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小林一茶を読む101〜110

101

七番日記
そば時や月のしなのゝの善光寺
文化9年
1812
50歳
鑑賞日
2005
6/29
 まるで信州の観光案内の文句のようである。しかもそうだとしたら名文である。そんな意味でも一茶の故郷への思い、故郷を自慢する気持ちがでているような気がする。

102

七番日記
雁ごや\/おれが噂を致す哉
文化9年
1812
50歳
鑑賞日
2005
6/30
 雁がごやごやと自分の噂をしている、というのである。いかにも自意識過剰な一茶らしいが、気持ちの良い自意識ではある。この「おれの噂」は一茶にとっては悪口という意味ではないだろう。「誰それが自分の悪口を言っている」という妄想という病気があるが、そんなマイナス思考ではない。「あいつら俺のことをほめていやがる」くらいの感じはあったかもしれない。「フーテンの寅さん」のことが思い出された。

103

七番日記
是がまあつひの栖か雪五尺
文化9年
1812
50歳
鑑賞日
2005
7/1
 自分の生まれ故郷である柏原をついの栖とまあ決心した時の句である。自分の父母や故郷をこよなく愛していた一茶。また、俳階の宗匠として名を成したいという上昇志向からの都への憧れ。そんな二面性を持った一茶の彼らしい一句であると思う。別案に「是がまあ死所かよ雪五尺」という心情を生に表出したものもある。「俺の人生もこんな田舎で終ることになるのか」という感慨とともに、何かが定まった安堵感のようなものもある。

104

七番日記
春雨や喰れ残りの鴨が鳴く
文化10年
1813
51歳
鑑賞日
2005
7/2
 〈喰れ残りの鴨〉とは冬の猟期に捕獲を逃れて生き残った鴨

 芭蕉の名句「海暮れて鴨の声ほのかに白し」などに浸ってから、この一茶の句を読んでみると可笑しさが込み上げてくる。一茶という人間の味が可笑しいのである。飾らないそのままの一茶。求道的な人間芭蕉。どちらも良し、と眺めながら私は私自身の歩みを進めて行きたいと思う。


105

七番日記
臼ほどの月が出たとや時鳥
文化10年
1813
51歳
鑑賞日
2005
7/3
 でかい月ということであろう。それを臼のようだというのはいかにも庶民感覚で親しみが持てる。民話風の感覚もあって楽しい。100で鑑賞した「三ケ月とそりがあふやら時鳥」などと合わせて読むと、時鳥もびっくり、という言葉さえ浮かぶ。

106

七番日記
短夜やくねり盛の女郎花
文化10年
1813
51歳
鑑賞日
2005
7/4
 「くねり盛(ざかり)」という表現が面白いし可笑しい。短夜や女郎花との関係で、交合における女の姿態のような連想も働くが、それもいやらしくなく健康的でさえある。「くねり盛」などという表現は多分一茶の独壇場で他の俳人にはこんな表現ができる人はいないだろう。

107

七番日記
山艸に目をはじかれな蝸牛
文化10年
1813
51歳
鑑賞日
2005
7/5
 山の草に目をはじかれるなよ蝸牛、というのであろう。感心したのは、こんな小さな生き物に注意が向くということである。それも単なる描写ではなく自分の感情を移入しているということである。

108

七番日記
卯の花や伏見へ通ふ犬の道
文化10年
1813
51歳
鑑賞日
2005
7/6
 現実と物語が混じったような感覚を持つ不思議な味の句である。この犬は何のために伏見へ通っているのか・・・

109

七番日記
大の字に寝て涼しさよ淋しさよ
文化10年
1813
51歳
鑑賞日
2005
7/7
 涼しとは夏に感じる涼しさのことである。涼風が吹いてくるような夏の午後、大の字になって寝転がるのは気持ちがいい。うたた寝するともなしにいろいろな事が頭に浮かんできたりする。遠い昔日の事、父母の事などが一茶の頭に浮かんだかもしれない。そんな時にふと淋しいなあという気持ちに襲われたのである。

110

七番日記
菫咲く川をとび越ス美人哉
文化10年
1813
51歳
鑑賞日
2005
7/8
 日本画の美人というと、しとやかに納まっている図柄を思う。そんな美人が川を飛び越すという意表をついた動作をしているのが、可笑しくもまた親しみを覚える。
 別案に「やこらさと清水飛こす美人哉」というのもあるから、一茶の意図としては、飛び越すというような動作をするはずもない美人が飛び越したという価値の逆転を意図したものであろうが、掲出句は結果的に活発で健康な美人像を思ってしまうのは私が現代人であるからだろうか。
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