものの中に存在するギラリとした光を感じる。


33

鑑賞日 2007/9/19
葉月かな酒蔵は回想してる船
茂里美絵 埼玉

 「酒蔵は回想してる船」というのはとてもよく解る雰囲気である。酒蔵で酒が醸されている感じもあるし、酒蔵自体の大きさも船を連想させる。「葉月」という大ぶりな音の響きも合っているし、大いに葉が茂っている中にある酒蔵=船体も相応しい気がする。


34

鑑賞日 2007/9/20
曼珠沙華散るはすかひに土性骨
柳生正名 東京

 この飛躍した言い方。気持ちのいいものがある。「はすかいに土性骨」というのはこの作者自身の生き様のようなものの表現ではなかろうか。活動的であり、しかも思想もしっかりと持っているという人物像が思い浮かぶ。雲竜型・不知火型のどちらか忘れたが、私は相撲の土俵入りを思い出した。あれなども活動性の中の不動というようなものの表現なのではないかと思った。ただ私の住んでいる地方では曼珠沙華は見られないので、この関連性のしっかりしたものは掴みきれないものはあるかもしれない。


35

鑑賞日 2007/9/21
堅田辺りへ祝詞のように田水落つ
矢野千代子 兵庫

 少し混乱している。堅田(水が乾ききって堅くなった田)辺りへ、稲刈りが近づいて田の水を落す意味の「田水落つ」だと、どうも変なのである。この「田水落つ」を季語の持つ意味で取らないで、単に田に水が入る意味で取ればすんなり解るし、「祝詞のように」という言葉も生きて来る。良い句なので、殊に「祝詞のように田水落つ」というのがとても素敵なので、この私の混乱の部分を作者に聞いてみたい気がする。


36

鑑賞日 2007/9/22
乾杯やかなりアレグロ虫の声
矢野美与子 東京

 軽く楽しい句である。この時この場の雰囲気がよく分かる。さんざめく会話が虫の声と重なって聞えてくるようだ。「かなりアレグロ」という言い方が軽妙である。


37

鑑賞日 2007/9/23
仰向けに寝て食う梨やナイアガラ
與儀つとむ 沖縄

 最初は「ナイアガラ」という梨の銘柄があるのかと思ったがそうではないらしい。葡萄の銘柄にはそういう名前がある。だからここは単純にあのナイアガラの滝である。梨の水々しさが伝わってくる。体を使って汗などをかいて寝っ転がって梨を食っているというような図が思い浮かぶ。まさに最高の梨の食い方ではないか。あるいは作者は病気か何かで寝ていて梨を食っているのかもしれない。その時は遠いナイアガラのことを想い出しているというふうである。とにかくナイアガラという連想が痛快である。


38

鑑賞日 2007/9/24
僧三人自然薯という厄介なもの
若森京子 兵庫

 僧三人が自然薯を掘りながら四苦八苦しているという図そのものが何というか俳諧的な味、あるいは禅的な味がある。どこか枯れていてまたどこか生臭い妙な味である。僧三人が頭を突きあわせて禅の公案を解いているという愚かな連想も働くし、脱世間と俗世間の葛藤というような人間の陥るある普遍的な愚かさのようなものも表現されているという気もしてくる。とても諧謔的な一句である。味がある。


39

鑑賞日 2007/9/25
秋茄子やピカソの鼻の冷たさよ
渡部陽子 宮城

 まさにピカソのキュービズムの絵画を見ているような感覚が起る。その質感が理知的で冴えた感じである。このコラージュ的な手法がぴったりと納まって動かないという感じで完成している。

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