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金子兜太選海程秀句鑑賞 424号(2006年7月号)

作者名のあいうえお順になっています。

1

鑑賞日 2006/11/20
半生を怒り通して桑を解く
浅見健司 埼玉

 「桑を解く」というのは、霜や風雪の被害を防ぐために括っておいた桑の枝を、春芽が出る前にほどくこと、と「現代俳句歳時記」にある。

 怒り、悲しみ、貪欲というようなものは全て人間に緊張を強いるものではなかろうか。「半生の間、自分は随分と怒り通してきたものであるなあ」という感慨とともに何かがほどけてゆくような、肩の力が抜けるようなそんな心境に作者はあるのではないか。「桑を解く」という春の季語からの連想であるが、もしかしたら人生の本当の春は年を取ってからということになるのかもしれないなどと考えると嬉しくなる。


2

鑑賞日 2006/11/21
死ぬまでの戦後木に蝉兄は兵
有村王志 大分

 戦争体験を持つ人のしみじみとした夏の実感なのではなかろうか。また蝉の鳴く夏がやって来た。どうしても戦争のことが蘇って思いだされる。兵士であった兄のことなどが脳裡を過る。ああ死ぬまで戦後なんだなあと思う。しんしんと蝉は鳴いている。
 戦争体験のない私がこういう句を鑑賞するのはおこがましいものもある。


3

鑑賞日 2006/11/22
韮匂う真骨頂という言葉
市野記余子 埼玉

 「真骨頂」とはそのものの本来の姿という意味である。韮の匂いは個性的である。そして惚れ惚れするような良い匂いでもある。何でも誰でもそのものの本来の姿を具現した暁には個性的であり、個性とは香しいものである。韮の匂いを嗅いで作者の中にそんな真実が閃いたのではなかろうか。


4

鑑賞日 2006/11/23
桜花散る夕べ私は星に生きている
伊藤由貴江 群馬

 しみじみとしたものが伝わってくる。この長ったらしい丁寧な言い方が却ってしみじみとしたものを感じさせるのではないか。どこで切って読んだらいいのか分からないようなもたもたっとした口調であるが、そのもたもた感が呟きのようにも噛みしめているようにもとれる。「桜花・散る・夕べ・私は・星に・生きている」と確かめているような風情がある。映像感もある。


5

鑑賞日 2006/11/24
吉野水分猪いっしんに掘るなり
大西健司 三重

 「水分」とは水分り(みくまり)、すなわち分水嶺のことであろう。分水嶺を猪がいっしんに掘っている。実景というよりはむしろ作者の在り方を比喩的に書いたもののような気がする。その土地に密着して生きようとする在り方。または自己の内面に深く降りて行こうとする在り方。掘っているものが水分りであるから、私には後者のニュアンスのほうが強い。そういう事柄を観念的に書かないで実景に重ね合わせて書いているのが上手い。


6

鑑賞日 2006/11/25
腹鼓打たぬ狸の金玉朧の世
加地桂策 愛媛

 〈腹鼓〉は[つづみ]とルビ

 【腹鼓】を広辞林で見ると

(1)満腹してふくらんだ腹を鼓のように打ち鳴らすこと。世がよく治まり、食が足りて安楽なさまにいう。
(2)月夜に狸(たぬき)が鼓のように腹を打つと言い伝えられていること。

などとある。(1)のような隠された意味を考え合わせると、この句は社会風刺のような味がある。そして笑える。金玉のような世の中だと思うと可笑しくなる。


7

鑑賞日 2006/11/26
夜の緑澪のごと子は育ちおり
川田由美子 東京

 澪のごとくに子が育つという感覚は女性ならではのものではないか。私の妻などもそうであるような気がする。あの時あの子がこんな事をしたとか、この子にはこんな事があったとかよく憶えているのである。そういう記憶は私にはあまりない。あるのかもしれないがそれを回想するような事はあまりしない。とにかく母親として子が育った過程を回想している作者。人間が成長してゆくということ、時の流れ、そんなものを噛みしめているのではないだろうか。「夜の緑」という言葉がその時間の作者の厚い心情と、子の命の健やかさなどを暗示していて瞑目すべきものがある。


8

鑑賞日 2006/11/27
日向くさい妻よアズマイチゲかな
黒川憲三 栃木

 「日向くさい」という形容と「アズマイチゲ」というあまり名の知られていない植物とからかなりこの妻の人物像が描けているのではないか。そして妻に対する作者の愛情である。

 アズマイチゲはきんぽうげ科の多年草で4〜5月に花を付ける。日向に群生する花で日の照らない時はしぼむ。

http://www.city.obihiro.hokkaido.jp/jidoukaikan/yaso/haru/haruichiran.htmより


9

鑑賞日 2006/11/28
車窓には越えてゆけない春の暮
河野志保 奈良

 微妙で仄かな心の揺れのようなものが書かれている感じである。日常から非日常へと動く心、仄かな憧れ、そのようなものではないだろうか。「春の暮」という言葉の醸し出す雰囲気が実に微妙であるが、案外作者はこのほの温かいような心の揺れを楽しんでいるのかもしれない。


10

鑑賞日 2006/11/29
春寒やヴィヨン擬きの烏ゐて
佐藤臥牛城 岩手

 この句は殆どお手上げである。ヴィヨンを知らないのであるから。分からないというのも癪なのでヴィヨンについて少し調べてみた。

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Wikipediaより

 フランソワ・ヴィヨンは、15世紀フランスの詩人である。中世最大の詩人とも、最初の近代詩人ともいわれる。
パリ大学を卒業したが、1455年乱闘騒ぎで司祭を殺してしまい、逃亡。窃盗団に加わる。1461年に投獄されるが、恩赦により出獄する。その後再び傷害事件を起こし、死刑宣告を受けるも、追放刑に減刑され、1463年パリを追放される。その後の消息は不明である。
無頼・放浪の生涯であったが、近代的ともいえる詩作を残した。作品に『形見の歌』(1456年)『遺言詩集』(1461年)など。
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 漠然とではあるが、ある詩人像が浮ぶ。才気があり、自負心及び自我が強く、反逆的で破滅型の人物。自分の感覚を信じる故に作品には感覚の冴えがあったかもしれない。このような人物に似たような似ないような烏が居て、春が寒い、とこの句は言っているのであるが、やはりよく分からない。分からないなりにこういう解釈はどうだろうか。「ヴィヨン擬きの烏」というのは作者にも理解できない人物や物事である。そういうものが世の中には横行しているが、それにしても春が寒いなあ、というのである。


11

鑑賞日 2006/11/30
囀に埋もれ源流に出会いあり
佐藤紀生子 栃木

 ものごとを割り切りたいタイプの私だと「囀に埋もれ源流に出会いけり」と書いてしまったかもしれない。これだとあまり余情はない。「・・・出会いあり」であるから余情がある。しかしあいまいさもある。何に出会ったのかというあいまいさであるが、曰く言い難い何か、言葉で言うと違ってしまうような何かに出会った・・・その辺りのもどかしさもある。


12

鑑賞日 2006/12/1
錐揉みし病み告ぐ白昼揚雲雀
佐藤幸子 新潟

 相手の病気か自分の病気か、とにかく重大な病気を告知する時の心理状態を描いたものであろう。錐揉み状態で落ちてゆくような感覚であるというのである。迫力があるものだなあと思う。白昼の外界では麗らかに揚雲雀が鳴いている。錐揉みして落ちてゆくような心理、揚ってゆく雲雀、この対照も心の流動感を表現して迫力がある。


13

鑑賞日 2006/12/3
淡墨桜数個のわれが見ておりぬ
柴田美代子 埼玉

 「われ」という曖昧なもの。在るようで無く、無いようで在り、一つのようであり、また時には多数であるように見える。この曖昧な「われ」というものと「淡墨桜」という言葉から受けるふわーっとした感じがよく合うのである。
 美しいものを見た時に自己は失われる。主体と客体は一つになる。逆の言い方をすれば客体は失われ主体だけになる。いわゆる主客合一という状態であるが、この句はその過程の微妙なところを書いているような気さえする。


14

鑑賞日 2006/12/4
跳躍は空やぶること青鷹
下山田禮子 埼玉

 〈青鷹〉は[もろがえり]とルビ

 青鷹(もろがえり)という季語とそのめずらしい読み方を初めて知ったのであるが、この言葉の面白さの句である。もろがえり、すなわち完全にひっくり返る事というような意味が感じられる。跳躍というのは、空をやぶることであり、また完全にひっくり返ることである、というような畳みかけに作者の青春性を感じる。この青春性がまた空を飛翔する青鷹に象徴されている。


15

鑑賞日 2006/12/5
狐は海を胡斑雪の陸を見る
末岡 睦 北海道

 〈胡〉は[とど]、〈斑雪〉は[はだら]とルビ

 北海道の無垢なそして原型的な自然が表現されている。それも単なる景としてではなく、陸も海も動物達も互いに交感する存在として把握されているのである。アニミズムというものであろう。


16

鑑賞日 2006/12/6
雪解けの映すものなき水を見よ
鈴木修一 秋田

 雪解けの風土の中に佇み独り呟いている男の姿が浮かぶ。「見よ」と言っているのだが、呟いているという感じが強い。雪国という風土の中の人間の姿だろうか。


17

鑑賞日 2006/12/7
昨夜は雨今朝は風置く春の土
鈴木孝信 埼玉

 〈昨夜〉は[よべ]とルビ

 土への共感から発した坦々とした自然観照といったところか。季節感も有るには有るが、なによりも表現されているのは「土」というものに表象される受容性のようなものである。


18

鑑賞日 2006/12/8
水辺かな雉が新書のように来る
関田誓炎 埼玉

 「新書」という喩えが丁度よいのではないか。新しいという意味もあるし、新書判であるという意味もある。水辺での新鮮な雉との出会い。そしてそれは大げさな啓示というようなものでなく丁度日常と非日常の間にあるような新書判のような感じである。この出会いの嬉しさ、そしてそれを言葉に書き留めたことの嬉しさ。俳句が止められない由縁である。


19

鑑賞日 2006/12/9
昨日まで春耕の婆なり柩なり
高橋 喬 新潟

 紙一重の生と死。生と死の連続性が坦々と描かれているといったらいいだろうか。「なり」という言葉に生と死という不可思議な変化への驚きもある。


20

鑑賞日 2006/12/10
残雪を掻きて息吐く輪廻かな
高山紀子 秋田

 私も雪国に住んでいるのでこの気持ちは分る。雪掻き、仕方がないなあと思いながら、これは自分の業であるなどと思うのである。「業」などと書くといかにも重くなってしまうので「輪廻」といういわばもっと諦めやすく気分的に遊びのある言葉の方がやはり良い。それから「積もる雪を・・」とするといかにも人生的演歌的で重くれる。「残雪を・・」としたのが季節の移り変わりの感じもあり、ここで言う「輪廻」が自然の移り変わりをも含めた響きを持つ。


21

鑑賞日 2006/12/11
陽炎へ死者出る真新しきかな
瀧村道子 岐阜

 状況としては、死者の柩が外に運び出された、その時辺りには陽炎が立っていた、その事の全体を作者は「真新しい」と感じた、ということであろうか。独特の死生観があるような気がする。死も生も存在の物質エネルギーの具現であるというような死生観である。多分この死生観は金子先生のそれに共通するものであるような気がするのである。


22

鑑賞日 2006/12/12
樹は鳥のことばに組まれ春の沼
武田美代 栃木

 理知的な明るいアニミズムという表現はどうだろうか。先ず感じたものが有って、それを大事にしながらも理知的に処理してゆく、このような心の働きに触れると、頼りがいのある人間に触れたようでホッとするものがある。


23

鑑賞日 2006/12/13
つき合ひは鉛筆感覚茗荷の子
戸田寿美女 岡山

 鉛筆感覚のつき合いだから、気楽な重くない、消そうと思えば消しゴムですぐ消せるようなつき合いである。そんなつき合いが有り得るのかどうか、私には分らない。むしろ無いと思う。だからこれは願望を言ったものと取りたい。いや有るのかもしれない。だいたい私は重く生きすぎるから分らないのかもしれない。茗荷の子にでも聞いてみよう。


24

鑑賞日 2006/12/14
たましいと思う朝霧父徘徊
永田タエ子 宮崎

 「たましい」というような言葉はその人その人によって持っているイメージは相当に違うだろう。私はこの鑑賞を朝早くやることが多いのであるが、たまたまこの句の鑑賞の途中で小便に外へ出てみると裏山の辺りに朝霧がかかっていて捉えようもなく漂っていた。もしかしたら作者はこの捉えどころのないような霧を「たましいと思う」と表現して徘徊する父とだぶらせたのかもしれない。また実際、惚けてしまった人間には「たましい」と呼びたくなるような質感もあるにはあるのである。
 いやいやもっと単純な解釈の方が良い。朝霧の中を徘徊する父、これは客観的に見れば荘厳である。この荘厳さを「たましいと思う」と作者は表現したのだ。

今朝撮った朝霧の写真


25

鑑賞日 2006/12/15
みんなしてががんぼのような握手
根岸暁子 群馬

 「ががんぼのような握手」という喩えがとても面白いし、そういう握手があるなあと思う。がっちりと握りあう握手ではなく、照れ臭いような、しかし名残り惜しいような、要するにががんぼのような形態あるいは触感の握手である。よくこんな喩えを見つけたものだと感心する。


26

鑑賞日 2006/12/16
青葉若葉黒人霊歌の歯がきらり
橋本和子 長崎

 「青葉若葉」と「黒人霊歌の歯がきらり」という質感と色感と大小感の対比の面白さであり、全体に初夏の明るい光を感じる。


27

鑑賞日 2006/12/17
経歴など知らなくていい白梟
平塚幸子 神奈川

 「白梟」に見入っていた時に突然「経歴など知らなくていい」という閃きが作者に起ったのであろうか。経歴や履歴では殆どそのものの本質は描けない。人間にしろ動物にしろそのものの本質は神秘であり、それはただそのものを直接見入ることによってしか明されない。白梟という実に神秘的な生き物に見入ったときに作者に起った閃きであろう。


28

鑑賞日 2006/12/18
先ほどの巡査が走る犬ふぐり
平山圭子 岐阜

 ごく普通の日常をあたたかく切り取って書いている。眼差しがあたたかいのである。滑稽感も少しある。
 警官は犬と悪く言われることもある。その警官がふぐりを揺らせながら走っている、というような連想は鑑賞の眼目ではないが、そんなことも頭の隅にちらりとあって楽しい。


29

鑑賞日 2006/12/19
一つだけ地べたの好きなゴム風船
広辻閑子 石川

 この言い方が何とも可笑しい。俳句は笑わせたら勝ちであるし、そしてこの句にはペーソスもある。笑いには敏感なはずの私がこういう句を見逃しているというのは、私の読み方も大したものではないなあ、と思う。


30

鑑賞日 2006/12/20
春昼の妻は大蛇をのぞき込む
福原 博 熊本

 女性というのは概ね蛇が怖い。その妻がおそるおそる蛇それも大蛇を覗きこんでいる。「春昼」という何か得体の知れない感じの刻が妻をそうさせたのかも知れない。得体の知れない性の深みからの衝動という感じもある。「春昼」というもののある特質が深く描かれている気がする。


31

鑑賞日 2006/12/21
芽柳は漂流民のあおさかな
堀之内長一 埼玉

 風が吹いている感じがする。芽柳が風に吹かれて揺れている。それを見て作者は気持ち意いいなあと思っている。そう思っているだけでなく作者が日頃抱いている漂流ということへの憧れのような感情が重なってくる。だからこの芽柳は光の中にあるに違いない。光と風。


32

鑑賞日 2006/12/22
鷹舞いてあたり悠然たらしめる
松本悦子 東京

 「悠然と鷹が舞う」でなく「鷹舞いてあたり悠然たらしめる」が面白いのである。作者と鷹の交感はこの方が強く、アニミズムであると言える。


33

鑑賞日 2006/12/23
茎立や雨という字のように雨
松本文子 栃木

 なるほどと思う。雨という字の形はいかにも雨が降っているという感じがある。漢字はもともと象形文字だから当たり前なのかもしれないが、こういう風に指摘されてみるとあらためて新鮮な驚きがある。春になって茎立菜が地面から空に向って伸びる、それと呼応するように空から地面に向って雨が降っている。この共振感が素敵だ。


34

鑑賞日 2006/12/24
校長のふと球磨言葉春の石
汀 圭子 熊本

 校長ともなれば社会的な仮面を付けて生きているということが多いだろう。「校長のふと球磨言葉」というのは校長がふと素の自分に帰るような状態だと私は理解した。「春の石」というものから受ける感じが、そのような素の感じ、そして実はうれしい感じとよく似合うからである。


35

鑑賞日 2006/12/25
桜咲いたよ石を運べば石屋のよう
宮崎斗士 東京

 日常というものだろう。桜が咲き、石を運べば石屋のような気持ちになる。ごく普通の日常感を書いている。日常を大切にする中で、桜が咲いて嬉しいなという気持ちも感じられる。


36

鑑賞日 2006/12/26
低く来る蝶よひんやりと未来
茂里美絵 埼玉

 「低く来る蝶」と「ひんやりと未来」があるという感覚が響きあう。作者が未来に対して抱いている感覚が「低く来る蝶よ」ということでとても良く表現されているのではないか。
 実際、人間の未来に対しては希望的観測を持つことは難しい。私などは最終的には「どうともなれ」と投げやりに言いたくなる。これだけこまやかな未来に対する感覚を持っている人がいるということはとても有り難いことである。


37

鑑賞日 2006/12/27
夜目に光る蛙ひき逃げ事件なり
矢野美与子 東京

 「ひき逃げ事件なり」と大げさな言い方も面白いが、いや多分この言い方が効いていて、蛙の生々しく光っている感じ、光っている蛙の存在感がよく出ている。


38

鑑賞日 2006/12/28
囀りの高みに入らず初音かな
山田哲男 新潟

 高らかに大らかにうるさいほどに鴬が鳴く、それが囀りである。そうではなくで、おどおどっと少し鳴いてみるという雰囲気の初音である。この句を読んでいると、何であれ物事の初心の時の感じを思いだす。俳句などでもそうであるが初心の時の感じである。おどおどっとして手探りでやってみるのである。そしてその初々しさ奥ゆかしさが好感が持てるということが多々ある。そういう雰囲気がこの句から感じられる。


39

鑑賞日 2006/12/29
紅葉に群れ足場に並び妻と流れる
山本 勲 北海道

 いい時間の流れだなあと思う。晩年の妻と夫の流れるような時間。六七七というだらだらっとしたリズムもこの雰囲気に与しているのかもしれない。句には書かれていないが私には、妻とともに流水に足を浸してその流れる水を眺めている作者の姿が目に浮かぶ。

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