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小林一茶を読む111〜120
七番日記
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下々も下々下々の下国の涼しさよ
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文化10年
1813 |
51歳 |
鑑賞日
2005 7/9 |
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〈げげもげげげげのげこくの・・・〉と読む
この意識のあり方は好きである。自分の今置かれた場所・状況はもう下々の下国である、しかしそこに身を置くことの何と涼しくてさっぱりして気持ちのよいことであろうか、というのである。金も身分もなく、また上昇志向もなく、そこそこに生きていくのは涼しいのである。一茶の上昇志向の裏返し、または開き直りとも言えるが、言っていることは真実ではある。最終的には一茶はこの境地に到ったのではないか。上昇志向を切り捨てることに成功したのではないか、などと思っているが、いかがか。 |
七番日記
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人来たら蛙となれよ冷し瓜
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文化10年
1813 |
51歳 |
鑑賞日
2005 7/10 |
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食われてしまうから、蛙となって食われるな、と言っているのであるが、妙に感心してしまう。小さな生き物に対する一茶の共感は定評であり、「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」や「痩せ蛙負けるな一茶是にあり」などくらいまでは私もついていけるが、瓜にまで感情移入している一茶には妙に感心してしまうわけである。 |
七番日記
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投出した足の先なり雲の峰
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文化10年
1813 |
51歳 |
鑑賞日
2005 7/11 |
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足を投出して寝ころんでいる、その足の先に雲の峰があるというのである。夏、大きな風景の中に寝転がることの気持ち良さ。「足の先なり雲の峰」という表現は庶民的感覚とも言えるし、自我意識を持った近代人の感覚であるとも言える。雲の峰を踏まえて自分は在るという感覚である。 |
七番日記
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とうふ屋が来る昼皃が咲にけり
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文化10年
1813 |
51歳 |
鑑賞日
2005 7/12 |
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〈昼皃〉は[ひるがほ]
とぼけたような言い方で、二つの関係ない事柄を並列しているのが面白い。「とうふ屋が来る昼皃の咲く午後に」などとしたらそれほど面白くはないだろう。 |
七番日記
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一吹の風も身になる我家哉
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文化10年
1813 |
51歳 |
鑑賞日
2005 7/13 |
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一茶はその義弟との間で遺産相続争いをしていた。それが文化十年一月に明専寺住職の調停で和解が成立した。遺産を弟仙六と折半して家屋敷も得たのである。 長い長い流浪生活の後に郷里に我家を得たという事実を考えれば、この句の言わんとしている感じも良くわかるのである。 |
七番日記
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山里は汁の中迄名月ぞ
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文化10年
1813 |
51歳 |
鑑賞日
2005 7/14 |
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美は生活と遊離したものではなく、生活に寄り添うように存在する。そんな事を主張しているような雰囲気が快い。 |
七番日記
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うつくしやしやうじの穴の天の川
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文化10年
1813 |
51歳 |
鑑賞日
2005 7/15 |
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この句も前の句と同じように庶民生活の中の美であるとも言える。しかし、この句には〈あきらめの持つ美しさ〉というような雰囲気が流れているような気がする。敗北感としての〈あきらめ〉ではなく、悟りとしての〈あきらめ〉である。極端に言えば、臨終の床にある人が、障子の穴から天の川を見た時に感じる美しさのような雰囲気さえある。
この句、好きである。世俗性、その他生きて有る一切合切の余分なものが落ちた、清浄な一つの境地さえ感じる。一茶の涅槃である。そして私もこの涅槃を共有したいと思う。 |
七番日記
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エイヤッと活きた所が秋の暮
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文化10年
1813 |
51歳 |
鑑賞日
2005 7/16 |
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〈病〉と前書のある稿もあるらしい(成美評句稿)。 気力を出して生きてきたものの、別にそんなに楽しいこともなく、やっぱり寂しい秋の暮のような感じだ、というようなことであろうか。前句とは打って変わって、再び一茶らしい皮肉が戻ってきたようだ。皮肉が言えるのは活きている証拠。次のような句も続く 死神により残されて秋の暮 |
七番日記
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あの月をとつてくれろと泣子哉
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文化10年
1813 |
51歳 |
鑑賞日
2005 7/17 |
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「名月を・・・」(成美評句稿)「明月を・・・」(文政版)という別案もある。
「名月を・・・」は前から知っていて、いかにも作り物だという感じがあったが、「あの月を・・・」だと有りそうな気がしてきた。別案が二つもあるということは確かにそういう事実があったに違いない。不思議な生き物である子供、という感じがする。神話的でさえある。 |
七番日記
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裸児と烏とさわぐ野分哉
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文化10年
1813 |
51歳 |
鑑賞日
2005 7/18 |
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野分が吹く中、裸の子供と烏がさわいでいるというのである。どこか荒々しくも清々しい自然の中の暮しというものを感じる。前の句の「あの月をとってくれろと泣子哉」と同じ子供だという連想を働かせれば、この子がいよいよ神々の質を帯びてくる。 |
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