表紙へ 前の号 次の号
金子兜太選海程秀句鑑賞 427号(2006年11月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2007/6/6
梁ハリと蛇も百足も音たてて
阿川木偶人 東京

 生き物への親しみ。「はりはり」というのは擬声語でもあるが、むしろ作者と動物との感応状態を表現したもののように感じる。「梁ハリ」と位置を表す物と音を混合させているのがこの句の面白いところ。音と物とがまだ分別されない原初の感覚でもある。


2

鑑賞日 2007/6/8
先生が赤ちゃんを生む夏休み
秋谷菊野 千葉

 「先生が赤ちゃんを生む」と言われて一瞬驚きがある。「先生」という言葉が持っている先入観が覆されるからである。そして「夏休み」と来て、納得するわけであるが、納得すると同時に、先生も生き物なんだなあという、何か生(なま)な生き物感が残って、共感がある。


3

鑑賞日 2007/6/9
みちのおく と指せば緑に染まるかな
阿保恭子 東京

 いい句である。鑑賞文を書き切れないという印象がある。いのち・緑なる自然・生きてあるということ・みちのく・みちのおく・芭蕉の気持ち等々、この句からやって来るものはとても多い。敢て言えば、生きてある行程の中で、気持ち良く佇んでいる感じ、とでも言おうか。


4

鑑賞日 2007/6/9
淡彩の言葉水飯といいます
市野記余子 埼玉

 「水飯」の態をそれこそさらっと書き取った句ではなかろうか。「水飯」の態でもあるし、「水飯」という言葉でもあるところのものが「淡彩の言葉」とさらっと書き取られたという印象である。ものの実態とそれを表す言葉の不可分の関係がある。こういう句を作る作者は言葉への繊細な感覚があるに違いない。それを選ぶ金子先生もまた然りである。


5

鑑賞日 2007/6/10
苺つぶす戻り波のように鬱
宇川啓子 福島

 鬱は何処からやって来るのか。分らない。しかしそれは戻り波のようにやって来る。どうしようもない。祈り、待つしかない。それが再び去って行ってくれるのを。そしてそれが去って行くというのは確実である。何故なら人間の心の作用というのは波に過ぎないからである。作者はこの鬱の状態を、苺をつぶした時のあのぐちゃぐちゃとした赤い状態のようだと表現したのだろうか。


6

鑑賞日 2007/6/11
人間は毛虫を潰し口開く
内野 修 埼玉

 とても乾いた人間観察のような気がする。また即物的である。人間存在に対して何か大きな絶望があるのだろうか。実存主義的な乾いた人間観察であるが、逆に言えばとても大きな次の一歩を予感させもする。


7

鑑賞日 2007/6/12
風知草琵琶湖に鼓動わたしの鼓動
大上恒子 神奈川

 「琵琶湖に鼓動わたしの鼓動」というのが風知草の台詞のようである。そして作者の台詞でもある。わずかな風にも葉先を揺らす風情から風知草というのだそうであるが、この時作者の自然に対する感受性が風知草のように非常に繊細敏感になっていたのではないか。作者が風知草そのものになってしまって自然と共振しているという趣がある。湖の波、そして風を感じて自分の存在全体が鼓動している。気持ちの良い一句である。
 具体的な琵琶湖という言葉を使ったのも句が肉体に土に根ざしている感じがして良かったのではないか。


8

鑑賞日 2007/6/13
家毎に男ひとりの花粉症
太田雅久 石川

 家毎に男がひとり居て、そして花粉症である、ということであろうか。あるいは、家毎に男がひとりだけ居るという状況は花粉症のようなものだということであろうか。いずれにしろ、侘びしくて、病んでいる現代の一つの図であるような気がする。


9

鑑賞日 2007/6/14
塔婆もて蛇打ち母に叱られる
大高俊一 秋田

 非常に印象的な場面である。おそらく、作者の子供の頃の思い出なのではないだろうか。かつてはこのように少年は奔放に遊んだ。そして母は健康に叱った。現代ではどうだろうか。「塔婆もて母打ち蛇に叱られる」というような状況もあるのではないか。


10

鑑賞日 2007/6/15
恐竜のような匂いの夏の橋
大谷昌弘 千葉

 手前勝ってな鑑賞になるかもしれない。
 地上においてある時期隆盛を極めた恐竜。その隆盛の期間は人間の存在した期間よりはるかに長いという。そして恐竜はその体が大きくなり過ぎたために気候の変化に対応できないで絶滅していったという。
 私がこの句から想像する橋は巨大な鉄筋の橋である。人が渡る為もあるかもしれないが、主に自動車が通るための橋。巨大物質文明の象徴でもあり、環境破壊の主な担い手でもある自動車を通す為の巨大な橋。姿も恐竜に似ているかもしれない。そしてその在り方が何処かで絶滅した恐竜の在り方に似ていると、作者は匂いという無意識の領域で感じているのかもしれない。


11

鑑賞日 2007/6/16
本館は雨の大きさ月下美人
小野裕三 神奈川

 視覚的に見えてくる句である。意味を探っていると解らなくなる。私に見えてくるのは雨のようなマチエールで大きく描かれた本館とその側に咲いている月下美人というような絵柄である。このしっとりとしたようなマチエール、肌合いが魅力である。


12

鑑賞日 2007/6/17
白雨かな坐れば老いの速くなり
北村美都子 新潟

 白雨とは夕立のことであるが、この句の場合「白雨」という言葉がとてもよく合っている感じだ。この「白雨」という言葉と共に「坐れば老いの速くなり」という感慨が、清潔に意識を持って年を重ねて来た婦人の姿を思い浮かばせる。白雨の時間、老年のこのたたずまいこの時間が美しい。


13

鑑賞日 2007/6/18
八月の彎曲してゆく白昼
白石司子 愛媛

 多分日本人のある世代は、八月というと原爆投下そして終戦ということに思いが及ぶのではないだろうか。戦争を知らない世代である私でさえそうである。一見平和で確実な日々であるが、戦争や原爆のことに思いを馳せると、この空間時間が彎曲していくような感覚に襲われるというのは解る感覚である。兜太の「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」という句が作者の脳裡にあったことは間違いない。


14

鑑賞日 2007/6/19
恐竜も見し夕焼を見つつ帰る
新宮 譲 埼玉

 凄いという形容が相応しいような夕焼が見えてくる。あまりに凄い夕焼などの景色を見ると、現在生きている日常感が希薄になり、何か非現実的な絵画空間に運ばれたような感覚が起こる。この句を読んだ時の感覚は、そのような絵画空間の感覚である。


15

鑑賞日 2007/6/20
花冷えやゴッホはゴッホを描きつづけ
鈴木美江 東京

 花冷えの中ゴッホが絵を描きつづけているという図が美しい。別に自画像でなくても風景でも何でもいい。ゴッホが描くのはゴッホなのである。人はそのようにしか生きられない。人が真正に生きるということはそういうことでもある。そういう定め、そういう定めの美しさ、そういう思想の美しさが根底に感じられることも、この句の美しさの由縁である。


16

鑑賞日 2007/6/21
有害獣研究主任にまたたび咲く
関田誓炎 埼玉

 「あなたは有害獣研究主任ですか。わたしはまたたびです。」という挨拶である。この挨拶がとても新鮮に感じるのは、両者が初めて出会ったからである。何事も初めての出会いというのは新鮮である。


17

鑑賞日 2007/6/22
夏野ふと妹に亡母をゆずる
芹沢愛子 群馬

 〈亡母〉は[はは]とルビ

 夏野に来て、ふと作者の気持ちがほどけた、ある狭い意識から大きな意識へと溶け込んだという感じである。女性特有の所有感からの解放であり悟りの時間とも言える。こういうものは常に「ふと」やって来る。それもこれもみんな夏野が演出している。夏野の大きさがこの時間を支えている。


18

鑑賞日 2007/6/23
うすものや女を出でて私なり
高木一恵 千葉

 「うすもの」の感じがとてもよく出ている。「うすもの」そのものを造形したのではないかとさえ思えてくる。季語としての「薄物」という意味の上に乗っかって、もっと抽象的な「うすいもの」ということまでも描かれている気がする。だから「女を出でて私なり」というのが、本当かなあと思うような、そしてまた本当かもしれないと思わせるような微妙な感じを持つ。


19

鑑賞日 2007/6/24
夏木立カナリア色に肩抱いて
田中亜美 埼玉

 若々しい感性そして健康な肉体感。軽やかでありながら浅薄でない実質のある人という感じである。この句の持つ質量感からそのような感じを受けるのである。句の意味内容はそんなにほじくり出すようなものはない。そしてそのことが却って句全体の句柄を大きくし、句自体に作者が出ているような量感があるのである。


20

鑑賞日 2007/6/24
うすばかげろう戦知らずの戦好き
田浪富布 栃木

 「戦知らずの戦好き」という人が「うすばかげろう」のような存在だというのは解る。では、戦を知っているから戦の愚かさが解るのだとすれば、これは戦をやったほうが良いということになる。そして戦を知らないでの戦嫌いは単なる臆病者だということもありうる。曽野綾子に「戦争を知っていてよかった」という題名の本がある。中身を読んだわけではないが、題名からするとやはり戦争は時々やったほうが良いということになってしまう。このあたりの人間の弱さはかなさというものが「うすばかげろう」である気もする。


21

鑑賞日 2007/6/25
姥捨の梅雨冷え深し母よ死ぬな
谷岡武城(武には草冠がつく) 愛媛

 深い情感。こういう句に何をか言わんやである。この深い情感に敬意を表して佇むばかりである。


22

鑑賞日 2007/6/26
雷に負けじと父母おしゃべりす
峠谷清広 埼玉

 庶民的な一つの景色として親しみがある。そしてある程度の郷愁もある。というのもこういう景色は現代においては段々と遠のいていってしまっているような気もするからである。どちらかと言えば昭和後期の風情ではなかろうか。しかし、時代を越えた一般性もある。というよりそう願いたい。このような庶民像がいつの世にもあって欲しいということである。


23

鑑賞日 2007/6/26
滝の壷縄とびに飛びこむような
藤間雅江 栃木

 滝壷を見ていて、飛び込みたくなるというのは誰もが持つ感覚で一般的であるが、それを縄跳びに飛びこむようなと具体的に書いたのが句を厚くしているのではないか。実際、滝壷を見たときの実感を書いているようにも見えるが、私にはどちらかと言えば、縄とびに飛びこむ時の作者の気持ちを「滝の壷」という言葉で表現したようにさえ思えてきた。その方が、作者の性格が描かれているように思うのである。


24

鑑賞日 2007/6/27
緑とは孤を深む色梅雨晴間
中村孝史 宮城

 ラジニーシは「孤」ということを二つに分けている。lonlinessとalonenessである。lonlinessはいわば自己に閉じてゆく状態である。日本語の孤独という言葉に当るのではないか。実は他者を求めているのであるが、他者との繋がりが切れた言わば寂しい状態である。一方alonenessにおいては自己は閉じた状態ではなく、逆に完全に開いた状態で、万物との本質的な繋がりがある状態のことである、とラジニーシは言う。金子先生が言う心(ひとりごころ)と情(ふたりごころ)というこころの在り方の分類にも通じるのではないか。

 さて句であるが、この句における「孤」というのはalonenessつまり情(ふたりごころ)であり、それが梅雨の晴間の緑に対して深まって行くという感じである。何故なら、寂しい状態である孤独に於いては色を感じるという感性は失われるからである。


25

鑑賞日 2007/6/28
残雪や浄土平に千の月
野崎憲子 香川

 「残雪」がよく響く。「浄土平に千の月」という昂揚した表現。ある意味では危うい表現であり、独りよがりになりうる表現である。しかし「残雪」という地上的な事実がよく響いているので、リアリティーとして感受できる。とにかく「残雪」の響き具合がとても魅力である。虚実皮膜の間という言葉があるが、地上と天上の間ということを思った。


26

鑑賞日 2007/6/29
魚籃観音春の葉っぱの無尽蔵
野田信章 熊本

 「魚籃観音」と「春の葉っぱの無尽蔵」という配合がなかなか私には響いてこないのであるが、「春の葉っぱの無尽蔵」という言い方には魅力がある。結局、「魚籃観音」とか「無尽蔵」という仏教的な厳めしい用語と「春の葉っぱ」という親しみのある日常語の対比の面白さではないか。


27

鑑賞日 2007/6/30
ステテコさびし絶滅危惧種たり我ら
藤野 武 東京

 人間の悲哀が滑稽味をもって描かれている。そして社会性もある。これぞ現代の俳諧という感じである。特に「我ら」という意識に引かれる。問題を他人事として見ないで自分の事として受けとめるということ、そして滑稽の対象を自分に設定するということ、そして同胞感である。


28

鑑賞日 2007/7/1
バラ大輪くずれるまでのひとり良し
ホーン喜美子 
カナダ

 「くずれるまでのひとり良し」と呟きながら、あるいはそう思いながら、バラの大輪を見ている感じ。そいいう境涯感に、なるほどなあと思いもするし、しかしバラの大輪に当るものが無ければそういう感じを持つことも難しいだろうなどとも思う。そうこう考えているうちに、この「バラ大輪」の象徴するものは大したものだと思えて来る。それが具体的に何なのかを詮索する必要はない。とにかくバラの大輪である。


29

鑑賞日 2007/7/2
木立ということばストンとテント張る
堀真知子 愛知

 「木立ということば」「ストンとテント張る」と初め読んであまり理解できなかったが、「木立ということばストンと」「テント張る」と読むとよく理解できた。山にキャンプなどに行った時の気持ちだろうか。とにかく「木立」という言葉がストンと胸に落ちたのである。「木立」という言葉とともにその存在の在り方も胸に落ちたに違いない。何か思いが簡単になったのである。だからこの「ストン」は「テント張る」にも掛かる。あれこれ思い悩むことはない、ストンとテント張ればいいのである。金子皆子さんの句に「まんさく咲きしか想いは簡単になる」というのがあるが、意味内容は同じである気がする。


30

鑑賞日 2007/7/3
額には直射日光ひきがえる
堀之内長一 埼玉

 ひきがえるが居て、その額に直射日光が当っているというのである。先ず感じるのは直射日光の強い光である。そしてそれを受けているひきがえるの照り。じっと動かないで光っているひきがえるの姿がとても強い形象として其処に在る感じである。作者自身の姿の暗喩であるということもあるかもしれない。


31

鑑賞日 2007/7/4
宮司老い背負はれ来たる山開き
前田典子 三重

 いかにもありそうな事実であるが、五七五ときっちりと書き取られることによって、宮司の心意気やその周りの人々の人情のようなものが自ずと伝わってくるから不思議である。


32

鑑賞日 2007/7/5
炎昼を耳栓研究家とともに
松本悦子 東京

 可笑しい。「耳栓研究家」というのが可笑しいのである。また、「炎昼」というどこか耳が遠くなるような時間が暗示されているように感じないこともない。


33

鑑賞日 2007/7/5
羽抜鶏羽より薄き僕の耳
松本照子 熊本

 鶏に耳があったかどうか思いだそうとしているが、解らない。「羽より薄き僕の耳」と言っているのは羽抜鶏自身であるような気がする。羽も全部抜けてしまって、しかも僕の耳はその羽よりも薄いんです。風の中にでも佇んでいる羽抜鶏の姿と質感がある。そして実はその姿は作者自身の境涯感のことを言っている気もする。どこか透明感のある姿である。


34

鑑賞日 2007/7/6
眠り浅くて透ける躰よ芹の花
室田洋子 群馬

 微妙で繊細な感覚である。これはもう殆ど女性でなければ書けないのではないか。しかし「芹の花」の連想があるので私にもそれなりに感受できる。繊細な感受性と透明感のある躰が見えてくる。ほのかな香気もある。


35

鑑賞日 2007/7/7
ボート朽ちて湖水に誕生日来たる
森田高司 三重

 句全体が作者の心の状態を表現しているのではないだろうか。古いおのれは朽ちてしまった。そして新しい出発の時である、というような気持ちである。「湖水に誕生日来たる」という言葉に作者の清明な心の状態を感じる。湖水=心、という譬えはかなり一般的に通じるのではないか。


36

鑑賞日 2007/7/8
草市が終はりの歯の細か
柳生正名 東京

 〉は[うつぼ]とルビ

 「草市が終はり」ということと「の歯の細か」ということがどう響き合うのかというのが問題である。うつぼの歯というものは細かいなあ、そう言えば草市も終ったなあ、というのが作者の感慨であるが、そのように日常を繊細に意識している作者の在り方が面白いといえば言える。それにしても細か。


37

鑑賞日 2007/7/9
懐かしむ胎の冥さの蝦夷春蝉
柚木紀子 東京

 少し湿り気のある小暗い木陰のようなところで蝦夷春蝉の声を聞いているのであろうか。そう言われてみれば、みんみん蝉や法師蝉が生を精一杯歌っているという印象に対して蝦夷春蝉はどこかしら胎の冥さを持っているという感じもないことはない。


38

鑑賞日 2007/7/10
荒涼ともちがふ真赤なトマト一つ
横山 隆 長崎

 このトマトの存在感が描き出されている。「荒涼ともちがふ」という措辞で「真赤なトマト一つ」の存在感が浮かび上がる。例えば虚子の「白牡丹といふといへども紅ほのか」なども白牡丹そのものの存在を大きく浮かび上がらせた秀作であるが、それに匹敵するものがある。冬のトマトだという感じがある。

表紙へ 前の号 次の号
inserted by FC2 system