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金子兜太選海程秀句鑑賞 425号(2006年8・9月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2006/12/30
赤城木の家かめむしもいて可なり
足利屋篤 群馬

 句全体から、作者の物事に対する態度のようなものが伝わってくる。若い時の脂ぎった木の脂のようなものが抜けて、まさに「赤城木の家」のような在り方と言ったらいいだろうか。


2

鑑賞日 2006/12/31
理由あって五月が好きで一生懸命
石山一子 埼玉

 この句の良いところは気取ってないというところである。ストレートであり生(なま)である。この気取りのない生の在り方が「五月」に相応しい。


3

鑑賞日 2007/1/1
実にじつとしている猫も竹の子も
伊藤淳子 東京

 俳諧味。竹の子がじっとしているのは当たり前、それをあえて「竹の子も」と落した面白さ。またよくある事を「実に・・・」と新たな発見のように大げさに言ったのも俳諧味である。こう言うと、いかにもテクニックに関して言っているように聞こえるかもしれないが、多分作者は事実そのように感じ新鮮な気持ちになったのである。作者が猫と竹の子をじっと見ている時間がある。


4

鑑賞日 2007/1/2
風青し卓球少女チョオと叫ぶ
上原祥子 山口

 〈叫〉は[おら]とルビ

 健康的な青春という感じである。普段テレビなどで見慣れている福原愛さんのことであるが、このようにあらためて書かれるととても新鮮な感じがする。「風青し」という言葉がすがすがしい。


5

鑑賞日 2007/1/3
肥後の女は筋金入りの眠りかな
宇田蓋男 宮崎

 俳諧味。「筋金入りの眠り」と褒めている。だからてこでも動かないという気持ちがある。そして全体的には肥後の女(奥さんだろうか)を頼もしく親しく感じている。


6

鑑賞日 2007/1/4
人類も黴と言うべし梅雨に入る
内田利之 兵庫

 まず痛快な感じが起った。そしてだんだんと悲しくなる。人類は黴である、しかもかなり性質の悪い黴である。地球そのものを腐食していくような黴である。そのような見方が痛快なのであるが、しかしだんだんとやはり気が滅入って来る。


7

鑑賞日 2007/1/5
春昼や見える限りの木のばんざい
大沢輝一 石川

 「見える限りの木のばんざい」というのはとても新鮮な表現である。だだしこれが「春昼」であるから、単純にばんざいして喜んでいるというのではないような気がする。これは[春昼」という言葉に対する先入観が私の中にある所為だろうか。「春昼」という言葉から単純な明るさというものではないものを感じるのであるが、それゆえこの句にはもしかしたら作者の何か心理的な陰影を投影しているのかもしれないが、その辺は掴みにくい。単純に「輝かしい春の昼、見える限りの木がばんさいしている」と取っても、どうしても何か陰が私の中に残ってしまうのは何故だろうか。


8

鑑賞日 2007/1/6
よく笑い枡目に愛と書く五月
太田順子 兵庫

 幸せそうな日常の一コマなのであるが、「(原稿用紙の)枡目に愛と書く」ということで、クリエイティブな作者の日常を感じることが出来る。五月の季節感もある。


9

鑑賞日 2007/1/7
待たれいて黒ネクタイの長さかな
小暮洗葦 新潟

 葬式の為に黒ネクタイを結んでいる刻の質のようなもの。感じなければ見過してしまうような句であり、感じようとすると人生のある切り取られた時間に佇立する作者の刻を共有できるようなとても含蓄の大きい句である。子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」や虚子の「流れゆく大根の葉の早さかな」は物のニュアンスが強いが、この句は時間のニュアンスが強い。このような句が取れるというのもさすが金子先生であると思う。


10

鑑賞日 2007/1/8
地に花恋天に星恋童女かな
尾田明子 埼玉

  これは金子兜太夫人皆子さん(去年逝去)のことである。作者から見た皆子像である。地においては花を恋い天においては星を恋う童女のようなお方というのである。こういうイメージを周りの人に与えて去ったということ自体とても素晴らしいことである。


11

鑑賞日 2007/1/9
老骨をからから鳴らし春が来た
上林 裕 東京

 健康な老い方だという感じがする。きれいにからからと老いてゆくという感じである。そしてある日、からからと乾いた音がするように死んでゆく、いいなあ。


12

鑑賞日 2007/1/10
真っ青にくちづけも染め青武鯛
岸本マチ子 沖縄

 〈青武鯛〉は[あおおぶだい]とルビ

 以前トカラ列島の諏訪の瀬島に住んでいた時によくアオバチという魚を捕って食べた。調べてみるとこのアオブダイとアオバチは同じ魚らしい。とても鮮やかな青色の魚である。「真っ青にくちづけも染め」というのはこの魚の形容とも受け取れるし、またこの魚を見てきれいだなあと思った作者の弾んだ気持ちも感じられるし、更には沖縄の空と海の青さの中でくちづけをしているというイメージも湧いてくる。


13

鑑賞日 2007/1/11
白鳥よ風のさびしさ指赤らむ
小原惠子 埼玉

 「白鳥よ風のさびしさ」と「指赤らむ」の配合がとても良いのではないか。広がっている空間と中心点。白い色彩と赤い色彩の対比。さびしさと仄かに点る灯のような感じ。風景の中に佇んでいる作者の姿がある。


14

鑑賞日 2007/1/12
街の陽は街に墜つべしわれは病者
斉藤白砂 秋田

 「街の陽は街に墜つべし」と呟いている感じである。「われは病者」としみじみ言っているから、街の陽を見ながら佇んで感慨に耽っている人の姿が目に浮かんで来る。深い陰影を持つ風景画のような印象もある。


15

鑑賞日 2007/1/13
飛蚊症か落花か年金では足りぬ
坂本蒼郷 北海道

 眼の中にちらちらするのは飛蚊症だろうか、あるいは落花なのでろうか、しかしいずれにしてもとにかくそんなことは関係なくいや大いに関係して、年金では足りぬ!というのである。ギャグの味がする。


16

鑑賞日 2007/1/14
誰か来て鏡割りゆく八十八夜
塩野谷仁 千葉

 夏も近づく八十八夜。誰か来て鏡割りゆく八十八夜。八十八夜の頃の季節感と、誰かが来て鏡割りゆくという心理的なものがどこかで響くような気がするのであるが、はっきりとは掴めない。


17

鑑賞日 2007/1/15
うららかや果実はししむらのような
塩谷美津子 福井

 この句を金子先生が取り上げるのは解るような気がする。物心一如という感覚を金子先生は持っているように私は思うからである。なかなかこういう感覚を身に付けるのは難しい。だからこういう句をさっと取り上げることが出来る人は少ないだろう。
 この句の味わいどころは、存在の肉としての果実の光というようなもの、それがうららかな春の景色の中に在るということである。


18

鑑賞日 2007/1/16
あっけなく日々は毀れる麦星よ
下山田禮子 埼玉

 無常感なのであるがあっけらかんとした感じがある。ま、しょうがないかという感じ。センチメンタルでなく情感があるのがいい。


19

鑑賞日 2007/1/17
運動靴で蛇をあしらう老人たり
白井重之 富山

 運動靴の老人ということから喚起されるイメージはいろいろある。例えばデイケアーに通っている老人とか、年老いても張りきってジョギングをしている老人とか、いろいろである。そしてその老人が運動靴で蛇をあしらっているというのである。その老人の生きてきた過去を垣間見るような感じがある。つまり現在という薄い表皮の中にある厚い過去というものである。


20

鑑賞日 2007/1/18
蟻塚ほどの国会議事堂でありしか
鈴木孝信 埼玉

 蟻塚ほどの国会議事堂であったのか、あったんだなあ、大したことないなあ、という程の感慨と受け取った。それから、蟻も本能で蟻塚を作るが人間も本能で議事堂のようなものを作るんだなあという感慨。それから、議事堂自体の形とそこに人々が出入りする有り様が蟻塚を連想させなくもない。全体的には偉そうなことを言っても所詮議事堂に集まる人も蟻と変らないという見方。皮肉を滲ませた軽い言い方が痛快である。


21

鑑賞日 2007/1/19
泣くまいとがまんしている春意かも
鈴木佑子 東京

 微妙な季節感である。そういえば、春の麗らかさや明るさの中には微妙に哀しいものが潜んでいる。芭蕉の「行く春や鳥啼き魚の目は泪 」は行く春だからその哀しさは普通であるが、春そのものに哀しさが潜んでいるということを表現したのは珍しいのではないか。


22

鑑賞日 2007/1/20
楷若葉幼き彼と彼女たち
高木一惠 千葉

 楷の木というのはもともと中国原産で、孔子廟のものは有名らしい。だから学問の木というニュアンスも有るらしい。そして何よりもこの木は金子先生の故皆子夫人がとても好きな木であったらしい。そういうことを踏まえてこの句を読むとその味がよく解る。今は亡き金子皆子さんの好きだった木、そして学問の木と言われる楷の木。今は若葉の季節。そしてそこには幼き彼と彼女たちが居る。輪廻というものも感じるし、幼き彼と彼女たちのこれからの成長を暗示しているようでもある。
 しかしそのような楷の木に対する知識を踏まえなくとも鑑賞し得るとても良い句ではないだろうか。楷の若葉の生命感と幼き彼と彼女らの命の交感。


23

鑑賞日 2007/1/21
竹皮を脱ぎわれにも帰る家
高橋 碧 群馬

 小さな旅、そんなものをした後の感じがする。日常生活の中で被っていたものが剥がれて素の自分を再発見した、青々と新鮮な気分になった、その時に自分がこの世で居る場所があるということが有難く思えてくる。


24

鑑賞日 2007/1/22
薄氷に青の一すじ自然治癒
田浪富布 栃木

 病が自然治癒するときの最初の感覚がこの「青の一すじ」ではないか。そういえば、病を持つということは何時も意識の中に薄い氷が張っているような気分である。そこにすっと青の一すじが入り、ああ自分の意識は病という薄氷に覆われていたんだなあと思う。


25

鑑賞日 2007/1/23
絶対に花粉まみれのおぼろ月
佃 悦夫 神奈川

 新しい譬えの魅力である。一度っきり使えない譬え。花粉にまみれているようなおぼろ月。しかも絶対に花粉にまみれていると言い切っているのが鮮明な印象をもたらす。こういう月が確かに在る。


26

鑑賞日 2007/1/24
籐椅子や渥美に蛸の保存会
土田武人 神奈川

 籐椅子に何人か座っていて「渥美に蛸の保存会が出来たそうだ」というような話をしている。あるいは籐椅子に一人座っていて、渥美に蛸の保存会が出来たというような新聞の記事を読んでいる。というような場面が思われる。いずれにしても作者の日常の在りようが伝わってくる。


27

鑑賞日 2007/1/25
額びたびた叩くエープリル・フールかな
殿岡照朗 ブラジル

 〈額〉は[ひたい]とルビ

 「いやーまいったなあ。まいったまいった。」と額を叩くということはある。騙されたというより化かされたという気持ちの時にある。人生そのものが何かによって化かされたようなものだと感じたことはないだろうか。エイプリル・フールに引っかけて、この句にはそんな味が感じられる。


28

鑑賞日 2007/1/26
春の愁ひ皆子夫人にもらった人形
永井徹寒 東京

 句意はあきらかである。兜太夫人故皆子さんにもらった人形を見るにつけ、何かが欠けてしまったような空虚な感じになる。もらったものが人形だけに、その感じはより深まるのではないか。以前はその人形にはあたかも魂が宿っていたかのようであるが、今はその魂も皆子夫人の他界とともに抜けてしまったようにも見える。そんな想像が働くのである。


29

鑑賞日 2007/1/27
春羊よ雲はゆったりどっしりどっしり
中原 梓 埼玉

 春のうららかさ、春の生命感、そして大地への信頼感のようなもの。


30

鑑賞日 2007/1/28
花こぶし軽い肉体感咲いた
中村裕子 秋田

 軽い肉体感。こぶしの花を見た時の感じはそんな感じだなあと思い出させてくれる。白木蓮のようにぼってりした感じよりもっと軽い感じ。こぶしの花を見た時の作者の心体感覚と共振したのかもしれない。山里に咲くこぶしの花の感じとともに早春そのものの感じもある。


31

鑑賞日 2007/1/29
老いて斉しく呟くいのち春干潟
野田信章 熊本

 春の干潟のふつふつぶつぶつとした生命感。老いた今それがより親密に愛おしく感じられる。自分のいのちへの愛おしみと自然のいのちへの愛おしみの共振。いのちが呟くという表現にはとても共感するものがある。


32

鑑賞日 2007/1/30
銀蠅の手を擦りおる諧謔曲
原田 孟 和歌山

 〈諧謔曲〉は[すけるつお]とルビ

 「すけるつお」というルビがとても効いているのではないか。スケルツオは速い三拍子のおどけた感じの楽曲である。日本語に訳せば諧謔曲であるがこれでは少し字面が重い感じであるからである。銀蝿のあのギラギラを生々しい感じとルビ付きの諧謔曲が丁度良く合うのである。この感じ、俳諧美としか言いようがない。


33

鑑賞日 2007/1/31
三代の蟾蜍居る土地を分割す
藤井清久 東京

 どうにもこの蟾蜍が人間の顔に見えてきてしょうがない。憮然、唖然とした顔である。


34

鑑賞日 2007/2/1
金柑鈴成り耳学問の吹き溜り
松下晴江女 愛媛

 「耳学問の吹き溜り」というのは自分のことを卑下して言っていると受け取った。そんな自分から見れば金柑が鈴成りになっている姿は実に美しく真実に満ちているというのである。そう、学者も含めてすべて人間の学問などは耳学問に過ぎない。金柑の一果にも及ばないのが真実である。


35

鑑賞日 2007/2/2
冬そうび半身見える天袋
松本照子 熊本

 天袋というのは押し入れの上部などにある収納スペースらしい。あるいは天井から吊った戸棚のことを言うこともあるらしい。とにかくそのようなあまり薔薇を置くような場所でない所に薔薇が置いてあって、それの半身が見えるというのである。妙な存在感がある。あるべき所でない場所に置かれた物の発する気のようなものであろうか。とくにそれが半身を見せているというのが、尚更そういう雰囲気を出している。


36

鑑賞日 2007/2/3
ばんざいが漂っている麦の秋
松本勇二 愛媛

 作者が麦の栽培をしているのなら、豊作で嬉しいというニュアンスが入るが、そうでないとしたら、豊かに稔った麦畑そのものの感じを表現しているのだと思う。・・・ばんざい・・・ばんざい・・・ばんざい・・・と表記すると麦秋の感じがする。


37

鑑賞日 2007/2/4
菜の花や潟は大きい目玉焼き
武藤暁美 秋田

 菜の花が咲いている、その近くの潟湖には大きい夕陽が映っているという景色なのであろうか。あるいは水の無い潟と呼ばれる場所の真中辺りに菜の花がちょうど目玉焼きの眼のように群生しているという景色なのであろうか。いずれにしろ明るい色彩感がある。

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