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小林一茶を読む91〜100

91

七番日記
糞汲が蝶にまぶれて仕廻けり
文化9年
1812
50歳
鑑賞日
2005
6/19
 〈糞汲〉は[こえくみ]、〈仕廻〉は[しまひ]と読む

 肥を汲んでいる人が蝶にまぶれるというようなことがあるのだろうか。その事実はともかく、美しい句である。この美しさは俳句史上多分一茶が発見した美しさであり、私が好きな美しさでもある。だんだん一茶が好きになってゆく。


92

七番日記
ついそこの二文渡しや春の月
文化9年
1812
50歳
鑑賞日
2005
6/20
 〈二文渡し〉は小さな渡し場のこと、二文はその渡し賃

 軽妙な句である。面白い。ごく卑近で明るい風景が描かれているし、「ついそこの二文渡しや・・・」と誰かに言っているような雰囲気もある。春の月に言っているようなつぶやき性もある。春の月と一茶の親近性が快い。


93

七番日記
なの花のとつぱづれ也ふじの山
文化9年
1812
50歳
鑑賞日
2005
6/21
 広い菜の花畑が目に浮かぶ。富士山がとっぱづれに有るという言い方から、そういう感覚が産まれるのであるが、またこの価値を逆転したような言い方が一茶的で気持ちが良い。すなわち、小さきものを中心に据えるという態度である。

94

七番日記
花げしのふはつくような前歯哉
文化9年
1812
50歳
鑑賞日
2005
6/22
 前歯が抜けそうになった状態を、芥子の花がふわついているようだというのである。譬えが絶妙なので、芥子の花が眼前にあるように感じる。あるいは芥子の花を実際に見て、それを自分に引きつけて作ったのかもしれない。妙な言い方だが、花げしと前歯の絶妙な交感がある。

95

七番日記
しんとして青田も見ゆる簾かな
文化9年
1812
50歳
鑑賞日
2005
6/23
 〈簾〉は[すだれ]

 夏の午後。光は明るい。しかし、しんと静まった時がある。そんな一時を感じさせる句である。「しんとして」という言葉に一茶の深い感覚の冴えを感じる。


96

七番日記
亡母や海見る度に見る度に
文化9年
1812
50歳
鑑賞日
2005
6/24
 〈亡母〉は[なきはは]

 俳句としてはもの足りないという人もいるだろう。俳句的というよりは短歌的な調べの句である。しかしまただからこそ、繰り返し読んでいると、その調べの中に切々とした心情が響いてくる。好きな句である。


97

七番日記
粽とく二階も見ゆる角田川
文化9年
1812
50歳
鑑賞日
2005
6/25
 〈粽〉は[ちまき]、〈角田川〉は[すみだがわ]と読む

 いかにも下町の風情である。粽は端午の節句によく食べる。季としては夏の季語である。あたたかくなってきた夏の夕暮れの川辺のくつろいだ雰囲気が伝わってくる。


98

七番日記
いざいなん江戸は涼みもむつかしき
文化9年
1812
50歳
鑑賞日
2005
6/26
 〈いなん〉は[帰ろう]の意

 一茶は本質的に田舎暮しが合っている。自分の故郷で暮すということが合っている。自然の中で暮すということ、大地とともに有るということが合っている。そんな思いを抱きながら、一茶の句を読んできた。だから、この句における心の弾みがよく分る。このような決心をした一茶の気持ちに添えば、私自身もほっとした気持ちになる。


99

七番日記
涼風に月をも添て五文哉
文化9年
1812
50歳
鑑賞日
2005
6/27
 〈四条河原〉と前書。京都加茂川の四条河原である。納涼のため流れに張りだして桟敷を設けた、五文はその料金

 一茶の皮肉である。
 私の住んでいる鬼無里の奥には水芭蕉の群生する奥裾花渓谷があって、その時期には観光客が押しかける。そしてぞろぞろと歩道を並んで歩きながら水芭蕉を見るわけである。そしてもちろん入園料も取る。どうも行く気がしない。


100

七番日記
三ケ月とそりがあふやら時鳥
文化9年
1812
50歳
鑑賞日
2005
6/28
 三日月と気心が合うのだろうか時鳥は、というのである。そう言われてみれば、時鳥の鳴き声のもっている雰囲気は三日月によく合うような気がしてくる。三日月の夜に時鳥が鳴きながら飛んでいくという美しい光景が目に浮かぶ。
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