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金子兜太選海程秀句鑑賞 426号(2006年10月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2007/2/5
あじさい寺菩薩・上人畳干す
荒井まり子 東京

 現実と神話が入り交じったような妙な楽しさがある。


2

鑑賞日 2007/2/6
オホーツク落暉は大陸焼く貌だ
有村王志 大分

 非常に大きな景と、作者の熱い心情のようなものを感ずる。


3

鑑賞日 2007/2/7
おたまじゃくし眼裏熱く愛と書く
安藤和子 愛媛

 自然そのもの生命そのものに対する愛おしさだろう。「おたまじゃくし」が感傷的になるのを防いで、句におおどかな大きさを与えている。


4

鑑賞日 2007/2/8
ガラスの金魚電池のほたる写真の父
伊佐利子 福岡

 すべてがまがい物である。本物に出会いたいなあ。出来れば死んでしまった父にもう一度出会いたいなあ、という気持ちが隠されている。


5

鑑賞日 2007/2/9
手ぶらという身の不均衡花りんご
伊藤 和 東京

 「手ぶらという身の不均衡」は誰でもよく経験することである。これが「花りんご」とどう響くかという問題である。
 一つはあの白い無垢な感じの林檎の花との響きあい。林檎の花に慰められている感じ。「それでいいんですよ、わたしたちは皆手ぶらで生きていますよ。」という感じ。
 もう一つは栽培されている林檎の樹というのは殆どが人間の手が加わって不自然に剪定されているので、つっかい棒などが枝を支えていることが多い。つまり自然体ではなくどことなく不自然な人工的な感じがするものである。つまり自分の「手ぶらという身の不均衡」と栽培されている林檎の樹との相似性ということである。または、「手ぶら」ということはまだ林檎の実が付いてないということなのか・・・この辺りになるとよく解らなくなってくる。
 結局はじめの解釈が一番詩的でいい。


6

鑑賞日 2007/2/10
鯉の大口吾れは呑まれん君も呑まれよ
小堤香珠 東京

 鯉の大口を見て、すげえなあと思い、戯けたのであろう。
 鯉=恋、というような連想も有って楽しい。


7

鑑賞日 2007/2/11
御降りや恋人たちの鍵の場所
小野裕三 神奈川

 洒落た現代的な雨の恋の詩といえるだろうか。「御降り」という日本的な情緒をフランス的とでも言えるような詩情に変えた手腕は大したものである。


8

鑑賞日 2007/2/12
一生涯一耕人や聖五月
金子斐子 埼玉

 自分自身のことなのであろうか。あるいは一人の耕人についての感慨なのであろうか。いずれにしても潔い生き方が「聖五月」という言葉に相応しい。五月の清々しく晴れた風景も見えて来るし、「聖五月」とはこういう事を言うのだなあ、と納得させられる。


9

鑑賞日 2007/2/13
夏の霧原発の湾より生るる
河原珠美 神奈川

 現代をそのまま描き取っているのではないか。私も最近は地球温暖化などが気になってしょうがないが、それでも春の光などを見ると、ああ自然はやっぱりいいなあなどと思う。この句の場合は「夏の霧」であるから、少し凄みがある。


10

鑑賞日 2007/2/14
むしかりやあなたをさがす旅の章
川本洋栄 大阪

 ムシカリは春の山野に白い花を咲かせる。あのムシカリの花が山野に咲いている姿を思い浮べながら「あなたをさがす旅の章」という言葉を味わうととても旅愁が感じられる。この美しいムシカリの花の咲いている景色もあなたをさがす旅の一章なんだなあ、という感慨である。宗教的な情感さえ感じられてくる。美しい。


11

鑑賞日 2007/2/15
暗闇の怖くて乱れとぶ蛍
北村美都子 新潟

 随分ナイーブな感覚である。暗闇が怖いというのがである。しかしこれは的確に心理的な事実を言っている気がする。恐怖というものが全てのひっ絡まり・ゴタゴタ・不幸・闘争等々の原因だからである。恐怖は見入らねばならない。暗闇は見入らねばならない。そして作者は見入っている。


12

鑑賞日 2007/2/16
冥想の翁は春の野に戻る
黒川憲三 栃木

 嘗て有った時間。嘗て有った国。今でも私の中にある理想郷。そんな忘れていたものを見せられた感じがする。こういう事を書く人が居るということが嬉しい。


13

鑑賞日 2007/2/17
春月や色の見えない水の中
河野志保 奈良

 まず春月の生生とした感じがある。そして「色の見えない水の中」というのが作者の状況のような感じ。全体的にそういうような、何かはっきりとはしない心理の中にいて、生生しい春月と対峙している感じである。「感じ、感じ」と書いたが、つまり、全体的に作者の名状し難い生の感じである。


14

鑑賞日 2007/2/18
春の雲生きて来たまま生き申す
三枝正二 埼玉

 自然は己の鏡である。この句の場合、「春の雲」が作者の肯定的な感じを映している。引き出していると言ってもいい。そして読むものにとっても、春の雲にはそういう肯定感があるなあと思う。


15

鑑賞日 2007/2/19
田水張り怒濤のごとく溺れたり
佐藤紀生子 栃木

 「怒濤のごとく溺れたり」という強い言葉。生そのものに溺れるという感じがある。肉体のまた心のエネルギーが充実していないと、こういう言葉は出てこない。「田水張り」がそのエネルギーの充溢を象徴している。


16

鑑賞日 2007/2/20
連翹や少女のような意地悪言う
篠田悦子 埼玉

 「少女のような意地悪」というのは、陰湿でない、茶目っ気のある意地悪であろうか。心の張りと明るさがあるから言える。「連翹」がそう言っている。


17

鑑賞日 2007/2/21
労りなり安達太良山に向く葱坊主
志摩京子 東京

 〈安達太良山〉は[あだたら]とルビ

 作者は東京の人だから、安達太良山近辺に旅をした時の句であろう。葱坊主を付けた葱が安達太良山に向くように感じの畑がある。そういう景色を眺めながら、その事の全体を、労りのようだと作者は感じている。自然の事物と事物の間の交感が感じられるというのは、その時に作者も自然の一部に同化し得たということである。それを「労り」という言葉で表現したというのは、この旅が作者にとってもそのような状況をもたらしたということではないだろうか。


18

鑑賞日 2007/2/22
立ちつくすことも流離か走り梅雨
下山田禮子 埼玉

 上手いと思う。「立ちつくす」という日常の所作を、これも「流離か」と客観する力。そして「走り梅雨」というものを背景に配合した力。「走り梅雨」が作者の心理的なものと共振してくる感じがある。


19

鑑賞日 2007/2/23
遥とは菱の花摘む男かな
鈴木幸枝 滋賀

 遠くで菱の花を摘んでいる男がいるという風景。そして菱の花を摘む男という自体が心理的に「遥」であるという感じが確かにある。


20

鑑賞日 2007/2/24
いづれ我の溟へ戻れよ水澄
たかはししずみ 愛媛

 〈溟〉は[うみ]とルビ

 思想性がある。根源的な状態を「溟」と表現している。我も汝も無い大きな「我」というような状態である。
 事実はある一人の人物への恋歌かもしれない。しかし、上のようなことを感じさせる大きさがこの句にはある。


21

鑑賞日 2007/2/25
蛇穴に私は歩むペンギン
高橋総子 埼玉

 蛇は穴に入ってしまった、私はペンギンのようによちよちと歩いている、というように受け取った。このペンギンの歩みというのは危うそうで、しかし明るく、そして案外したたかなのではなかろうか。


22

鑑賞日 2007/2/26
旅泊また青田に雨と書き流し
田口満代子 千葉

 流浪感とまではいかない漂泊感。かつてこの作者の句集を読んだ時に、「地上に置き去りにされた天使」という言葉が思い浮かんだ。この作者の句には漂泊感が漂うものが多いのではないか。そしてある意味、天上の美しさを持っている。


23

鑑賞日 2007/2/27
ときめきも歎きもおぼろじやがたらの花
徳永義子 宮崎

 作者は、ときめきだとか歎きだとかいう感覚は自分にはおぼろなるものになってしまっていると言っている。そしてそれをじゃがたらの花に象徴させている。私にはこのじゃがたらの花がとても美しいものに感じられるのである。


24

鑑賞日 2007/2/28
わくらばや浮いて光の耳となれ
野崎憲子 香川

 非常に透明な気体の感覚と言ったらいいだろうか。わくらばが光の中に優しく優しくある情景が見えて来る。「わくらば」だからこんなに優しいのだろう。作者の人柄が偲ばれる。


25

鑑賞日 2007/3/1
花大根愚痴なき母に逢う怖さ
野田信章 熊本

 この大根の花が母親の象徴。そういう母親に逢うことが怖いという作者の事情と繊細な心理。

素朴で清楚な
大根の花


26

鑑賞日 2007/3/2
憲法の日しめった朝刊放埒に
橋本和子 長崎

 現代の社会状況と人間の心理的な状況を書いていてとても共感する。とても上手い句である。しめった朝刊が放埒にあるような状況に投げやりな気分になる昨今ではある。


27

鑑賞日 2007/3/3
花買いにまた濁り江を渡らねば
平井久美子 福井

 句全体が象徴的な物語の一場面に見える。「花買いに・・・ねば」であるから、この花を買うという行為がとても大事な重い意味のある行為に感じられる。葬礼や婚礼のような事も思い浮かぶ。そして、渡るのが濁り江であるから、これもいろいろ意味深い。
 呟きのような叙情的雰囲気が読むものの情感を揺さぶる。


28

鑑賞日 2007/3/4
すれちがう移り香情の花山葵
廣嶋美惠子 兵庫

 〈情〉は[こころ]とルビ

 作者にとって花山葵の香に象徴されるような人物との出逢いを書いているのではないか。その出逢いはこの世に於てはすれちがいのような出逢いであるが、その人から受けた情はとても自分にとって深いものである、というようなことではないか。とても細やかに心情をかいている。


29

鑑賞日 2007/3/5
閑かさや岩のようなる蝉の顔
藤野 武 東京

 芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」を踏まえて戯けてみせた、というのが最初の印象。芭蕉の句では「閑かさ」がテーマであるが、この句は「蝉の顔」の存在感がテーマである。


30

鑑賞日 2007/3/6
球場やくちばしのよう夕立は
堀之内長一 埼玉

 随分微妙な感覚である。「くちばし」というと私には尖ったものでありまた突っつかれる感じがあるが、だから心理的に負の感情を伴った感覚ではないか。球場がある。夕立が降ってきた。それがくちばしで突っつくような感じであるというのである。野球が中止になってしまうかもしれないという負の心理が働いているのかも知れない。


31

鑑賞日 2007/3/7
きさらぎや象の鼻振る音ばかり
松本照子 熊本

 静かな明るさ。きさらぎという季節感を感じる。きさらぎという季節を「きさらぎ」という言葉自身に語らせている。「象の鼻振る音ばかり」だからである。


32

鑑賞日 2007/3/8
立ちしゆゑ八月の木の伐られけり
水野真由美 群馬

 八月の季節感が働いているのではないだろうか。ぼーっとするような暑い大きな季節である。「立ちしゆゑ・・伐られけり」という当たり前とも言える措辞がこの八月の季節感の中で呟くように発せられると、単なる理屈ではなく、大きな理のように感じられるから不思議である。老子が大きな空間に佇んでいるような風景が見えて来る。


33

鑑賞日 2007/3/9
画材屋のががんぼとして全うす
宮崎斗士 東京

 吹けば飛ぶよなががんぼ。しかも画材屋の店の中で一生を過ごした。そのちっぽけにも見える生に作者は共感を寄せている。大きな目で見れば、どのような生もそんなに変りはないということである。俳諧味と言えようか。


34

鑑賞日 2007/3/10
夕暮れや人の声出す春の土
守屋茂泰 東京

 懐かしいと言うと過去の事を言っているニュアンスがあるが、この句から受ける感じは現在に懐かしいという感じである。春の夕暮の懐かしさ、春の土の親しさ、そのようなものが「人の声出す」という表現になっている気がする。


35

鑑賞日 2007/3/11
宇宙哀し汚物のビンの捨てどころ
山本逸夫 岐阜

 宇宙は愛しい、悲しい、そして哀しい。文明を批判するというのはこういうことだろう。自分が宇宙と同化したような意識から発せられる言葉によって、ということである。そして目の前の具体的な物事を介しての表現。詩の言葉である。


36

鑑賞日 2007/3/12
鴎くるかもめのスピード夏来たる
横地かをる 愛知

 カモメが飛んでいるような気持ちのいい初夏の海辺の風景が見えて来る。カモメのスピードで夏が来た、というニュアンスもあり、気持ちのいい初夏がより感じられる。透明感さえ出てくる。


37

鑑賞日 2007/3/13
西行戻しといふも毛虫に羽生えて
若森京子 兵庫

 西行戻しの松とは西行が諸国行脚の際、この松の下で出会った子どもと禅問答をして敗れ、松島行きを諦めたとの古事がある松のことである。西行戻しの松公園という桜の名所が現在ある。
 旅の途中にその西行の松辺りに寄ったのであろう。そして毛虫に羽が生えているのを見たというのである。毛虫が羽化している最中であろうか。歴史的な時間の流れと現在進行中の生命の営みの交錯感がある。また言い回しに戯けがあって楽しい。

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